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「鳥が低いですね」

「今日は荒れますか、柿沼さん」  どこまでも青く澄むように、高く晴れた空は濁る気配など無いように見えた。  先ほどまで眺めていた窓の外の空に白い絵の具を乗せたように溶け込んでいく白い機影を思い浮かべながら言うと、目の前でタブレットを操作する男性が、少し目を丸くしてこちらを見た。そうして小さく、息を吐く。 「・・・やっぱり秋津さんですねぇ」 「そうですか?」 「何で分かったんですか?」 「ああ、・・・鳥がいつもよりも低い場所を、飛んでいると思ったので」 「それは空自仕込みの?」 「いや、そういうわけでは。ただ、何となくの勘ですが」  そう答えると、「柿沼」という名札を提げたその男性は、小さく肩を竦める。 「勘で言い当てられちゃうと、気象予報士の名折れですよ。・・・ほら、」  そう言って差し出されたタブレット上には日本列島の姿が映し出されている。列島の輪郭がはっきりと取られたその画面の片隅に、小さく濁る白い影が映っているのを確かめた。 「天候が荒れる前には、鳥は低空を飛ぶことが知られています。餌になる虫が気圧の低下で低い位置を飛ぶからです。・・・今日は一日、運航には支障ないとは思うんですがね、この雲が気になるかなあって」 「なるほど」 「風に流されてこれがこっちに来たら、ひょっとすると夕方ごろ、少し時雨れるかもしれませんね。・・・まあ、今のところは心配ないですよ」 「分かりました。ありがとうございます」 「・・・」  小さく頭を下げて礼を言うと、まじまじと見つめ返して来るその目と自分の視線がかち合う。 「柿沼さん?」 「秋津さんって」  ディスパッチャーである彼が持つそのタブレットには今日運航される便の情報が入力されている。指先を滑らせて今日の運航便の一覧を表示させてひとしきり眺めると、彼はようやく言葉を見つけたような顔をしてそう口を開いた。 「時々、管制官みたいなところ気にしますよね」 「・・・そうですか?気象情報はパイロットなら誰でも気にするものでは」 「まあそうなんですけど。・・・見方っていうのか」 「見方」 「乗っているというより、見つめるみたいな?客観的っていうか?俯瞰してる?うーん、よく分かんないんですけど」 「・・・」 「まあ、いいですよ。そもそも秋津さん、今移行訓練中じゃなかったですっけ。フライト無いのにこの情報いります?」 「あ、ああ・・・、なんとなく、癖です」  誤魔化すように口元を上げて微笑むと、それに含んだ何かを察したのか、同じように愛想を浮かべて笑う。そうしてタブレットを小脇に抱え直した。彼との会話はここまでだろうと小さく息を吐いた。

『Japan Air 641.runway 34R,line up and wait.』  くぐもった機械音に混じって、奥まった場所から管制の声が聴こえる。それに耳聡い自分を悟られないように、声の主を探った。  少し高い声は、彼の『声』ではなかった。ポケットの中で身動ぎひとつしない携帯の画面を思い起こして、胸の底に小さな黒い点がひとつ、ぽつりと沈み込むような気がした。  朝の乾燥した空気にぱりぱりとかさつく唇は、あの日以来誰の温もりにも触れていない。  日々の忙しなさは自分を押し流していくようで、けれど、彼と顔を合わせた最後の夜の柔らかで、けれどどこか痛みを隠し持ったままのような記憶は、くっきりと形をとって自分の中に今も残り続けていた。

『何を探しているんですか』

ーーー

羽田の空も行く秋の気配を漂わせ始めて、ナナハチ、ボーイング787への移行訓練も半ばを過ぎた。  相変わらずバディの劉とは反りが合わないままだったが、それもどうにかこうにかやり過ごせるようにはなってきた。  それがいいのかどうかは分からない。ただ自分の目的を考えた時に、ここで彼の言うことに逐一耳を傾けて翻弄されるよりは、聞き流しておく方がいいのだろうと割り切るのも必要なことと感じてはいた。  移行訓練が終われば、顔を合わせることも減るだろう。どこかで操縦士として会うそのときはもう、ただの仕事上のパートナーだ。今以上に密な関わりを持つことは無い。 『俺は、管制官なんて信用しない』  結局その言葉の真意も理解できないままでいる。けれど詮索しようとも思わなかった。  劉の方もそう思っているのだろう。シミュレータ訓練も本格化し、口述試験に向けての試験勉強もその隙間で行わなければならない。自分のことで精一杯で、ぐちぐちと喧嘩腰にものを言うことも、ここ最近は数が減ってきたように思う。  マーカーと付箋が増えてきたテキストと、タブレットを眺めながら、傍らに置いた携帯を数十分おきに確認する自分にも慣れた。けれど、慣れたからといって平気なわけではないことは、確認するたびに何の変化も無いそれにわずかに落胆する自分の心が物語っていた。

機械的に繰り返される挨拶とシフト確認のみの素っ気ないメッセージが数日にわたって続いている。  忙しいのかもしれない。こちらも同じで、気の利いた何かが言えるわけではないが、それでも少し温度が下がったようなそのやり取りの原因に心当たりがあるだけに、どこか見過ごせない何かを感じて、心がざわついた。  結局あの日、彼が何を探しているのか、その答えを得ることは出来なかった。  知る前に一歩及び腰になった自分のせいもあるけれど、それが二人の間の関係に大きな影響を及ぼすものであろうことはどことなく理解していた。というよりだからこそ、自分はそれを知ることを躊躇してしまったのだろうと思っている。  誰かと深く関わることに対して未だ躊躇いの残る彼に、少し踏み込んだ繋がりを持てているのは自分だという自負はあったが、それでも、彼が奥底に秘めた本音に恐れがあったことは否めない。自分の感情の勢いが勝って、彼の負担になっているのかもしれないと、そう思わないわけではなかった。  元々、自分の思いだけで半ば無理やりに彼の過去に分け入ったのだから仕方が無い。ずっと一緒にいたいと思っているのは自分だけで、本当は彼は、それほどまでに自分に心を寄せているわけではなくて、ただ、慕ってくる相手を傷つけることをしたくないから何も言わずに付き合っているだけでないのか。そう思うことを、頭の片隅で止められないでいた。 『傍にいて欲しい』  彼のその願いのこもった『声』は嘘だとは思えない。  そうして自分は、それに応えたいと思っている。  けれど発せられたその『声』に応えるのが自分でいいものなのだろうかと、自分はそれに足る人間なのだろうかと、疑問符は浮かんで、答えが宙に浮いたままになる。  自分の答えも見つからない、そして、彼の答えも得ることは出来ていない。  それは会えない時間がそうさせてしまっているのだろうか。そして、自分が、彼の過去の古傷を思い出させる「年下」で「パイロット」、そのままであるということも、手伝っているのだろうかと思う。

振り切るようにテキストを閉じて、カフェテラスの外のエプロンで待機するナナロクを見つめた。  もう手を伸ばせないほどに遠くに行ってしまったようにも思える。白の背後に見える、青の向こう側に飛び立てば少しは気が晴れるのだろうかと、長いため息が零れるのが分かった。

「秋津くん、ちょっと」 「海老名さん?」  声を掛けられたのは夕刻のラッシュを過ぎたばかりのターミナルでのことだ。フライトを終えて帰宅するための身支度を整えた彼女は、長くふわりとした髪を横に流して、大人びた紺のワンピースに薄手のコートを羽織っていた。  チーフパーサーの証明でもある白ジャケットを脱いだ彼女に会うのはそれほど多くはない。神妙な表情で呼び止められて、一瞬誰だったかと妙な表情を浮かべてしまった自分を恥じた。 「お疲れ様です、海老名さん」 「うん、お疲れ。秋津くんも?」  同じように着替えて帰宅する服装になっていた自分と彼女では、行き交う乗客と見紛われてもしかたがない。遠くで夜の発着便の到着時刻を知らせる放送が流れていた。テキストとタブレットで重くなった鞄を抱え直して、彼女に向き直る。 「ええ」 「そっか」 「海老名さんはこれから?また一杯いくんですか」 「あ、ああ・・・うーん、どうかな」  最近ちょっと飲み過ぎで。彼女はそう答えて、小首を傾げてうっすらと笑った。そのわずかにぎこちない笑顔に掠める違和感が気になった。 「・・・新波さんとですか?」  わざと冗談めかしてそう尋ねる。歳が近いのもあって、彼女と彼は気の合う呑み友達だと聞いていた。彼女はその場で、よく彼の話を聞いているらしい。その内容を詳しく聞くことはどことなく遠慮が勝って出来ないでいた。彼も話そうとはしない。 「いや、そうじゃないんだけど。・・・」 「?」  少し言い淀むような表情を彼女は浮かべて、考え込むように視線を下に落とした。  きらびやかなターミナルの灯りが、つるりとした床に反射する。ざわめきはさわさわと耳に響き続ける。少しの間が空いたあと、彼女は何かを決めたように少し俯いていた顔をあげた。 「ちょっといいかな」 「、ええ」  暮れなずむ青と紫が滲み合うような空の色に染まるエプロンを一望できるいつものカフェテラスを彼女は目だけで指した。その視線に漂う空気に、拒む選択肢はないのだろうと思った。

「・・・最近、新波くんと連絡取ってる?」 「え?・・・ああ、正直。あまり」  誤魔化したところで彼女にも自分にもメリットは無いだろうと、素直にそれを告げた。彼女はそれを聞いて、やっぱりというような感情をその顔に浮かべて、誘導灯の灯り始めたエプロンを一瞥した。 「忙しくて」  言い訳じみた響きになるのはどうしようも無い。彼女なら事情も分かるだろうと思った。 「そっか・・・」 「・・・」 「まあ、そうだよね」  彼女はそう言った。  ふと頭を掠めた罪悪感は誰に対してだろうと思った。恋人同士だからといって全てを把握しているわけではない。そう言えばいいのだろうが、彼女がそれを責めているわけではないのは表情から分かっていたから、何かを言うつもりにはならない。  彼女はほんの少し口元を引き結んで何事かを逡巡するような表情を浮かべたまま、エプロンを見つめている。仕事を終えたようなスーツ姿の乗客が目立つ夜の始めのカフェテラスは人の数にしては静けさが床に這うように広がって、かえって居住まいの悪い思いがした。  いつもの彼女の笑みはそこにはなくて、それはこれから起こることへの予感のような空気も孕んでいる。彼に関わることで間違いないのは、すぐに分かった。そうして今、こうやって話しているということは、伝えねばならないと彼女が思ったからだろう。 「・・・新波さんが、どうかしましたか」 「・・・」  口火を切ったのは自分だった。彼女がエプロンから視線をこちらに向けたのが分かった。長い睫毛が、沈みゆく薄紅色の光に影を落とす。  彼女はゆっくりと、言葉を選ぶように口を開いた。けれどその表情に、喜ばしさは感じられなかった。 「秋津くんも忙しいだろうし。新波くんなら絶対言わないだろうと思ったけど。・・・気になって」 「え?」 「実はさ、他のエアラインの子から聞いたんだけど」

「秋津さん?」 「蕪木さん」  ターミナルからは直接都内に繋がる鉄道の路線がある。都内に自宅の在る職員の大体がターミナルを経由することは分かっていた。だからおそらくという思いで出口付近で待っていたのが功を奏したのか、彼本人では無かったけれど、話を聞けそうな人間に会えたのは幸運だと思った。  話をしたいと何度かメッセージを入れたが、返事が無いのは想定した上でのことだった。案の定彼からの返答は一言すらも無い。ならば直接聞けばいいと待ち構えていたのだが、シフトを知った上でそうしたにも関わらず彼はいつまで待っても現れなかった。それに何らかの、彼自身のものとは限らないけれど、意図が働いているような気もした。  空に向かって立たせたような髪と、目尻がほんのわずかに上がったその目が、自分の姿を認めて少し丸く見開かれる。彼がいない場所で声を掛けられるとは思っていなかったのかもしれない。彼と話をした記憶は、数ヶ月前、彼が辞めるか否かという決断を迷っていた頃の話で、もうそれは、遠い昔のことのようにも思える。 「こんにちは、何かよく会いますね」 「ええ」 「訓練、終わったんですか」 「はい、今日は」  少し立ち止まって立ち話をし始めた自分たちを丸く避けるように、人の波は同じ方向へ向かって流れていく。取り留めのないことを話題に上らせるのはお互いに核心に行き届くまでに思うところがあるからだろうかと思った。  彼女から聞いたことが本当のことならば、それを同僚でもある今目の前で話す若い後輩が知らないことは無いだろう。だからこそ今、自分はこの新人管制官を足止めしている。  今日の空港の様子や訓練のことをひとしきり話し終えると、話す種に困ったのか、吊り上がり気味だった目尻が少し下がったような気がした。数秒ほどの沈黙が二人の間に流れる。  何かに気が付いたように、はっとした顔を浮かべる目の前の彼を見つめる視線を外さないようにした。どうしても、聞かねばならないことがある。

「・・・もしかして、あの」 「・・・」 「ここで秋津さんが待ってたのって。・・・新波さんですか」

こちらの意図に思い当たった彼は、どうしたものかと分かりやすく迷うような顔をした。  言わずとも自分の視線は肯定を表現していたのだろう、頷きはしなかったが口元だけを上げて小さく笑うと、彼は観念したように、わずかに緊張して力が入っていた肩を落とした。 「何か、知ってます?」  あまり大声で口にするには憚ることなのだろう、彼は小声になって、こちらへささやくように尋ねてきた。  事のあらましは先程あらかたは聞いた。けれどそのどこまでが真実なのか、そのわずかな手がかりは彼が知っているだろうと、小さく首を横に振った。 「本人からは何も」 「そうですか、・・・ですよね、うん」  彼はそう、少し目を伏せて、ひとり納得するように頷く。 「あなたは何か、知っていますか。彼のことを」 「うん、まあ・・・。でも俺も、新波さんからは何も、教えてもらえなかったですけど・・・清家さん、あ、他の先輩からは、事情だけは」 「そうですか」  そう相槌を打つと、風を切るように歩いていたその肩がまたひとつ、小さく萎んだ気がした。  目の前の彼と多く話をしたわけではないが、こんな風に奥歯に物が挟まったような物言いをする人間ではないと思っている。  まだ荒削りだが読み筋はいいと雑談の中で彼をそう評価していたことを思い出した。何よりも熱意があるのだと少しだけ口元を綻ばせて、後輩の成長を喜んでいるそのさまがよみがえった。  同じ職場で働く彼にとっても、今彼に起きていることはけして歓迎することではないのだろう。躊躇いがちに口を開くのを、そのまま黙って見つめていた。

「新波さん、今有給取ってます」 「え、・・・」 「ここ一週間ほど」 「そんなに?・・・体調が悪いとか」 「・・・、いいえ、違います。・・・休んでるっていうか」  目の前でそう告げる彼は、一瞬言い淀んだ。 「あの、休まされてるって感じなんですけど」 「・・・」 「あ、でもその、処分とかそういうのじゃなくって。・・・水谷部長と涌井次席が、その方がいいってことなんですけどね」 「どういうことですか」 「今の状況は新波さんにはキツ過ぎるだろって。だからしばらくの間は休養したほうがいいかもしれないって、そう」

『新波くんの例のこと。あの、若いパイロットの子の話。  ・・・何か、羽田で今、すごい勢いで広まってるらしくて』

夕暮れのカフェテラスで、沈みかけた紫の光に照らされてぽつりとそう言った彼女の横顔が思い出される。それに、彼の後輩のわずかに遠慮がちな声が重なるのが分かった。 「多分出どころはこないだの事例検討会じゃないかって話で」 「・・・」 「あのとき、色んな人が集まってたから。たぶん、新波さんの宮崎の時のことを知ってる人が広めたんじゃないかって言われてます」  彼と久しぶりに会った日のことを思い起こした。  あの日はカンパニーの関係者と管制官の代表者が集まって、交流会を兼ねた事例検討会が催されていたという。彼は管制官側の講師として出席していた。  その場所にいた誰かが噂の発端ではないかと、目の前の後輩の彼はそう言った。しかし、確証があるわけではないと言う。 「でも、それでどうして」 「・・・何か変に、他のエアラインのパイロットの間でそれが広まっちゃったみたいで。  パワハラ管制官がいるって。最近、一部のパイロットからこっちにやたらと無茶なリクエストや抗議が増えてきてたんですよ。もちろん、一部ですけど。  ・・・特に、新波さんがローカルに立つときはそんな感じでいつもぎすぎすしちゃって」 「・・・、そんなことが・・・」 「何でだろうって皆首を傾げてたら、実はそんなことになってるってことが分かって」  彼の事情はタワーに勤める管制官の大体が把握していることだったが、事実と異なる噂の内容に戸惑いが広がっているのだという。  しばらく離れていた空でそんなことが起きていたとは、目と鼻の先の場所での出来事のはずであるのに、まるで別世界の話のようだ。唐突に知らされたその真実に、上手く頭がついてこない自分を感じていた。  絞り出した声はどうにか形を保っている。けれどどくどくと底で波打ち始めた心臓の音は次第に大きくなって、自分では誤魔化すことが出来なくなっていた。 「・・・しかし、その件はもう終わったことでは」 「ええ、俺はよく知らないですけど。  新波さんがパワハラなんてそんなことしないだろって思うし、清家さんも、それは不幸な誤解が重なったことで、どっちが悪いとかそういうことじゃないって言ってて。  それに、相手もちゃんと、後で誤解だったって言ってきたしって。だから解決はしてるんです」 「だったらなぜ」 「でも、その経緯を知ってるのはパイロット本人と、こっちの人間だけですよね。  ・・・変に曲解した人間が、無責任に一方的な憶測と価値観で喋っちゃったんじゃないかって」 「・・・」 「誰もが結果に納得するわけじゃないだろうし、嫌な噂は良い噂の倍速で広がるでしょ?加害側って認定されてるんじゃ、否定だって出来ないし。  ・・・現に宮崎では、そうやって新波さん、異動しなくちゃいけなくなったじゃないですか」 「・・・そうですね」 「パイロットと管制官の間の信頼関係が崩れたら、飛行機を飛ばすことは出来ない。  少しの間はやりにくいかもしれないけど、問題自体は解決していることなんだから大騒ぎせずに静観してればそのうち収まるだろうって皆、そう言ってたんですけど。  ・・・何よりも、新波さんの精神的なダメージの方が問題だって、涌井次席が有給を取るように新波さんに言ったんです。水谷部長も無理することないって」 「・・・・・・」 「ほとぼりが冷めるまではって。  ・・・もちろん、新波さんが、悪いわけじゃないけど」

『———どうしても伝わらないことは、あるんだ』

「秋津さん」 「・・・?」 「新波さん、大丈夫ですかね」  彼はそう、小さく独り言のように呟いた。 「どうしてそう?」  尋ね返すと、彼は少し俯いていた顔を上げた。きり、とした自信に満ちたような眉は、今は力なく、きゅ、と中心にわずかに寄せられている。 「・・・新波さんって、管制は完璧だし、穏やかだし、良い上司の手本みたいな人ですけど」 「・・・」 「でも本当は。一人で全部抱えて、全部自分のせいだって思ってますよね。秋津さんなら、分かるでしょ」 「・・・、それは」

「飛行機は一人では飛ばせないっていつも言うのに。・・・新波さんはいつも一人きりで空飛んでるよなって、俺思ってて」 「蕪木さん」 「何でだろうって思ってたんですけど、今回のことで分かりました」 「・・・」 「新波さんには、一緒に飛んであげる人が、本当は必要なんだろうって」

遠のいてしまったどこかの空を静かに見上げる彼の横顔が脳裏を掠めた。  癒えきらない傷を持て余して、けれどそれを誰かに預けることは出来ずに来た彼の長く心に沈み続ける痛みを沿わせた視線を、自分は隣で見ていた。  つい、少し前まで。  重ねた唇の温度はまだ仄かに残る。けれど自分はそのとき気が付かなかった。彼のその傷が思ったよりも深く、奥の方でまだ膿み続けていたことを。  そうしてそれは、彼だけの問題ではなかったということを。

夜のラッシュが始まったターミナルは夕刻の一瞬の静寂を拭うようにしてまた人の喧騒で賑わい始める。  まるで数日ほどの時間がたったような気がしていた。けれど体感はそうでも、実際は数時間もたっていない間の出来事だった。  青い誘導灯が灯る滑走路を眺めて、携帯の画面を開く。鼻先を雨の匂いが掠めた。日没を迎える少し前に流れてきた冬の雨雲が短い時間降らせた小さな雨は、滑走路をしっとりと濡らして、誘導灯の灯りを反射させていた。  滑りやすくなっているなと頭の片隅でちらと考えながら、こくりとひとつ唾を飲んで、心を決める。そうして息を吸って、目的の連絡先を呼び出した。  数回のコール音が響いた後、無機質な留守番電話のメッセージに切り替わったのを確かめて、通話を切る。ごう、と濃い紺色の空へ飛び立つ夜の便のナビゲーションライトが、まるで星の光のように点滅していた。

ーーー

「例の話、聞いた?」

「秋津の知り合いなんだって?」  そう言って、長机を挟んで向かい側に座った同僚がそう、心持ち身体を前のめりにさせながら言ってきた。  自分を囲んでいる他の訓練生も、囃し立てるわけではないが興味津々といった素振りで、こちらの返答を待っている。順繰りにその顔を眺めて、小さく息を吐いた。  うんざりだという表情を浮かべはしないが、タブレットを閉じる手付きにそれは如実に表れていたようだ。大げさに音をさせたそのタブレットを、テキストと共に鞄へ雑に突っ込む。身体を前傾させていた同僚は少し気まずそうな顔を浮かべたが、まだ興味の方が勝っているらしかった。 「・・・知り合いだが、その件について私は何も知らない」 「なんだ、そうなのか」  残念そうな声音でそう呟いたのに、小さく視線を送る。今度こそまずいことをしたと、顔を強張らせて彼が肩を竦めるのが分かった。  シミュレータ訓練を終えて緊張感のわずかに解けた講義室は、デブリーフィングを行う訓練生の本筋からわずかに逸れた雑談で、ささやかではあるがざわついている。シミュレータ訓練も大詰めを迎えた。残るは口述試験だ。これに合格すれば実機訓練、ラインOJTに進むことが出来る。 「根拠のない噂だろう」  そう言って席を立とうと腰を浮かせた。ここのところ、移行訓練生の間でもその噂は広まっている。この質問も別々の人間から数度尋ねられた。その度に神経がささくれだっていることは自分でもよく分かっていた。 「まあそうだけど」 「いい加減な情報には興味が無い」 「・・・」  取り付く島のないような自分の態度に、その同僚は口を噤んで困ったような顔を浮かべている。どう言葉を継ぐか、顔を見合わせているのを気配で感じた。 「・・・でも確かに、本当なのかなあって」  そう口を開いたのは、同じチームの訓練生の一人だった。 「先輩から聞いてたんだけど、その管制官の人、かなり優秀なんだって。  その人の管制なら間違いなく安全に飛べるから、しっかり聴いとけってよく言われてたんだよね」 「優秀だからって、パワハラしないってわけじゃないだろ」 「そうだけど。先輩の話聞いてたらさ、そんなことするような人に思えなかったから」 「会ったこともない人じゃん。  管制なんてさ、あのタワーから高見の見物してるんだよ。俺たちがどんな人間かなんて、分かりゃしないだろ」 「まあ・・・」 「どんなに優秀かは分からないけどさ、だったら偉そうにパイロットに指示出してたのかもしれないだろ」 「そうかもしれないけど」

「彼はパイロットをそんな風に扱ったりはしない」 「、秋津?」  一言そう言った声は、思ったよりも低く聴こえたかもしれない。思わず感情を乗せて発した自分の言葉をわずかに後悔した。 『管制の肩を持っている』  そう批判されるのは避けたかった。知り合いだから庇うのだろうと思われることはこの流れでは必然で、けれどどうしても冷静になれない自分がいることは認めざるを得ない。  空を見つめながら呟く彼の顔が瞼に映っては消える。 『空を見るのが好きで』 『飛び立つ瞬間の、空の開く感じを、味わいたくて』  ———だから管制官になった。  幼い子どもが言うような柔らかな声音で、彼は腕の中でそうゆっくりと囁く。その瞬間の彼の目に映る空の青を思い起こして胸が痛んだ。その痛みは飲み込んで、神経を冷やすように言い聞かせて、言葉を継いだ。 「どちらが上だ下だとそんな些末なことを彼は言ったりはしない。空の上では対等だ」 「・・・」 「安全に乗客を乗せて飛ぶ。パイロットも管制官も、その目的を共有する同志のはずだろう。いがみ合う必要があるのか?」  そう言った自分の顔を彼らは戸惑った表情で見上げる。  ぴりと尖った空気が辺りに漂うのを、講義室の訓練生たちが遠巻きに見つめているのが分かった。講義室のざわめきは徐々に鎮まって、自分の声だけが、自分を中心に同心円状に波紋を描くように響いていた。

「———パワハラの事実はあった」

静寂を破ったのは、割って入った低い声だった。 「劉」 「秋津、みっともない奴だな。そんな風に知り合いを庇って」 「・・・何?」 「お前の方こそ、それは根拠のない精神論じゃないのか?」  先ほどまで同じシミュレータに乗って訓練を行っていた彼は、そう言ってもったいぶった動きで数歩こちらに近づいてきた。座っていた訓練生を押しのけるように身体を割り込ませ、こちらに向き合う。  薄暗く、けれどぎらりと光るその黒い目の色が、こちらにも伝わってきた。むろん、放たれる空気がどことなく重苦しいのは、良い感情から出たものでないことは承知している。  今流れる彼のその噂を否定するにも、自分に材料が無いことをこの同期の男はよく分かっていた。こくりと、唾を飲む。肩に力が入った。感情的になってはならないと言い聞かせるが、今まで積み上がってきたこのバディの彼の振る舞いや楽しくはない訓練の記憶が次々によみがえって、鎮めようとする神経をかえって引っ掻いて刺激してくるようにも思えた。 「パワハラは実際にカンパニーに報告が上がってきていた事実だろう。そしてカンパニーはそれを受理して、正式な管制官への抗議として処理していた」 「・・・」 「後から誤解だったとして取り消しにはなったらしいがな」 「劉、なぜ」 「秋津、お前がどうこう言ったところで、その事実は変わりがないんだよ」  窮屈そうに制服に詰め込んだような腕を組んで、同期の彼はそう押し込むように告げてきた。  何故、そんなことを知っているのか。尋ねようとした自分を遮って、彼は畳み掛ける。 「パワハラはあったんだ、秋津」

「誤解だったんだろうがなんだろうが。その管制官の振る舞いが一人のパイロットに辞職の決断をさせた。お前の庇う、———新波っていう管制官が。  人一人の人生を変えたっていう、その事実を拭うことは出来ないんだ」

「・・・なぜ、言い切る」  喉元が灼けるように熱いことに気づく。ぐらりと腹の深い部分から煮え立つようにせり上がる感情をどうにか下腹に押し込めた。  固唾をのんで、周囲の訓練生が状況を見守っていることは分かった。一人ひとりがこの場がどう推移するのか、頭の中で考えを巡らせているのだろう。触れて動かせば簡単に崩れ落ちてしまうような脆く、危うい均衡を保った空気が辺りを包む。  戸惑うような訓練生の表情が視界に入ったが、その場を何事も無かったように収めるには、もう引き返す地点は過ぎてしまった自覚はあった。それでもどうにか声を絞り出す。 「何だって?」 「劉、お前は彼のことは知らないはずだろう。なぜそうやって、パワハラは事実だと言い切るのか」 「・・・ああ、知らなかったよ。お前にここで会うまではな」  劉はそう言って、口元を歪めたように上げた。面白いからというよりは、むしろ湧き上がる憤りを抑え込むことが出来ずに歪んだ笑みのような気がした。ぞわりと自分の神経も逆立つのが分かった。 「私と?」 「ああ、お前が、あの管制官と知り合いだと知るまでは」

「あの日、事例検討会に昔の馴染みが参加していてな」  がっしりとした肩に、副操縦士の肩章が光る。こちらを睨みつける視線の勢いと込めた感情はそのままに、彼は言葉を継いだ。 「・・・」 「たまたまあの後話す機会があったんだ。そうしたら、新波、あの管制官が宮崎でパイロットと揉めて異動になった奴だったってことを知ったんだ」 「・・・どういうことだ」 「まさかとは思ったが。偶然とはいえいい機会だ。これはきちんとこちらも話しておきたいと思って、後日、あの新波って管制官と直接話をした」 「何?」

「俺はその、辞職したパイロットを知っている」 「・・・・・・」 「———・・・俺の、航空学校以来の、後輩だったからな」

声のトーンが一つ下がって、底に押し込めた彼の感情が一気にこちらに向かって来るのを肌で感じた。  突然つまびらかになる、目の前の彼が抱えていた事実は身構えたこちらの心を揺さぶるには十分だった。説明のつかない感情で熱を上げ続ける頭で、その与えられた事柄を処理しようとひとつ息を吐く。  こちらを睨みつけたままの同期の彼の姿を、こちらも見据えた。わずかな沈黙は、数時間ほどの重みを伴って、辺りを静まり返らせる。 「あいつが管制官からの執拗なパワハラで辞めたと聞いて。どうにかしてそいつと話をつけてやりたいと思っていたんだ」 「・・・」 「だがカンパニーがそんな情報を出してくることもないだろう。もちろん辞めた直後の本人にだって聞けるわけがない。そうこうしていたら、あいつは『悪かったのは自分で、管制官に非は無い』って言い出して。  気が付くとパワハラの件は無いことになって、管制官も異動した後だった。  そんなはずはないだろうって。全部パイロットの責任だなんてそんなこと、納得出来るわけがない。———ずっと、そう思ってきたんだ」 「劉」 「秋津、お前がなぜそこまでして庇い立てするのかは知らんがな。あの管制官は認めたぞ」

「自分がしたことがあいつを辞めさせる結果になったって、全部自分の責任だって。  そう、俺に謝罪してきた」

「・・・劉、お前は何をした」  喉から引き攣れるように出た声は、低いけれど掠れて、ようやく形になってそれを保っているだけだった。下腹に押し込めていたはずのその感情が一気に喉元まで駆け上がってくる。  自分の振る舞いが誰かを傷つける、そのことを恐れて手を伸ばすことを躊躇する彼の姿が思い浮かぶ。風を読み、背を押し上げて飛び立つ翼を支えるその『声』が頼りなく腕の中で崩折れる、その映像が何度も瞼の奥を巡った。 「俺は何もしていない。そいつに会って話をしただけだ」 「そんなはずは無いだろう。彼に、・・・新波さんに何を言った」  一度箍を緩めてしまったら流れ出した感情は留めることは出来ない。頭の片隅のまだ冷静さを保った自分が、警告を発し続ける。でなければとうの昔にこの眼の前の彼を感情のままに責め立ててしまうだろうと思った。  腹の底で煮え続ける黒い心はそのままだ。ぶつけることが解決にならないことは理解していて、それでも、その黒い塊は消えようとはしなかった。  目の前で劉は、小さく歪んだままの口元を噛むように引き結ぶ。それがかえってさらに歪に歪んで、未だ収まりのつかない彼の憤りを伝えて来るような気がしていた。 「・・・俺は、依頼をしただけだがな」 「何の依頼だ」 「・・・管制の無能を、こちらに押し付けるなと」

「・・・何だと?」 「どんなパイロットだろうが捌くのが管制の仕事だろう。それが出来ないのは無能に他ならない。  鈍臭い若いパイロット一人、空の上でコントロール出来ないのは、管制としていかがなものかと言った」 「そんなことを、言ったのか?」 「ああ、事実だろう。お前が言ったことじゃないか。どんなポンコツだろうが乗客には関係ないと」 「・・・」 「あの管制官が上手くやっていれば、あいつは辞めずに済んだし、大事にする必要は無かった。そして今、こんなことにもならなかった」  抑揚のない調子で低く重い声のまま、劉はそう言葉を重ねた。 「あいつはナナハチを操縦するのが夢だった。いつかは世界中を飛ぶんだと、それがあいつの夢だったんだ。  あいつの人生を変えたのは、あいつの夢を潰したのは管制官のあんただと、俺ははっきり言ってやったよ」 「———・・・・・・お前・・・」

「そして今度は、———秋津の夢も、潰す気かとな」

白く視界が濁るのが分かって、火花が散るように目の前の視界が狭まるのが分かった。  周囲の動揺した空気とどこか遠くで響く怒号はうっすらと自分の意識を冷めさせようとしていたが、一度崩壊した感情の堤防は、あとは崩れて跡形もなく流れていくだけだった。  襟首を掴み上げて、勢いのままに壁に打ち付ける。ぐ、と、しっかりした筋肉が印象的だった首筋を持ち上げるようにして、ぎりぎりと締め上げた。受け身を取った同期の彼は、締め上げられて狭くなった気道で、ぐう、と小さく唸った。 「おい、止めろ秋津!!」  誰かが肩に手を乗せたような気はしたが、腕の力を緩めることはない。彼を睨み据えて、襟首を掴む指先に力を込める。正常な呼吸を阻まれた彼が、苦しげに低く唸り続ける。  鼻先が触れる距離で睨みつけて、畳み掛けた。 「劉、お前だったのか、・・・この事態を呼び込んだのは」 「・・・広めたのは俺じゃない、だが、必然だろう」 「必然だと?」 「なるべくして、なった結果だ。・・・・悪いというなら、あの管制官だろうって言ってるんだ」 「・・・っ!!」  捻り上げていた手を片方緩めた。振り上げて、その彼の頬に拳がめり込む寸前で、掴み上げていた腕ごと引き離される。  男性二人ほどで腕を抱え上げられて、床に乱暴に放り投げられた。バランスを崩してもんどり打ち、青い絨毯の上に転げた。 「秋津!劉!お前たち何をやってるんだ!!」  騒ぎを聞いて駆けつけた迫水教官の鋭い一声が場を制した。  距離を空けて、咳き込む劉と睨み合う。他の訓練生たちに抑え込まれて床に腰を打ち付けたまま、拳を握り締めた。  皮膚に爪が食い込むわずかな痛みが伝わる。けれどそれすらも、今行方さえも分からない彼の痛みに比べれば塵のようなものでしかないと思えた。

騒然とした場は教官が現れたことで一応の収束をみた。  けれど収まりがつかないのは全身を駆け巡り温度を下げることのない自分の感情だった。再び荒ぶる気配を見せたその自分の感情を収めようと小刻みに息を吐く。  脳裏を掠めた彼の表情は渦巻く憤りにかき消されて、それは記憶の中でどんな表情だったのかはっきりと判別出来なくなっていた。

ーーー

どこまでも伸びる鉄柵で境界線を区切られた海からは、纏わりつくような潮の香りが漂っている。  冬の気配を纏わせた晩秋のゆるやかな風は小春凪の海面を滑るようにして吹き去っていく。  手を伸ばせそうなほどの距離の駐機場に、整備中の大きな機体がいくつも並んでいた。大きな身体を休息に横たえるその機体を一瞥する。きんとした金属音の後、腹の底を揺さぶるような重い音が響いて、上空を着陸機が横切ったのが分かった。  機影は一瞬、差し込む光を遮って、伸びる海岸にくっきりと影を作る。薄い灰色に染まった彼の横顔は冷えた温度を残したままの日差しのように、そこにある。  一瞬声をかけるか躊躇って、けれどそれでは、来た意味が無いと思い直した。  そうして一歩、芝生になった地面を踏みしめた。朝露の残る芝生はひんやりとして、履いたスニーカーに水が染み込むような気がした。

「歳也さん」 「・・・、竜太、・・・・・・?」

彼の表情はほんのわずかな驚きを滲ませていた。  柔く流しただけの髪が海風に揺れて額にかかる。掛けた眼鏡の奥でくるりとした丸い目が少しだけ、分からない程度に見開かれるのを見つめた。  海際の温度は、街中よりも幾度か低い。海面から這い上がる冷気に、薄手の羽織の襟をかき寄せる。  厚手の紺のマウンテンパーカに身を包んで空を見上げる彼の姿からは、羽田で見るような硬質な緊張感は感じられない。意識して見なければ、同じ人物だということにも気が付かないのではないかと思った。  予想通りだったと安堵する心の内は押し隠して、ゆるりと口元だけで笑う。彼はそれにどう応えるべきなのか、戸惑ったような色をその目に浮かべた。  言葉は無い。波が寄せる小さな音と、奥で響くきんとした飛行機のさせる音だけが二人の間を流れる。 「・・・やっぱりここだった」 「・・・竜太」  どうしてここが、という問いは愚問だと思ったのだろう、彼の口の中で形にならずに消えていくのが表情から分かる。休日はいつもここに来ていると、そう言っていたのは彼自身だったからだ。  それでもその想定が一か八かであったことは彼には言わないでおこうと思った。羽田で起きている出来事のことを考えると、飛行機を見るなどと傷口に塩を塗り込むような行為をするだろうかと、そういう思いはあった。だからここに来ているのは五分五分ではないかとそう思っていたことも、口にはしない。 「あなたなら、ここに来ているんじゃないかと」 「・・・」 「当たって、良かったです。歳也さん」  彼のことならば、無駄足でも良いと思っている。ここにいなければ多分他の場所を探していた。  けれどそれは自分の中の思いであるだけで、そのままぶつけることが得策だとは思えない。きっと、こうやって足を運んでいることさえも、今の彼には重荷であるだろうという思いはあって、それでも止められなかったのは自分の身勝手だ。  だから努めて何事も無かったように、小さく笑って歩を進めた。  夏の終わりの生ぬるい海沿いの温度を思い出した。初めて彼についてここに来たのが、ずいぶん前のことにも思える。  彼は休日、ここで羽田の管制を聴きながら半日を過ごす習慣があった。タワーでない場所で、空を眺める。そのことが管制官としての自分を客観的に見つめ直す機会になるのだと、そう言っていた。  こちらを見つめたままのその曖昧で不安げな表情は、同じその時期のことを思い返しているのではないかと思った。距離を詰めることを彼は特に拒むような姿勢は見せない。それに甘えて、隣に立つ。  重く空気を裂く音が聴こえて、また一機、離陸するのが見えた。それを黙って二人並んで見上げる。うっすらと白いベールがかかったような薄青の秋天にその影が溶けるのを見遣った。  機影はみるみるうちに、小さい点になる。 「・・・もうすぐ試験なんだろう」  永遠にも続くような沈黙を破ったのは彼の一言だった。  迷い果てて形になって零れたその言葉は、ひらひらと頼りない初雪の花弁のように地面にひっそりと溶けて消えていく。 「こんなところに来ていていいのか?」 「・・・いいですよ、休日ですから」  そう答えた。 「・・・」 「試験対策は、きちんとしています」 「・・・そうか」 「あなたが心配するようなことは、ありませんから」  そう言い切ったことに、わずかな嘘があることは悟られまいと薄く笑う。「心配するようなこと」の中に込められた物事は溢れるほどにあって、けれどそのどれもを、彼に全て背負わせるわけにはいかないのだと思った。  こちらを見つめている彼の瞳はあの日、最後に会った日のようにわずかな艶を含んでこちらを映す。滲む痛みはあの日よりも際立って、それを掬い上げることを自分は許されるだろうかと思った。 「だから少し、一緒にいてもいいですか」 「・・・」 「あなたに迷惑は、かけませんから」 「迷惑なんて、・・・」  言いかけた声は、語尾が萎んで最後まで続くことは無かった。合わせていた視線を最初に逸したのは彼で、俯いて目を伏せたその横顔ごと抱き込んでしまいたいと思ったけれど、その手は留めた。

「・・・どうして、何も言ってくれなかったんですか」 「・・・」  思い当たる節は大いにあるのだろう、彼はほんのわずかに肩に力を入れて、眉を寄せて気まずそうな顔をした。  携帯のメッセージアプリには、何の変哲もないメッセージが連なっていた。ただ違っていたのは挨拶の他に続いていたはずのシフトの報告が、ある日を境に無くなっていることだ。  今回の一件が無ければ、ただ単に忙しいのだろうで済ませていたかもしれない。けれど今は、その意味を理解している。 「何も無い」  素っ気ない素振りをわざとらしく匂わせて、彼はそう答えてきた。 「・・・」 「ただ有給を取っているだけで」 「まだそんなこと言うんですか歳也さん」  口調がわずかに尖ったのをしまったとは思ったが続ける。彼が肩をぴくりと小さく強張らせたのが分かった。 「私がここに来た時点で、分かるんじゃないですか」 「・・・」 「あなたが置かれている状況は大体ですが聞いています。・・・どうしてそんなことになっているのを、私に言ってくれないんですか」 「・・・あんたが」 「移行訓練中だから」 「、・・・っ」 「もうすぐ試験だから。その邪魔をしたくないから。私の手を煩わせたくないから。  ・・・またそんなことを、言うんでしょう」 「・・・」 「もう聞き飽きました」  彼が口を噤んだのが分かった。  いつもの通りの理由を告げようとしたことを阻まれて、続ける言葉を見つけられないで口元を震わせるのが見えた。

小さく視線が歪んだのを見逃す自分ではない。  追い詰められたような表情を浮かべた彼にしくりと心の片隅を刺されたように痛んだ。けれど続ける。 「今は、確かにあなたとのことを最優先には出来ない」 「・・・竜太」 「それでも、あなたの抱えたものを預かるくらいの余裕はあります。———どうしてそれを、頼りにしてくれないのか」 「・・・」 「もっとあなたは、人を頼っていいんだ。・・・全て、抱える必要はないんです」

「空は一人で飛べない。・・・あなたが、私に教えてくれたことだ。  だからあなたも、一人で飛ばなくていいんです」

「———そのこと、だけじゃない」  耳元に響くごうごうとした音は、強くなり始めた海風の音なのか、それとも海を挟んだ向こう側の飛行機の音なのか、それが混じり合っているのかは分からなかった。  伏せた目に、柔いカーブを描く細い前髪が落ちてかかった。長い睫毛の一本一本がはっきり見えるようだった。目尻に皺が寄って、苦悶するように、彼が唇を小さく噛む。自分と同じように乾いたような薄い赤色をした唇は、薄いグレーがかったような周りの景色の中で鮮やかに映って見えた。 「歳也さん」 「・・・過去のことで、あんたに頼るようなことは無い」  細い声はわざと、冷たく切るように紡がれたように思えた。遠くの誰かの笑い声にその声はかき消えてしまいそうだった。  彼は一つ息を吐いた。そうして言うことを確かめるように何度か瞬きをして、そうして顔を上げた。 「それは身から出た錆だからだ。  管制の都合を若くてまだ技術の拙いパイロットに押し付けたのは俺だ。定刻通りに運航することを何より最優先した。だから、鈍い動きをするパイロットに苛立っていた。  それを捌いていけなかったのは俺の怠慢で、なのに偉そうに指導と称して彼に何度か話をしたのは間違いだった」 「それは、違うでしょう。あなたは必要なことをした」 「それでも、俺の一言が国交省の一言と同じ重みがあることを、俺は考慮しなかった。それが発展途上の者にとってどれだけの重圧になるかも考えずに。・・・結果はあんたも、知っている通りだ」 「・・・」 「だからそれを何度蒸し返されても、俺に文句は言えない。その通りだと、全面的に俺の未熟さが起こしたことだと言うしかないんだ」 「違う」 「違わない」  彼の低い声音が、自分の言葉を鋭く遮るように被さる。

「———人ひとりの人生を狂わせた。  どんなにそれが仕方の無いことだったと、誤解が招いたことだったとしても。・・・あのパイロットの夢を潰したのは、間違いなく、俺だ」

『そうして今度は。———秋津の夢も、潰す気かとな』

ざ、と伸びる常緑樹の枝葉を揺らすように風が巻き起こる。風は海面を渡り、さざ波をわずかに立たせていった。  そうして一瞬の後、大きな翼が視界の向こう側で飛び立つのが見えた。こうこうと空を切る音が消えて視線を彼に戻すと、もうその彼に浮かぶ表情は、奥に秘めた豊かな感情を底に沈めて、ただこちらを静かに見つめているだけだった。 「竜太」 「・・・歳也さん」 「・・・戻ろう」 「え?」 「・・・『管制官』と、『パイロット』に。もう、元の通りに、何も無かったときと同じように」 「、え?・・・は?」  冷えた晩秋の海風が背筋を撫でたかのように、そうして上から水を被せたように、頭の先から温度が下がるのが分かった。  頭で何度か、言われた言葉を繰り返す。言葉の意味は十分に理解していて、それを飲み込めないでいるのは自分の感情ひとつきりなのだということもはっきりと分かっていた。 「何を言って」  喉がつっかえたように、言葉は切れ切れになって口元から地面に向かって零れ落ちる。  彼は一瞬顔を歪ませて、けれどすぐにそんな素振りは気配ほども滲ませないようにして、言葉を重ねた。

「ずっと、考えていた。竜太、・・・いや、『秋津』さん」 「ちょっと待ってください」 「元々あんたと俺は相性がいいわけじゃない。フライトに余計な感情を差し挟むのは、俺はそんなに得意な方じゃないんだ」 「・・・何を」 「このまま続いてもいずれ上手くいかなくなっただろう。・・・俺は異動も海外研修もある。あんただって、国際線に乗るようになればまともに会えることもない。  なら、お互い傷は浅いうちに関係は終わらせた方がいい」 「ちょっと、・・・」 「それに何より、パイロットと管制官が馴れ合うのはけして良いこととは言えない」 「・・・」 「だから、もう、止めよう。『秋津さん』」

「———ここで、終わりにしよう」

「歳也さん」  思わず抱きしめようと掴んだ腕を、彼は離そうと身を捩る。それでも離すまいと力を込めると、わずかな痛みが伝わったのか、彼が顔を歪めたのが分かった。  ここで離してしまえば彼の気配は空に溶けて、もう二度と自分の腕の中に戻って来ないと、それは確信めいたものでさえあった。それだけは自分が許すことが出来ないと思った。  ———打ち付ける雨の隙間から、手を伸ばす。彼は闇の中でやっと掴んだ自分の『光』だ。これからの自分を導いてくれる、彼はその『光』だ。  簡単に手放すことなど、出来るわけがない。 「竜太、・・・」  掠れた低い声が、弱々しく名前を呼ぶ。彼を抱いたときに耳元で響くその声に似て、ぞわりと足元から肌が震えるような気がした。頭を振って、自分の足元を確かめる。そうして距離をさらに詰めた彼の顔を凝視した。  彼の視線が一瞬狼狽えたように宙をふらふらと舞う。掴んだ自分の手を振り解こうとするその力が諦めたようにすぽりと抜けて、だらりと腕が力無く下がるのが分かった。 「・・・離してくれ」 「離しません、歳也さん」 「・・・」 「それは、別れる本当の理由じゃないでしょう。そんな、つまらないことじゃないでしょう」 「・・・りょうた、・・・」 「納得いきません、歳也さん。本当の理由は、何ですか」 「・・・理由」

「———離れる本当の理由は、何なんですか」

『何かを探しているみたい』 『何を探しているんですか』  ぐらぐらと、唐突に起きた事態に大きく揺さぶられる頭の中で、その言葉が何度もリフレインする。  彼が紡いだその言葉は、その「探しているもの」に繋がっているのだろうと思った。けれどここで尋ねても、きっと彼はそれを告げることは無いのだろうとも思えた。  彼は何を探していたのか、ずっと。 「———探していたんだ、ずっと、あの場所で」 「・・・、歳也さん・・・」  所在なく羽田空港の片隅に立って、どこともつかない場所を見つめていた頼りない横顔を思い出す。その横顔に漂っていた感情を読み取ることは上手く出来なかった。そうして手をこまねいている間に、彼は何かをずっと探し続けていた。 「答えを」 「・・・、答え?」  掴まれた腕はそのままに、彼はこちらを見据える。自分の放った言葉に自分で傷ついているようなその表情にこの瞬間に口づけて、この痛々しい空気を浚ってしまえればと願った。  そうすればあの朝に戻れるのだろうかと思った。ささやかでけれど温かい彼の温度を感じていられるあの場所に。  彼は小さく頷く。そうしてゆっくりと俯いた。言葉は消えて、二人の間を縫うように、強くなった海からの風が、広い芝生をひと息で撫でて、薄明かりの空に吹き抜けていく。

「———答えは、見つかったんですか?」

一緒にずっと。出来ることなら。  共に空を飛ぼうと思った。そう願ったから、自分は一歩前に進むことを決めたのだ。  ———ナナハチのパイロットに。そうして彼の「声」で、もっと広い空に、飛び立つつもりで。  そうすることが彼に応えることだと、そう、信じて疑わなかった。

彼が自分が投げたその問いに答えることは無い。  彼は小さく、今にも泣きそうな顔をして口元だけを上げた。そうしてゆるゆると空いた手の指先で、強く掴んだ自分の手を解く。  風にかじかんで氷のように冷えた自分の指に、もう力は籠もらなかった。放り投げられたように投げ出された腕を、どうすることも出来ない。

頭上の空が遠のいて、もうそれは、自分の手ひとつでは引き寄せることなど出来ない気がした。高く澄んだ青が、自分の心とは裏腹にさらに澄み渡って見えた。

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