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今でも時おり、心臓が引き絞られるような感覚で目が覚める。 「新波さん」  混濁する意識の向こうで、いつも。その「声」に名前を呼ばれる。

速くなった自分の鼓動と息遣いに気が付いた。瞼を押し上げて、額にうっすらと滲んだ汗を手の甲で拭う。  浅く深く、呼吸をゆっくりと整えて、天井を見上げた。薄青い朝の光に染まった部屋は、浅い水面の中から見る景色のように、ゆらりと視界を揺らめかせた。  まるで息が出来ずにいる魚のようだと一瞬思って、頭を軽く振る。夢と現実の境目がはっきりしてきた意識を確かめてから、ベッドに肘をついて、肩を起こした。  腰に絡まる腕に気が付いたのはその時だ。しっかりと巻き付いているその腕の先につながる隣の寝姿に視線を遣った。  自分の肌に沈み込むように張り付くその腕は、服を着ているときはわからなかったが、思ったよりもずっと筋肉もついていて、しっかりとしている。パイロットなら当たり前であろうことをパイロットでない自分がベッドの上で感じることに、説明の出来ない感情が湧いて、身体の内がぼうと熱を帯びていく。  長い睫毛が、規則的な寝息に合わせて震えているような気がした。短い髪にそっと指を通すと、青い朝日に透けて、その髪はうっすらと茶に染まった。

その腕の程よい重みが伝えてくる温度に面映い思いがして、しばらくその感触を味わうようにもう一度布団に潜り込んだ。  首筋にかかる寝息が心地よいなど、しばらくぶりの感覚だと思った。  とくりとくりと跳ねるような鼓動は、目覚めたときの薄暗さをもう拭おうとしている。  まさか、愛おしいという気持ちで朝を迎えることなどもうないと思っていたのに、こんなことになるとは思ってもみなかったと、彼の髪を撫でながらふと思う。

管制官と、パイロット。  ただ「声」だけで繋がっていると思っていたのに。その「声」が、自分と彼とを引き寄せて、触れ合わせた。

『新波さん』  無線上でない、耳元の距離で囁かれる「声」の艶やかさと生々しさを思い出してなんとも言えない思いになった。  あと5分だけだと自分に言い聞かせて、自分の腕を彼の背に回す。そうしてまた、目を閉じた。

ーーー

昨晩の内に準備しておいた水出しのコーヒーを水筒に入れる。ふと思い立って一緒に漬け込んでおいたレモンスライスの涼しい香りが、ふわりと鼻先に漂った。  貴重品と一緒に、通勤用の鞄にそれを入れる。必要なものが揃っているのを確認して、鞄の口を閉めた。  テーブルの上には昨晩の残りで作っておいた朝食が、ラップをかけて置いてある。目が覚めたらすぐに気がついて、温めて食べられるように。  自分一人でいるときは、朝食に気を配ったりなどしないことを思い出した。  通勤の途中に買ったものを口にするか、もう食べないでいる。そのことを話すと、涌井次席が呆れたように笑っていた。  そんなものだろう。自分のことは自分が一番よく分かる。一人暮らしが長いとどこに力を入れてどこで手を抜くか、それなりにリズムは掴めてくるものだ。  だから余計に、そのリズムの中に他人が入ってくることがひどく煩わしくなってしまう。殆どのことが一人で事足りて、特に誰かにいて欲しいとか、そういったことが少しずつ欠けていくのを、実感はしていた。  つい最近、ほんの少し前まではそう思っていたはずだがと、眩しくなり始めた外の空を見遣った。

休日用の眼鏡をかけて、髪はいつもよりも柔く、無造作に後ろに軽く流す。  鞄を肩にかけて、腕時計で時間を確かめると、目的地までの時間を逆算した。  チェストの引き出しから合鍵を引き出してテーブルの上に置いたところで、寝室からかすかな物音がするのに気が付いた。  慌てたような早足の音が大きくなったあと、リビングに彼が唐突に顔を出す。 「新波さん!」 「・・・・おはよう」  起き抜けのそのままで、慌てて羽織ったのだろうシャツはボタンすら留められていなかった。 「おはようじゃないでしょう。どこに行く気ですか」 「ああ、悪い。いつも休日は行くところがあって」  テーブルの上の皿を、顎だけで指す。彼の視線がそれを追う。  皿に乗せられた一人分の朝食を一瞥してから、彼は低い声で呟いた。不機嫌さを隠さないそれに、ほんのわずかに戸惑う。 「、・・・・私1人で、飯を食えと」 「俺はいいんだ。  足りなければ冷蔵庫から好きなものを出して食べたら良い。あとここにあるものは好きにしたらいいから。  帰る気になったら、その合鍵で鍵を閉めていってくれ。鍵はまた、次の機会に返してくれれば・・・・」 「何をとうとうと、淀みなく寝言を言ってるんですか」  彼はそう言って、こちらを小さく睨みつけた。

「・・・・寝言って、」 「私も一緒に行きますから。」 「・・・え?」 「待っててください。・・・5分、5分で準備します」 「なんであんたが俺の予定に、・・・・あんただって休みの予定があるだろう」 「そんなもの無いです」 「無いって」 「あっても、キャンセルします」 「・・・・、」

「当たり前でしょう。・・・・新波さん、わかってますか」 「・・・何を?」

「私とあなたは、・・・・恋人、なんですから。  何してたって、休日はあなたとの予定が最優先に決まってるじゃないですか」 「・・・・」  唐突に繰り出された気恥ずかしさを隠しもしないその言葉に、喉の奥から変な声が出そうになる。

「あ、おい」  かけていた眼鏡を剥ぎ取られる。 「私が準備するまでこれは預かります」 「、ちょっと」 「待っててくださいね!」  彼はそう言って、小走りに寝室へ駆け込んでいく。  特に慌てて準備をしなくても、待てと言われれば待つ。1人でなければならない予定でもない。  けれどきっと彼以外の人間ならば、やはり自分は煩わしいと思うのだろう。

自分の時間に彼が溶け込んでくることを許している。  それはきっと、彼が自分の中で、何かが違う存在になっているからだろうと思った。

ーーー

羽田の前にいた空港での、異動までの数ヶ月はあまり記憶が無い。

それは敢えて、自分がそうしているのだろうと思っていた。  記憶しておくことで起きる色々な弊害から、自分が無意識に身を守ろうとしているのだろう。ただ息をするだけで苦しく、浅い水面で酸素を求めて足掻くそんな日々だった。  後で知ったことだが、羽田への異動の予定がわずかに繰り上がったのは、自分の状況を知った涌井次席が見兼ねて人事に少し口添えをしたからだということらしい。  それほどまでに自分はあの一件で消耗していたのだろうと思う。実際羽田に来てからしばらくは、タワーで勤める同僚以外の人間とは、わずかにでも関わり合いになりたくないと思っていた。

管制の指示をすぐに理解出来ず、一歩二歩遅れるパイロットだった。  指導するはずの機長も特にそれを咎めたりはしなかった。若いのだから仕方がない、割り切れと周りは言ったが、それが離着陸のリズムを狂わせることもあるのだと、譲ることが出来なかった。  地方の小さな空港は1本しかない滑走路に離着陸機がひしめき合う。息が合わなければ、ずるずると時間はずれていくだけだ。ロスした時間は尾を引いて、最終的に大幅な遅れになる。  彼を否定するつもりも貶めるつもりもなく、ただ、少し気をつけて欲しいと何度か繰り返し、直接話をしたというだけでいた。  それが逆効果であったことに気がついたのは、パワハラと訴えがあったと、こちらに自分の名前とともに報告があがってきた時だった。

どんなに心を砕いても、やり方一つを間違えればそれはただ相手を傷つける刃になる。  自分が悪くないとは言えなかった。秒単位まで計算して航空機を捌くこちらの都合を若いパイロットに押し付けたのではないか。もっと他にやり方はあったのではないか。その思いは羽田に来ても消えることは無い。  自分の言葉は、思いを込めても相手には伝わらないのかもしれない。心を砕けば砕くほど、逆のことが起きる。  だから必要以上に関わることは止めておこうとした。そんな心持ちでいるときに、いつもインカム越しに聴こえる、余分な「声」に出会った。

『ナイスコントロール、ありがとうございます』

タワーとパイロットが交わす定型文である「Good day」ではなく、日本語で、それを言う。  はじめは面倒だと思っていたその「声」が、日々何度も繰り返されるうちに気になるようになった。  その「声」の主に直接会って話をしたのは、それから少したってからのことだった。

『私はあなたの「声」に救われたんです』

雨の降りしきる夜だった。  そこからだ。  彼の「声」をもう一度、ちゃんと直接聞いてみたいと思うようになったのは。  関わらないと決めたのに、彼の「声」は簡単にその線を超えてきた。そうして生身の自分に触れて来ようとする彼を、自分は思ったよりもずっと簡単に、受け入れてしまった。  それは彼が、自分と同じように「雨の中」に立っているからというだけではなくて、その「声」にこめられた思いに、自分の柔な部分を引き出そうとするその「声」に、自分が揺り動かされてしまったからだとも思っていた。

『JAL98,Tokyo TWR.RWY16L,Continue approach.Wind 180 at 12.Traffic B777,5miles ahead.』 『RWY16L,Continue approach.JAL98.』  頭上で、ごうごうという空気を切る重い音と、きんとした機械音が響く。  みるみるうちに高度を下げた飛行機の腹が視界を横切って、彼方に見える空港の滑走路へ吸い込まれていく。  イヤホンに流れる無線は、パイロットとタワー管制のやり取りを流し続けていた。それを確かめて、また、空を見上げる。

「・・・つまらないだろ」 「何がですか」  自分と同じように、隣で柵に背をもたせかけて空を見上げる彼が、こちらを見た。  直線状の海岸線が伸びるその公園には、平日の午前の緩やかな時間をめいめいに楽しむ人たちが多くいた。着陸機が大きな機体を滑らせていくたび、その人混みから、わあ、と大きな歓声が上がる。 「そんなことはないですよ。」  こちらが言いたいことは分かっていたのだろう、彼はそう、小さく笑って言った。 「私は乗ってしまったら前方の空しか見えないので。こんな風に見るのはあまり無くて、面白いです」 「・・・・でも、それ以外にすることがないだろ」  羽田を離発着する航空機がアップで見られると有名なこの公園には、航空ファンも多く訪れるのだという。歓声を上げる人の中には、長い望遠レンズを取り付けたカメラを構える人間の姿もちらほら見えた。

羽田に来てから、休日の半分はここに来る。  数時間ほど何もせず空を眺めて過ごす自分の姿は、人からは一見妙な人間に映るだろう。鞄の中のエアバンドレシーバーは、羽田を行き交う航空機と、タワーとのやり取りを受信している。  タワー以外の場所で、飛行機を眺めて飛行管制を聴く。それが休日の自分の予定だった。  航空大学校の同期で同じ羽田で勤める清家は、「お前休日までそんなことして、ほんとにアホなのか」と笑う。けれど休日のこれは、自分にとっては無くてはならない、管制官として歩み始めてからずっと続けている習慣だ。  それに、誰かを付き合わせようとは思わなかった。だから今朝、寝ている彼を無理には起こさなかった。

「空を見てるだけだ。あんたはつまらんだろ」 「・・・・」

彼も自分も、いい歳をした大人だ。  やりたいこともやらねばならないことも、一人ひとり、それぞれにあるだろう。  無理にそれを擦り合わせようとも思わないし、そうすることで彼が何かを我慢したり、不満に思ったりすることがあるのは申し訳ないと思った。  お互いに貴重な休日の一日なのだから、恋人だからと言って一緒にいる必要はない。  彼は何よりも自分とのことが最優先だと言った。  けれどそんな風に望んだり、それを口にしたりすることは、もう自分には出来ない気がしている。思ったことが相手に上手く伝わらず、そうして相手も自分も傷つく。そんな経験はすすんで重ねたいようなものではない。

鞄から水筒を取り出して、コップにコーヒーを注ぐ。  手渡すと、彼は長い指でそれを受け取って、一口こくりとそれを飲み下した。そうして言った。 「十分にしています、それ以外のことを」 「している?」 「あなたと一緒にいて、隣で空を見ている。十分ですよ」 「・・・・」 「駄目ですか」 「駄目とか、そういうことじゃ・・・」  言いかけた自分を遮るように、彼は言葉を重ねて来る。

「あなたと一緒に過ごしたい。  あなたがどんなことをして、どんなことを考えてるか、知りたいんです」 「・・・・」

「ーーーーそれは、「声」だけじゃ分からない」

「あなたの邪魔はしませんから。一緒に空を見ているだけにします」  彼はそう言って、コップの中の残りのコーヒーを飲み干した。 「それも、嫌ですか。1人で過ごしたい?」 「・・・・、」 「無理やりついて来ましたが。・・・やっぱり邪魔なら、帰ります。」  そう言った声が少し沈んだ気がして、こくりと喉が鳴った。  心臓の奥が小さく鈍痛を訴えるように痛む。南からの潮風が一瞬強く吹き込んで、イヤホンの音が一瞬ぷつりと途切れた。柵に乗せていた腰を離して、彼が砂浜に足を乗せる。さくりという小さな音がした。彼の羽織ったシャツに潮風が吹き込んで、羽のようにふわりと浮き立つ。

「・・・邪魔じゃない」 「新波さん」 「あんたの時間が許すなら。秋津」 「竜太です」 「・・・・、竜太」  思わず掴んだシャツの裾を心底嬉しそうに見遣って、彼はその指に触れて、そっと解いて来た。  しまったと思った時にはもう遅い。彼はその指を自分の指と絡めて、ぎゅうと握りしめて来る。思ったよりも力は強くて、振りほどこうと思ってもなかなか上手くいかないでいた。 「はい」 「・・・・」

「歳也さん」

観念して、その手の力を彼に委ねる。しばらく手を繋いで、黙って空を見上げた。  今日は雲ひとつ無い晴天で、水色の絵の具で一面を塗り潰したような空のキャンバスに、次々に白い機影が描かれていく。  絡めた手の温度は夏の終わりの気温を籠もらせたように熱い。昨晩には手を繋ぐ以上のことをあられもない姿でやってのけたというのに、というかだからこそと言うべきなのか、ほんのわずかに触れる温度が、ひどくささやかで、心の柔らかな部分をくすぐるように心地が良い。  羞恥に耐えきれなくなって俯いたのを、彼は見逃さない。  覗き込むように彼はこちらに距離を詰めてくる。唐突にその顔が近くなって、思わず空いた手で、額を押しのけた。

ーーー

『JAL914.Turn right at C5.Then right turn C.』 『JAL914.Request C4.』 『JAL914.Roger.Expedite vacating runway.Taxi via C,G』 『JAL914.C,G.Expedite,Expedite taxi.』

「どうしてC4ですかね?」  尋ねてきた彼に返答する。 「大型機は直角に旋回すると後部座席への負担が大きい。  大方、C6を行き過ぎたんじゃないか。後続機も続いているし滑走路からの離脱を急がせたかったんだろう」 「なるほど」 「次は後続機のJAL98が来る。その隙間で待機していたJAL128に着陸許可を出す。次にSANDYを通過したのはANA34だから、・・・・」 「・・・・タワーにいないのに、そこまで分かるんですか」 「ただの経験と勘だ」 「・・・航空管制官は世界で最も困難な職業と言いますが。さすがです、新波さん」 「そんないいものじゃない」  素直に称賛されることには慣れていない。  素っ気ない返答になって、それにどう返せばいいのか、彼は小さく、困ったように笑った。波の寄せる音だけが響いて、ほんの少しの沈黙が二人の間に流れた。  その沈黙を飲み込むように、コーヒーを一口飲み下す。レモンの風味が舌に染みて、口の中から鼻先へその香りが抜けていくようだった。

「・・・ずっと、休みはここで?」 「・・・ああ、そうだが」 「休日もそうやって、管制のことを勉強してるんですね」 「あんただってそうだろ。機長に上がるにはそれなりに勉強が必要だ」 「まあそうですが」  私はそこまでは、と彼は言った。  彼の「そこまでは」は自分の感覚とは違うのだろうと思う。そう簡単に、何もせずにパイロットを続けることが不可能であるのは、長く空港の業務に就いていれば何となく分かる。  自分の身体を抱き締めるその腕の確かさを思い出した。華奢に見えて力強い。それは彼がたゆまず鍛錬していることの表れだ。  ひとつ息をついて、言葉を継いだ。 「まあ、勉強というか。俺のはもう趣味みたいなもんだ。  同僚からは休みの日にまで馬鹿じゃないかって言われるけどな。・・・・・でも」

「空と、飛行機を眺めるのが好きだから。」  投げかけた言葉を受け取るように、彼は続けた。 「・・・・」 「新波さんは、だから管制官になった」

「・・・、」  繋いだ手はそのままで、彼は空いた方の手を伸ばして来る。  指の腹が顎のラインをなぞって、耳元に触れた。そうして、強くなった南風にわずかに解けた前髪を梳いた。 「竜太」  自分の姿を反転して映す目の力の強さに、肩口から震えて痺れて動けなくなるのが分かる。流れていく飛行管制の音声が、どこか遠くで流れるBGMのようにボリュームを下げていくようだった。  このままでは呑まれると指を解こうとしたけれど、しっかりと握り込まれた手はびくともしない。こんなところで彼の腕力の強さを実感することになろうとは思わなかった。  言葉の無い、けれど密度の濃い空気が、辺りを包む。深く底を打ち付けるような心臓の音が、耳の奥で響く。

「・・・・、少し、心配していて」 「心配?」

「新波さん、明け方によくうなされているでしょう」 「、・・・・・」 「あまり良い夢を見ていないんだろうと思って」

「前のことが、影響しているのではないですか」 「・・・、」 「無駄に関わらない、始めはそう、言っていたから」  彼の眉が少しだけ顰められて、握り締められたままの手に、力が籠もるのが分かった。  肯定していいものなのか否定していいものなのかが分からずに、視線を下に落とす。履いていた靴が砂浜に埋もれて、ずぶずぶと何か暗いものに足を取られて沈んでいきそうな思いがした。  大丈夫だと言うことは簡単だった。けれど取り繕うような「大丈夫」が彼に通じないことにも、短い付き合いの中でもどことなく気が付いていた。  跳ねつけて遠ざけるだけの言葉はすぐに見抜かれて、超えて踏み込まれる。  ならば言ってもいいのだろうかと、ぐらつく心が喉元から下腹を行ったり来たりする。

夢の中身はあまり覚えていなかった。  ただ息苦しく、呼吸をやっと出来るようなそんな夢だ。水深の浅い所で、わずかな酸素でぎりぎりの息をする。言葉も出なくて、助けを求めることも出来ない。そうしているうちに目が覚める。  毎日と言うわけではなく、目が覚めた余韻に引きずられることもない。一度病院にかかったこともあるが、一時的なもので、時間が解決するだろうと曖昧な答えしか返って来なかった。  夢を見る原因も知っていて、その原因は解決はしなかったが取り除かれてはいる。だからあとは、自分の心次第なのだということは分かってはいた。  その出来事に自分なりに折り合いをつけるのか、それとも忘れるか。  それが出来ずにぐずぐずとその場で留まったままでいることを、果たして彼に打ち明けることが許されるのかと、そう思っていた。

「ーーーーー、・・・・」  思ったことが相手に伝わらず、相手も自分も傷ついて、壊れる。  そんな結果がもたらされることへの恐れが、自分の中にあることにも気が付いている。だから言ってしまうことは躊躇われる。

『あなたの「声」だけじゃなくて。  あなたが抱えているものも、思っていることも。姿も全部、預けてください』

全力で投げ出される感情を、放したくないと思う、この心を。  大事にしたいから言えないのだと、そう言ってしまっていいものかと思う。

「大丈夫だ」 「・・・、」  少し不満げに、彼が眉を寄せるのが分かった。予想出来た「大丈夫」に、一言言ってやろうと、口の中で発する言葉を選んでいるのが分かる。  繋がったままの指先にいっそう力が籠もって、それは彼の葛藤を伝えてくるようでもあった。  彼は今まで出会った副操縦士の中で、状況判断においても、操縦の技術においても群を抜いてレベルが高い。羽田に来てから彼の瞬間的な判断の速さと的確さに目を見張ることは多くあって、だからこそ、無駄であることを全肯定するような人間臭い「声」に惹かれたのだと思った。  そんな彼が、自分の隣にいることもまるで夢幻のようだと思う。自分の隣で、自分の手を握っている。引き寄せるべきか、見守るべきか、逡巡しながら。

「・・・・確かにまだ、前のことは消化しきれていないと思う」  一つ一つの言葉を慎重に口にする。  空を切る大きな機械音が、すぐ頭の上を通り過ぎる。残った風が、二人の周りで吹き上がる気がした。

「・・・・」 「何が正しかったのかは分からない。俺がしたことは正解ではなかったのだろうし、だからと言って間違っていたとも思えない。  相手ともちゃんと話が出来なかった。  きちんと整理出来ずにこっちに来てしまったのも夢を見る原因だろう。それは分かってる。」 「新波さん」 「だからこれは自分の中で答えを出すことで、あんたに、手伝ってもらうことじゃない。  だから、大丈夫だ」 「・・・・」  突き放されたと思ったのだろう。彼の目元がわずかに歪むのを確かめる。 「でも」  掛ける言葉に迷って、自信無さげに自分を映すその目を見つめ返した。受け取るだけだった指先の力を自分も返すように、包まれている手のひらに込める。

「目覚める瞬間の、「声」が俺には必要で」 「・・・・声?」 「あんたのその「声」で、戻って来れるから。あんたの「声」が、俺には必要なんだろうと思う」

「だから」  苦しくて、足掻いて、もう駄目だと思った瞬間に聴こえる、自分を呼ぶ「声」で目が覚める。  そうして隣に彼がいることを確かめて安堵する自分がいた。知らない間にそれは自分の心を埋め尽くして、それでなければならないほどに、離れられなくなって。  そうして、今ここにいる。 「竜太」 「・・・・新波さん」 『RWY16L,Cleared to land.』 『RWY16L,Cleared to land.』  不意に耳に戻ってくる、くぐもった音声がそう告げる。  降り立つ地上はもうすぐだと、告げるように「声」は呼びかけあって、繰り返す。

「傍にいて欲しい。竜太」

首筋に巻き付いて、強く抱き締めてくるその腕を解こうとは思わなかった。肩口に擦り付けて来る髪の感触が伝わって、その髪を混ぜるように、手を添える。  何度か髪を撫でて、その手を背に回す。しっかりとした肩甲骨の間隔を手のひらに感じて、背骨のあたりを何度か往復させた。  心の中でまだ形にならない感情がその手から伝わっているのかは分からない。思ったように相手に伝わらないこともあるのかもしれないけれど、彼には、きちんと自分の思いは、そのまま伝わるのではないかと思った。 「声」と「声」を空の上で交わし合うからこそ。  彼とはちゃんと、伝え合える関わりを繋げられるのではないかと、願うように思った。

少しだけ身体を離して見つめ合う。  彼の指が、眼鏡を外す。裸眼になって一瞬揺らいだ視界に遠慮がちに、瞼に一瞬だけ、キスを落とされた。  さすがに思うところがあったのだろうか、少しだけ悪いことをしたように口元だけで誤魔化すような笑みを浮かべた彼の頬に、今度は自分が、掠めるようにキスをする。  面食らった彼の目元が、さっと珍しく、朱に染まったのが分かった。唇にほのかに残ったコーヒーとレモンの味わいが、漂った気がした。

午前最終の着陸機を見届けるタワーの声が、ノイズを取り除いてクリアに、そうして空の色に溶けるように響いたのが分かった。  空はどこまでも伸びる。まるで無限に、繋いだ手が続くように。

『Good day.

ーーーー・・・Nice flight.』

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