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『JAPAN AIR 695,wind 220 at 12kt.runway 16R,Cleared for take off. 』

ぎこちなさはまだまだ抜けないが、それでも数日前よりは滑らかになったその指示を確認して、淵上機長に小さく頷く。 「JAPAN AIR 695,Cleared for take off.」  エンジンがひときわ大きな音をさせて、推力を上げる。身体を押す重力を感じて、操縦桿を握る手に力を込め直した。  機首が上がろうかというその一瞬後に、ぶつりという音とともに、管制からの声が聴こえた。それは彼の声ではなくて、あの「蕪木」と言った訓練生のうろたえたような声だった。 『あっ、離陸待ってください!・・・鳥が!!』 『蕪木!!』 「え、・・・・・?」

『鳥が、前に・・・・!!!』

奥で骨の鳴る音がする。  くるりと首をひとつ回して、肩を揉んだ。筋肉は思うよりも硬くはなっていなかったが、のしかかるこの妙な重みは、怒り心頭の淵上機長の愚痴を半時間ほど聞いていたからだろうか。2,3度解すようにもう一度肩を揉み直して腕を降ろすと同時に、小さなため息が溢れた。  695便が見舞われたバードストライクは幸運にも機体への損傷を免れて、695便は羽田へ引き返すこともなく無事目的地まで運航することが出来た。  バードストライクが起きた場合の対処は十分心得ているが、それでも一瞬冷やりとしたのは確かだ。滑走路が閉鎖になり、救急、消防を滑走路に待機させる事態になったことは、往復して羽田に帰ってきた頃にスタンバイのパイロットから聞いた。  ラッシュ時に滑走路が閉鎖され、何便かの飛行機に遅れが出たようだった。  たかが鳥、されど鳥だ。万が一エンジン部分に衝突していたら、大事故を引き起こす可能性もあった。それが無かったことは不幸中の幸いだった。

携帯を開いたが、彼からのメッセージは無い。  今日は早番だったはずだ。業務は終了しているはずだが、ひょっとすると今日のバードストライクの事後処理を行っているのかも知れないと思った。 「蕪木」の慌てふためいた「声」が頭によみがえった。どんなに気をつけていたのだとしても予想しないバードストライクは起こる。問題は、その後の対処だ。まだ管制官になって数ヶ月の、実地での訓練を日々重ねる彼に、それが出来たとは思えなかった。  だとしたら「蕪木」の犯したミスの責任は、訓練生をローカルに立たせた上席にあり、指導役を担っている者にもあり、監督責任を負う、彼にもある。 『慣れるまでは、こらえて欲しい』  迷惑をかけるかもしれないが頼むと、そう言って来た彼の表情を思い浮かべると、「蕪木」のミスを、今どうこう言う気分にはなれなかった。

誰にでも「最初」はあって、誰にでもつまずく時はある。  一度のミスなのだからとそれを見逃したり大したことはないと笑い飛ばしたりはしない。そのミスが何百人もの命を危険に晒すことは、許されてはならない。  けれど、再起の可能性のない「不適」の烙印を押される絶望は、自分には痛いほどに分かる。だから彼のことは、どうにも他人事のように思えなかった。

『適性が無いからだ、秋津三尉』  冷たい声が不意に耳元で響いて、喉がこくりと鳴った。  しばらく思い出していなかったその小さな痛みを、深呼吸をして身体の奥へ押し込めた。

彼と「蕪木」が二人でいるところに出くわしたのは、淵上機長とのデブリーフィングが終わって帰宅する道すがらのことだ。  メッセージに返答は無いままだったから、タワーへの経路になっているあの吹き抜けの2階へ少し足を運んだところで、彼らの姿を認めた。  遠目からでも、良い雰囲気でないのは見て取れた。小さく眉を寄せて「蕪木」を見つめる彼の表情は、憤っているというよりは、困っているという表現が合うような気がした。  こちらからは「蕪木」の背しか見えない。少し俯き加減で、しっかりと彼と目を合わせているのでもないその背からは、初めて顔を合わせた時のはつらつとした勢いは感じられなかった。

「一度や二度のミスは誰にでもある。訓練生の君が落ち込むことはない」  彼は一つ息を吐くと、そうやんわりと穏やかな口調で言った。表情は固いが、彼の声は「蕪木」のミスを責めたりするようなものではなかった。 「蕪木」は答えない。答えないその心持ちはうっすらと理解は出来た。自分の中で納得が出来ていないか、もっと他に、言いたいことがあるのか。そこまでは想像出来ない。 「想定外の事態が起きるのは当たり前のことだ。それは経験を積んで行けば対処出来るようになる。  君はまだ訓練生だ。俺も、栗田さんも控えてるんだから、頼ればいい。一人でやろうと思うな。」 「・・・・・」 「実際の管制はシミュレータのようにはいかない、それは今日よく分かったろう。  今日の事例を自分で検討して、・・・・」 「俺には向いてないです、管制」

低い声で唸るように呟いた「蕪木」の言葉に、彼の肩が少し強張ったのが分かった。 「蕪木」 「こんな裏方で、地味なのに責任ばっかり言われる仕事、俺には向いてないです」 「・・・・・」 「新波さんは、なんでこの仕事、やろうと思ったんですか」  声の低さと鋭さが、「蕪木」の心の中で渦巻く感情をこちらに伝えてくるようだ。けして目の前の先輩を責めようとは思っていないのだろう。彼の怒りは内の己の不甲斐なさに向いているのであって、ぶつける先のないその感情を、何も言わないその彼に吐き出しているだけだろうと思った。 「誰にも感謝されないし、いるかどうかも気づかれない、こんな影の薄い仕事」 「・・・・俺は」

しばらくの沈黙のあと、彼が控えめに口を開く。  けれど続く言葉を形にするべきかどうか、少し迷うような表情が浮かんでいた。そこに畳み掛けるように、「蕪木」が声を重ねる。 「俺は、元々パイロットになりたかったんですよ」 「・・・、え?」 「でも航空高校には早々と落ちて、そんで大学行ったけど、エアラインの入社試験にも通らなくて。  適性が無いんだって分かって。  他に飛行機に関われる仕事が無いかって探してたら、管制官ていう手もあるなって。公務員試験だから、適性とかそんなんも厳しくないかなって、ただそれだけで。」 「・・・・」 「だから、そんな程度なんですよ、俺は」 「蕪木」 「新波さんは、すげえ管制官だし。志も立派で。  きっと、すごい努力して管制官になって。誇り持って仕事してるんでしょうけど。」

「・・・・・・俺は、この仕事、そんなにやりたいわけじゃないです」

俺がしたいのは、こんなことじゃない。  そう思っていた過去の自分のことを思い出した。本当に望む未来からは外れて、どうしようもなく苛立って、悲しくて、悔しい、それを飲み込めなかった自分のことだ。  胸が突かれたようにしくりと小さく痛んだ。自分に重なる「蕪木」の姿に心が痛んだのか、それとも、やり場の無い感情をぶつけられる彼への痛みなのか、それは判断がつきかねた。

「辞めます、俺」 「、何言ってんだ蕪木」 「こんな気持ちで仕事してても、また同じミスするだろうし。でもモチベーション保てないままじゃ、栗田さんにも新波さんにも失礼じゃないですか」 「何を早合点してるんだ」 「いいんです。俺辞めますから。・・・・・失礼します、お疲れ様でした」 「蕪木!」  ぺこりと潔いと言っても良いようなお辞儀をすると、「蕪木」は彼の肩の横をするりとすり抜けて、通路の奥へ姿を消した。彼が引き止めるように手を伸ばしたけれど、ひらりと身を翻したその姿に手は届かなかった。  早足気味の靴音は次第に遠のいて、残ったのは彼の姿だけだった。吹き抜けの大きな窓の外はもう暗くて、青い闇が広がっている。  疲れたような表情で、少し壁にもたれるようにして彼は一つため息を吐いた。それに、声をかけるのは躊躇われた。

彼の胸の中に去来したのは、ひょっとすると、過去の出来事だったのかもしれない。少し傷ついたように口元を歪めて目を伏せる彼の肩は頼りなくて、とんと押せば簡単に崩れ折れてしまいそうにも見えた。

ーーー

ふわりと笑顔が弾けて、出迎える人の腕の中に、幼い子どもが飛び込む。  しばしの別れを惜しみながら、恋人同士はお互いに繋いでいた手を離す。  表情の一つ一つを心に刻んで、大きく広く取られた窓の外を仰いだ。すうと息を吸うと、外からわずかに吹き込んだ夏の終わりの空気が、肺を満たしていく。  そうして頭は冷静になって、澄み渡る空のように視界はクリアになる。

「秋津さん・・・・」 「・・・・、蕪木さん」

「また見に来てたんですね。『客の顔』」 「ええ、まあ」  先日の夜の出来事を一部始終見ていたことは、言う必要はないだろうと思った。言ったところで、大して親しいわけでもない自分が何か出来るような気はしなかった。  自分の中の葛藤は自分で消化するしかない、そのことは経験から十分に分かっている。今ここにいる彼にとっては、パイロットの自分は夢を叶えた人間のようにしか見えないだろう。そんな人間の中途半端な励ましに劇的な効果など無い。  心の距離をそのまま形にしたような数十センチの間を空けて、階下の人の動きをただ黙って二人眺めていた。  盆の混雑を抜けたロビーの動きは比較的緩やかで、一人ひとりの顔がよく見える。 『俺、辞めます』  そう言い切ったあの日の様子を思い浮かべた。乗客を眺めるその横顔が何を思っているのか、はっきりと形にすることは出来なかった。

「・・・秋津さんは」  口火を切ったのは「蕪木」の方だった。声のした方へ向き直ると、人を吸い寄せるような引力の籠もった目が、こちらを映した。 「?」 「秋津さんは、パイロットの仕事を、自分の天職だと思いますか。・・・・自分に向いていると、思います?」 「・・・・」 「すみません、変なことを聞いて」  そう言って困ったように笑うその顔が差し込むわずかな朝の日差しに照らされていた。

「・・・・自分が向いているか向いていないかはともかくとして」 「・・・秋津さん」 「いい仕事だと思います。この仕事は。多少辛くても、続ける価値はあると思えるくらいには」 「そうですか」  やはりというように、少しだけ肩が落ちるのが分かる。 「そう思わせてくれたのは。「声」でした。」 「・・・・え?「声」?」  小首を傾げるその顔に、小さく笑いかけた。 「はい」

「あの人の。  ・・・・・新波さんの管制の、「声」が。私を救ってくれましたから」

少し目を丸くしたその顔に、言葉を続ける。 「パイロットは一人では飛べません。  整備、CA、グランドスタッフ。色々な人がバトンを渡してくれて、初めて人を乗せて、その機を飛ばすことが出来る。  最後に、離陸の瞬間に一緒にいてくれるのは管制官です。管制官の「声」があるから、私たちは飛べる」 「・・・・・」 「新波さんが、それを教えてくれました。」

『大丈夫だ』  彼の「声」が、耳の奥でいつまでも響く。忘れたことはない。濁った視界を晴らして、はばたく翼を押して。  青い空へ引き上げてくれるその「声」が、今も自分をここに立たせている。 「一人で飛ぼうとしていた私に、「声」で教えてくれたから、・・・・私はこの仕事を続けているんだと、思います」 「新波さんが」 「ええ。・・・・だから、蕪木さんの「声」もいつか。パイロットに寄り添えるそんな「声」になると、思います」  そう言うと、目元を赤くした彼は、小さく俯く。 「・・・・、俺は、そんな大層なもんじゃないです」 「それはまだ分からないでしょう。  あなたは訓練生とはいえ管制官なのだから。あなたの「声」が無ければ、私達は飛べない」 「・・・・」

「あなたの「声」を、パイロットは必要としている」

そう言って、顎だけで階下の人の波を指す。彼の視線が一瞬躊躇って、ゆっくりと動くのを見遣った。  赤い目元はそのままだった。きゅ、と上に上がった目に何が映っているのかは分からなかったが、ほんのわずかに光が戻って、影の差していた肩に力が入るのを見つめていた。

ごうごうという、風を切る音がいつもよりも大きい。  コックピットから見える景色は黒く濁って、濃い灰色の雲の波が、ぶつかっては後方に流れていった。 「全てコピーしました、ありがとうございます」  そう口にしたのを耳にして、淵上機長がこちらをちらりと見たのが分かった。送られてきた気象情報をもう一度確認して、淵上機長に伝える。 「・・・・成田も羽田と同じく、激しい雨が降っているそうです。これ以上視程が悪くなると、ゴーアラウンド機も増えるでしょう」 「そうか、ダイバートも期待出来ないな」 「そうですね」 「時間が無いな」 「はい」  いつも多少のことでは狼狽える様子ひとつ見せない淵上機長は、今は表情にこそ見せてはいないが、気配に焦りを滲ませ始めている。  大気は不安定なままの状態を保っていた。数日前から日本列島を覆っていた長い前線は、しつこく東京上空に居座るつもりなのだろう。数時間後に雲が去って着陸が可能になる、その希望は現時点では無い。  この機が「Medical emergency」を宣言して、数十分がたつ。  海老名チーフからの伝達で、搭乗中に発作を起こした患者の容態は急を要する事態ではないことは伝えられていた。それでも一刻も早く着陸する必要はあるだろう。

航空機の緊急事態宣言を示す「emergency」コールを行うことは、極めて珍しいことだ。羽田は既に対応を始めているだろうが、状況が悪いのは一目瞭然だった。  濡れた滑走路はハイドロプレーニングを起こしやすい。激しい雨で視程も悪く、着陸に細心の注意が必要になるだろうことは明確だった。 「羽田はまだ降りられる数値だ。予定通り、このまま羽田にランディングする」 「はい」  淵上機長はそう言って、前方を見据える。黒く厚い雲が、周囲を覆い始めていた。

『JAPAN AIR 44.contact TOKYO TOWER,118.57.  安全の都合上、日本語で申し上げます』

聞き慣れた彼の声が耳元で響いた。  その声に焦りや混乱は見えない。いつもどおりの、穏やかで落ち着いた声が流れる。 『羽田は現在、極めて天候の悪い状態が続いています。  ですが緊急事態のため、44便を最優先で降ろします。管制の指示に従ってください』 「了解しました」  返答して、肩の力を入れ直す。  状況は悪いが、頭の中は冷静であることに気が付いた。緊張は身体を少し強張らせてはいるが、けして動揺しているわけではない。  視線は計器を具に読んで、着陸までの手順を、ロールプレイする。 「オートブレーキはマックス、リバースもマックス・・・」 「秋津、ゴーアラウンドも頭に入れておけよ」 「はい」  小さく深呼吸をした。雨に濡れて伸びる、滑走路をイメージする。 『JAPAN AIR 44,15NM on final.』

「・・・どうした、着陸許可が降りないな」 「・・・・・」  管制からの交信は途絶えたままだ。このまま降下し続ければ、あとわずかで羽田の滑走路が見えるようになる。けれど彼の声は聴こえない。  雲の波はまだ端が見えない。灰色の視界がはるか先まで続いている。 「・・・・風向きが、変わっています」 「だからか。・・・・参ったな」  淵上機長の顔が、苦々しげに歪んだ。コックピット内の空気が一瞬、温度を下げた。 「ゴーアラウンドか」 「そうですね・・・・」

『JAPAN AIR 44,  runway 34L,cleared to land.wind 010 at 23.』

『秋津』 「・・・、新波さん」  インカム越しに、彼の声が自分の名前を呼ぶ。  その瞬間に、あの映像が、視界に広がった。  彼の「声」を聞いたならば必ず、浮かぶその映像。雲間からさす、眩しい一筋の光だ。  すうと神経が鎮まるのが分かる。そうして目を再び開けると、そこには開けた視界がある。 『風向きが変わった。雲の流れによっては今後、雨と風が激しくなる。  雲が薄くなっている今なら着陸可能だ。その隙間で、44便を降ろす。・・・・いいか、降りて来い』 「了解です。  JAPAN AIR 44,runway 34L,cleared to land.』

「GEAR DOWN」  淵上機長の声が、コックピットに響く。それに呼応した。 「GEAR DOWN」 「Flaps two zero」 「Flaps two zero」

高度が下がるとともに、雲の波も白く薄くなる。霧のようなその波を抜けた先に、滑走路のうっすらとした姿が見え始めた。  伸びる直線に視点を定めて、操縦桿を握り直す。 「minimum.」 「continue.」  機械の音声が、耳に届く。「50,30,20,10・・・・」  ギアが滑走路に接地する振動が背に響いて、大きく息を吐いた。

「ナイスランディング。・・・秋津」  淵上機長がにやりと笑って、こちらを見ている。それに、同じように口元だけの笑みで返した。  着陸を終えて滑走路をゆっくりと駐機場へ向かうコックピット内に、彼の声が再び響く。 『JAPAN AIR 44,  ambulance is stunding by at spot 142,contact TOKYO GROUND,121.62.』 「Roger,JAPAN AIR 44,contact TOKYO GROUND,121.62.  ありがとうございます、新波さん」  くぐもった声が一瞬途切れて、数秒ほどの沈黙が流れた。

『・・・・お疲れ様でした、おかえりなさい』  柔らかに耳元をくすぐる低い声はそう早口で告げるとふつりと途切れた。素っ気ないその幕引きはやはり彼らしい。  少しおかしくなって、喉の奥だけで笑う。淵上機長が妙な顔をしているのも、気にしないことにした。

ーーー

卓上のIHコンロの上で、丸い鍋の中の野菜がくたくたに煮えている。

慣れた手つきで、彼の長い指先が薄い色をしたせんべいを割り入れる。  せんべいは煮汁を吸ってふにゃりと、ふやけて野菜の上に頼りなく被さった。人参の橙色に、白菜の黄緑色。牛蒡に鶏肉。鮮やかな彩りのその鍋からは出汁の香ばしい香りがした。思わずこくりと喉が鳴る。  彼が、汁椀に大きくざっくりと割られたせんべいが蓋のように乗ったその「せんべい汁」をよそう。 「ほら」 「はい。いただきます」  湯気をたてるその汁椀と箸を手渡されて、小さく頭を下げた。

「というか」 「?」 「今、季節の終わりとは言え、まだ夏です」 「そうだな」 「そんな夏の気温の中でせんべい汁って。何かの訓練ですか。」 「何だ、不満なのか?あんたが誘いかけてきたんだろう」 「あなたが最初に食べたいって言ったんでしょう、せんべい汁」

「嫌なら食べなきゃいいだろう」 「・・・・食べますが」

汁椀の中身に箸を入れて、せんべいをつまみ上げる。口に入れると、ふわりと濃い出汁の味わいが広がった。  汁の染みたせんべいの感触は何とも言えないものがあったが、慣れると病みつきになる。彼がわざわざ食べたいとリクエストするだけはある、妙な魅力のある料理だと思った。  麺をすするようにせんべいを口にいれる隣で、彼は小さく笑いながら同じように鶏肉を頬張る。  空腹のまま彼の部屋を訪れたせいで、一杯目は瞬く間に空になる。二杯目をよそって、口につけた。冷房の効いた部屋で口にする温かい汁物は、こたつの中で食べるアイスのような、不思議な高揚感を誘った。

「美味いだろ」 「ええ、そうですね」  部屋に誘われた時は面食らったが、こんな風に誰かと鍋を囲むことは、ここ最近あまり無かったことを思い出した。  好きな相手と同じ食事をして、同じ空間で笑い合う。大切な人と、同じ時間を過ごす。とてもささやかで当たり前のように思えるけれど、それはけして、当たり前だというわけではない。  その小さな幸福に勝るものは無いのではないかと思う。

ふと、いつも空港の出発ロビーで眺める、乗客の表情が思い浮かんだ。  誰かと出会って、別れて、また出会う。  その入口の一つが、自分の握る操縦桿に託されている。乗客の幸福の瞬間を乗せて飛ぶことの誇らしさを、静かに、せんべいの味と共に噛み締めた。  そうして、「声」と共に一緒に飛ぶ、隣の彼への感情も、改めて確認した。彼がいなければ、今でも自分は、望んだわけでもない世界で一人で飛ぼうと足掻いていただろう。

彼の「声」がいつも隣にある。  それだけで。翼は追い風を受けて、大空に飛び立つことが出来る。

「わざわざ、タワーまで報告しに来てくれたんだってな」 「え?」 「清家に、・・・同僚に聞いた」  窓を開けて、濃い青色に染まった夜空を見上げていた。白く小さな粒が広がるその隣に彼がグラスを二つ持って現れる。  中に入っているのはジンジャーエールだった。パイロットが、フライトの前に口にするアルコールに気をつけなければいけないことを、彼はよく知っていた。  夜も深くなったベランダには、秋の温度を含ませた夜風が吹きこんで心地が良い。二人並んで、グラスを傾けた。  しゅわり、と口の中で弾けるジンジャーエールの泡の感触を転がしながら、彼の話に耳を澄ませる。 「例のメディカル・エマージェンシーの乗客のことだ。家族が機長に礼に来たらしいと」 「ああ、あれは、頼まれたので」 「頼まれた?」 「ええ、淵上機長に」

『管制があのタイミングで許可を出したから、着陸出来たんだ。  礼を言うなら、管制にだろう』

「ナイスコントロールと、伝えて欲しいと言われて」 「・・・・・・」 「私からも。ありがとうございました。新波さん」 「・・・、何回も言わなくていい」  語尾は萎んで、彼はぐいとグラスの中のジンジャーエールを一口飲み下した。そうして口元に手を当てるようにして、面映そうに、手すりにもたれかかって目を伏せた。  室内の灯りに照らされて、表情はよく見えない。目尻の小さな皺は年齢相応に見える。けれどすいと伸びて無駄のないラインを描く横顔は、わずかな幼さも滲ませているようでもあって。二人きりという環境も手伝っているのだろうか、本能の温度を湛えたような鼓動が、心臓の底を打つ。  頬に触れそうになった指先を、理性で押し込めた。外の街の灯りに視線を逸した。グラスの中のジンジャーエールは、残り少なくなっていた。

「俺も、あんたに礼を言わなければいけない」 「え?」  彼の方を見ると、彼は顔を少しだけ傾けて、こちらを見ていた。何かを言いたげに少し間を置いて、そうして彼は口を開く。 「蕪木のことだ」 「、・・・ああ。私何かしましたか」 「管制が無ければ飛行機は飛ばないと。蕪木に話をしてくれたそうだな」

『秋津さんは、新波さんの「声」に救われたって、言ってました。  離陸する最後に一緒にいてくれるのは管制の「声」だって。パイロットは、管制の「声」を必要としているって』

「・・・もう少し、やってみるそうだ」 「そうですか」 「俺は、あまり気の利いたことは言えないから。  ・・・・パイロットのあんたに、励まされたことが力になったんだろう。助かったよ。ありがとう。」 「新波さん」  彼の部屋の小綺麗に整頓されたラックから、慌てて片付けたようにはみ出していたクリアファイルの端のことを思い出した。 『管制官の魅力とやり甲斐について』『空のナビゲーター、航空管制官とは』。  雑誌の切り抜きが挟まれていたそのファイルに、彼の人柄が表れている。そんな気がしていた。

中の氷を鳴らすように、彼はジンジャーエールの泡を見つめながら、グラスをゆっくり揺らした。  残り少なくなったジンジャーエールの先に、街の灯りが透過して滲む。 「やはり、俺に指導は向いていないな」 「そんなことはありませんよ。・・・私はいつも、あなたの管制に学んでいます」 「またそういうことを、」 「本当です、新波さん」

「秋津」 「言葉でなくても、あなたの生き方や振る舞いが、彼にとっては学びになる。  それに気づくかは彼次第ですが、きっと伝わると思います。」 「・・・・」  こちらを見つめる彼の目が、夜空と淡い部屋の灯りを映してふるりと震えた。 「新波さん。色々あったかもしれませんし、吹っ切れないのはお互いさまです。  まだ全然、雨の中を抜けたわけじゃない。  ・・・・・でも」

「今のあなたが、今ここにいる新波さんが。・・・私は好きです」 「・・・・」

「あなたの「声」だけじゃなくて。  あなたが抱えたものも、思っていることも。姿も全部、預けてください。新波さん」  グラスを置いた。今度こそ腕を伸ばして、身体を自分の方へ引き寄せる。  ゆるく羽織ったリネンシャツの中で泳ぐ腰は思ったよりもずっと細く締まっていた。腰骨の辺りから絞られてわずかな曲線を描くウエストの辺りに手を添えて、思い切って、自分の腰の辺りに触れ合わせた。  びくりと彼の肩が震えて、けれど抵抗する素振りは見せない。  鼻先と鼻先が触れ合う距離で、ジンジャーエールの泡が口の中で弾けた気がした。お互いに呼吸する温度が、唇に吹きかかった。

「あき、」 「竜太でいいです」 「・・・、」 「キスしていいですか」 「キス、・・・・は」 「言わせるなって、あなた言ったでしょう。もう、そのつもりだったんですよね?」 「・・・・」

腕の中の身体がゆっくりと力を抜くのを確かめて、頬に手を添えた。  そのまま、形の整って、けれど戸惑って言葉を告げられずに薄く開いた唇に、自分のそれを重ねた。  呼吸をお互いに交換するように、何度か食むような口づけを繰り返す。触れた手と、引き寄せた肌が、少しずつ体温を上げる。  呼吸の合間に顎を逸して、彼は夜空を見上げた。視線の先を追う。

「新波さん」 「・・・・、空と、飛行機を見上げるのが、・・・・好きで」 「・・・・」 「飛行機が飛び立つ、その瞬間の。空が開く感じを、味わいたくて。  飛行機に乗ってしまったら、見えないだろ?だから、・・・・」

「だから、管制官になりたかった。  ずっと、眺めていたかった」

返事をするように、青黒い夜空に夜間飛行の赤い光が明滅する。彼はそれを見つめると、小さな声で、呟いた。 「Good day.」  合図のように、背に腕が回される。ぎゅう、と幼い子どものようにしがみつく彼の身体を、強く抱きしめ返した。  唇を離して、見つめ合う瞳に濡れた空気が漂って、朱に染まった目元を、親指の先でなぞる。唇を繋ぐだけでは足りない。もっと、触れたい。

懇願にも似た焦燥を、お互いに交わす。  長い夜を思って、もう一度、離れないように指を絡めた。澄み切った夜空は、明日の晴天を静かに予告しているようだった。

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