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『新波さん今日は早番ですか』

『早番だが忙しい』 『今日、空いていますか。  私はスタンバイなので羽田にいるんです。良ければご飯を一緒に食べませんか。昼でも夜でも。』 『今日は研修の資料を作るから昼食返上だ。ついでに夜も遅くなる。悪いが付き合えない』 『空港内のレストランでもいいので。新波さんは何か食べたいものがありますか』

『せんべい汁』

「・・・・新波くんって、青森出身だったっけ?」 「さあ・・・・」  メッセージアプリの画面を見ながら、げらげらと笑うのはチーフパーサーの彼女だ。  携帯を持つ長い指先の爪には、控えめだけれど丁寧にネイルが施されている。ウェーブがかった髪をきっちりと上にまとめ上げて、のぞくほっそりとした首には華やかな柄のスカーフが花のように巻き付けられている。  羽田空港国内線ターミナルは、平日の午後のゆるりとした時間を迎えている。駐機場が見渡せる位置にあるカフェテラスで、目の前で紙カップのコーヒーを飲む彼女は、メッセージの送信先の相手である彼と羽田以来の飲み友達ということだった。  彼と深い関わりを持つようになってから、知らず知らずのうちに彼女には色々と相談を持ちかけるようになっていた。彼と自分との関係が、管制官とコーパイという繋がり以上のものに進展したことを知っているのは彼女だけだ。けして踏み込みすぎず、色眼鏡で見たりもしない。さっぱりとした彼女の振る舞いにすっかり頼り切っている、そんな自覚はあった。

「相変わらずの塩対応ね。  さすがトウキョウ・タワーが誇る鉄壁ガードの主幹管制官、新波歳也」  彼女はそう言って、ふふ、と口元だけで笑った。  艶の乗ったピンク色の唇が、午後の柔らかな光を受けて鮮やかに目に映る。外見をどうこう言うことはハラスメントになるからとそういう意識が先に働いて、美人だとかそういったことを感じることはあまりない。それを差し引いても、彼女は容姿端麗の部類に入ると思う。  それでも胸がときめくといったことは無かった。  その姿を目の前にして心臓が「uncontrollable」になるのは、彼に対してだけだ。  顔を合わせるのは数えるほどしかない。羽田空港の航空管制官である彼は羽田のコントロールタワーに籠もっていて、姿を見ることがほとんどないからだ。会おうとしなければ会えない。けれどお互いに業務は忙しく、会おうと思っても会うことは出来ない。  彼の印象は「声」が半分以上で、けれどその「声」こそが自分を囚えて離さないのだという自覚はある。

『JAPAN AIR 787, runway 16L, line up and wait.』  低く柔らかで、穏やかで、包まれるように心地がいい。  彼の「声」を聴くと、胸の底が少しだけ温度を上げる。そうして鼓動が、早まる。  雲の隙間に差し込む、一筋の光のように。彼の「声」が、まるで自分に翼を与えるようにも思えるのだ。  それは、その「声」に出会ってから、関係が変わったのだとしても何も変わらないでいた。

そんなことを彼女に言えば、ものの見事に笑われるだろうと慌てて小さく、気づかれないように頭を振った。 「・・・むしろ塩に磨きがかかっているようですけど」 「照れ隠しなんじゃない?いきなり塩が砂糖にはならないでしょ。新波くん、あなたとどう話をしていいか分からないだけなんじゃない?」  浮いた話も聞かないしね、と彼女は付け加えた。 「そうですかね・・・。清々しいほどに冷たいですが」 「あらそうかしら」 「?」  紙カップの中のコーヒーをこくりとまた一口飲み下して、彼女は長いまつ毛の奥の瞳を輝かせる。ほんのわずかに含んだ笑顔でこちらを見た。

「あなたと、・・・というか、パイロットとの、って言っていいのかしらね。  そのわだかまりが解けてから、新波くんずいぶん丸くなったって、CAの間じゃ噂になってるけど?」 「そうなんですか?」 「前ちょっと、他のエアラインの子に聞いたんだけど。  彼はもともと優しい人だから。CAの中でも人気だったらしいのよね。  羽田では最初から無愛想で近寄りがたいってイメージだったから気づかれなかったけど。また最近、人気急上昇中だって〜」 「・・・・・・それは、困ります!」 「あはは大丈夫大丈夫。丸くなったのは恋人が出来たんじゃないかって、そういう専らの噂だから」 「・・・・・、恋人・・・・」

「そう、恋人。心当たり、あるでしょ?」  彼女はそう言って、含んだように目を細めて笑う。コーヒーの燻された匂いが、ふわりと鼻腔をくすぐった。

『ずっと聴きたかった。  直接。・・・・・・声を』

「・・・とりあえず、せんべい汁はどこで食べられるか調べてみます。」 「そうね、がんばって。私もそれとなーく、新波くんに声かけといてあげる。  秋津くんが、せんべい汁一緒に食べたいらしいって。」 「いいんですか」 「人の恋路に首突っ込むのは趣味じゃないけど、・・・・貸しにしておくわね」  彼女は紙カップをダストボックスに入れる。そうしてキャリーバッグの取っ手に手をかけた。髪を整えて前を見据えた彼女の顔は、もうチーフパーサーのそれだった。

カフェテラスにはさまざまな表情で、離着陸する機を眺める乗客がいる。大きなリュックを背負った子ども、二人肩を寄せ合う男女、スーツに身を包んで、携帯で何事かを話す男性。  一人ひとりに、空模様は違って映る。濃く青い空に、人の数だけある人生の一瞬を積んで、大きな翼ははばたいていく。  空自のファイターパイロットとして挫折した自分に見えたのは、新しい空の景色だった。そうして新しい景色があることを教えてくれたのもまた、彼の「声」だった。

『大丈夫だ。  降りて来い、秋津』

「さあ、行こうかな」 「ええ」 「cleared for take off. ・・・お互いに今日も残りの業務、がんばりましょ。秋津副操縦士」 「はい」  大きく広く取られたターミナルの窓に、白い光が差し込んだ。  何かが起こりそうな。希望と予感を孕ませたその空を、深呼吸と共に仰いだ。

ーーー

手にした携帯の画面には、夏に不似合いな、くつくつと野菜の煮えた鍋の画像が映っている。

「せんべい汁・・・」  つぶやいた声は、窓の外の青く晴れた空に溶けて消えていくようだ。一つため息を吐いて、吹き抜けになった階下の出発ロビーを眺めた。  夏休みの旅行だろうか、色鮮やかなワンピースを着た幼い子どもが、母親に手を引かれている。表情はにこやかで、それを見ていると心の底が手のひらで包まれたように温かくなった。

一緒に乗り合わせて指導を受けることも多い淵上機長によく言われることを思い出した。 「乗る前に、客の顔を見ろ」と。  彼に出会う前、空自での出来事を引きずっていた自分には無駄にしか思えなかった言葉が、今では自分の心に染み入るように響く。  彼らを乗せて自分は飛ぶ。そのことの重みを空自のパイロットの職責と比べることは出来ない。けれど、命を預かる距離が近く、リアルになったことが自分の心情を変化させたことは間違い無かった。  それを気づかせてくれたのは彼の「声」のおかげだ。 「せんべい汁」を食べたいと言った彼の。丸い鍋に、野菜の上に乗ったふやけたせんべいが浮かぶ。

あのあと都内で「せんべい汁」を食べることが出来る店を探すと、意外にも数軒店があることが分かった。  誘うつもりで何度かメッセージアプリを開いてはみたものの、けんもほろろに断られる想像をしては画面を閉じる。そんなことを繰り返して、未だ上手く言葉が紡げないでいる。  確かに彼とは想いを確かめ合ったと思っていたけれど、それは自分だけなのかもしれない。そんな思いがずっと拭えなかった。あのキスもその場だけのものだったのかもしれない。いくら浮いた話が無いからと言って、慣れていないとは断言出来ない。そこまで考えて、彼のことは「声」以外にまだあまり知らないのだと思った。  キスまでしたんだから、付き合っていますよね。彼からはもちろんのこと、自分からその話題を振ることなど出来るはずもない。毎日メッセージのやり取りはするが、早番か遅番か、スタンバイかフライトか、まるで事務的な連絡のみだった。

『どんなに晴天でも、手のひらを返したように雨は降る』  彼が羽田に赴任する前の空港で、若いパイロットと揉めて一方的にパワハラの汚名を被せられたということは知っていた。  彼が、パイロットや年下の人間と深く関わることに及び腰になっていることも十分に分かっている。だから余計に、「年下」で「パイロット」の自分が、軽く踏み込むことは出来ない気がしていた。  わだかまりは解けたかもしれないが、彼の負った痛手がすぐに癒えるわけではないだろう。少なくとも返答があるということは自分のことを悪くは思っていないはずだが、自惚れの範疇を超えるわけではない。  今まで付き合った相手の反応にびくついたことなどない。けれど彼に対しては、慎重な姿勢をずっと崩せないままでいた。

できれば、いや絶対に嫌われたくない。  あの雨の日の勢いが嘘のように、今の自分は情けないほどに彼に振り回されている。そう自覚すると、大きなため息がもう一つ出た。

「はあ・・・・・」

自分と同じくらいの重みのため息が聴こえたのはその一瞬後だった。  ため息の漏れ聞こえた場所を探って横を向くと、少し距離の空いたところで、自分と同じように階下を眺めている男性の姿が視界に入った。  青いシャツにチャコールグレーのスラックス。コッパーブラウンの革靴は丁寧に磨かれているのかつるりとした艶がやけに目立つ。空に向かって立たせたようなつんとした前髪は時間をかけて整えられたようで、ひどく印象的だった。  ここにいるということはおそらく空港内の職員なのだろうが、どことなくパイロットではないような気がした。まじまじと見つめていると、彼の方がこちらの視線に気が付いたようだった。 「・・・・何ですか」  きゅ、と吊り上がった目と眉がこちらを値踏みでもするようにじとりと睨みつける。吸い込まれるような目の強い力に、少したじろいだ。 「ああ、いや・・・・」  この場所は空港職員なら誰でも行き交う場所だ。制服に着替える前では自分がパイロットだとは向こうも思わないだろう。小さく礼をして、彼に向き直る。

「すみません、じろじろ見てしまって。秋津と申します」 「あきつ・・・?」 「パイロットをしています。」 「え?パイロット?」 「はい」  小さく頷いて、ポケットにしまいこんでいたIDホルダーを見せた。それを覗き込んで、彼はようやく納得したように、ああ、と声を上げた。  そうしてぺこりと、腰から上を直角に曲げるように礼を返してきた。 「こちらこそ、メンチ切っちゃってすみません。  俺は、蕪木と言います。羽田で管制官してます」 「、・・・・管制官」 「はい。っても、今年入ったばっかりの、訓練生なんですけど」 「ああ、・・・・訓練生」 「はい。まだ全然半人前で、タワーデビューもしてないんで。管制官なんて、えらそうに言えませんが」 「へえ」 「秋津さん?でしたっけ?パイロットがなんでこんなとこに?」 「ああ、ええと・・・・」

「ここは、乗客の顔がよく見える場所なので。・・・・搭乗前に、たまに来るんです」  嘘ではないと言い聞かせる。  彼に会う前も、ここに来て淵上機長に言われたように乗客の表情を眺めることはよくあった。彼に会ってからはその頻度が少し上がっただけだと、誰ともなく、心の中でだけ呟く。 「へえ!偶然ですね!俺もそうなんです」 「蕪木、・・・さんも?」  一気に先ほどの気まずさが解けたように、彼は吊り目気味のその瞳を見開いて、にかりとこちらに笑いかけてきた。空いていた距離がぐっと近くなって、一歩後ろに後ずさる。

「俺も、先輩に同じこと言われたんですよ。  始めは何だあって思ってたんですけど。・・・管制官は乗客に会って話をすることは出来ないですから。  ここで顔を見て、この人たちを安全に目的地まで連れて行くのは、パイロットだけじゃないって。俺たち管制官も一緒に飛行機に乗ってるんだって確かめろって」 「・・・・」 「それから、毎日ここで見てるんです。俺たち気が合いますね」 「、あ、ああ・・・・。そうですね」  不意に浮かんだのは彼の顔で、そのことを気づかれまいと半ば無理に口元を引き上げる。 「一緒に、・・・乗る」 「ええ、かっこいいでしょ、うちの先輩。口だけじゃなくて、その人管制も完璧なんです。マジで尊敬してるんですよ、俺」 「へえ・・・・」

「あ、噂をすれば!

・・・・・・・・新波さん!!」

「あ」 「あ」

「おはようございます!新波さん」 「ああ、・・・・おはよう。」  鳩が豆鉄砲を食らったような顔を彼が浮かべたのはほんの一瞬だった。  まるで飼い主を見つけたような顔つきでじゃれつく後輩に戸惑った表情で、ぎこちない笑みと挨拶をするのを、少し離れた場所からただ見つめていた。  手にしていた携帯は慌ててポケットにしまい込む。何も知られてまずいことはないはずだが、そうしてしまうのを止められなかった。 「・・・・・新波さん」 「・・・・秋津、さんも。おはようございます」 「あ、おはよう、ございます・・・・」  小さく礼をしてきた彼に、同じように礼で返す。顔を上げるタイミングがぴったりと合って、距離はあるけれど見つめ合うような、妙な間が空いた。  雨の日に交わした唇の感触が不意によみがえって、どくりと心臓が大きく鳴る。言葉と「声」のやり取りはしていても、それは業務上のことで、こんな風に姿を目の前にするのはずいぶん久しぶりのような気がした。

思ったよりもずっと柔らかで、そうして濡れた雨の味がして。少し湿った髪の感触と、潤んで溶けたような目の色が今一瞬すぐそこにあるような気さえする。 「新波さん?あれ?秋津さんと知り合いなんですか?」  無邪気な声に、現実に引き戻されて彼を見た。困ったような表情を浮かべる彼の姿が、目に入った。

「・・・・それじゃあ、また。今日もよろしくお願いします」 「、・・・ああ、はい」

声がひどく他人行儀になったと思ったが、訂正する勇気も持てずに、慌てて踵を返した。  行き交う職員の足音と喧騒がやたら耳に響く。早足になる自分の足元を見つめて、ひたすら歩を進める。  しくりと底の方で小さく痛んだ心臓を無視できないとは思ったけれど、それは押し隠した。窓の外は晴天で、雲の一欠片も見えない。  けれど空のことは、空しか知らない。一瞬後に雨模様になることは、自分が一番よく分かっているはずのことだった。

ーーー

『TOKYO GROUND,JAPAN AIR 87.  それは弊社のBOEING"767"ですか?』

「ラジャー、当該機に進路を譲ります。・・・指示は、もう少し早いタイミングでお願いします」  切るようにそう言うと、淵上機長は不機嫌そうに眉を寄せて、ふう、と一息吐いた。進路を横切るボーイング"787"はゆるゆると滑走路へ向かっている。 「何だ今日の管制は。とろとろしてんなあ。ついでにめちゃくちゃ言いやがる」 「そうですか」 「訓練生が実地訓練でもしてるのか?」 「さあ、・・・・」  先日出会った、つんとした前髪の目力の強い彼の姿が思い浮かんだけれど、淵上機長に言うことでもないだろうと、バインダーに挟まれた運行票を一瞥する。  天候は晴れ、うっすらと白いベールのような雲はかかっているが、特に飛行に支障はないだろうと判断する。あとは先行機の離陸を見送って、こちらもプッシュバックからテイクオフの指示を待つだけだ。背もたれに体重を乗せて、狭い窓からの光に目を細めた。  今日は羽田〜千歳間を往復して、最終の伊丹便を往復すれば業務終了だ。電源をオフした携帯を思い浮かべた。  彼は遅番だと聞いた。ひょっとすると帰りは会えるかもしれないと思って、乗務する便の時間は送っておいた。  せんべい汁、一緒に食べましょう。その一言を口の中で繰り返す。

『JAPAN AIR 87,taxi to runway 16L』  たどたどしい指示から、いつもの、彼の声に切り替わる。  ゆるやかに流れる彼の低い声に耳を澄ませて、操縦桿に意識を戻した。

メッセージに返信は無かったが、既読はついていた。  反応の無いアプリの画面と、足元のスニーカーを交互に見つめる。自動ドアが開くたび、中の冷やされた空気が、温い外気と混じり合って肌を撫でる。青黒い夜空には白い絵の具の粒のような星と、ちかちかと規則的に点滅する赤い光が浮かんでいる。夜間の便が飛び立ったのだろう。  そうこうしているうちに、彼の姿を見つけた。遠目からでも分かるすらりとした身体つきに、淡いスカイブルーのシャツ。そして黒のメッセンジャーバッグ。視力だけは自信があって、彼だという確信があった。声をかけようと小さく息を吸う。 「新波さ、」 「新波くん」  彼が立ち止まって振り返るのが分かった。彼の後ろから小走りでやって来たのは、初老の恰幅のいい男性だった。  思わず身体を引っ込める。

「涌井次長」 「今日もご苦労だったね」 「いえ、・・・お疲れ様です」  ターミナルの出口で、二人は立ち話を始めた。  涌井次長と呼ばれた男性の方に意識が向いているのか、彼はこちらの姿には気が付いていない。携帯をポケットにねじこんで、様子を伺った。彼の表情は特に変わりはないように思えた。

「彼はどうだ」 「彼?」 「蕪木くんだよ。  今日はタワーデビューだったんだろう。栗田くんにも聞いたんだが、ずいぶんやらかしてくれたらしいね」 「ああ、・・・・」  蕪木、という名前を記憶の底から呼び出した。屈託のない、無邪気な犬のように彼に駆け寄っていく笑顔が思い浮かぶ。 『かっこいいでしょ、うちの先輩』  そう誇らしげに言った言葉がぐるぐると頭の中を回った。

彼は少し考えるような仕草を見せた後、静かに言葉を継いだ。 「言い間違いは誰にでもあります。フォローに不備はありませんでした。  ・・・・彼自身も実際の現場を経験して、自分の課題には気が付いたと思いますが。」 「栗田くん曰く、どうもやる気が空回りして、周囲が見えていないということだが」 「それはまだ数をこなしていないからでしょう。若さですよ」 「まあ確かに、・・・・君の若い頃に似ているなあ」  そう言って、「涌井次長」は彼の肩を何度か叩いた。 「次長」 「肩をいからせて、自分が一人で飛行機を動かしてやるんだってなあ。」 「・・・・」 「謙虚さのかけらもない」 「それは昔の話です、次長」

「負けず嫌いなところはよく似ているよ。  ・・・だからきっと、いい管制官になるはずだ。指導は栗田くんだが。新波くん、君も、彼を頼んだぞ」

「・・・・私は、指導には向いていませんから」  しばらくの沈黙のあと、彼がぽつりと、独り言のように呟いたのが聞こえた。じくりと、自分のことのように心臓がわずかに痛むのが分かった。 「涌井次長」も何も言わなかった。彼がそう話す事情を、理解しているのだろう。  気まずいというほどでもない沈黙が流れた後、彼は一瞬伏せた目を上げて、続ける。 「指導は出来ませんが。フォローは十分にするつもりでいます。」 「そうか。ならば頼もしいな。・・・まあ、君の業務の支障にならない程度にな」 「はい」  彼はそう言って、小さく頭を下げた。そうして「涌井次長」の姿が見えなくなるまでその背を見送っているのを、ただ黙って見つめていた。

「、秋津・・・?」 「新波さん」 「あ、・・・・・、ああ」  何故ここにいるんだというような表情を浮かべた後、彼は思い当たる節があったのか、一瞬空中に泳がせた視線をこちらに戻して、少し気まずそうに俯いた。  最終便を見送ったターミナルビルは、人気もずいぶん少なくなって、辺りには静寂が広がっていた。  彼は背に斜めがけにしていたメッセンジャーバッグから携帯を取り出す。そうして画面を確かめるような素振りを見せてから、こちらに向き直った。 「・・・・・連絡。確認はしていたんだが。返せなくて」 「いえ、私の方も・・・」 「悪かった」 「大丈夫です」  一気に歯切れの悪くなった彼の口調に、どう言葉を重ねていいか、頭を働かせるけれど上手く口と頭が協応しないちぐはぐな感覚になる。 『どう話していいか、分からないんじゃない?』  そう言った、海老名チーフの言葉が彼の表情に重なる。どう話していいのかは自分もよく分からないのだと思った。 「声」だけを交わしている時はこんなことはないのにな、と頭の片隅でふと思う。それは彼も同じことなのだろう。饒舌で滑らかなインカム越しの「声」は聴くことが出来ない。携帯を手のひらで転がしたまま、彼は何も言わないでいた。  数秒ほどなのだろうが、体感数分ほどの沈黙が流れた後、ようやく彼が口を開いた。

「・・・・今日は、ずいぶんそっちにも迷惑をかけた」 「え?」 「蕪木が、・・・・ええと、後輩が」 「・・・・」 「今日が初めてのタワーだったんだ。彼なりに努力はしていたが、あんたらを混乱させたと思う」 「いえ・・・・」 「迷惑をかけておいて、言う義理はないが。  ・・・しばらくこらえて欲しい。慣れるまでは俺もカットインしてフォローする。出来ればぎりぎりまでは、あいつに任せたいと思っている。  むろん、運航に支障が出ないようにするつもりだ」 「・・・、分かってます、大丈夫です新波さん。こちらも理解はしています。」 「そうか」  ほんの少し肩の荷が下りたかのように、彼は口元を緩めて微笑んだ。更けようとする夜の暗がりに、灯りが灯るように、彼の笑顔が瞼に滲んだ。

『優しい人だから』  繰り返し、彼女が言うその言葉の意味が分かった気がした。  きっと彼は、そうやって誰も知らないところで誰かを支えているのだろう、いつも。  そのさりげなく柔らかな思いやりは影も薄く脆くて、気が付かない者は全く気が付かない。支えられている者は、それが無ければ存在することが出来ないのに、だ。  けれど気がつくかそうでないか、感謝されるかそうでないかは彼にとっては重要ではないのだろう。  管制という仕事そのものではないかと思った。彼は、管制そのものだった。  そう気が付いて、じくじくと、胸の痛みが大きくなったような気がして、けれどそれは、底から沸き上がる感情とも綯い交ぜになって、自分の心を覆っていく。

何という感情なのだろう。ただの恋情ではなくて。  どうしようもなく愛しくて、抱きしめたくなる、この心は。

「・・・・・あの」 「え?」 「・・・、せんべい汁」 「・・・・、せんべい汁?」

引き寄せようとする腕は、彼に伸ばされることはなかった。その代わりというわけではないが、一歩進んで、彼と距離を詰める。  少し前は警戒して一歩下がっていた彼は、今はそれはせずに、詰められた距離に少し戸惑うような表情を浮かべるだけだ。 「せんべい汁食べに行きませんか」 「・・・・、何だ藪から棒に」 「新波さん、言ってたでしょう。何が食べたいかって聞いたときに。せんべい汁って」 「・・・、ああ、そんなことも言ったような・・・」 「食べに行きましょう。調べたんです、都内で、せんべい汁が食べられる店」  そう言って、慌ててポケットから携帯を取り出した。画面を表示させようと指先をあたふたと動かす自分の動きをしばらく見つめて、彼はふ、と小さく息を吐いて笑った。 「調べたのか」 「ええ、そんな店無いだろうと思っていましたが。あるものですね。ほら」 「いや、いい」 「え?」

「せんべい汁くらいなら、作ればいいんだ。無駄に金を使うことは無い」 「作れば・・・?」 「次の公休日、・・・・あんたの休みが合う日でいい。  俺の部屋で食べればいいだろう」

「・・・・、え」 「大した材料はいらない。青森の知り合いがせんべいを送ってきたから、ちょうどいい。  その方が節約になる」 「いえそういうことではなく」 「?」 「あなたの部屋に、私が行って、・・・・いいんですか?」

おそるおそる尋ねた自分に、解せないという顔を浮かべた彼は、言葉を重ねる。 「別に構わんだろ」 「新波さん、意味分かってますか?」 「・・・・、馬鹿にするなよ。分かってるから。」  彼はそう言って、少し不機嫌そうに顔を逸して、携帯の画面にわざとらしく目を落とした。  伏せた睫毛が少し震えて、はあ、と長く深いため息が漏れるのが分かる。 「言わせるなよ、そういうことを」 「あ、はい」  どくりどくりと波打ち始めた心臓の音が聴こえるかもしれないと思った。一気に色々なものを飛び越えたこの事態は、日付変更線を越えて南極に着陸でもした気分だ。  特に目的があるでもなく画面を遊ぶように弄っていた彼は、振り切るようにして携帯を鞄に入れ直した。そうして襟元を整えて、駅の方向へ足先を向けた。

「、あ、新波さん!」 「何だ、・・・・あんたも帰りだろ」 「え、ええそうですけど」 「そこまでは一緒だろう。行くぞ」 「あ、・・・・・はい・・・・」  自分でも情けないほどひょろひょろとした声が出る。けれど一度跳ね上がった鼓動はなかなか収まらなくて、先ほどの会話が何度も何度も脳内をループする。気が付かれないように慎重に、隣に並んで歩き出す。彼の革靴の軽い音が、アスファルトを叩いて、それに、自分のスニーカーの、砂を擦るような小さな足音が重なる。

少し汗ばんだ彼の首筋から、ふわ、とほのかな香水の香りがする。甘さの中に涼しさを漂わせたその香りは彼にとても良く似合っていると思った。  湿り気を帯びて、細い襟足の髪が張り付いたその項にまたどうしようもなく神経が昂って、次の休みまでこの乱高下の激しい心臓が保つのだろうかと、変な顔になるのを止められなかった。  唇をぎゅうと引き結んで、彼の隣を一歩一歩踏みしめて歩く。肩がほんのわずかに触れて布の音がする。その音に重なるような自分の心臓の音は、彼には聴こえていないようだった。

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