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!R18性描写があります!

「、っぁ、・・・んっ」

湿って甘い、鼻に抜けるようなその「声」は、空の上では聴くことが出来ない。  小刻みな浅い呼吸と共に紡がれるその彼の「声」に耳を澄ませながら、汗ばんだ肌に唇を這わせた。  きっちりと整えられた指先の爪がシーツを引っ掻いて小さな音をさせる。縋るものを見つけたように筋張った彼の長い指はそのシーツを掴んで、切なげに眉を寄せた彼の、薄く開いた目がこちらを見上げるのが分かった。  握り込んだ彼の熱は膨張して、先端はわずかに濡れている。丁寧に、感じ入る場所を探るように指先でそのラインをなぞって、欲の雫が染み出すその場所を軽く押して爪を立てた。 「・・・!ぁあっ・・・あ」  自分ほどには鍛えてはいないのだろうが、その年齢には見合わない締まった腹筋がびくりと揺れる。わずかに浮いた腰の骨の辺りを掴んで、さらに執拗に攻め立てた。  緩急をつけて、焦らすように擦りたてる。裏の筋を辿って、また握り込む。  じわりと分かる程度に染み出していたその雫がつ、と一筋垂れ落ちて、指を濡らす。今にもはち切れんばかりに硬く反り立った彼のその熱は、あと一歩の刺激で簡単にその欲を解放してしまうように思えた。  水分を帯びて上気した頬は紅い血の色に染まって、懇願するような視線が自分を捉えて離さない。腿を持ち上げる自分の腕に、彼の腕がやんわりと絡まる。指先に力がこもるのが伝わった。けして声にはならないけれど、もっと、と薄く開いた唇から彼の感情が漏れ聴こえる気がした。 「まだです」 「・・・、ぁ、・・・りょう、た、」 「我慢できますか?」  意地の悪い言い方をしていると思ったが、それに対して抗議するような余裕が今の彼にないことは承知していた。  羽田にいるときは願っても聴くことなど出来ない、甘えるように名前を呼ぶその声が後ろ暗い自分の獣の欲を掻き立てる。サイドボードに置いた潤滑剤に手を伸ばした。雑に封を開け、立ち上がったままの彼の熱の奥に隠れる、その場所へ垂らした。 「ひ、ぅ」  急に冷えた感触が肌に乗ったのが分かったのか、彼が一瞬腰を引いたのを留める。熱に触れたまま、ぬるりと濡れたその周りの皮膚を指先で撫でて揉んだ。  硬直して固いその場所を何度か指先で捏ねて、やがてゆっくりと指を差し入れた。ぬち、とした感触が指を包み込んで締め付ける。  奥へ分け入って、解していくように内壁を丁寧に押し広げた。粘膜と潤滑剤の擦れるねっとりとした音が、耳に響く。 「、ぁあ、あっ・・・ああ・・・は、んっ・・・」  感じ入る箇所に触れると素直に彼は反応した。入れた指の動きに合わせるように、握り込んだままの手の中の熱も刺激すると、彼はひときわ甘く、蕩けるような声を上げた。  内腿に時おり噛むようにキスを落としながら、指は根元まで差し込んで、奥を探った。熱い温度を保ったその最奥を指の腹で押すと、んぁ、と声を上げて彼が大きく背をしならせる。  自分の熱も、限界だろう。指を引き抜いて、体積を増して、割りいるのを待ちわびていたその熱の先端を、やや柔らかくなっただろうその入口へ押し当てる。  いいか、と目だけで合図をすると、彼はこくりと小さく頷いた。受け入れるように少し息を吸うのを見届けて、ずぷりと中へ入り込んだ。解したとはいえするりと受け入れることは容易ではない。負担が大きいのは受け入れる彼の方で、ほんのわずかな申し訳無さを感じながらも昂った欲のままに、わずかに拒もうとする彼の腰を自分の腰へ強引に引き寄せた。 「ふ、う・・・っん・・・っ」  ゆるゆると進んで、根元まで飲み込むと、彼の粘膜がぎゅう、と熱を締め付けてくる。  そのままゆっくりと腰を揺らすと、そのリズムに合わせて彼も腰を擦り寄せて来た。心地よい強さで熱を包み込む彼の内部の温度に、冷静さを失わないでいたはずの自分の意識が、徐々に溶けていくのが分かった。  奥に熱を打ち付けるようにぐ、と踏み込む。軟さの残る彼の腿を持ち上げると、その脚を彼は腰の辺りに絡ませて来る。肌はしっとりと張り付いて、密着する面積が増えた。 「ん、んあ、あっ・・・」  打ち付ける動きに呼応させるように、硬いままの彼の熱を撫で付ける。みるみるうちに先は再び濡れて、指の中でぐちゅ、と生々しい音をたてた。繋がった部分が擦れる音と合わさって、神経と理性をがりがりと引っ掻くような刺激になって二人を包んだ。  熱と衝動が、まるで乱気流のように全身を揺さぶる。それはどちらの熱かも分からないほどに熱くて、息が詰まるような感覚がした。  引き絞るような掠れた彼の声が部屋の空気をちりちりと灼く。 「も、だ、だめ、だめだりょうた、りょうた、あ・・・っ」 「いきそうですか、・・・歳也さん」 「う、ぅう、・・・・っ」  ふるふると小さく首を上下させる彼の額に、黒く細い髪がひと束落ちる。目元に滲んで頬を伝って染みた涙を隠すこともできないほどに乱れた彼の姿に、どうしようもない愛おしさが湧いた。

腕がふらふらと宙を舞って、やがて背に回される。ぎゅう、と首筋に額を埋めて、彼が上り詰める快楽に息を詰めようとするのを感じた。 「ぁ、ぃく、いくから・・・あっ、りょうた、ぁあ・・・」 「歳也さん」  突き上げるように腰を打ち付けながら、彼の耳元へ唇を寄せる。 「もっと『声』を、聴かせてください」 「・・・・・・っぁ、」

「直接。  ・・・・・・タワーからじゃない、あなたの『声』を。  聴きたい」

「!・・・・・っああ・・・・!!」  全身をびくりと硬直させて、彼は手の中で白い欲を放った。  それと同時に、彼の中で蠢いていた自分の欲も解放した。受け止めきれなかった欲の痕が、どろりと入り口から溢れ出す。上り詰めて弛緩した彼の身体を腰の辺りで支えて、自分も、その胸元に覆いかぶさるようにして力を抜いた。  されるがままに崩れて溶けて、彼の身体はシーツに沈み込んで、浅い息を繰り返したまま微動だにしない。  引きちぎらん勢いで背を掴んでいた指も、ゆるゆると解ける。その指に、自分の手を重ねた。指と指の隙間に自分のそれを絡めると、わずかな力で、指を絡め返してくる感触が伝わってきた。 「りょうた」  耳元で囁かれるそのまろやかで低い声に、底にある隠れた自分の感情を揺り動かされるような思いがする。  硬質で風を切る翼のような、インカム越しの声ではない彼のその柔らかな「声」を知っているのは、今ここには多分、自分しかいない。きっと、誰も知らない。  つまらない子どものような独占欲を満たすその喜びに、思った以上に彼に溺れてしまっていることを感じた。  いや、それは今さらこんなところで自覚する感情ではないだろうと思い直す。

『大丈夫だ。降りて来い』  あの日、雲間から差し込む光のように自分を導いてくれた彼の「声」を聴いたときから。  こうなることは決まっていたのだと思う。少なくとも自分は、もう。あの時から。

彼の「声」に。自分のその翼を、預けると決めていた。

ーーー

「間に合うのか?」 「ええ、大丈夫ですよ歳也さん」  そう彼に答えながら、カットソーを頭から被る。  湿った髪をゆっくりと乾かす暇はなさそうだが、遅刻するというほどでもない。今から快速特急に乗れば、遅延さえなければ十分に余裕ある時刻に到着するはずだ。  アラームはかけていたが、隣で眠る彼の肌の温度の心地よさに、あと5分、まだ5分、とずるずるベッドの中で名残惜しさを持て余しているうち、予定の時刻を大幅にオーバーすることになった。やってしまったという思いはあるが、特に悔いがあるわけではない。  余裕を持ってアラームをセットするのは、空自時代の名残でもある。エマージェンシーコールはいつかかるか分からない、だからいつでも飛び起きられるようにしておくというのが空自の時から自分に課したルールだった。  民間のエアラインに再就職してからもその習慣を欠かしたことはない。ただ今日のようなことになることも、稀にはあった。  羽田にほど近い自分の寮からならば寝坊したところでさほどに影響は無いが、電車に乗って訪れる都内の彼の部屋からでは、少々焦る事態になることもないではなかった。それでも遅れたことはないが、いつも慌ただしく彼の部屋を後にすることになる。

「・・・今日からだろう、」 「あ、ああそうですね」  昨晩からの寝姿のまま、シャツだけを羽織ってどうにか起きてきた彼が、少しだけ申し訳なさそうに眉を寄せるのに気付いた。 「機種移行訓練」 「ええ」 「・・・、」  考えていることが手に取るように分かってしまうのも、彼が心の壁を自分に対しては薄くしているからだろうと思った。  業務中の「管制官」の顔をしている彼がこんな風に自分の感情を顕にすることはない。それは心のひだを一切見せない彼の「管制」がいつも物語っていた。  冷たいわけではないが、けして乱れることもない。冷静沈着を形にするとこんなものになるのだろうという、最低限の言葉で最大量の情報を伝えてくるその「声」は、この部屋では逆になりを潜める。彼はわずかに饒舌に、そして無意識に、己の内の柔らかな部分をさらけ出してくる。  短い間ではあるけれど積み重ねてきた彼との時間が、彼の秘めた一面を引き出しているのだろうと思うと、時間の迫るこの瞬間にも、つい抱きしめてしまいたくなる。  いっそ腕の中に引き寄せようかと逡巡していると、彼はこちらを一瞥してゆっくりと口を開いた。 「ナナロクからナナハチへの移行訓練はずいぶん基準が厳しいと聞いた」 「ああ・・・まあ、そうかもしれませんが。何とかなるでしょう」 「大丈夫なのか」 「信用されてませんね」 「そういうわけじゃない、・・・ただ」  彼はそう言って口ごもった。  視線がわずかに逸れて、どう言葉を紡ぐか迷って躊躇っているのが見て取れる。続く言葉は分かっていたから、敢えて言わせないように笑みを浮かべて言葉を重ねた。

「ラインOJTを終えるまでは、おそらく1年近くかかります」 「・・・ああ、そうだな」 「全く、というわけではないですが、あなたとも時間が合わなくなるでしょう。始めの2ヶ月のうちは会えないと思います」 「・・・知っている」 「・・・だから、今回は。ぎりぎりまで一緒にいたいと思ったんです」 「・・・」 「歳也さんと」  困ったように眉を下げる彼の目元は、昨晩の情事の名残なのか、それとも今の会話のせいなのか、ほのかに赤らんでいた。  彼も同じ思いであろうと、おこがましいことかもしれないが自信をもっていいのではないかと思った。でなければ彼に叩き起こされているはずだからだ。彼がそうしなかったのは同じようにただの寝坊なのかもしれないが、ほんの少しでも長く二人でいようと、そういう意志が働いたのではないかと、都合のいい夢のような感情を抱いてしまってもいいだろうと思った。  行き場をなくしたような彼のシャツの袖からのぞく手を取った。指先がぴくりと震えるのが分かる。  距離を詰めて、鼻先を触れ合わせる。水分を含んだ彼の目に、自分の姿が反転して映っているのが見える。額がわずかに触れた。温い彼の息遣いが感じられる唇に自分のそれを寄せたところで、彼の空いた手のひらが、唇を塞ぐのが分かった。 「・・・駄目だ」 「どうしてですか」 「・・・こういう、けじめがつかないのは、」 「それ、今言いますか。もうしばらく、キスだって出来ないのに」 「・・・」 「本当に、あなたは」  ため息が漏れる。眉間に小さく皺を寄せて、こちらの唇を塞いだままの彼の手のひらを取った。  手の甲に小さく口づけを落として、その手を離す。予想しなかったこちらの動きに、彼の目がほんのわずかに見開かれたのが分かった。 「竜太、・・・」 「あなたが気にしていることは、理解しています」

「気にしていること」を悟られていると知った彼は、分からないほどに小さく瞳を歪めた。図星を突いたのはまずかったかもしれないが、構わず続ける。 「必ず、移行訓練には合格しますよ」 「・・・」 「あなたが、・・・自分のせいだと悔いるような結果にするつもりは、ありません」

「———あなたとずっと、空を一緒に飛ぶために。  それは、私が決めて、選んだことですから」

「竜太」  身支度を整えて鞄を抱え、靴を履き終えた自分の背に、遠慮がちな彼の声が降りかかる。  何かを言いたげで、けれど言葉になりきらないような曖昧な表情を浮かべて、彼は立っていた。髪は解けたままで、柔くカーブを描いて項にかかる。無造作なその髪の奥の目が、こちらを見つめている。 「歳也さん?どうかしましたか」 「いや、・・・・・・」  小首を傾げた自分に、彼は薄く口を開いて、何かを言おうとしていた。けれどそれを諦めたように、小さく息を吐く。少し視線を落として瞬きを繰り返すと、彼はまた顔を上げた。 「なんでも無い」  その表情には先程の躊躇いはもう見えない。何を言いかけたのだろうと気になったが、それを尋ねて答えを聞くほどの時間はもう残されてはいなかった。  腕時計を一瞬ちらりと見た自分の動きを感じ取ったのだろう。振り切って背を押すように、彼は小さく笑う。 「・・・頑張れよ」 「?・・・・はい、もちろんです」

「・・・。Good day.nice flight.」  冗談めかして、彼が口の端を上げて、なめらかで抑揚のない「管制」独特の発音でそう告げる。  ふ、と口元が思わず緩んで、それに答えた。 「roger.」

扉を開けると、抜けるように青く澄み渡った空が広がっていた。  濃い青の清々しい色を瞼に焼き付ける。それはこれから飛び立つ空の、迷いも濁りもない行く先と未来のように思えた。一歩を踏み出して、深呼吸をする。冷たいけれど肌を目覚めさせるその空気に一瞬目を閉じて、そうして歩き始めた。間際にうっすらと心を過ぎった小さな予感と違和感は、朝の忙しない外の空気にまたたく間に拭われていった。

迷いも濁りもない。  彼と分かち合う空はそう見えていたはずだった。そのことに疑いすら抱かなかった自分に気づくのは、しばらくたってからのことだった。

ーーー

「秋津・・・秋津か?」

自動車の運転免許とは違い、民間のエアラインの操縦士は同時期に複数の機種を操縦することは出来ない。  最近ではシステムの似た機種ならば簡易の訓練で混乗出来るように制度が変わってきているところもあるが、通常、定期運行を担う操縦士が持てるライセンスは一つきりだ。自らの希望または他の理由によって機種を変更する場合は、「機種移行訓練」を行い、ライセンスを取り直す必要がある。  ボーイングのクラシックカーとも言うべき古いシステムを搭載したボーイング767、愛称ナナロクは、今の会社に再就職してからずっと自分の操縦する機種だった。特に愛着があるというわけではないが馴染みがあるせいか、ずるずると乗り続けてきてしまった。今回選抜されることがなければ、おそらくそのまま767に乗り続けていたのではないかと思う。  ナナハチ、ボーイング787の操縦に向いているんじゃないかと言ってきたのはナナロクで世話になった淵上機長だった。機長昇格、国際線の経験など、長く腰を据えるつもりならキャリアアップもそろそろ念頭に置いておけとそうも付け加えてきたことを思い出した。 『やっとやる気になってる時なんだからな』  そう小さく呆れたように言った、淵上機長の不遜な笑顔がよみがえる。  今までもやる気が無いわけではなかったが、空自を辞めてから主体的に何かを選んだのは空への未練を捨てきれずに民間機の操縦士になった時くらいのものだった。それからは求められれば求められたように答えたが、自分でこうしたいとか、こうなりたいという明確なイメージを描いてきたことはなかった。  自分が乗せて運ぶ人に、飛ぶ空に誠実にあろうと思った。何となくではなくて、きちんと自分の生き方に向き合って付き合っていく。そのことを改めて自覚したのは、彼に出会ったからだと思っている。

黒い雲の隙間を縫うように、一筋の光が差し込む。  そうして追い風のように彼の「声」が自分を空に押し上げる。  一人で飛んでいたような気になっていたあの頃よりもずっと空が心地いいと思えるのは、その「声」がいつも傍にあるからだろうとそう思っていた。

「劉」 「久しぶりじゃないか秋津、入社以来だな」 「・・・、そうだな」  今回の機種移行訓練の最初の集合場所でもある講義室には、自分以外にも同じ操縦士の制服を身に纏った訓練生が複数いた。同じ会社内の操縦士たちだ、どこかで見たような顔をちらほらと見つけては、軽く手を上げて挨拶を交わす。  そうしているうち、声をかけてきたのはがっしりとした身体つきと意志の強そうな目が印象的な彼だった。  劉長龍。帰化した両親とともに日本で生まれ育って、同時期に今の会社に入社したいわば「同期」だ。彼の顔もよく覚えている。大股でこちらに近づいてきた彼に、小さく微笑みかける。 「お前もナナハチの移行訓練生か?」 「ああ、」  伸ばして来た手を軽く握って、握手を交わした。  和やかにも見える再会の場面だった。もの言いたげな目が、こちらを捉える。好意的というには少し強張ったような尖った空気が、隙間に流れて漂う。あまり好きではない空気だと思った。そうして彼と言葉を交わすときは大抵こうなることを思い出した。  数秒ほどの間を置いて、彼は口を開く。 「ずいぶんのんびりしたもんじゃないか」 「え?・・・、ああ、まあ」 「元空自のパイロットだったお前なら、とうの昔に機長に昇格しているもんだと思ってたが」 「・・・機長に昇格することと、移行訓練は関わりがないことだろう。機長でも移行訓練はする」 「最新鋭の戦闘機に乗っていた奴だ、新しいもの好きならさっさとナナハチに移行すると思ってたんだよ。いつまでもナナロクで燻ってたのは、やっぱりこんな民間機は操縦しててもつまらんからか?」  棘のあるもの言いに、どう返すかを一瞬考えた。 「・・・民間機と戦闘機は比べるものじゃないだろう。あと、前のキャリアは関係がない」 「相変わらずだな。すましてやがる」 「・・・いやに噛みつくな」  冷静さを保っていたつもりだが、不意に過去のことを掘り出されるとさざなみのようにわずかに神経が苛立つのが分かった。その話をするつもりはないという意志を暗に滲み出させてしまったのだろう、心持ち雑な返答になる。  彼はそれにも気が付いていたのか、握っていた手を離して、こちらをじとりと睨みつけるように見つめてきた。

「総飛行時間はどれくらいだ、秋津」 「総飛行時間?・・・」 「国際線はどれくらい経験した?」 「・・・」 「俺は、お前みたいに適当に乗務をやり過ごして仕事を舐めている奴に負ける気はない」 「・・・舐めて、・・・」  そんなことはないと言いかけたが、確かに入社した当時の自分はそう見えていたのかも知れないと否定の言葉が喉の奥に引っ込むのが分かった。  いつまでも、乗り続けられなかった戦闘機にこだわってぐずぐずと過去を振り切れないでいたあの頃の自分なら、舐めていたと言われてもあながち間違いではない。  目の前でこちらにわずかな敵意を向けている彼は、その頃の自分しか知らない。無理もないだろうと、小さくため息を吐いた。 「どうせこの移行訓練も上に言われて渋々なんだろう」 「そうではないが」 「俺はナナハチに移行して、お前よりも先に機長になるつもりだ」 「・・・そうか」 「お前のそのすかした鼻っ柱を折ってやるからな、覚悟しておけよ」

よろしくな、と口の片端だけが上がるのに、返答も出来ずに胡乱とした思いで彼を見つめる。  入社当時から何かとこの同期の彼に意識されているのには気が付いていたが、久々にダイレクトにぶつけられる感情の強さにはわずかに辟易した。  仕事に向かう姿勢を見直したのだと言ったところでそれは自己満足に過ぎないのだろうと思った。勝ち負けにこだわるつもりも、鼻っ柱を折ってやると息巻く彼に振り回されるつもりもない。あくまで目的は無事に移行訓練を終えて、最終的にはナナハチのパイロットとしてチェックアウトすることだ。  そうして、再び彼と同じ空を飛ぶと決めた。  言い聞かせはするが、心の中で小さく波立つ薄暗い予感は拭えないままでいた。

『頑張れよ』  白む朝の光が染める玄関で、小さく笑って自分を送り出した彼の顔を思い出す。  肩に入っていた力がす、と抜けるのが分かる。目指す先の場所を目を閉じて思い描いた。神経が徐々に穏やかに、静まっていくのが分かった。  着席を促す教官の声が聴こえる。がたがたと椅子が動く音が耳に響いて、目を開いた。惑わない自分の視界を確かめて、席に着いた。

ーーー

『おはようございます。今日は早番ですか。  昨日は———・・・・』

細く長いため息は紙カップのコーヒーの上をすり抜けて、湯気を巻き込んで溶けて消える。  人気の無いカフェテラスの椅子の背もたれに自分の背を預けた。大きく広い窓の外では、整備を終えたボーイング767が、離陸を待って軽いエンジン音を響かせている。  白く滑らかなラインを描く機体の奥には広い滑走路と、濃い青の空が広がるだけだ。朝の便の搭乗を待つ乗客が忙しなく手荷物を持って行き交うのに視線を遣った。  長々と打ち込んだ文章を消した。「おはようございます」と「早番ですか」の一言だけを送信して、携帯をテーブルに放り投げる。程なくしてしゅぽん、と音がして、自分のその短いメッセージに返信が届いたのが分かった。  がばりと姿勢を正して、メッセージの画面に視線を戻す。 『おはよう、今日は遅番だ。まだ家にいる』 「・・・」 『無理するなよ、今日もがんばれ』 「・・・歳也さん・・・」  一行にも満たない、そっけないようなその言葉に心臓の隅がほのかに熱を持った気がした。  軽く摘まれたような小さな痛みが滲む。嬉しいというのでもなく悲しいというのでもない、ただ胸が痛い。これはどういった種類の感情なのか。  消してしまった長文を再び打つつもりで携帯を持ち上げたが、頭を振って、それを制した。  訓練の内容など話したところで彼は戸惑うだけだろう。二人でいるときに雑談の中で話題に出すなら問題も無いが、彼も仕事がある中で、愚痴に近いそれを送りつけることが良いこととは思えない。 『はい』  そう、短く返信を打ち込んで送信ボタンを押した。携帯を置いて、人々のざわめきに耳を澄ませる。  東側の滑走路は差し込む日差しで白く眩しく輝いている。操縦桿を握らなくなってずいぶんと時間がたった気がしているが、きっとそれほどの期間ではないのだろう。手で触れられそうでいた空は、今は少し遠い。  ナナロクからナナハチへの移行訓練が始まって、数週間がたとうとしていた。今の相棒は、目の前の黒く小さなタブレットと、山のように手渡されたテキストだけだ。

「あら、こんなところで油売ってていいの?」 「海老名さん」  顔を上げると、鮮やかな色のスカーフを首元に巻いた、白いジャケット姿の彼女が視界に入った。すらりとした長い手足にその白ジャケットはよく馴染んでいた。  黒く艶のある髪はきっちりと後ろで纏め上げられている。白い肌に合う濃い赤の口紅が印象的だった。  彼女は目線だけで向かいの席を指す。小さく頷くと、手にした紙カップをテーブルに置いてすとんと腰を下ろした。ふわりと花のような石鹸のような甘い香りが、コーヒーのくすんだ香りに混じって漂う。 「移行訓練中じゃなかったっけ、秋津くん」  移行訓練中のパイロットがターミナルのカフェテラスにいることは珍しいのかもしれない。彼女はカップの中身に口をつけて一息入れると、そう尋ねてきた。 「ええ、そうなんですが。・・・つい、早く起きてしまって」 「そうなの」 「部屋にいてもだらけてしまうので、ここで少し、今日の予習をしようかと」 「ずいぶんと真面目」  少しだけ細い肩を竦めて、彼女は艶やかなその唇を上げて笑った。 「私は普段から真面目ですが」  心外だと伝えるように冗談めかして彼女を睨みつけると、ふふ、と彼女は面白そうに声を上げて笑った。 「まあそうかもだけど。何だか秋津くんにしては、やる気だなあって思ったのよ」 「・・・」 「普段そんなにガツガツしたところ見せないじゃない。いつも涼しい顔してすましてるっていうか」 「・・・そんなつもりはないのですが」 「本気でナナハチ、乗る気なのね」  同じことを淵上機長もあの同期の劉も言っていたような気がしたが、それは口にしないでおいた。

早起きになってしまうのには理由がある。彼の部屋に入り浸っていた1ヶ月ほど前の起床の癖が抜けないからだった。  寮にいるときよりも早めにアラームをセットする習慣が染み付いていて、どうにもそれが新たな生活のリズムに馴染まないままでいた。ぎりぎりに彼の部屋を後ろ髪引かれる思いで出ていっていた時よりもずっと余裕のあるスケジュールで動いているはずなのに、どことなくそれが噛み合わない。部屋に一人でいても心に隙間風が吹くような思いがして、ならば人がいて気忙しいここにいるほうがいくばくか気が紛れると思っていた。  彼と会えないから寂しい。もう顔すらもまともに見ていない。  分かっていたことではあって、彼にも言ったが思った以上にダメージは大きかった。けれど寂しいとそう言い切ってしまうのは彼に失礼で、彼にとっては負担になる。それは知っていた。

この羽田でお互いの存在を知った頃のことを思い出した。  パイロットとは深く関わらない。そう目の前で言い切った、自分で自分を傷つけているような彼のやりきれない顔を思い浮かべた。  彼は自分の言動が原因で若いパイロットを辞職まで追い込んだ経験を持っている。良かれと思ってかけた言葉が裏目に出た、その苦い記憶は時間を重ねてもまだ彼の心の奥にこびりつくように巣食っていた。  身体を重ねるような関係になった自分に対してもまだ言葉少なで、深く関わり過ぎることに慎重な姿勢は崩さない。寂しい、会いたいと必要以上に依りかかればそれを傷つけまいと心を砕き過ぎて彼自身にとって重荷になるだろうことは、その彼の姿を見ていれば分かった。 『大丈夫か』  そう彼が言ったのは、管制官の自分とパイロットが付き合うことで何か良からぬことになりはしないかという思いがあるからだ。自分の振る舞いが相手を追い詰めるかもしれない。それは分かっていたから彼には敢えて最後まで言わせなかった。  ———自分が、それを拭いたい。  自分の思いが相手の行く先を阻むかもしれないことを恐れる彼に、そうではないのだと伝えたい。ナナハチの移行訓練に合格しなければならないのはそのためでもあった。  一緒にいるから、駄目になるのではない。上手く言葉には出来ないが、一緒にいるから、彼がいるから目指せるものがあるのだと自分は言いたいのだ。

「それは、新波くんのため?」 「・・・、え」 「ナナハチに乗ろうと思ったのは。新波くんのためなのかなって」 「・・・それは」  頭の中を読み取りでもしたのだろうか。言い淀んだ自分を含んだ笑みを浮かべて彼女は見つめた。  彼女は彼の持つ過去を知っている。自分と彼との関係もはっきりと口にしたことは無かったが知っているはずだ。「新波くんのため」という言葉に業務上の信頼関係以上の意味合いを含めていることはすぐに分かった。  長い睫毛に縁取られた目を数回瞬かせて、彼女は何かを考えるように数秒黙ったあと、口を開いた。 「新波くんさ、」 「?」 「最近たまに、休憩時間になるとこの辺りうろうろしてるのよ。タワーとは反対方向なのにね」  彼女はそう言って微笑んだ。艶のあるネイルを施した白く長い指先が、カップの縁に撫でるように触れる。 「何か探してるみたい」 「・・・・・・、」 「理由を聞いてみたけど、何だかもごもごしてて。答えは聞けなかったけどね」 「・・・」 「秋津くん」

「管制官って、世界で最も困難な職業と言われているってこと、知ってる?」 「・・・、聞いたことは、ありますが」 「管制が無ければ飛行機は動かない。  機体の情報、気象情報、空港の運行情報、全ての情報を把握して、数秒で状況を判断して飛行機を飛ばして、降ろさなければいけない。羽田みたいに一日に何千も飛行機が離発着する大きな空港ならば、一瞬の判断の迷いが大事故に繋がる」 「そうですね」 「私たちも、お客様を無事に目的地に送り届けるという大きな目的があるけれど。管制官も命と安全を預かっている、私たち以上のプレッシャーの中で戦ってると思うのよね。  新波くんってさ、『ローカルイーストの主』なんだって」 「ローカルイースト?」 「羽田は東西南北、滑走路がある。だから管制席も四方向に分かれてるの。  中でも東側滑走路・・・ローカルイーストは、東側滑走路と、南側滑走路、北側滑走路が交差しているから、ローカルノースとローカルサウスの状況も見て離発着を判断しなければならない。管制官にとって最も難しい席なんですって」 「・・・そんな席が」 「新波くんがローカルイーストに座る時は、みんなほっとするっていう話よ。今日は間違いなく安全だって。すごいわよね」 「ええ」 「それだけのキャリアと能力を彼は持ってる。あなたはあまり実感したことはないのかもしれないけれど。  ・・・まあそれは、あなたが彼のすごさを体感するまでに、あっという間に彼の中に入り込んじゃったからかもしれないけどね」

「前、言ってたのよね」  彼女はそうわずかに会話を切るようにして、そうして窓の外に視線を送った。  駐機場からするすると、ボーイング767、ジャパンエアー機が滑り出すのが見えた。やや人が増えたカフェテラスにも、次の便の搭乗時刻を知らせる放送が、ひっきりなしに流れている。  彼女の横顔に朝の光が反射する。大きなバラの花の形に整えられたスカーフが、整った彼女の顔立ちを映えさせていた。 「自分は器用な方じゃないから、たぶん、恋人とかそういうのは大事に出来ないだろうって」 「・・・新波さんがですか」 「ええ。付き合っても最優先にするのはこの仕事だから、相手のことは二の次三の次になる。  両立できる人間はいるかもしれないけど、自分はそういうタイプじゃないから、恋人を作ったり、結婚したりっていうのは早い段階で諦めたって」 「・・・」

『俺は異動も多いし、勤務も不規則だ。  だから付き合っても相手を喜ばせることは出来ない。  理解して欲しいなんてことは言うつもりもない。傷つけるのが分かっていて付き合うような不義理はしたくないんだ』

「私、切なくなっちゃって」 「・・・海老名さん」 「ここにいる人たち全ての安全を、夢を、幸せを守るために、新波くんは今まで自分の全てを投げ売って来たのかと思うとさ。  ・・・なんか、幸せになってよ!なっていいのよ!って気になってね」 「・・・」 「だから、新波くんに、『管制』以上に大事に出来る人が現れたなら、私は全力で応援したいと思ってるのよ」 「・・・それは、どういう」  彼女はひとつ息を吐いて、カップを傾ける。丁寧に塗り込まれた、控えめな爪の色に、朝の光が差し込んで粒になってきらめいた。残ったコーヒーを飲み干すと、彼女はこちらを向いて、軽く目配せをしてきた。

「秋津くん」 「・・・、はい」 「新波くんが探してるものって、何だろうね」 「探しているもの」 「わざわざターミナルに来てまで見つけたいものって、何なんだろう、・・・誰なのかな」

無理にこちらから答えを引き出すつもりは無いのだろう、彼女はそう言ってカップを手にすると、流れるような所作でする、と立ち上がった。  そうして潤いを保ったままの艶めいた唇を弓なりに上げて、こちらに微笑みかけてきた。その目には、まだいたずらっぽく何かを企んでいるような光がわずかに宿っている。 「余計なこと言っちゃったわね」 「海老名さん」 「まあ、新波くんは新波くんで何か思うところはあるんでしょうけど。今は君のすることは一つだね。ナナハチの移行訓練に合格すること」 「・・・、そうですね」 「まあ天才肌の秋津くんのことだから、大丈夫でしょ」 「それは買い被りです」 「謙虚ね。・・・頑張って。晴れてナナハチにチェックアウトすることになったら、一緒に搭乗したいわね」 「はい」  ひらひらと手を振って、彼女はカップを手にしたまま背を向けた。ヒールを履いたすらりとした足が音無く立ち去るのを、その姿が遠のくまで眺めて、そうして窓の外の景色に視線を戻す。  雲ひとつ無い青い空が広がっていた。先ほど駐機場を後にして、滑走路に出たジャパンエアーが、離陸していくのが見える。ごう、という切るような音が聴こえて、機体はふわりと宙に浮いて、またたく間にその濃い青の中に消えていった。

『Good day.nice flight.』

彼の「声」が耳の奥で響く。胸が締めつけられるような思いがした。

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