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「おい、秋津」  低く尖った声が背を捉える。振り返ると、眉間に深く皺を寄せた彼と目が合った。

二人の間に流れた剣呑とした空気を感じ取ったのか、フルフライトシミュレータの訓練を終えた他の操縦士たちが遠巻きに何事かをささやきながら通りすがる。またかというような小さく呆れたようなため息も聴こえて、冷静さを保とうとする神経をわずかに揺さぶった。  喉元まで大きなため息が出そうになったがそれは留める。努めて無表情を作るように心がけて、同期のその彼と向き合った。 「・・・劉」 「なんだあれは。あの数値ならすぐに降りられたはずだろう」  大きな肩をいからせて、彼は納得がいかないという表情を隠しもせずにそう言い放った。 「・・・」 「俺たちの機はエンジントラブルでエマージェンシーを宣言していた。しかもランウェイクローズした成田からのダイバートで燃料も少なかったんだぞ。ゴーアラウンドする余裕なんて無いはずだ」 「ゴーアラウンドはしていない。降りただろう」 「降りればいいってもんじゃないだろう。時間をかけ過ぎだ。  あの場面では、リクエストプライオリティで一刻も早く優先的に着陸誘導してもらうべきだったんじゃないのか」  彼が言っているのは、先程のシミュレータでの訓練のことだ。 「・・・安易にリクエストをするのは危険だ」  そう返答すると、眉間の皺をぐ、と深くした彼がこちらを小さく睨みつけて来た。 「何だと」 「エマージェンシーは宣言していたが、片方のエンジンは稼働していた。  羽田は成田とほぼほぼ同じ天候状況だ。ダウンバーストが多数発生していたせいで羽田の滑走路は1本に制限されていたし、ゲリラ豪雨でILSが適用されるぎりぎりの視界だった。  周辺にはホールド機が高度を取り合って10機以上待機していただろう。  残燃料は確かに少なかったが、すぐ墜落するような量ではなかった。ゴーアラウンドしてもまだ余裕はある程度の量だ。片方のエンジンで体勢が不安定で風に煽られやすくなっているのに、脊髄反射のようにリクエストして慌てて降りたところでかえって乗客を危険に晒すだけだろう」 「・・・っ」  言葉を呑んだ彼に畳み掛ける。 「リクエストをしないと私は言っていない。ウインドチェックをこまめにやり取りして、管制に判断を仰ぐ方がいいと思ったんだ。管制ならこちらの状況を理解してくれる」 「そんな悠長なことを言っていていいのか?」 「どういう意味だ」 「管制が俺たちを優先的に降ろすかなんて、分かったもんじゃない。その間に機体に何か起こったらどうする」 「・・・その可能性も含めて、こちらは可能な限りの手を打つ。  最後はタワーが判断することだ」  そう言って小さく息を吐く。呆れたような仕草に映ったのか、向き合った彼がぎりと悔しげに歯噛みするのが見えた。  終わったことだろうと言ってしまいたくなるのを喉の奥に押し込める。自分たちがシミュレートする状況について振り返ることは必要なことだということは分かっていた。ただ彼とは馬が合わず、議論すればするほど感情的なやり取りに発展していくのが常だった。それが日々続く訓練の疲労に重なることに、だんだん苛立ちを隠せなくなってきているだけだ。  バディの組み合わせに相性など考慮されることは無い。2ヶ月ほど前、教官の迫水機長が目の前でこれから半年ほどの訓練を共にするバディを発表した時のことがよみがえった。  お互いに一番、避けたかった組み合わせだ。それは彼も同じことを思っていたのだろう、座学にしても、数週間ほど前から始まったシミュレータ訓練にしても、何かあればぶつかって、意図しない小競り合いになるのを繰り返していた。  実機に乗れば、誰が機長になって自分と飛ぶかなど選べるわけではないのだからこの程度のことは流すくらいの心の余裕は持たねばならないのは分かっている。相手を負かすことが目的なのではないと言い聞かせるが、人間の感情はそれだけではどうにもならない部分もあるのも真実だった。  彼、劉の明らかにこちらに難癖をつけようとしているその態度も鼻持ちならなくて、語気を荒らげてしまいそうになることも幾度かあった。そのたびに飲み込んだ言葉は、心臓の奥に澱のように溜まり続けている。

「――管制管制って、秋津、お前は管制の言いなりになるつもりなのか?」  彼はそう、語尾を吐き捨てるように言った。 「・・・何を言っているんだ?パイロットが管制の指示に従うのは当然のことだろう」 「そういうことじゃない。管制はあくまで管制で、乗っているのは俺たちパイロットなんだぞ。俺たちにしか分からない状況だってあるだろ?  もっとこちらが積極的に言うべきことは言うべきなんじゃないのかってことを言いたいだけだ」 「管制を信用するなと言いたいのか?」 「その管制がとんでもないポンコツだったらどうするんだ。俺たちと乗客の命をそんなポンコツに預けていいのか」  たらればに話が発展すればもうそれは終わりの見えない水掛け論の始まりだと実感した。肩が重く、ずしりと何かが被さったような思いがした。

「・・・だったら、パイロットがポンコツならばどうするという話になるんじゃないのか、劉」 「何?」  そこまでにしておけという自分と、どうしても収まりのつかない自分とがせめぎ合っているのは頭の片隅で分かっていた。滑り出した言葉は留まることがない。  けれどどうしても、聞き流すことが出来なかった。積み重なって募った苛立ちは鋭い形になって、彼にぶつけられる。 「ポンコツだから何だ?こちらに命を預ける乗客にそんなことは関係ないんじゃないのか」 「・・・」 「お互いの非や不足の部分を無意味につつき合って何か得られるものでもあるのか。劉はパイロットとして自分は完璧に飛べるとでも?」 「秋津・・・っお前」

「パイロットが管制を信用出来なくなったら、パイロットとして務まるのか?パイロットは一人で飛んでいるわけじゃない」 「何だと?」 「お互いの『声』を信頼出来ないなら、この空は安全に飛べない」

『互いの声を、信じさえすれば』

そう言って暗い闇のような空を縫って自分を導く、穏やかな声がよみがえる。  目の前で頬を赤くしてこちらをぎりと睨みつける顔を見据えて、その言葉を紡いだ。  底から湧き立っていた淀んだ感情が少しずつ鎮まるのが自分でも分かる。目指すものを照らすようなそのわずかな光の一筋に意識を集中すると、冷静さを取り戻した自分の心に気が付いた。

「秋津さん!!」 「・・・あ」  行き交う人に紛れて声のした方向に視線を遣ると、手を振る見知った顔が視界に入った。エアラインの制服の波の中で、襟元を緩めたブルーのシャツとチャコールグレーのスラックス姿はいやに目立っていた。 「蕪木さん、・・・・・?」 「こんにちは、秋津さん。訓練終わったんですか?」 「え、ええ・・・でも」  一カンパニーの研修棟にどうして管制官の彼がいるのだろうと、怪訝な顔をしていたのに気付いたのだろう。自分よりもいくつか年下の「蕪木」といった彼は、遠慮するわけでもなくこちらに駆け寄ってきた。  小脇に抱えているクリアファイルに視線を遣る。「事例検討会」と印字された書類が目に入った。その視線の在処を辿ったのか、彼がファイルを目の前に無邪気に突き出してきた。 「今日は管制官や航空会社の各セクションで集まる、交流会兼事案検討会だったんですよ。これから参加者が集まって懇親会なんです」 「ああ、そうだったんですか」 「俺こういうの初めてで。勉強になりました」 「そうですか」  少し興奮気味に早口に話す彼にそう、短く答える。  蕪木という彼とは少し前に関わったきりだった。新人管制官として、今年から羽田に勤め始めたのだという。あの時は辞めるというようなことも言っていたようだが、この調子ならば前向きに、自分の業務に向かうことが出来ているのだろうと思った。心の片隅でわずかに安堵する。  タワー以外の建物がもの珍しいかのように、彼は少し辺りを見回してから、こちらに向き直った。 「秋津さん、ナナハチへの移行訓練中だって聞きましたけど、ちょうど研修中だったんですね」 「?どうしてそれを」 「新波さんが言ってましたよ」 「・・・え」 「あ、新波さん出てきた。新波さん、新波さん!」 「・・・」 「秋津さんいましたよ!こっちこっち!!」  大げさなくらいの手振りで、蕪木と言った彼は研修室から出てきた一人の男性に手を振る。 「、・・・・・・」 「・・・」  顔を上げた彼と目が合う。こちらの姿を認めると、彼の目が小さく見開かれたのが分かった。

「歳・・・、新波さん」 「・・・」

「新波さん講師だったんですよね」  二人の間に流れたどことなく余所余所しい空気をものともしないのは若さからだろうかと思った。けれどそれがこの妙な空気を拭う一助になっていることは否めない。 「航空管制業務の説明、俺でもすげえ分かりやすかったです。さすが新波さん」 「やめろ蕪木」 「・・・」  彼はそう言って、ほんのわずかに困ったようにそう制した。勢いよく振れる尻尾が背後に見えるような「蕪木」の口は純粋に彼を褒めたくて仕方がないのだろう、その調子が淀むことはない。 「東京コントロールの人も、新波さんのこと絶賛してましたよね」 「・・・だから止めろ」 「CAさんも目の色変えてて。あ、でもあれは違うか」 「蕪木、喋り過ぎだ」  そんな話は聞いていない、という言葉は出てこなかった。彼とは必要最低限の連絡事項以外はやり取りをしていなかったからだ。  いつも毎日の天気と、お互いのシフトばかりを送り合っていた。最後には必ず彼の「無理するな」か「がんばれ」がつく、そんなシンプルなメッセージが行き交うだけだった。ここ最近は忙しさに負けて、それすらも途絶える日もあった。  余計な言葉を差し挟まず手短に終えるのは彼の性格もあるだろうし彼なりの気遣いであろうことは分かっていた。二ヶ月は会うことも出来ないほど忙しいということは告げていたからなおのこと、そういうそっけないやり取りになるのだと思っていた。  心の奥にじわりと一つ、インクの染みのように黒い点が広がったのは、劉とのやり取りが尾を引いているのもあるのだろう。同期の彼と折り合いが悪くストレスが溜まっていることは、こちらも言っても仕方がないと彼には話していなかった。  だからお互いさまのはずで、けれど小さく広がった黒い染みは見過ごすことが出来ない大きさになろうとしている。それを振りかぶろうと、最後に触れた夜の彼の顔を思い出そうとした。 『りょうた、・・・竜太』 「お疲れさまです、秋津さん」  頬に触れる指の感触と甘く痺れるように耳の奥をくすぐる声はすぐに消えて、少し冷たいような低く柔らかな声が響く。  あの夜の熱の名残を少しも滲ませない目が、こちらを見つめていた。 「あ、こちらこそ・・・」 「移行訓練は順調ですか」 「ええ、まあ・・・滞り無く」 「そうですか」  彼はそう一言言って、小さく微笑んだ。  それが最後に過ごした朝の風景と重なって、じわりと底から体温が上がっていくのが分かった。彼も努めて、必要以上に距離を詰めようとはしていない。そのことはどことなく理解した。  何事もなく振る舞う。そう頭では理解しているのに手を伸ばしそうになって、指先がふるりと震える。こんなに間近にいることにまだ慣れずに、続く言葉を告げられなかった。 「・・・何だ秋津、知り合いか?」  怪しいものを探るような低い声に我に返る。招かれざる客を見るような目つきで、同期の彼が二人を睨めつけているのが分かった。 「あ、ああ。少しな」 「ご挨拶が遅れました」  彼がそう言って、頭を下げる。それに合わせて劉も小さく頭を下げた。名前と所属だけを口にして、簡単な自己紹介を済ませる。いきり立っていた声はなりを潜めて、一見穏やかな時間が流れたように思えた。  それは、彼の物腰の柔らかさがそうさせたのかもしれないと、わざとらしくもない小さな笑みを浮かべて話す、目の前の彼を見つめる。緩く上がる口元は薄いベージュと赤の中間のような色味に染まって、その唇を独占していた日のことが遠い過去のようにさえ思えて整理できない感情に支配される。 「新波さん、もうみんな行っちゃいましたよ」  急かすような声がして、彼が人の波の向こう側に視線を送ったのが分かった。 「ああ、そうだな・・・。それでは、秋津さん、劉さん」 「はい」 「残りの訓練期間も、無理のないようにしてください」 「ありがとうございます」 「それでは」  そう言ってもう一度丁寧に頭を下げると、彼は一歩先に足先を目的地に向けた気忙しい後輩と共に、次の会場へ向かっていった。

小さくなる背を見送る。その背が見えなくなるのを確かめて息を吐くと、はっ、とわずかに吐き捨てるような勢いで隣に立っていた同期の彼が息を吐いたのが分かった。 「劉」 「何だ秋津、ずいぶん管制官と仲がいいじゃないか」 「・・・」 「特にあの、新波か?お前が移行訓練中だって知ってたな。話したのか」 「・・・それがどうした。たまたまだ」  先ほどの振る舞いに感情は必要以上に含めてはいない。  だから気づかれてはいないだろう。そう言い聞かせたが、含んだような表情を浮かべる目の前の同期にほんのわずかに背筋が冷える思いがする。  ふうん、と彼は、背が消えた先を一瞥して、口元を歪めるように小さく笑った。 「お前がパイロットのくせに管制官の肩を持つのはそのせいか」 「・・・混同しないでくれ。管制官との信頼関係が業務において重要なのは何も変わりがないだろう」 「信頼関係ね・・・」 「・・・彼が羽田で優秀な管制官なのは、誰もが認めるところだ。私だけじゃない」 「・・・どうだか」  同期の彼はそう呟いて、歪めていた口の端をいっそう、隠しきれない感情を滲ませるように歪めた。その感情の正体を知ることは出来ない気がした。

「管制官は俺たちパイロットの一人ひとりが感情ある人間だとは思ってやしない。  好きなときに好きなように動かせる程度の存在にしか思ってないんだ」 「・・・劉?」 「お前もあまり、買い被らないほうがいいんじゃないか。  ・・・あの、新波っていう管制官だって。一皮むけば、どんなもんか分かったもんじゃないだろう」

「———管制官なんて、俺は信用しない」  その言葉の底に潜めた感情は憤りとも後悔ともつかなかった。  けれどその表情は、単純に毛嫌いしているといった種類のものではない気がした。理由を同期の彼は告げない。それは知られることを拒むことと同義で、踏み込んで詮索するほど彼に心を傾ける余裕も自分には無かった。  宙に浮いた言い争いはそのままだ。彼はそれ以上何も言わずにこちらに背を向ける。振り向くことなく足早に立ち去るその姿を見送って、わずかに強張っていた肩の力を抜いた。

ーーー

羽田の夜の到着便のラッシュは遅い。  冬の始めの日の入りは早く、滑走路は早々と誘導灯を灯し夜の幻想的な景色を見せ始める。窓の外の星空を地面に敷いたような滑走路を一人見遣って、一階の到着ロビーへ降りた。  到着便の人の波が去ると、途端に昼間の喧騒はどこか他の世界のことだったかのように、静寂が辺りを包む。 「Terminal 1」と大きく表示されたエレベータ前の吹き抜けの空間で、彼はぼんやりと立ってその表示を見上げていた。

「歳也さん」 「・・・、竜太?」  ことさらに大声で呼びかけたつもりは無かったが、人気の無いその空間では、自分の声もいつもよりもよく響くような気がした。  濃藍のハーフコートを纏った彼は、夢から覚めたような顔でこちらを向いた。整った顔立ちには、目尻にその歳なりの皺が刻まれている。くるりと丸い目にはターミナルの灯りが粒のように点って、こちらの姿を認めて、何度か小さく瞬きを繰り返すのが分かった。  早足で近寄って、向き合う。昼間研修棟で出会った時よりも、彼はその距離を詰めることに対して警戒するような素振りは見せなかった。  辺りには次の搭乗までに時間を持て余す数人の乗客と、今日の搭乗を終えて家路を急ぐ空港職員の姿がちらほらと見えるだけだ。気にする人目が減ったことが、彼の緊張感を解いているのか、それともずいぶんと長く会えなかったことが手伝っているのかは分からなかった。  それは自分も同じで、奥底でとくとくと早く波打ち始める心臓はずいぶんと正直なものだと思う。腕を取ってこちらへ引けば簡単に引き寄せられそうな距離で向かい合うと、ふわりとほのかなフレグランスの香りが鼻先を掠めるのが分かった。 「久しぶりだな。・・・昼間も、会ったが」 「ええ、・・・」 「お疲れ、竜太」  彼はそう言って、ぎこちないしぐさで口元を上げてゆるりと笑った。まるで待っていたかのように目の前で綻んだその彼の姿に、じくりと胸の端が締めつけられる。  目の前の景色がくらりと一瞬歪んで、どうしてだろうかと思った。会えない期間が長くて、会ったなら飛び上がるほどに嬉しくなるものだと思っていたが、実際に彼を目の前にすると湧き上がるのは小さな痛みばかりだった。けれどその痛みは自分を傷つける種類のものではなくてもっと、どうしようもなくもどかしいものに近い。  それなりに恋愛ごとは経験していて、パイロットともなると切れ目なく相手がいた時期もあった。闇雲に自分に空いた穴を埋めるように相手を取り替えていた頃には、誰に対してもこんな感情になったことは無い。  愛おしくて、大事にしたくて。でも自分のものだと、誰にも渡さないと乱暴な気持ちにもなる。  相当まずいなと、冷静な自分が片隅にいるのにも気が付いていた。悟られないように、ゆっくりと口元を引き上げて笑い返した。 「歳也さんも、・・・お疲れ様です」 「ああ」 「帰りですか」 「そうだ」 「私もです」 「そうか。・・・じゃあ、偶然だな」 「ええ」  そう相槌を打つと、彼はどこか戸惑ったように一瞬目を伏せた。  遠のいていた静けさが二人の間に戻ってくるようだった。次の言葉を待っているのか、それともどう紡ぐのか逡巡するような彼の表情がまだきらびやかに灯るターミナルの灯りに照らされて影を作る。  自分よりは華奢だが、それでも頼りないわけではないしなやかな筋肉を持つ彼の身体に、少し厚めのウールのハーフコートは馴染んでよく似合っている。すっと姿勢よく伸びた手足は、確かにそこにあるのにどこか心許ない。  自分の腕の中で、その均整の取れた身体を快楽に震わせて縋るように名前を呼ぶ姿が思い出される。自分の名前を形作って薄く開く唇の色と、涙に滲んだ蕩けるような目つきを思い起こして、ぞわりと背筋が震える感覚がした。 「・・・」 「・・・」 『何かを探してるみたい』  少し前に話をした彼女の声が、頭に響いた。「何かを探す」ように、彼はずっとこの辺りをうろついているのだと、彼女は確かそう言っていた。 『なんでも無い』  何かを言いかけて止めたような、あの朝の彼の表情が、それに重なって瞼に映る。どことなくその二つは、繋がっているような気もした。

「・・・歳也さん」 「え?」 「時間、ありますか」 「、・・・ああ、少しなら」  誘いかけたことが呼び水になったのだろうか、彼の顔がどこか安堵したようにゆるく解けたのが分かった。  お互いにそれを必要としていたのかもしれない。促すように手を差し出すと、彼は遠慮がちに指先だけで手のひらに触れて、そうして少し考え直すようにすると、すぐにその指先を離した。  そのすぐそばを、高い声で談笑しながら二人の女性が通り過ぎるのが分かった。分かっていたから特に何を思うこともない。 「展望デッキは閉まってしまったので。雰囲気も何もありませんが」 「・・・夜景とか。そんな、柄じゃないだろう」 「そうですね、確かに」  行きましょう、とそう笑いかけると、頷くように伏せた目を上げた彼が、一歩を踏み出して隣に並ぶ。肩が触れるか触れないかの距離を取って、つるりとよく磨かれた床が伸びるロビーを二人歩き始めた。

特別管制官に肩入れしているつもりは無い。  けれど彼に出会ってから、管制官に対する認識が変化したのは確かだ。彼と「声」も心も繋いだことで、自分の生き方に一つ確かな芯が出来たことは間違いなかった。  パイロットは一人では飛べない。そのことをどんなに人に説かれて頭では理解しても自分の中で飲み込みきれていなかった。それを心から実感したのは、彼の「声」に助けられてからだ。  同期の彼にそれを話したところで、頑なに「管制官は信用ならない」と主張する心を変えられる気はしなかった。彼には彼の思いがあるのだろう。そうして、その思いを自分で解かない限りは、誰が何を言おうとも心が開かれることはない。管制官を目の敵にするその理由が気にはなったが、それを聞き出すことは出来ない気がしていた。 「・・・シミュレータ訓練が終われば、口述試験だな」  目の前に差し出された缶コーヒーは、冷えた手を温めた。軽く礼を言って、缶を手にする。  彼も同じ缶を手にしていた。彼の指がタブを開けるのを見て、自分も同じように開封して、一口飲み下した。ほの苦く温い液体が、喉を滑り落ちるのが分かる。ひとつ息を吐いた。  吹き抜けの階下では、到着便に合わせてロビーを人が行き来するのが見える。外へ続く扉が開くたび、冬の気配を滲ませた冷えた夜風がロビーに吹き込んだ。その風は壁を伝うように上り、頬を撫でてくる。 「シミュレータは始まったばかりで」 「そうか」 「まだしばらく、缶詰が続くと思います」 「そうだな」  彼はそう短い返答を繰り返して、階下の人の流れを見つめていた。ざわめきは波のように近づいては遠のく。  何便目かの人の出入りを二人眺める。時間がたつほどに少しずつ人は少なくなりまばらになり始めていた。そうしてやがて、静かに口火を切ったのは彼の方だった。 「・・・疲れているんじゃないのか」

「え?」 「昼間、顔色があまり良くなかった。・・・そんな気がしたんだ」 「・・・」 「何かあったのか」  夜の色を映したような彼の目が、ゆらりと揺れる。その目はもう既に何かを見透かしているようでもあった。  雲間から航空機を降ろすその一瞬を見逃さないように。偶然ではない、彼はそのために今日ここで自分を待っていたのではないかと、そんな思いに行き当たった。  彼とそういう関係になってからリードするのは自分で、一歩上手なのは自分なのかと思っていた。けれどこんな時に思う。  本当は全て分かっているのは、彼の方ではないのかと。「uncontrollable」になった自分を地上に引き寄せるのは、いつでも彼ではないのかとそう思った。 「歳也さん」  名前を呼ぶ声に答えるように、うっすらと彼はわずかに微笑む。それにまた、胸の底が痛むのが分かった。

彼は昼間、劉、――同期のあの彼に会っている。  その時に管制官に好意的でないパイロットであることには薄々感づいていたようだった。だから彼の態度や、管制官への嫌悪感についても特にそれで腹を立てたりはしなかった。 「パイロット全員が皆、あんたのように礼を言うパイロットでないことは、俺たち管制官も承知している」 「そうですか・・・」 「あからさまにこちらに抗議するパイロットだっている。・・・確かに、こちらの管制も完璧ではないから。管制官によって指示の間隔や細かさにばらつきがあるのも事実だ」  彼はそう言った。  そうしてすっかり冷えてしまった缶を、少しだけ強く握り締めた。小さなざわめきが、夜が深まり温度を下げ始めた静かな到着ロビーに打ち寄せる波のように響く。 「乗っている者にしか分からない状況は確かにある。  俺たちは目視で確認できる情報、各セクションからの情報、そして搭乗しているパイロットからの情報だけが頼りだ。それらを総合的に判断して、離着陸の許可を出す。その現場に直面している者には納得がいかないこともあるだろう」 「・・・」 「管制官の中には、パイロットは管制の言うことを聞けば良いと、パイロットを下に見ている人間がいるのも事実だ。リクエストを聞かず、抗議してきたパイロットに簡単にクレームを出す管制官もいる」 「クレーム・・・」 「ああ」  それはパイロットにとっては、国土交通省からの正式な業務改善命令と同様の措置だ。 「だからあの劉というパイロットも、こちらに思うことはあるんだろう」 「ですが」 「分かち合えない部分は必ずある。根気強くコミュニケーションを取って、擦り合わせられるのがベストだが。そうはいかない時もあるんだろう」 「・・・」 「本当は、空の安全を預かるその目的は同じであるはずなのにな。・・・残念なことだが」

「――どうしても伝わらない時は、あるんだ」  どこか遠くを見るような表情で、彼は独り言のように呟いた。

彼に関わるようになってから間もない頃の、ある雨の夜のことを思い出した。  自分の抱えた傷を晒して消化しきれずに、雨の中で濡れながら、目を伏せた彼の姿がよみがえる。誰かのために心を砕いても、傷つけることはある。彼はそう言った。  相手のためを思ってかけた言葉が、相手を傷つけた。そうしてそれ以上に、彼自身を大きく傷つける結果になった。まだその彼の傷が癒えたわけではない。  彼の部屋にいる時間が長くなるにつれ分かってきたことだったが、彼は明け方に夢を見てうなされることがあった。回数は減ったが、それでも無くなったわけではない。 『あんたの「声」が、俺には必要で』 『傍にいて欲しい』  自分を救った光のような「声」は、救われることを求める「声」でもあった。祈るようにそう告げられた空の下で、彼を抱き締めた。

――一緒にいよう。この人の傍に、出来ることならずっと。そう、自分も願った。  その思いは今も変わらない。これからもきっと、変わることはないだろう。

「歳也さんも、水臭いですね」 「え?」 「どうして、教えてくれなかったんですか。・・・今日、あの場所にいることを」 「・・・」  どうして彼がそれを言わなかったのか、その理由には思い当たっていた。  だから責めるつもりなど毛頭無かったが、彼にはわずかに後ろめたい思いがあったのかもしれない。気まずそうに目を逸したまま、呟いた。 「・・・言うことでもないかと」 「どうして」 「あの場所にいたところで、あんたとかち合う可能性は低いと思ったから。俺の予定を知ったところで、あんたがどうすることもできないだろう」 「それはそうですが」 「?」 「・・・知っておきたいってことも、あるでしょう」 「・・・そうなのか?」 「会えなくても、何をしているか分かっておきたいじゃないですか」 「・・・」 「ちゃんと元気でいるのかとか、気になりませんか」 「・・・確かに」  そこまで言ってようやく、納得したようだ。困ったように眉を下げた彼に、ため息が漏れた。  呆れたような表情を浮かべた自分を、彼は困惑したような顔で見つめる。どう答えるか逡巡するような素振りを見せたあと、小さくなった声で彼は言葉を継いだ。 「・・・、から」 「?」

「竜太の移行訓練の妨げになることはしたくないと、思っているから」

彼はそう言って、面映そうに俯く。 「歳也さん」  言いかけた自分の言葉を遮るように、彼はさらに続けた。 「いくらあんたが余裕を見せたところで、訓練が厳しいのは間違いないだろう。  ・・・集中しようとしているときに余計な物事を挟んで、気が逸れるのは良くないと思ったんだ」 「あなたとのことは余計なことじゃない」 「・・・それは」 「最優先とまではいかないけれど。あなたとのことは大事にしたいと思っている」 「・・・」 「言ったでしょう、あなたが悔いるような結果にはしないと」  声がほんの少し尖ったのを彼は感じたのだろう。しまったとでも言うような表情をその顔に浮かべる。そうしてわずかに弱々しくなった勢いで、彼はこちらに答えた。 「それでも、・・・」 「私のことは信用できませんか。あなたとのことにかまけて、自分のことが疎かになる人間だと思ってますか」 「そうじゃない、・・・」 「だったら」 「・・・、俺が、気にするんだ」  観念したように、息を吐いて彼はそう告げた。

「・・・」 「これは、俺の勝手な思いなんだ」  彼は自分に言い聞かせるように、ゆっくりと、一つ一つの言葉を確かめるようにそう口にした。

言葉を重ねる。 「あんたが、自分で決めたことを俺が邪魔することは出来ない」  少しだけ眉根を寄せて、彼が小さく痛みを沿わせるように顔を歪めるのが分かった。  その痛みの在処には心当たりがあって、けれどそれは、自分では拭いきれない場所にある。そのことは分かっていた。  今、彼の目には、別の風景が見えている。今彼の視界を濡らしているのだろう、雨の景色が自分にも見える気がした。 「俺がすることや、言うことで。・・・あんたを潰すようなことが、あってはいけない」 「・・・」 「いけないと、思うから」

「思って、いるのに、———・・・」

続きは聴こえない。  言い終わるか終わらないかのタイミングで口元に手をやって、彼は眉を寄せて目を伏せた。皺の寄る目尻はしっとりと水分を含んでいるようにも見えた。ほのかに薄赤に染まったその目元を隠しきれずに、彼は項垂れるように肘を手すりに置いて、大きく息を吐いた。 「歳也さん」  名前を呼ぶと、ぱりと張ったシャツに包まれた肩が、ぴくりと小さく震えるのが分かった。少し恐れるようにこちらを向くその彼の頬に、手を伸ばして触れた。  ざらついた髭の感触がする。顎のラインに沿って指を這わせた。そうして耳元から、流して整えられた細いその髪に指を梳き入れた。  わざと耳朶の後ろを撫でるように指の腹で触れて、後頭部に手のひらをあてがう。耳朶の裏が弱いことは知っていた。丁寧にその場所を探るようにすると、ふるりと首筋が分からないほどに震える。それでも意図を持ってそうした手つきを彼は拒まず、黙って受け入れていた。 「竜太、」  少し掠れたような、戸惑った声音が、耳に響く。  そのまま自分の顔を近づけた。額が触れて、睫毛のわずかな動きも感じ取ることが出来るようだった。鼻先が触れ合って、彼の吐く息の温かさが直に伝わる。  濡れたように艶めく瞳の奥に自分の姿が反転して見えたのを確かめて、彼の唇に、自分のそれを重ねた。 「、・・・ん・・・」

『何かを探してるみたい』

「りょ、う・・・・た・・・」  触れるのはいつぶりかと思いながら、彼の唇の軟さを取り零すまいと、上唇と下唇を順に行き来するように自分の唇で包む。鼻にかかるような甘く小さな、くぐもった声は嫌でも奥の自分の欲を刺激した。  触れる深さを強くすると、一方的に触れられるだけだった彼の唇がやわやわと動いて、応えてくるのが分かる。腕に彼の手が触れて、服の布をしっかりと掴んで来た。  手を添えて、ほんのわずかに腰を引き寄せる。締まったその感触がシャツ越しにも伝わる。人気の失せたロビーは熱を失って、肌寒い深夜の柔い風だけが隙間を縫って吹き込んでくる。熱いのはただ、彼と自分の周りだけだと思った。 「・・・歳也さん」 「・・・え・・・?」  唇を離して、閉じていた目を薄く開けた彼を見つめる。ぼんやりと所在なくこちらを見つめ返してくる彼の唇は水分を含んで、濡れていた。 「何を探しているんですか?」 「・・・」  その質問の意図に思い当たったのか、意識をこちらに戻した彼は、何かを躊躇するように視線を一瞬宙に泳がせた。  離れようとした指先を、頬に当てていた手で掴む。そうして指を隙間に差し入れて、絡めた。  そのまま、力を込める。彼はそれを無理に解こうとはしなかった。 「竜太」 「あなたが『探しているもの』は、何ですか?」 「・・・」

「・・・・・・、誰、ですか?」

望む答えが得られないことはどことなく分かっていてそれでも尋ねずにはいられない。望む答えが何なのかも、はっきりとイメージを描けているわけではなかった。  顔をわずかに歪めた彼の額に、自分の額をやんわりと擦り付ける。  何かを彼は言おうとしていた。そのまま、その答えを封じるかのようにもう一度唇を重ねた。小さな水音が響いて、口づけがいっそう深くなっていく。絡めた指は離れることはなく、そのままでいれば溶けて一つになってしまうような気さえした。  遮ったのは、恐れからかもしれない、そう思った。知りたくないわけではない。けれど知った先のあやふやなままの世界のことを、この感情のままに受け入れることは恐ろしいことのような気がした。

夜の帳は、どこか予感めいた色を孕んで、視界に映る。  苦々しげに吐き捨てた、同期の彼の表情が頭に過ぎった。彼の肌の温度が徐々に手のひらに移って来るのを感じながら、その背を、空いた手で抱き寄せた。

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