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彼の「声」は、今はもう聴こえない。

冷えた海風の吹き抜ける青空は、鋼のような硬質さで澄んで頭上に広がる。  天上に向かって濃くなる青を仰いで、研修棟の屋上へ歩を進めた。メンテナンスセンターに近いこの場所は、滑走路を一望出来る。白い機体がエプロンにゆっくりと向かっていくのを眺めて、視線を屋上の一角に移した。  こちらが目を向けるのと同時に、その人物もこちらを振り返る。小さく頭を下げた。 「迫水機長」 「おう、秋津」  手を上げて、彼はゆるりと笑った。そうして手招きしたのを確かめて、その隣に立つ。海からの風は進んだ季節の色を濃く滲ませる。少しだけ目を細めて頬にぶつかるその風を味わった。 「久しぶりか?滑走路を見るのは」  感慨深げにでも見えたのだろうか。彼はそう言って、同じように広い滑走路に視線を遣った。  移行訓練が始まった頃は、まだ半袖でも間に合うほどの気温だった。今はもう厚手の羽織が無ければ羽田特有の強い季節風が吹き付けるこの場所に立っていることも難しい。自分を取り巻く状況は目まぐるしく変化して、日常に溶け込んでいたはずの滑走路の風景もどこか自分のもののようには思えない。  鋭い金属音が辺りに広がって、白い機体が飛び立った。空気を裂く音が、腹回りに振動のように響く。 「そうですね」 「もう三ヶ月にもなるか」 「ええ」  気のない返答に憤るわけでもなく、迫水機長は小さな笑みを浮かべて、小さな粒になって空へ溶けていくその機影を見つめていた。  何も語ろうとしない彼の横顔をちらりと見て、呼び出された理由を考える。大体は予想がついているが、それをこちらから口にする気にはなれなかった。 「・・・明後日にはシミュレータ審査、口述審査だ」 「はい」 「秋津、君の日々の訓練の様子からみて、審査は特に問題ないとは思うが」 「・・・ありがとうございます」 「準備は万端か」 「はい」 「そうか」  そう口にしたものの、けして前向きなものだけでない会話であることは分かっていた。彼がここで自分に話したいことはそれではないだろう。 「まあ君のことだから、順調にラインOJTも終えるんだろうな」 「そんなことは、・・・」 「淵上機長の推薦の通り、君はナナハチの操縦に向いているようだ」  そう特に嫌味の無い口調で、迫水機長は言葉を継いだ。 「勘もいいし、基本的な技術と知識も十分に身に付いている」 「・・・」 「何より空を読む力がある。それは空自で得たものだろう」  返答せず一瞬言葉を濁した自分の気配を、迫水機長は感じていたのかもしれない。一瞬よみがえった苦い記憶は押し込めて、続ける彼の言葉に耳を傾ける。 「辞めた理由までは私の知るところではないが。空自で得た経験値は君のアドバンテージだ。・・・誇りこそすれ、恥じることではない」 「・・・はい」 「これからの君のパイロットとしてのキャリアに、それは十分に生かされるはずだ」  新しい記憶を重ねて薄らいではいても、底に残り続ける自分の隠された傷に、目の前の教官は気付いていたということなのだろう。どう答えるべきか、頭の中で言葉をいくつか巡らせた。

「・・・だからこそ、秋津」 「、?」 「君に話しておきたいことがある」  ごう、と空を切る音がひときわ大きく響いた。  離陸して上空の低い位置を飛び去っていく機体が、一瞬屋上に灰色の影を薄く落とした。

「劉とはあの後、話をしたか?」 「・・・、いいえ」  ここに来る前から予想していた問いに対して驚きはなかった。けれど劉という名前に、少し前のやり取りを呼び起こされて、口元が歪に歪むのが分かった。  気づかれないように視線を下に送ったが、誤魔化せているかは定かではない。沈黙が数秒ほど続いて、一瞬強く風が巻き上がるのが分かった。  掴み上げてぎりぎりと締めつけられるように痛んだ指先と心臓の強い拍動を思い起こした。怒りで震えて、らしくもなく感情的に振る舞ってしまった。そのことについて反省はしたが、だからと言って、到底劉の言動を許容することは出来なかった。それは今でも変わらない。 『そうして今度は。秋津の夢も潰すのかとな』  それを受け取った彼の胸に渦巻いた思いを想像するだけで、ぐらりとまた、胸の底が小さく煮え立つ。そうして同時に、おそらくその言葉によって自分との別離を決めたのだろう彼の小さな泣きそうな笑顔がよみがえって、喉が詰まるように感情がせり上がるのを感じた。  あの日、どんな思いで自分と向き合っていたのか。それを尋ねることは今は出来ない。  小さく唇を引き結んだ自分の表情を窺っていたのか、しばらく黙ったままこちらを見つめていた迫水機長は、やがて口を開いた。 「・・・審査はインストラクターである私ではない、他の審査官が主に担当する。  審査は個人の力量を見るものだ。バディを変更してもこの段階では評価にさほど影響しないと言ったが」 「ええ、分かっています」 「それでも君は劉と審査を受けるつもりか」 「はい」 「劉と君にはずいぶんと因縁があるようだが。劉が君に揺さぶりをかけるようなことが今後もあるかもしれんぞ」 「承知しています」 「・・・こだわるのには、何か理由が?」 「・・・」

「例の、新波さんの件が関係しているのか?」 「・・・」

『もう、終わりにしよう』  翼を空に羽ばたかせるあの「声」ではない、彼の傷ついた囁くような「声」が耳の奥から湧き上がるように響く。  ポケットの中の携帯の画面は彼の名前を表示することはない。あの日からしばらく連絡を取ろうとあれこれと試みてはみたが、彼は口を閉ざしたまま、今はどこで何をしているかも分からないでいた。  毎日届いていた挨拶のみの手短なメッセージも途切れて、無音の朝を迎えてもう幾日かたつ。うっすらと微笑む彼の穏やかな笑みは輪郭がぼんやりとして、残っているのは最後に会った日の、どうしようもなく傷ついたような、何かを押し殺してしまったような彼の表情の余韻だけだった。  答えを探していたのだと彼は言った。  何に対しての答えなのかも、答えが見つかったのかどうかも分からないまま、彼とのつながりはぷつりと途切れて、今にも、ちぎれそうな糸のように自分の目の前で所在なく存在している。  けれどそのことを目の前の教官に言うわけにはいかない。黙り込んだままでいると、迫水機長は小さく、ため息を吐くように冷えた空に息を吐き出した。 「・・・新波さんと君は知り合いだったんだな」 「・・・、はい」 「一体どういったきっかけで?」 「・・・」 「管制官と我々ではそう接点も多くはない。どこかで話す機会でもあったのか?」 「そうですね、少し話を」 「その割には、君はずいぶんな庇いようだったと聞いたが」 「・・・それは」 「、・・・まあ、それはいいんだがな」  それ以上のことを詮索するつもりも無いのだろう、迫水機長は小さく肩を竦めた。  風と機械音が混じり合ったような重い音は滑走路に響き続ける。何機目かの離陸機を二人で仰いで、見送った。

「・・・私も新波さんには世話になった」  迫水機長はそうつぶやいて、滑走路の遥か前方にある、真っ直ぐに空へ突き立つようなそのタワーを見つめて目を細めた。 「・・・そうですか」 「搭乗訓練で何度か顔を合わせたこともある。地方空港に彼が勤めていたときにも、彼の管制には何度も助けられた」 「・・・」 「秋津」 「はい」 「彼のことを庇うくらいだ。君も、彼の管制が他と比べて少し違うのは、感じているんだろう」 「・・・」 「何が違うか。———秋津、君には分かるか」

『大丈夫だ。降りてこい、秋津』 「彼の管制は、私たち以上に空を知っています」  黒く垂れ込めた雲間から一筋光が差し込む、そのイメージを思い起こした。そうして耳に心地よく響く、彼の迷いなくこちらを導く「声」を記憶から取り出そうとした。 「細かく丁寧で。小さな風の変化ひとつ、取り零したりしない」 「・・・」 「そうしてパイロットがベストな状態で飛べるように指示を出してくれる。パイロットが何を必要としているか、どうすれば、パイロットも乗客も安全に飛ぶことが出来るのか。  それを理解しようとする姿勢を感じます」 「そうか」 「彼は何より空を愛して、飛行機を愛している。彼は誰よりも空を知り、常にパイロットに寄り添おうとしてくれていた」  その、「声」で。 『空を見るのが好きで』  愛おしそうに、飛び立つ翼の溶ける空を見上げる横顔が浮かぶ。 「彼ほどに、パイロットの立場に立てる管制官を私は知りません」  一つ、息を小さく吸った。

「私は、———彼に救われました」

「・・・私もだ」 「迫水機長」  自分の言葉の一つ一つを飲み込むように聞いていた教官の彼が、口を開いた。 「彼の管制は実にきめ細かい。機種による風の影響や速度の違いも理解し、気象の変化も考慮して短時間でパイロットに最良の提案をする。  一機一機を丁寧に、最後まで目を離さず、地上に、空に送り届ける。それを実践出来る管制官は多くはない。彼はその一人だ」 「・・・」 「今まで難しい天候下でのフライトも多くあったが、彼の管制に救われたことは一度や二度ではない」  迫水機長はそう念を押すかのように言葉を重ねた。そうしてこちらに視線を向ける。 「パイロットは一人では飛べない」

「共に飛ぶ。———そのことを、私は彼に教わったよ」

「彼は、パイロットを誰一人として蔑ろにはしない」 「はい」 「———だからこそ、彼が置かれた状況はとても心苦しいと思っていた」 「・・・」  迫水機長が言うのは、彼を取り巻いた今の状況のことなのだろうと思った。空を仰いだ視線を足元に落として、迫水機長はひとつ小さなため息を吐いた。 「・・・私は、例の件で辞職したパイロットを知っていてな」 「・・・、そうなのですか」 「ああ。新波さんとそのパイロットの確執についても、大方の経緯は把握している」 「・・・」 「君もか?」 「・・・、多少は。聞いています」  そう言って迫水機長の次の言葉を待った。視線はわずかに上がり、何かを思い出すようにターミナルの奥のエプロンを見つめていた。 「パワハラという訴えがカンパニーに上がってきたのは事実だ」 「・・・」 「管制官にしつこく言うことを聞けと迫られたと、そのせいで自分は精神的な被害を受けたとパイロットが訴えてきた。カンパニーはその経緯をまとめ、正式な抗議として、国交省に提出した」  それは劉から聞いていたことと齟齬はない。やはりかと肩が落ちて、そうしてじくりと、胸の底が痛んだ。 「だがその後、本人から訴えを取り下げて欲しいと依頼があった。その時には既に彼は辞職した後で、訴えられた管制官・・・新波さんも羽田へ異動してしまっていた」 「・・・」 「向こう側の上層部は、パワハラ自体が眉唾ものだと判断していたんだろう。ただ訴えのあったものに対して何らかの対応をせねば、訴えた側は納得しない。  早々と羽田に異動が決まったのは、羽田に新波さんを戻したいという強い要望があったからだと聞いた。彼らにとっては渡りに船だったんだろうな」 「そうですか、・・・」  迫水機長は、そこまで話すと一度口を噤んだ。そうして少し考えるような仕草を見せて、そうしてしばらくの沈黙の後、何かを決めたように口を開いた。 「パイロットが辞めたのは、管制官のパワハラが原因ではない」 「・・・、え?」

遠目に霞むように見えるエプロンから、トーイングカーを伴ったナナロクがゆっくりとバックして滑走路へ滑り出していく様子が見えた。 「パイロットは以前から身体的に不安を抱えていた。どうやら体調を崩していたようだ。」 「・・・、」 「航空身体検査の厳しい基準は君も知っているだろう」 「はい」 「今度こそ乗務停止になるかもしれないと、そのパイロットは周囲に零していたそうだ」 「・・・それが、どうしてパワハラに」  尋ねた自分に向き合った迫水機長は、苦い表情をわずかにその顔に浮かべて、言葉を続けた。 「乗務停止になるかもしれないという不安と焦りが彼の判断力を鈍らせていた。だから管制の指示のいちいちに翻弄されて、そのパイロットは冷静に操縦桿を握れなくなっていた。  失敗すれば体調の面も相まって、即乗務停止になると」 「・・・」 「それが新波さんの目に留まったんだろう。実際は言うことを聞けという高圧的なクレームではなかったと、そのパイロットは言ってきたそうだ」 「そんなことが」 「何か不安なことがあるなら然るべきところへ相談するようにと、ただそう何度か心配されただけなのだと」 「・・・」 「ただそれは、当時のそのパイロットにとっては好意的なものとは取れなかったようだな。  ・・・管制からカンパニーへそのことが伝わるのではないかと、新波さんが何か言うのではないかと、そう思ったらしい。ならば先手を打たねばとパワハラだと訴えてしまった、だから訴えは取り下げて欲しいとそのパイロットはカンパニーへ報告してきたそうだ」 「そんな」 「むろん時すでに遅しだ。パイロットは辞め、管制官は異動した。・・・訴えと抗議はすぐに取り下げられ、カンパニーから国交省へ謝罪も行った。だが、真実を語る場所はもう無い。  噂だけが独り歩きして、間違った認識をしている者たちも多く残ってしまった」 「・・・」 「劉はその一人だろう」  迫水機長が語る真実は、離陸する機の風を切る音に掻き消えてしまうのではないかと思えた。  じくじくと痛み続けるその心の理由を自分の中で飲み込めないでいた。  劉が言ったようにパワハラは実際に起きたことではなくて、誤解の末に起きた不幸な事態であったことに安堵する気持ちはあった。それは彼のパイロットに対する姿勢に間違いが無いのだということが分かったからだ。けれどその結果彼が受けた傷の大きさを思うとやりきれない思いにもなった。  何も出来ないでここに立っている自分の不甲斐なさをどうすることも出来ない。抱きしめようとした腕は拒まれて、宙に浮いたままでいた。  ———「管制官」と、「パイロット」に戻ろう。  彼がそう告げた時、彼の目に「パイロット」の自分はどう映っていたのか。彼の傷は、誰にも見えないその場所でどれほど痛んでいたのだろうか。それを今振り返っても、彼は目の前にはいない。

自分を照らす「光」が潜ませる「影」を、自分はどうにもすることは出来ないのか。

「———今回の事態については、上にも報告済だ」  滑走路で離陸の許可を待つ機体を見つめて、教官の彼はそう静かに呟いた。 「パイロットの無意味な抗議については、しばらくすれば通達がいくことになるだろう。人の口に戸は立てられないが、事実を知る者もいる。  いずれは消えると、・・・願うしかないがな」 「・・・、そうですね」 「劉に話すか?そのことを。彼も新波さんを誤解しているようだしな」 「・・・、分かりません」 「・・・」 「そのことが移行訓練に関わりあるかと言われれば、・・・そうでは、ないので」 「そうか」

答えた自分に、迫水機長は特に何かを言うつもりはないようだった。  二人黙って滑走路に視線を戻す。ごうごうという機械音が近づいていた。離陸を待ってタキシングしていた機体が、また緩やかに動き始める。 「秋津」 「はい」 「———大事なことは何だ?」

「ナナハチに乗るのは、何のためだ?」  視線を滑走路に向けたまま、迫水機長はそう穏やかで低い声で尋ねてきた。 「・・・」 「君がいずれナナハチの操縦席に座った時、考えるのは誰のことだ。君が操縦するナナハチに、君は誰と乗って、飛ぶのか」 「・・・」 「君だけではない、何百人もの命を預かるパイロットならば。それをいつも考えて欲しいと、私は思っている」 「———・・・、はい」

「その答えを見つけた者が。———新たな翼を、その手に得られる」

ひときわ大きく重い音が聴こえて、大きな機体はふわりと浮いた。そうして彼方へ飛び去るその機影は、瞬く間に青く濃い冬の空へ消えていった。

ーーー

『ナナハチに乗るのは、新波くんのため?』

劉に彼についての誤解を解く機会がなかったわけではないが、それをしなかった。  むろん、ここまで間違った事実が明るみになって広がってしまっている状況で、劉一人の誤解を解いたところで彼を取り巻く状況が改善するとは思えなかった。けれど理由はそれだけではなかった。  一つの大きな感情に囚われている者に、他の者の声はよほどでなければ届かない。受け取ろうと、耳を傾けようと自らが思わなければ心は動くことはない、そのことも分かっていた。  例え真実を自分が告げたところで、劉が抱え続けた感情がいちどきに変化することはないだろう。むろん、わずかながらでも間違った彼の情報を留める必要性を感じなかったわけではない。それでも今自分がするべきことはそれではないという思いがあった。  誤解を解いても、彼自身の傷が拭われるわけではない。  自分を拒んで離れた彼にも、今どんなに言葉を尽くしたところで何かが伝わるとは思わなかった。ならば今の自分が出来ることは、目の前の移行訓練をなんとしてでもクリアすることだけなのだろうと思った。

『ナナハチに乗るのは、何のためだ』  ナナハチの移行訓練生に選ばれた時に、何のためにナナハチに乗るのかを考えた。そのことを思い出した。  自分のすることが相手の行く先を阻み壊してしまうことを恐れる彼に、自分は伝えたいと願ったはずだ。  ———あなたがいるから、前に進むことが出来るのだと。  ナナハチに乗ることで、自分は彼にそう言いたかったはずだったのだと、思い返した。  共にあることが枷になるのではなく、踏み出す力になる。その願いは届くのかは分からない。彼も劉と同じく、一つの思いに囚われたままだ。それを自分が解くことが出来るかも確かではなくて、それでも、何もしないでいることは出来なかった。

時間にゆとりを持って研修棟に向かったつもりだったが、劉の方が一歩早かったようだ。  審査会場である講義室の扉の前で壁に背をもたせかけて、劉は軽く腕を組み、自分を待ち構えていた。  視線を一瞬合わせはしたが、特に挨拶を交わすわけでもなく隣に立った。テキストの入った鞄を床に置き、ひとつ息を吐く。テキストを開く気にはなれなかった。今更詰め込んだところで焦りを生むだけであることも分かっていた。何よりそんな付け焼き刃の訓練をしてきたつもりはない。  腕組みをしたまま向かい側の壁の青を見つめているような、隣の彼もそうなのだろうと思う。無言の時間が、空調の曖昧な冷えた通路に広がった。  あの日、彼の一件に劉が関わっていたことで揉み合った日から、二人の間でその件が蒸し返されることはなかった。嵐の前の静けさかのように劉は淡々とシミュレータ訓練をこなし、講義を受けていた。何かあればこちらに一言物申していたその素振りもなりを潜めて、わずかに拍子抜けしたことを思い出した。  言いたいことを言って満足したのか、それとも言うだけ無駄だと思ったのか。  そんな劉に積極的に声を掛けていかなかったのは自分も同じだ。あの日の感情を呼び起こせば神経がぴりぴりと尖りだす。それは移行訓練の最終段階にある自分にとって良くないことである自覚はあって、向こうから仕掛けてこないのであればこちらが仕掛ける必要もないのだろうと、自分には言い聞かせていた。  目指すものは同じだ。その理由は、劉だけのものだったのだとしても。  相手がつまづくことを望むべくもなくて、それは今どうしているのかも分からない彼も、きっとこの場にいるなら同じことを言うだろうと思った。 「ずいぶんと余裕だな」  口を開いたのは劉の方だった。こちらを挑発するようなその声音は久しぶりだと頭の片隅で思う。 「・・・」 「民間機の審査なんて、狭き門の戦闘機乗りだったお前には大したプレッシャーじゃないか」 「・・・、そうでもないが。変わりはない」 「その顔でか?」  ふん、と彼は鼻先で小さく笑った。 「ああ、緊張はしている。ただ、今さら焦ったところで仕方がないと思うだけだ」 「それを余裕というんだ。・・・嫌味な奴だ、お前は」  憎々しげな口調は変わることはなかったが、あの日のような黒く濁った空気は感じ取れなかった。  わずかに強張った周囲の空気にわずかに身構えたが、悟られないように口元に意識を集中させた。肩の力は抜いたままで、劉の顔を見据える。一瞬怯んだように視線を泳がせた目の前の彼は、ぎり、と口の片端を小さく歪ませた。 「俺が足を引っ張るとは考えもしないのか。それとも、その程度のことでは揺らがないとでも?」 「足を引っ張るような真似をするつもりなのか、劉」  そう口にした自分に、劉の表情がぴりと強張る。 「・・・」 「そこまでせねば、合格できないと思っているのか?」 「何?」 「だったらその程度の心持ちで訓練していたということだな」 「・・・」 「目標を見失えば航空機は彷徨い落ちるしかない。劉、お前は目標をけして見失ってはいないと思っていたが」

「・・・私との、わだかまりがあったのだとしても」

数分ほどにも思える沈黙のあと、絞り出すように目の前の彼は言葉を紡いだ。 「———俺は、謝罪はしない」 「・・・」 「あの管制官があいつを追い詰めたことは変わらない。たとえあいつがそれを全て自分のせいだったのだと言ったのだとしても。  俺はお前にも謝罪するつもりはない」 「そうか」 「お前のような優秀な人間にも、あの管制官にも。分からないだろうが」 「何がだ」  苦い感情をそのまま形にしたような声が、静かな通路の壁にぶつかって、床に落ちた。 「夢を絶たれる苦しみ、望んだ空に届かない悲しみ、道半ばで諦めなければならなかった絶望。  それはお前たちには分からないだろう」 「・・・」 「誤解だろうがなんだろうが、俺はそれを許すことは出来ない。  未熟で拙くても、あいつには夢があった。それを潰す権利は誰にもないはずだ。だから俺は許せない。  ———あいつの希望を奪ったあの管制官を」

「許すことは、できないんだ」

眼前に過ぎる雨に濡れた黒みがかった青色の機体の映像を振り切るように目を閉じて、開いた。重なるように、音無く降りしきる雨の隙間に立つ、自分と彼の姿が浮かんでは消える。  一瞬わずかに刺すような鈍い痛みが広がって、それを収めるように渇きかけた喉の奥に、唾を飲み込ませる。 「劉」 「・・・何だ」  自分の発した言葉の重みを持て余したような、戸惑いの滲む低く唸るような声に、自分の声を重ねる。 「私が空自を辞めた理由を劉に話したことはないな」 「だから何だ」 「というより、誰にも話したことはない」 「・・・」 「私自身が、そのことを受け入れられていなかったからだ。やる気がないとお前は散々言ったが。・・・それはある意味、正しい」  一つ一つの言葉を選んで口にしている自覚はあったが、滑り出す言葉は制御しきれない感情の色を強く滲ませる。自分のその過去のことはまだ、吐き出し慣れていない。  それでも、彼に会う前よりもまだ確かに、自分を形作る記憶として語ることが出来るようになっている。そうして、形にするなら今この瞬間なのだろうという思いがあった。 「私は戦闘機のパイロットとして『不適』とされた」 「・・・、」 「理由ははっきりとは告げられなかった。ただ『適性が無い』とそれだけで。私は戦闘機には乗れなくなった」  苦い表情を浮かべたままの目の前の彼は、自分の話すその事実に、わずかに驚いたようだった。眉間に寄る皺は、憤りを滲ませていた一瞬前よりも、わずかに緩んでいた。 「空を飛ぶのを諦めきれずにここに来た。・・・正直、望んだ場所ではないここは、つまらなかった」 「秋津」 「俺がやりたいことはこれじゃない、・・・ずっと、そう腐っていた」  目の前の空の色がその日のまま、褪せたトーンで眼前に広がっていた頃のことが一瞬心によみがえる。目を伏せて震えた、彼の俯きがちで頼りなげなあの日の視線もそれに溶けていくような気がした。 「私はなぜ自分が『不適』とされたのか理解出来なかった」 「・・・」 「だからこの場所に来ても、ずっと。次の段階に踏み出すことが出来ずにいた。だが」 「・・・?」 「今なら分かる。  なぜ自分が戦闘機で飛び続けられなかったのか、望む空に届かなかったのか。  ———そうして、なぜそれでも諦めきれなかったのか」

「その答えを教えてくれたのは、彼だ」

「空は一人では飛べない」 「・・・」 「お前は根拠のない精神論だと言うだろうが。私はそうは思わない。一人で飛ぼうとしていた私にそれを教えてくれたのも彼だった」  取り出すことで心を暗く覆うその記憶の中に一人立つのは自分で、他には誰もいない。  どんなに足掻いても得られない翼に焦がれて、いつ開けるか分からない空に惑って、光が射すのを待っている。  その時間はどこまでも長く、遠い。心は焦るばかりで、足元はぬかるんでその場所でただ留まっているだけだ。  暗い空を裂くように、一瞬の光の筋が射す。そうして冷えた背を押す、手のひらの温度が伝わる。 「パイロット一人が、空を飛ぶのではない」 「・・・」 「グランドスタッフ、整備、CA、そして管制。  乗客の安全と未来のために、パイロットの翼を支える人間が多くいる。その支えがあるからこそ、パイロットは飛べる。・・・そのことを、私は知ることができた」  彼の「声」が、それを伝えてくる。  ———飛び立つ最後の、その手短な言葉に心を込めて、いつも。

『Good Day.』

だからもう一度その空を目指そうと。  憧れて良いのだと、飛んでも良いのだと、思えるようになった。

渦巻く感情と言葉をぶつけるその矛先を失ったように、わずかに俯いて黙り込む目の前の劉に、尖った言葉で返すつもりはもう無かった。  自分の内の一番奥の、柔な部分をさらけ出してしまったせいもあるのだろうかと思った。ひどく疲れたような、けれど一方で、ひどく安堵したような、妙な気持ちになる。  目の前の、同じ翼を目指す彼を見据える。外の肌寒さを映したようなその通路の温度に、空調の緩やかな温かさが入り交じって、足元に立ち上る。  出来ることなら彼も、囚われた心を空に放つように、飛び立てたらと願った。微笑むほどではないが、口の端をわずかに緩めた。 「劉」 「・・・、何だ・・・」  喉の奥からようやく出てきたようなその声にも、こちらを攻撃しようという意志はもう感じられなかった。わずかに勢いを失ったその声に、次の言葉を重ねた。 「劉の思いも、私には分かる」 「・・・、お前に何が分かると言うんだ」 「絶望した人間の手を取ることはとても難しい」 「・・・」  こくりと唾を飲むような、小さな音が聞こえた気がした。返す言葉は続かなかった。  傍にいるけれど、指先一つ相手の心に触れることが叶わないその感情を思い起こした。邪魔をしたくないのだと、行く手を阻むことが恐ろしいのだと、そう言葉にならずとも伝えてくる。彼の底に抱えたその傷の隠された深さに、あの時触れることすらも許されなかった。  そうして離れていくその指先を、どうすることも出来ずにただ見つめているだけだった。 「自分の無力をどうすることも出来ない苦しみは、私にも分かる」 「・・・」 「救うことも、寄り添うことも出来ないと」  目の端を歪めて、劉は奥歯を噛みしめるようにして小さく息を吐いた。そうして大きな手のひらで、目元を覆うような仕草を見せた。  言葉は無い。けれど彼が何かを思い出していることはその表情から窺えた。

「それでも私は、諦めることは出来ない」 「・・・、秋津」  続けることを一瞬躊躇うのは、彼の痛みがよみがえって声を出す喉元を詰まらせるように広がったからだろうかと思った。  叶うかも分からない希望を口にすることは愚かしいことなのかもしれない。それでもひとつ零れた言葉を留めようとは思わなかった。 「もう一度、手を取りたい」

「彼と飛ぶことを、———・・・諦めたくはない」

彼の「声」は遠のいて、今は微かにすらも聴こえない。  それでも、離してしまった手をもう一度、それが許されるなら。希望を抱いて今ここに立っているのだと、今は見えない空を確かめるように呟く自分がいた。

ーーー

夜半過ぎの霧のような降雨に晒された滑走路は、うっすらと濡れた艶を朝日に晒している。  昇る光で白い輝きを放っていた空は、今は緩やかにその光を飲み込んで、その青を次第に濃くし始めていた。濁り無く澄んだ色に染まるその空を見上げて、視線を戻す。  出発ロビーに、午前の早い便を待つ乗客のざわめきが波の音のようにさざめいて聴こえる。  エプロンには、朝日の色に負けないクリアな白で纏われたボーイング787が小さな機械音を響かせて待機していた。足元で忙しなく、作業服姿の整備員が動き回っているのを視界に捉えた。前日、様子をみるつもりで訪れた機体だ。馴染みの年配の整備員が髭で覆われた口元を上げて整備は完璧だと笑ってきたことを思い起こした。  離陸の近い出発便の搭乗口で、搭乗を促すアナウンスがひっきり無しに流れている。全てを具にというわけにはいかないが、搭乗を待つ人々の表情を眺めて、確かめた。  数カ月ぶりの空気に、身は自然と引き締まり背筋は伸びる。この中で、自分の操縦するナナハチに搭乗する乗客がいる。それはわずかな緊張感をもたらしたが、身を強張らせるほどのものではないと自分に言い聞かせる。  十分に学んで、飛べるだけの知識も技術も身に付けたつもりだ。そうして自分は、今日一人で飛ぶわけではない。  多くの人の力を借りて、支えられて自分が得た新たな翼はようやく今日広げることが出来るのだと、その実感を噛み締めた。窓の外の広い滑走路を、もう一度見つめる。

「秋津くん」

振り返ると、目の前で待機する機体と遜色ない、まっさらな白いジャケットに身を包んだ彼女が微笑んで立っていた。首元の艶やかなスカーフが、彼女の動きに合わせてひらりと揺れたのが分かった。  こちらが彼女の姿を認めたのを確かめて、軽いヒールの音をさせて、彼女は隣に立つ。そうして二人で、飛び立つ前のナナハチに視線を送った。  ロビーの暖かい空気に漂うように、彼女からは甘い花の香りがする。隙なく、けれど柔らかに纏め上げられた髪はチーフパーサーである彼女の佇まいを映えさせていた。 「いよいよ、今日からラインOJTね」 「ええ、おかげさまで何とか」  そう言うと、彼女はふふ、と小さな息を吐くように笑った。 「あまり心配はしてなかったけどね。秋津くんのことだから、難なくクリアすると思ってた」 「そうでもありませんが」 「謙遜しなくていいのよ。・・・今日のナナハチの初フライト、一緒に出来て光栄だわ」 「私の方こそ、お手柔らかに、お願いします」  そう冗談めかして口元だけで笑うと、彼女も同じように笑みを深くして肩を竦めた。  数分ともいえないほどの静寂が二人の間に流れる。ざわめきが遠のいた気がした。けして彼女は単純な激励だけで自分のところを訪れたのではないのだろうと、彼女の曖昧に微笑む表情を横目に見ながら、次の言葉を待った。  ほんの一瞬躊躇うような色を浮かべて、けれどそれはすぐに柔らかで芯の通った微笑みに隠して、彼女は口を開いた。 「・・・、新波くんは、今日は?」 「・・・まだ、姿は見ていませんが」 「まだ搭乗時刻には早いから、焦る必要は無いと思うけど」 「そうですね」

「・・・話は、したのよね?」 「・・・・・・、ええ」

『答えを出します。———ですから、歳也さん。  一緒にナナハチに乗ってくれませんか』

『・・・その日は、タワーにいる』  手にした航空券を俯きがちに見つめて、彼はそう、喧騒に掻き消えそうな声で言った。  けれど航空券をすぐに突き返してくるような素振りは見せなかった。にべもなく断るのは彼の人柄が躊躇させるのだろうか。けれど受け入れるには大きな戸惑いがある、彼はそんな表情を浮かべていた。  幾度となく、所在なく空を見上げるように佇んでいたその場所で、彼はこちらを困ったように見つめた。その顔に、あの日の海辺の冷えた温度はまだ見えない。ただ唐突に自分が寄越したその航空券をどうするべきなのか逡巡するように、紙の端を指先で心持ち力強く握り締めているのが分かった。人気が若干減ったそのフロアには、仕事帰りの靴音がまばらに響く。磨かれた床に反転して映る彼の足元は、どこか覚束ない気配を漂わせていた。  ハーフコートの下の張りのあるシャツから、彼の首元がのぞく。頼りなげにも見えるそれに触れていたのはいつだろうかと、思うよりもずっと長く思える時間がこの交わらない距離なのかと思った。彼は業務に復帰はしたが、ローカル席にまだ立っていないということは聞いていた。それは彼の上司の判断だということだが、彼自身がそれを望んでいるようにも思えていた。  迫水機長が言っていた通達とやらが効いているのか、それとも根拠の曖昧な情報に飽きたのか、噂は徐々に下火になって、今それを口にする者はほとんどいない。だからと言って、全てが元に戻るわけではないことを、まざまざと思い知らされる。 『だからこれには乗れない』  そう彼は続けた。  あの日から考え続けている彼の「答え」をこの瞬間にここで聞くことは出来ないと思っていた。「答え」が見つかったのかどうかさえも、二人を隔てる距離では確かめることも出来ない。駆け寄って腕を引けば抱き寄せられる距離であるはずで、けれどそれは今はしてはいけないのだろうと思う。 『答えなら、今ここで聞くから』 『いいえ、それは出来ません』 『・・・』  どう返していいのか惑って、彼が目元を小さく歪めたのが見えた。しくりと胸は痛んで、喉が何かに押し潰されそうに詰まる。けれどそれは飲み込んで、言葉を重ねた。 『答えは、私のフライトを見て欲しいんです』 『・・・』 『タワーからではなく、直接。私の操縦するナナハチに乗ってください。  そして、私が出す答えを見て欲しい』

———それが、私の答えです。

「・・・私ね」 「?」 「秋津くんに言っていなかったことがあるのよ」  揺らせば消えそうな笑みを湛えたままそう遠慮がちに呟いた彼女の横顔は、滑走路を照らす朝の澄んだ光を溶かしている。 「新波くんのことで」 「・・・そうですか」 「ええ」  彼女はそう答えると、艶の乗ったその唇を小さく弓なりに上げて、視線を一瞬足元に移した。そうして記憶を寄せるように目を細めると、やがてこちらに向き直った。 「・・・私、あなたに言ったと思うんだけど。彼は何かを探しているって」 「ええ」 『答え』なのだと彼は自分に告げてきた。そのことを、彼女も知っているということだろうか。彼女はゆっくりと、その言葉を放つ意味を考えるようにして呟く。 「新波くんさ。引っ越そうとしてたんだよ」 「え?」 「・・・今新波くん、都内に住んでるでしょう。それをね。・・・この近くに。羽田辺りで少し広い物件を探してるんだって、あの時は言ってて」 「・・・」 「意味、あなたなら分かるわよね」

『探していたんだ、答えを』 「あなたの負担にならないようにって。自分が近くに来ればいいんじゃないだろうかって。あの人、考えてたみたいで」

「・・・」 「でも、本当にそれでいいんだろうかって、迷ってる風だった。だから私も、あなたには言うべきじゃないのかなって思ってて。  きっと、新波くんにとって、このことって大きな決断なんじゃないのかって思ったから。  新波くんがちゃんと決めることが出来たなら、新波くんの口からあなたに伝わることなんだろうと思って言わなかった」 「そう、だったんですか」 「でもそうこうしているうちに、あんなことになっちゃって。  新波くんはあなたから離れることを決めてしまったから。私も言う機会を逃してしまって」  ごめんね、と彼女はすまなさそうに眉を下げて小さな声で言った。速度を徐々に速める胸の底の音が、自分の耳元で皮膚を打つように響くのが分かった。  最後に一緒に過ごした朝の風景が脳裏に過る。少し言いよどんで、何かを飲み込んだように自分を送り出した彼のもの言いたげな笑顔がぼやけたように思い出される。 『何でも無い』  その言葉に込められていた彼の意志を、今頭の中で理解した。その瞬間に、どうしようもない感情が湧き上がるのが分かった。  手放しで歓喜するのとも違う、そして気が付かなかったことを悔いるのでもない。  ただ締めつけられるように痛んでもどかしい、逸るように込み上げるように愛おしい。言葉にすることが出来ない。 「・・・秋津くん」 「・・・はい」 「新波くんは、もう、探していたものは見つけていると思う」 「・・・」 「ただ、それを。———あなたに渡すことが、出来ないだけで」

「秋津くん」  その長く白い翼を映した大きな窓を彩るように、青い空が高さを増したような気がした。 「新波くんは、あなたを守ろうとしてるんだと思う、あなたの夢を」 「・・・」 「でもそれよりもずっと、自分があなたを傷つけてしまうのを怖がっている。  自分の見つけたものがあなたの邪魔になるものだって。・・・一度、誰かを傷つけてしまったから。  傷つくことなんて、傷つけてしまうことなんて当たり前なのにね。そこで、何が大事なのか見えてくるのに」 「・・・」 「秋津くんは、そんなことで離れていったりはしないのに」 彼女は眉を小さく下げて、わずかに淋しげに微笑んだ。 「でも、そんなこと構わなくなってしまうくらいの心は彼の中にずっとあるから。きっとまだ、迷っている」

「あなたにとって、新波くんが『光』だったみたいに。  ———新波くんにとっても、あなたは『光』であるはずだから」

「今のところ新千歳は晴天の予報だ。羽田も南寄りの風は強いが、フライトには大きく影響しないだろう。このままいけば問題なく飛べそうだな」  隣でヘッドアップディスプレイを操作しながら、迫水機長がそう呟いた。  空港のロビーよりも狭く四角く取られたその窓に日が射し込む。その光にまだ真新しい計器が照らされていた。一つ一つをチェックしながら、機長の言葉に耳を傾けた。 「OJT初フライトには最適な日だ。まあ、新千歳はこの季節、天候の変化が激しいからな。気を引き締めていけよ」 「はい」 「君の技量ならOJTもスムーズにいくだろうがな。シミュレータ通りに操縦すれば問題ないが、むろん、これは実機だということも忘れないように」 「承知しています。・・・よろしくお願いします、迫水機長」 「ああ」  迫水機長は短くそう返答すると、離陸を待つ前方の景色に視線を遣った。  操縦席に身を沈めて、その時を待つ。小刻みな機械の振動音が背に響くのが分かった。ナナロクとはわずかに変化した操縦桿と周辺機器を一瞥する。  今日から、これが自分の翼になるのだ。  前方の空は奥に薄く白い筋のような雲を溶かす以外は一色で染まって、今か今かと飛び立つ機体を迎え入れるようにそこにある。重力を手放したようにふわりと浮き上がるその瞬間を思い起こした。久しぶりにその感覚を味わうことが出来るのだと、冷静になろうとする心の底で、小さな興奮と喜びが湧き上がる。  共有出来る喜びを、分かち合う幸福が迷いなくそこにあればもっと良かった。そう思ったことは、隣の機長に気づかれないようにと口元を引き締める。わずかに波立つように揺れた心の内は、晒すことはしないが無視は出来なかった。  空に視線を戻して、零れ落ちそうになる感情を押し込める。  ぴんと、内線電話のコール音が響く。チーフパーサーの彼女からの連絡だった。

『客室から海老名です。———お客様、ただいま『全員』搭乗されました』

「何だ?藪から棒に」  訝しげに迫水機長は眉を寄せた。手短なその内線はこちらの返答は待たずにぷつりと途切れる。  機械越しの彼女の声を反芻しながら、ひとつ深呼吸をした。吸った空気は肺を満たして、一つ大きく皮膚を打った心臓の拍動を、緩やかに鎮めていく。  後方に機体が押し出されるわずかな重力を感じて、腰に力を入れ、背筋を伸ばした。緩やかに動き始めた前方の景色を確認しているうち、耳元に『声』が響く。 『JapanAir507,Tokyo tower.runway16R,line up and wait.』  滑らかで平坦な、そのわずかに低い「声」は彼のものではない。一瞬目を閉じて、ほんのわずかにずれたようなその違和感を喉の奥に押し込めた。  飛び立つ自分の背と翼を押すその『声』は、今日は聴こえない。 「JapanAir507.runway16R,line up and wait.」  こちらの準備が出来たことを横目で確かめて、迫水機長がそう返答した。 『JapanAir507,wind220 at 8,runway16R,cleared for take off.』

「声」は一度遠ざかって、そうしてまた戻ってくるのかも分からないけれど。

———今日は共に、空へ彼を連れて行く。 「take off.」  スラストレバーを握り前方に押し込む。伸びる滑走路の先の空に焦点を合わせ、加速するその重みに身を委ねた。

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