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「Auto pilot on.seat belt sign auto.」 『本日は、東京国際空港羽田発、新千歳行507便にご搭乗いただき、まことにありがとうございます。  副操縦士の秋津です。———・・・』

『Please enjoy your friend with us. Thank you.』  機内放送をそう締めくくると、一つ息を吐いた。横目で迫水機長に視線を送り、肩の力をわずかに抜く。 「順調だな」 「はい」  迫水機長の口元も緊張を解いて、ゆるく上がっていた。  航空機事故の大半が起こるとされる「Critical Eleven Minutes」と呼ばれる離着陸時の11分間はどんなに経験を経たベテランパイロットでも気を引き締める時間だ。それを無事終えたからと言って安心出来るわけではないが、束の間の安息が訪れて、前方の空を眺める心の余裕が出来ていることを自分でも確かめた。  オンタイムで羽田を離陸した機体は一路新千歳に向かって高度3万7000フィートの上空を航行していた。新千歳の天候は晴天、このまま行けば1時間半ほどで無事目的地に到着する。  久々の実機のコックピットではあったけれど、操縦桿は自分の手に馴染んでナナロクと遜色ない感覚を自分に伝えてくる。むろん、ナナハチでの初フライトでこのフライトが技能訓練の初日であることは頭の片隅にはあるが、まるでずっと前からこのナナハチが自分のもののように感じられて、湧き上がる小さな興奮を抑えられないでいた。  ようやく戻ってきた。そんな懐かしさにも似た感情が胸に広がる。 「このまま行けば問題ないな」 「ええ」 「どうだ、久しぶりのフライトは」 「そうですね、・・・・・・」  答えずとも、自分の表情から迫水機長は自分が今胸に抱いた感情を読み取っているのだろう。何か納得したように小さく笑んでから、また前方に視線を戻した。

わずかな雲の波は見え隠れするが、遥か先まで見通せるその空は青く濃く澄んでいた。秋冬の空は春夏のそれよりも青く見えるという話を聞いたことがある。レイリー散乱という現象によるものらしいが、人間の目は青い光をよく捉えるということだからよりこの青さを鮮やかにこの目が映すのだろう。  まるで海をゆるりと揺蕩うような、時間の止まったようなその青の景色を、彼も今見ているのだろうかとふと思う。  客室の様子はこのコックピットからは分からない。だから搭乗しているはずの彼のことも、こちらからは把握出来なかった。  彼がどんな思いを抱いているのかも伝わるはずもない。けれど手渡した航空券と自分の言葉を捨てるわけではなく今この場所に彼がいるのだとするなら、彼自身も自分の「答え」をこのフライトで確かにしようとしているのかもしれないと、そう思った。  人の心を予測することは愚かしい。そうすることで疑心暗鬼になることほど無駄なことはないと思う。彼が得た答えは彼だけのものだという思いはあって、彼がどんな答えを出そうとも最後は受け入れなければならない、そのことは分かっていた。  あっさりと諦めたくはない。自分の性格からして足掻けるところまでは足掻くのかもしれないが、引き際を見極めなければ結局彼を傷つけることになる。彼の下した決断が自分の望むものでなければ、それは飲み込むつもりでいた。  けれどそれでも、と自分の中の自分は往生際悪く願うのだ。 『あなたの夢を、守ろうとしているんだと思う』  それが本当なのだとしたら、手は離してはいけない。  共に飛ぶ。今度こそは何があっても。手を離さなくてもいいのだとそう思えることを自分は願って、祈っているのだと、自分に言い聞かせるように唇を軽く引き結んだ。  背に伝わる機械音は規則正しく安定している。VORレーダーに映る光点で自機の位置を確かめて、ひとたび背を操縦席に沈めた。

———私の夢は、あなたそのものだ。

そう心の中でごちた言葉は、形になることは無かった。  このフライトを終えた時にそれを彼に伝えることが出来るのか、空の中にしか答えは見えない。

ぴん、という機内通話の呼び出し音が鳴ったのは、高度が安定してしばらくたった頃のことだった。 『客室から海老名です』  通話の相手はチーフパーサーの彼女からだった。離陸前、乗客の全員搭乗を告げた明るく華のある声音はなりを潜めて、わずかに焦ったような早口の声が耳元に聴こえる。  状況を伝えようとするその声はけして冷静さを失っているわけではない。けれど気配が違うのは、彼女の声の奥で忙しなく聴こえる、他のCAの声が伝えて来た。 「はい」 『お客様の中で体調を崩された方がいます』 「え?」  声を上げた自分を、迫水機長が眉根を寄せて見つめる。声は続いた。 『発作を起こされているようです。意識も混濁していて、呼吸も浅く脈拍も速いです。今横になっていただいて様子をみていますが、このまま状況が改善しなければ、ドクターコールを行いたいと』 「分かりました。ドクターがいなければ、地上の医療スタッフに連絡を取ります」 『よろしくお願いします』  慌ただしい雰囲気のまま、通話は途切れた。迫水機長が難しい表情を浮かべて、手元のモニターを見つめた。 「現在地は山形上空。新千歳までは45分だ」 「はい」 「場合によっては、エマージェンシーを宣言して近隣空港に緊急着陸を行う」  迫水機長の声が、わんわんとエコーのように耳元で響く。シミュレータで何度か遭遇したその事態が頭の中を過ぎった。  こくりと唾を飲んで、速く波打ち始めた心臓を鎮めるようにひとつ深呼吸をする。  ナナロクを操縦していた時にも何度かメディカルエマージェンシーを経験したことはある。対応する方法は分かっていて、手順も頭の中で何度か繰り返した。いつもよりも神経が強張るのは今日の状況なのだから仕方がないと自分に言い聞かせる。  前方の濁りない青い空の奥にうっすらとたなびいていた白い雲の筋が不意に視界に捉えられる。先ほどよりその面積を広くしたようにも思えるその白い影に、奥底でざわりと予感めいたものが湧き立つ。それは背筋を撫でて、首筋をひやりとしたもので覆った。勘というほどではないが、それは戦闘機に乗っていた頃にも幾度か感じたことのある感覚だった。

『———青森空港は只今強風により滑走路一時閉鎖中です、ダイバートは出来ません』 『仙台空港はダイバート可能ですが、近隣で火災が発生しており救急車の到着が遅れる模様。通行止めの影響で緊急搬送に時間がかかる可能性があります』  ATMCからの情報はどれも芳しいものではなかった。迫水機長が厳しい表情を崩さないまま、大きく深いため息を吐くのが聞こえた。そうしている間にも目的地である新千歳には刻一刻と近づいている。 『聞き取った状況から判断すると、パニック発作の可能性は低いかと思われます。心筋梗塞かその他の重大な発作ではないかと』  悪条件には悪条件が重なるものだと、重く肩にのしかかるような緊迫したコックピットの空気をどうすることも出来ずにいた。医療スタッフの機械越しの淡々とした声が、さらに状況が深刻なものであることを際立たせていくような気がした。 「行く先は、新千歳か、・・・・・・あるいは、羽田に引き返すか」  迫水機長がそう独り言のように呟いた。 「新千歳までは45分、仮に羽田に引き返すとしても30分以上はかかる。・・・大きく変わりはないな」 「そうですね」 「ならば新千歳に向かう方が乗客への影響も最小限に抑えられる。・・・新千歳に緊急搬送を依頼しよう」  迫水機長はそう切るように言った。  その判断は理にかなっているのだろうと思う。このまま羽田に引き返すことになれば大きな遅延を生むことになる。多くの乗客に負担を強いることは出来れば避けたいという迫水機長の判断は間違ってはいない。技能訓練の最中とは言え、最終判断の責任を負うのは機長だ。副操縦士の自分に最終の決定権は無い。 「秋津、それでいいな」 「ええ、・・・・・・」  前方の空を見据えながら、操縦桿を握る手にわずかに力を入れた。  わずかにざわついて波だったままの神経を無視出来ないでいる。徐々に青に溶けるように広がっていく白い雲の色に、そのさざなみのような予感が次第に大きくなっていくのに気付いた。  迫水機長の判断に異論を唱えるつもりはむろんない。だがこの違和感の正体は何なのかと、頭の中で思考を巡らせる。 「失礼します」  そう声がして、チーフパーサーの彼女がコックピットに入室してくる気配がした。振り返って顔を見る。きゅ、と広く白い額に丁寧に整えられた眉を寄せて、彼女はこちらを睨むように見つめた。 「海老名さん」 「———お客様の容態は一刻を争います」  彼女は一瞬逡巡するような表情を浮かべてから、そう口を開いた。 「一分でも速く緊急搬送を行える方を優先すべきではないかと」 「・・・しかし」  迫水機長がそう言いかけたのを遮るように、彼女は畳み掛けた。 「新千歳はこの季節は天候の変化も激しく、ダウンバーストや低層ウインドシアが多く発生すると聞きます。今は晴天とのことですが、今日の気象図を見る限りでは楽観視は出来ないと。  羽田ならいくらか今日の天候は安定していて、悪天候下でも降ろせるだけのキャパシティがあると思われます」 「・・・」 「乗客の皆様への影響は大きいですが、羽田に引き返す方が結果的にはよいのではないかと」  彼女はその語尾を一瞬言い淀むようにして告げた。

「・・・そう、お客様が」 「お客様?」  迫水機長が訝しむような表情を浮かべた。  彼女はわずかに困ったように、口を噤んでから、顔を上げてこちらを見つめた。緊張感の漂うコックピット内に、妙な空気が流れる。

『絶対に、無事に。あんたの機を降ろす。  ———だから、降りて来い、秋津』

「秋津、君はどう思う」  その空気を振り切るように、迫水機長はそうこちらを見て尋ねて来た。 「羽田か、新千歳か。君はどうするべきだと考える」 「私は、———・・・・・・」  背後の彼女が固唾をのんで事態を見守っているのが分かった。彼女の気配の後ろに見えるものはもう分かっていて、遠のいて聴こえなかったはずの「声」が耳元にわんわんと響くような気がした。 『ナナハチに乗るのは、何のためだ』  そう問われた記憶が、眼前によみがえる。彼と見上げたいつかの青い空の風景がその映像に重なって消えた。瞳が切なげに歪んで、手を離したその記憶はじくりと胸を刺すように痛みを伝えてくる。けれどそれよりも圧倒的な力で、彼のその「声」が今自分の心を呼び起こすように聴こえる気がした。 「———我々の目的は、お客様全員を一人も欠けることなく、目的地へ送り届けることです」 「・・・」  言葉を重ねる。 「この機に乗り合わせた全ての人々に、大切な人がいる。  大切な人に送り出された人も、大切な人と、この機に乗っている人もいます。そして飛んだ先の目的地に、お客様を待つ人がいる。  その全ての人が安全に、無事に旅を終えることが私たちのすべきことではないかと」 「そうか」 「お客様の大切な誰かのもとへ、お客様を最後まで送り届けなければならない。たとえ、定刻通りに運航出来なくても。  ———羽田へ引き返すべきだと、私は判断します。迫水機長」 「・・・了解した。羽田へ引き返す」  迫水機長はそう言った。そうして、機内放送のスイッチを入れる。安堵したように背後の彼女が息を吐くのが分かった。顔を見合わせ、小さく、笑みを浮かべた。 「roger.」  迫水機長の機内放送が流れる。

『———皆様のご理解を賜りますよう、操縦室よりお願い申し上げます』  機内放送が終了するのと同時に、機体は羽田へ機首を向ける。操縦桿を握る手に力を込めて、戻る先へ続く空へ、視線を向けた。  行く先を変えた翼を迎え入れるように青空は長く伸びる。どうかこのままと祈るような思いで転進した。

ーーー

離陸前のブリーフィングで確認した気象情報をもう一度頭の中で反芻する。  今日は西高東低の冬型の気圧配置で、東側に寒冷前線が控えているものの問題は無いだろうという判断だった。空の奥の白い雲の筋が気になってはいたが、今思えばそれはこの事態を予言するものだったのかもしれない。 『東京コントロールです。成田は雷雨によるダウンバーストが多く発生しているため、滑走路を一時閉鎖しています。羽田は現在滑走路は空いていますが、凍雨が激しく、いつ閉鎖になるか分かりません。なお、有視界飛行は難しく羽田はILS運用に切り換わっています』 「まずいな」  迫水機長がそう苦々しく呟いたのが聴こえた。 「ゴーアラウンドすれば搬送が遅れる。・・・ダイバートするにも燃料が足らない」  羽田に着陸するより他は無いが、天候状況は厳しいことを理解した。  時おり機体は風に煽られて大きく揺れる。乗客の不安も大きくなっていることだろう。けれど進む方向を変えることは不可能な位置まで来ている。 『羽田は現在、ゴーアラウンドする機がほとんどです。507便は急病人がいるとのことですが、このまま進入を継続しますか』  迫水機長がちらりとこちらに視線を寄越す。小さく頷くと、迫水機長は返答した。 「はい、このまま進入を継続します」 『了解しました』  離陸した直後は青く澄んだ空だった羽田の上空は、今は淀んだグレーの雲一色に染まっていた。翼が風を切り、雲の隙間を縫うように進む。高度は徐々に下がり、厚い雲にナビゲーションライトの赤い光が透けて映った。 「お客様の容態は」 『変わりません。脈拍は依然速いです』  くぐもった彼女の機械越しの声が聴こえる。

「時間はない。・・・・・・秋津、着陸時は操縦を交替する」  迫水機長がそう告げた。 「・・・」 「この天候では右席での操縦は難しいだろう。このまま天候が回復しなければ、操縦は私に切り替える」 「、・・・はい」  一瞬言い淀んだ自分の声音を、迫水機長は見抜いていた。 「秋津、訓練はまだ始まったばかりだ。———次もある」 「分かっています」  そう切るように返答して、操縦桿を握り直した。自分の中で渦巻く感情を察したかのように、迫水機長は眉根を寄せたまま、ごうごうと音をさせる外の景色に目を移した。機体にぶつかって霧散する白い欠片が後方に流れていく。  一瞬過ぎったのはかつての記憶だ。  機長の制止を聞かず操縦桿を握り続けた苦い記憶がよみがえって、奥歯を噛み締めた。まだ一人で飛んでいる、飛べると、差し伸べられる手を拒んで息巻いていた頃のその思いが苦々しく口の中に広がる気がした。  彼と出会って乗り越えていたはずのその記憶が眼前に覆い被さるように何度も浮かんでは消える。今は一人ではない。隣に、地上に、この翼を支えるために控えている存在が多くある。そのことは分かっているけれど、胸の底にぽつりと広がった黒い点が届める手の隙間から零れ落ちるように徐々に広がっていくのが分かった。  ———そこに、今。彼の『声』は無い。  彼は今、この機に乗っている。その事実に今さら気付く。彼が地上で自分を導くことは無い。今彼の行く末を手の中に握っているのは自分で、そう思った瞬間にぞわりと、背筋に一つ、冷たいものが走るのが分かった。  大切な人を待つ人のために。  この機に乗る全ての人を安全に、無事に送り届ける。そう決めて羽田に戻ることを決断したはずだ。けれど自分にとって何より代えがたい存在が背に控えているという事実に、ずしりと重く石のような感情がのしかかる気がした。

———本当に、羽田に戻るべきだったのか。

「秋津」  低い声が耳元で響いて、顔を上げる。  険しい顔をした迫水機長がこちらを睨みつけているのが分かった。意識を引き戻し、鼓舞するように声を出す。 「滑走路は滑りやすくなっているため、接地の際はハイドロプレーニングに留意して、オートブレーキはマックス。ランディングします」 「・・・roger.」  大きく膨れ上がる黒い点を振り切るように、一点を凝視した。  ただの一人も、欠けさせるわけにはいかない。強張った手の小さな震えを留めるように、唇を噛む。ひとたび、がたりと大きく機体が揺れた。雲の切れ間はまだ見えない。

———竜太、頑張れよ。  ———探しているんだ、「答え」を。

『Japan air 507.Tokyo tower.』  重苦しい空気を裂くように、耳元で声が響く。うつむき加減になっていた視線を上げて、耳を澄ませた。  その声は彼のものではない。少し張りのある、まだたどたどしさの残る声はうっすらと暗い空を拭うように降り掛かってきた。 『安全のため、日本語で申し上げます』 「・・・」 『現在滑走路付近は激しい凍雨で視界不良です。上空に他の航空機はいません。  風は90度の方向から15ノット、最大27ノット』  光の筋のように響くその「声」が、視界をクリアに開けさせていくのが分かった。それは、自分の中のイメージだけでないことを、迫水機長の息を呑む音で実感する。 「———空が晴れてきたぞ・・・」 「・・・・・・風に、雲が流されているのか」  青い色が濃い灰色の雲の間からのぞき見える。その青に被さるように、白い光がコックピットに射し込んだ。計器を強く照らすその光に、一瞬目を細める。 『・・・大丈夫です、秋津さん』  唐突に名前を呼ばれて面食らった。耳を澄ませて声の主を探る。

『そのまま降りて来てください。———絶対に、無事に。俺が秋津さんの機を降ろします』

『Japan air 507,runway34L,cleared to land.wind 080 at 13.』  強く射し込む光が、姿を見せ始めた羽田の滑走路を白く照らそうとしていた。ここが帰って来る場所だとでも言うように、出迎えるように視界は開けて、晴れた空の色を映して濃い青に染まった海が、眼前に迫る。 「滑走路34Lへの着陸に支障ありません」  隣の迫水機長も小さく頷いた。神経を研ぎ澄ませて接近しつつある滑走路を見据える。 「———gear down」 「gear down」 『minimum.』 「continue.」  50.30.20.10。高度を知らせる音声が規則正しく響いた。程無くして、下から突き上げるような振動が響き、徐々に速度が落ちるのが分かった。ランディング。車輪が地面を擦る金属音が鋭く響く。  やがて機体は安定し、ゆるゆると滑走路を進み始めた。  ほう、と迫水機長と自分の吐く息が重なるのが分かった。顔を見合わせる。迫水機長が口元をわずかに引き上げるのが分かった。  安堵の空気に満ちたコックピットに、ぷつりと、スイッチが入る音がする。 『Japan air 507,taxi to via spot 114.———スポット114に救急隊員が待機しています。搬送お願いします』 「了解しました。・・・ありがとうございます」  そう噛み締めるように言葉を紡いだ。自然と口元が弛むのを感じる。 「・・・ナイスコントロール、蕪木さん」 『・・・おかえりなさい』  ほんのわずかに面映そうな声が機械越しに響いた。少しだけの間が空いた後、その声は続く。

『・・・新波さんに、言ってくれませんか』  こらお前、と背後でそうがなる声が聴こえた。雲の壁が拭われて薄く広がるだけになった空は小さな窓の向こうに広がっている。視線を上げて、その空を見つめる。  おそらく彼も、同じ思いでいる。その確信はあった。

『ちゃんと俺たちもいますから。  あなたの管制は、俺たちが受け取ってます。だから。

———もう、一人で飛ばなくていいんですよって』

ーーー

夕刻のラッシュを終えた羽田の空は、沈みかけた冬の弱い日の光を受けて、淡い橙色に染まっていた。  奥には濃い紺色の夜の色が溶け始めている。数刻前の荒れ狂うさまをどこかに置いてきてしまったかのように、空は穏やかに、白い粒のような星の光を浮かべ始めていた。  ぽつりぽつりと青い誘導灯が灯り、滑走路は夜の風景を映し始める。粒のようにその誘導灯が光るのに目を遣って、寒気を孕んだ風を頬に受けながらひとつ身震いした。  フライトを終えたナナハチはエプロンでその大きな翼を休めている。声には出さずに労いの言葉をかけて、到着ロビーへ向けて一歩を踏み出した。  507便は羽田に引き返した後、燃料を補給し再び新千歳に向けて離陸した。戻り便の操縦を終えたタイミングで、迫水機長が声をかけてきたことを思い出した。  今回のメディカルエマージェンシーについて後日エアラインの聞き取り調査があるだろうという事務的な連絡のあと、ひとつ息を吐いて迫水機長は呟いた。 『———また、新波さんには助けられたな』  彼が507便に搭乗していたことを告げたのは再出発の際の雑談の中でのことだ。羽田に戻る決断を後押ししたのが客室にいた彼だったことを知り、迫水機長は納得したように大きく何度も頷いた。  彼が搭乗していた理由も、それを自分が知っていた理由も迫水機長は深くは詮索しない。ただ、よろしく伝えておいてくれとそう言われて、返事をするに留めた。

「歳也さん」  旅を終えた人々、これから旅立つ人が入り交じるターミナル前は人でごった返している。煌々と明かりの灯るその場所に佇んでこちらを見つめる彼の姿を認めると、ざわめきが静まって、まるで彼を中心に静寂が波紋を描くように広がるようなイメージを描いた。  ぴしりと整えたシャツとスラックスではなく、彼は淡いトーンのニットにいつか見た濃紺のマウンテンパーカを羽織っていた。緩やかに後ろに流した髪は触れると簡単に解けてしまいそうだ。その髪に指を通していた感触が指先によみがえる。 「———竜太」  名前を呼ばれるのもいつぶりだろうか。柔らかで低い「声」は、別れを告げられた時の沈んだ色を取り払って、今ならその腕を取れるのではないかと錯覚させるような穏やかな響きをさせる。けれど迷いなく駆け寄るにはまだ遠慮があった。少しずつ、窺うように歩を進める。こつ、と自分の靴音がざわめきの中でもひときわ大きく響く。  こんなに彼との間に距離があっただろうかと思う。触れて抱きしめていたのが霞むほど前のようにも思えた。 「terminal 1」と表示されたそのエレベータ前で、向かい合った。伸ばせば触れられる、けれど息遣いが聴こえるほどではない距離を取って、彼を見つめた。目尻に皺を寄せて、彼は少しだけぎこちなく微笑む。 「・・・お疲れ。大変だったな」 「歳也さんも、・・・」  続ける言葉を迷っていると、彼が口を開いた。 「俺は楽しませてもらった。久しぶりの飛行機だったからな。・・・まあ、色々とありはしたが」  彼はそう言って、手に提げた紙袋に視線を落とした。おそらく職場への土産なのだろう、四角い菓子折がいくつか入っている。 「・・・」 「聞き取りは明日か?」 「ええ」 「そうか、ご苦労だな」 「はい、・・・」  自分の背を押した声なき「声」のことを、今ここで話そうとは思わない。離れていた間に思いは積もり積もって、話そうと思うことは山とあるのだろうが、そのどれもが今のこの感情を伝えるものではないことは分かっていた。そうしてそれは、彼も同じことなのだろう。  もっと大切な、彼とは話しておかねばならないことがある。今ならそれが出来ると思った。

「歳也さん」 「———答えは、出たのか?」  自分の考えていたことを見抜いていたのだろうか。答えようとした自分に重ねるように、彼はそう尋ねて来た。  こちらを見据える濃い色の瞳が、ゆらりと一瞬、分からないほどに揺れた気がした。 「・・・」  これから起こることへの不安とも、期待ともつかない色だった。彼が今何を自分に望んでいるのかも、何を拒もうとしているのかもその表情からは分からない。ただ頭上の光を小さく受けるように、彼の目はこちらを捉えたままだった。 『新波くんはもう、探しているものは見つけていると思う。ただ、それをあなたに渡すことが出来ないだけで』  そう言った彼女の言葉が、頭の中を巡った。  ざわめきは波の音のように邪魔にならない大きさで耳元を揺らす。不思議な引力に惹きつけられるようにもう一歩、彼に近寄った。近くなった彼の首筋から、淡くほのかな香りが漂う。一瞬肩は小さく揺れたが、後ずさるわけでもなく、ほんの少し見上げるように彼はこちらを見つめ続けていた。  その視線にここで結論を出そうとしているのではないのだろうことは理解した。拒む姿勢を感じなかったことに安堵して、ようやく、喉元から声を絞り出した。 「・・・答えは、始めから決まっています」 「・・・」 「私の答えは、始めから。何も変わりません」

「———歳也さんは、『答え』、出ましたか」 「竜太」 「それを聞かせて欲しい」

「歳也さんが見つけた『答え』を。私に、教えて下さい」  手を伸ばして放り出されたような空いた彼の指先に触れた。ようやく届いた彼の指先の温度はやんわりと温かく、それが冷えていた自分の指に移っていくような気がした。

日が落ちた展望デッキは人もまばらで、吹き付けるぴりぴりとした冷たい風に晒されていた。羽織ったダウンジャケットの襟をかき寄せる。隙間の肌を撫でる夜風は、室内でほんのわずかに火照った頬を冷やしていった。  一歩先を歩く彼の靴音が、木で出来たデッキの床面にこつこつと響いた。ほのかなベージュのライトに照らされた一角まで歩くと、彼は柵の向こうの滑走路を仰ぐように見つめた。青い光点が一直線に、そして曲線を描いて並ぶ。それを標に、夜の便の航空機が濃い紺色に染まった夜の空へ、飛び立っていく。  空気を切る音を何度かやり過ごして、二人で離着陸するその航空機を見上げていた。彼の鼻筋の整った横顔は、夜の温度を溶かして、ほんのわずかにたよりなく、白く浮き上がって見えた。 「・・・ありがとうございました」  空から視線を外して、口火を切った自分の顔を、彼は見つめた。 「やはり最後は、私はあなたの『声』に助けられました」  その経緯に思い当たったのか、彼は小さく口元を上げて微笑んだ。そうして穏やかで小さな声で、ゆっくりと言葉を継いだ。 「・・・俺は何もしていない」 「・・・歳也さん」 「何も言っていない。ただ、あんたの操縦する便に、客として乗っていただけだ」 「そんなことは・・・海老名さんが言ったことは、あなたが」 「彼女には確かに羽田の方がより対応は早いと言ったが、羽田に戻れとは言っていない。羽田へ引き返すのを決めたのはあんたで、俺じゃない」 「・・・」 「誤解はしないで欲しい。あんたの責任だと言っているわけじゃないんだ」  彼はそう重ねるように言った。 「リスクとメリットを天秤にかけた時、どちらを選ぶかでその人間の本質が見える。  究極の選択を迫られた時、最後に残るのは物理的な理屈じゃない。———人としてどうあるべきか。その姿勢を人は問われるんだと、俺は思っている」 「・・・」 「俺は、今回のことであんたのパイロットとしての姿勢を見ることが出来た。・・・きっとあの時タワーに残っていたら、見ることは出来なかった」  彼はそう自分に言い聞かせるように、呟いた。  浮かんだ小さな微笑みは、あの荒天を乗り越えた後の日差しのように穏やかだった。 「あんたの操縦する飛行機に、俺は乗れて良かったと思っている。あんたの、思いを知ることが出来た」

「・・・飛行機に乗るたびに思うんだ」 「・・・」 「羨ましいと」  彼は続けた。 「美しい空を間近に見ることが出来る。その中を飛ぶことが出来る。そして、大切な誰かをそこへ連れていける。美しい景色を見せることが出来る。  もちろん厳しいことも多いんだろうが。それでも、パイロットという仕事が羨ましいと思う」 「・・・歳也さん」 「———だから、俺は、支えたい」

「空を飛ぶ、その仕事を。この場所から。———支えたいと思うんだ」

何機目かの機影が夜の紺色に溶けるまで見つめて、彼は小さく息を吐いて視線を足元に落とした。滑走路の青い光はちかちかと、星を撒いたように静かに光続ける。風の音が細く響いた。それが柔らかな彼の髪を撫でるように巻き上げた。 「今回あんたを降ろしたのは蕪木だ」 「・・・そうですが」 「俺じゃなくても、あんたは飛べる」  彼はそう言って微笑んだ。小さく眉根を寄せて、それはまるで今にも泣きそうな顔だと思った。 「・・・」 「俺の『声』じゃなくても、もう十分。・・・あんたの翼は折れることはない」 「歳也さん」 「———大丈夫だ、竜太」

『大丈夫だ』

「それが、あなたの『答え』ですか?」 「・・・」 「私は飛んで、あなたはそれを地上から支える。結局そういう、立場に戻ろうっていうことですか」 「・・・そういうわけじゃ」  戸惑ったように彼の声が震えたのが分かった。困ったように眉を下げて、彼は少しだけ怯えたように肩を小さく震わせた。  手を伸ばして、彼の腕を掴んだ。パーカ越しの彼の腕は思ったよりも頼りなく、掴んで引けば簡単にこちらに身体を傾けてしまいそうにも思えた。わずかに狼狽えたように彼が後ろに身体を引くのが分かる。それを留めて、思い切り、胸元に引き寄せた。  するりと腕の中に収まった彼の身体はほのかに暖かい。その感触を確かめるように、抱きしめる腕に力を込めた。ほんのわずかに抵抗するような素振りを見せた彼は、けれどもう、それ以上に自分の腕を拒むことはない。強張った力を抜いて、こちらに体重を委ねてくるのが分かる。 「私は、あなたの『声』が無くても飛べます」 「———・・・りょうた」 「今回のことでその自信はつきました。もう迷ったりもしない。  あなたが言ったように、人としてどうあるべきか。それを考えて、これからも飛びます」 「・・・それなら、・・・」 「じゃああなたは?」 「・・・」

「———あなたを飛ばすのは、誰ですか」

「私の答えは始めから決まっています」 「・・・」 「あなたと一緒に飛ぶ」  彼の柔らかな耳元へ刻みつけるようにそう呟く。彼の首筋がふるりと震えた。暖かな背が力を込めた腕でわずかにしなる。しなやかな筋肉の感触が、厚い布越しにも伝わるような気がした。  彼の吐く息が、自分の首元にかかるのを感じた。何かを言おうと、逡巡するその表情が想像出来た。 「、・・・竜太」 「私が、あなたの翼になります。あなたを空へ連れて行きます。———何があっても、あなたと一緒に。私は、空を飛びます」 「・・・」 「あなたがその『声』で、引き上げてくれた空に。今度は私が、連れていきます」  迫水機長の言葉が脳裏によみがえる。 『その答えを得た者だけが。新たな翼を得られる』 「だから、歳也さん」  丁寧に、祈るように呼んだその名前に応えるように、彼の手が、そろそろと、何かを確かめるように背に回される。指先が探るように自分の背を掴んでくるのが分かった。  居場所を確かにするように、彼の指先に力がこもる。

「———あなたはもう一人で、空に焦がれなくていい」

曇天模様の隙間に、溶けるような「声」がする。  その声を、一度でも忘れたことはない。雨の中に濡れて立つ自分の先に見える、一筋の光のように。  その声はいつでも、自分に確かな未来を指し示していた。彼の「声」は、自分の「光」で「夢」だった。  そして嵐を抜けようとする今、今度は自分が彼の手を引いて、空へ飛び立つ。——新たに得た、その翼で。

『あなたの『光』は誰?』

「———・・・っ」  声にならない声が、耳元で響く。彼が額を首筋に埋めて、背に回した手でジャケットを握りしめるのが分かった。  ぴったりと吸い付くように触れ合っていた身体を離して、彼の頬に両手で触れた。わずかにかさついたその肌はそれでも指先に馴染むように、その温度を伝えてくる。  鼻先が触れるほどの距離で、彼の目が自分の姿を間違いなく映しているのを確かめた。わずかに赤らんだその目尻は薄い目元の皮膚を色鮮やかに染めていた。  薄い透明の膜を張ったような目が、湖の湖面のようにふるふると波立った。乾いた唇の端に指の腹を乗せる。そっとなぞって、反射的に薄く開いた唇に、自分の唇を重ねて、口づけた。  時間が巻き戻るように、その感触を肌がよみがえらせる。軽く触れるだけだったそれを、わずかに深くする。縋る場所を探そうとする彼の指先に、自分の指を絡めた。そうして力を込めて、握りしめる。 「共に飛んでくれますか。・・・これからも」  その問いに、返答は無い。けれど再び彼から重ねてきた唇が、その「答え」なのだろうと思った。

翼が羽ばたく、風を裂く音がする。夜の空に響くその音に耳を澄ませて、しばらく二人、そのままでいた。

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『Japan Air 317,taxi to runway 34R.』

ヘッドセット越しに聴こえるその声は心地よく耳に響く。エンジンの出力を上げ、誘導された滑走路へ向かって、大きく白い機体はするすると動き始めた。  白い光に照らされた滑走路の先には、青くどこまでも高い空が広がっている。今日の羽田の天候は晴天。風も穏やかだ。  緩やかに前進し始めた機体の窓から、遠目に展望デッキが見て取れた。はっきりとは確認まで出来ないが、離陸に向かうこの機体を見送る人々もいるのだろうと思えた。 『Japan Air 317,wind 330 at 7,runway 34R,cleared to take off』  速すぎず遅すぎない。穏やかな低い彼の「声」が、離陸を許可する指示を出した。それに応えるように、復唱する。 「Japan Air 317,cleared for take off.runway 34R.」  スラストレバーを押し込み、加速する。肩を押す心地よい重力が神経を研ぎ澄ませていく。ふわりと機体が浮き上がり、空へ、翼が飛び立つ。  タワーが遠のいていくのを感じた。360度を見渡せるあの直線的な建物の中から、彼がこの機を見送る、その姿を思い描いた。  空と地上、いる場所は違っても、共に飛んでいる。その実感は、自分を前に進ませる力になる。口元だけで笑って、前方の空へ視線を戻した。 『Japan Air 317,contact departure 126.0.』  地上管制から離れて無線が引き継がれることを彼が告げる。

放たれた空に、眩しい光が溶ける。伸びる空の先に、向かう未来がある。  彼の声が、耳元で柔らかく、その言葉を紡いだ。

『Have a nice flight.Good day.』

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