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曇天模様の隙間に、溶けるような声がする。  その声を、一度でも、忘れたことはない。雨の中に濡れて立つ自分の先に見える、一筋の光のように。  その声はいつでも、自分に、確かな未来を指し示していた。

空は気まぐれだ。思ったとおりには、動かない。 「ハロ現象だな」  コックピットから見える、太陽を囲むくっきりとした美しいリング状の光を眺めて、思わず小さく息が漏れた。その呟きとため息を逃さなかったのは、左隣で操縦桿を握る、淵上機長だ。  飛行時間4000時間を超えるベテラン機長にとっては、日常茶飯とも言える事象なのだろう。狼狽える素振りもない。  那覇を発つ頃には羽田は雲ひとつ無い晴天という予報だった。梅雨が明け太平洋高気圧が張り出した7月末の日本列島に、雲の影は見当たらないはずだった。 「羽田に着く頃は大荒れか」 「ゴーアラウンドの可能性もありますか」 「他の航空機も上空で待機してるだろうしな。今頃羽田の上は大渋滞だな」 「でしょうね」

「・・・操縦を交替するか。秋津」 「いいえ、このままで」

口元だけを上げて微笑んだ。呆れたように、機長は肩を竦めた。 「相変わらずだなあ。元ファイターパイロットの血が騒ぐか?」 「・・・・そんなことはありません。ただ、今日はきっと、ラッキーな日なので。  最後までさせてもらえますか」 「?ラッキー?」 「ええ」  そう言って前方の雲間に視線を動かした。  穏やかに雲の海が漂っているだけだったが、何となく気配はした。遠く前方に、湧き立つ雲の柱、マイクロバーストがかすかに見える。  やがて耳元に、管制からの指示が聞こえるのが分かった。羽田からだ。

『JAPAN AIR 900.  ランウェイ22サイド、現在の風は、150度方向から約20ノット』 「・・・、ラジャー」

その声は眼前のその稲光を放つ雲をものともせず、穏やかで低く柔らかな音を耳元で響かせる。自然と緩んだ頬を訝しげに見つめる隣の視線は、頭の中からは消え去っていた。  耳を澄ませて小さく呼吸をすると、呼応するように声が重なる。

『JAPAN AIR 900.  contact TOKYO TOWER,118.57.』

雲間から光の筋が差し込んで白く広がる、そのイメージが視界を埋め尽くす。  それは、彼と交わした初めての交信の記憶だった。そうして光は吸い込まれるように消えて、脳内は冷静に澄み渡り、冴えていく。 『安全上の都合のため、日本語で申し上げます』  彼の声だけが、機械越しでも水に波紋を描くように、凛と響く。

『マイクロバーストが滑走路から離れています。  横風150度の方向から15ノット。風が弱まっています』

「了解。ーーーーー着陸します」

ーーー

「秋津くん」

背後から声を掛けられて振り返ると、背の高いチーフパーサーが微笑みを浮かべて駆け寄って来るのが見えた。  緩くウェーブのかかった髪を高い場所で一つにまとめ上げている。すらりとした体つきに、チーフパーサーだけが纏うことが出来る白いスーツが映える。 「海老名さん」 「また振られたのね、秋津くん」 「ええ。残念ですが」  そう答えると、ふふ、と悪気のない笑い声を彼女はあげた。

「毎回毎回傑作ね。」 「ええ、でも今日は、『ナイスコントロール、ありがとうご』までは言わせてもらいました」 「それは健闘!  新波くん、マイクロバーストが思ったよりも早く引けて、ご機嫌だったのかしら」 「そうですね」

多少の遅延はあったものの、ダイバートする機は無く、全機、滑走路を変更しながらもどうにか着陸できたようだ。マイクロバーストは比較的早く羽田上空を去っていった。離発着を終えた安堵感はスタッフだけのもので、乗客にとっては何も変わらない。  羽田のいつもの喧騒が、耳に響く。  隣を歩く高いヒールの音も軽快にフロアを叩く。悪天候による機内の乗客の不安に直面するのはCAである彼女たちだ。  きっと何かと心を砕くのだろう。彼女も、ほっとしているに違いない。

「・・・新波くんは鉄壁のガードの男だからねえ」 「そうなんですか」 「あの歳で浮いた話一つもないの、もはや・・・・って話だから」

「新波くん」と気安く呼ぶのは、この羽田に同時期に配属になり、多少関わりがあったからだと聞いた。  1エアラインのCAとどんな関わりがあるのかと彼女に一度尋ねたら、ただ馬が合っただけの飲み友達だと、意味深でもなく答えてきた。  管制官は国土交通省の職員だ。  オフィスだけなら目と鼻の先にあるというのに、管制官と、パイロットを含むエアラインの職員はほぼ接点が無い。数年に1度の実地訓練で顔をあわせる程度の関わりしか持てない。  繋がっているのは声だけ。だから、彼の顔は知ってはいるけれど、声の印象が何よりも強かった。

高過ぎるわけでもなく、低過ぎることもない。  速さもちょうど良く間のとり方も絶妙で、管制指示の一つ一つが粒のようにしっかりと耳に届く。  それよりも何よりも、彼の人柄を滲ませているのだろう声そのものが、ただ単純に好きだった。  どんな悪天候で離発着に困難な状況でも変わらない、確かな自信に裏付けられた包み込むような穏やかな調子の声がいつも自分を出迎えてくれる。  それに、どうしようもなく惹かれるのを、止められないでいた。

「へえ、・・・」  そうわざと気の無い相槌を打つと、彼女は長いまつ毛に縁取られた目をぱしぱしと瞬かせてから、口元を上げてこちらを見つめた。  おかしそうなその口元は、派手すぎないピンクを溶かしたベージュ色のリップで艶めいている。 「あと、それにしつこく懐く大型犬、秋津竜太の存在も、CAの間では専らの噂ね」 「そうですか、光栄です」

「諦めないわねえ」 「もちろん」 「彼のどこにそんな?」 「・・・・そうですね」

「・・・・恩人、なので」 「恩人?」

尋ね返して来た彼女に、緩く笑うだけで返した。  彼女は何かを汲み取ったのだろうか、それ以上は踏み込もうとはしなかった。  誤魔化したつもりは無くて、けれど自分の本当の心を明け透けにすることにはまだ躊躇がある。  自分がというより、彼に迷惑が掛かるのは申し訳ないとただそれだけのことで、許されるならきっと空の上で大声でこの想いを叫んでしまうのだろうな、とおかしな気持ちになった。

「昔はもうちょっと丸かったらしいけど」 「?新波さんですか」  そう尋ねると、彼女は小さく頷いて、どこか遠くを見るような目をした。 「そう。あんなに情け容赦なく、交信切っちゃう人じゃなかったんだけどね。」

『ナイスコントロール、新波さん。』 『・・・』 『ありがとうご』 『Ryuzin64,TOKYO TOWER,runway22...』

「・・・・」 「彼は飲むと、ていうか飲む以外でもほんとに良い人よ。あ、今度誘ってあげようか」 「・・・・いや、いいです。  私が来るとなったら、全力で逃げられそうで」 「それもそうね。秋津くんてさ、新波くんに何かした?」 「いいえ、何も。というか、接点すらもほとんど。」 「じゃあ、何なんだろうね」

「・・・・何というか。  新波くん、秋津くんには特に塩なんだよね」

「・・・・」 「あ、ごめん」 「・・・、いいえ」  彼女の言葉に、ちくりと小さく胸は痛んだけれど何でも無いように笑い返す。  彼女はほんのわずかに気まずそうな表情を浮かべた後、じゃあまた、と軽く手を挙げると、声を掛けてきたグランドスタッフの元へ駆けて行った。

彼女の巻く、首元の色鮮やかなスカーフが目の端に映って残る。  彼の声を思い出して、目を閉じた。  地上から機を導くその声は柔らかでいつも全てを受け入れるように心地よい。けれど機が降りるとその瞬間から彼のその声はなりを潜めて、いつも、冷たくて温度のない手短な言葉だけが残る。  その理由も知りたいけれど、自分には知る術は無い。  彼と仲の良い彼女は良かれと思って彼と会う誘いをかけてくれるが、いつも断ってしまう。好機とも言うべきそのきっかけに乗り切れないのは、狡いことをしているような気持ちになることももちろんだが、彼と相対することに、今ひとつ勇気が持てないせいもあるのかもしれなかった。

マイクを通した声だけなら、あんなに諦め悪く踏み込めるというのに、情けないことだ。  目の前に彼がいてその声を直接聴いてしまったら、感情が加速するのを抑える自信が無い。そんな気がしていた。

ーーー

雲間から雨粒が一筋二筋、頬に落ちた。  朝には濃く青い空が広がっていた羽田の上空は、今は白とグレーを混ぜ込んだような薄い灰色で覆われていた。奥には、いちだんと暗い色を塗り込めたような曇り空が広がって見える。  気が滅入るな、と喉の奥で声には出さずに呟いて、空を見上げた。視界の端に、管制塔の丸い筒状の建物が映る。  こんな天気の日が苦手なのは、むろん滑走路の状態や離着陸時の対応など気がかりな点が増えることがあるからだが、それ以上に、自分の心の中で、黒い雲のように広がる感情があるからだった。  もうずいぶん長い時間がたって、普段は何でもないようにやり過ごせる。けれど、こんな天気の日はどうしても、記憶は押し込めようとしてもよみがえって、心臓の奥をしつこく尖った針で刺し続けてくるのだ。

『お前にはやはり適性が無いとの、上の判断だ。』 『何故ですか』 『適性が無いからだ。  その理由は聞いても、決定は覆らない。・・・秋津三尉、残念だが』  暗い雲が垂れ込めた空に相棒だったはずのF15の灰色が淋しげに溶けた、そんな日だった。

雨脚は徐々に強くなって路面を激しい調子で叩き続けている。ターミナルの灯りに照らされて、雨が星の粒のように路面に反射していた。  2130のラストフライトを終えて帰路につく。あいにく天気を読み間違えて、傘を持ってきていなかった。  この季節にはよくある局地的な俄雨だろうと、屋根のあるターミナル横で待つことにした。若い独身者が住む職員寮まではそれほど距離もない。止まないなら走って帰ろうと、ぼんやりと、雨に濡れて湿り始めたスニーカーを見下ろしながら算段する。  少し距離を取った隣に人の気配がしたのはその時だった。顔を上げて、そちらに視線を遣った。

「・・・、新波さん?」

心の中でだけ呟いたつもりだったけれど、声に出ていたらしい。傘の下の横顔がゆっくりとこちらを向くのが分かった。  声はほぼ毎日のように聴いているが、本人と顔を合わせるのは1年以上ぶりのような気がした。前に会ったときの記憶も曖昧だ。 「・・・、秋津、・・・・さん、」  名前を呼ぶ声にどくりと心臓が大きく波立つ。  同じ声だ、と当たり前のことに気が付いて、なんとも言えない、気恥ずかしい気分になった。表情に出ていそうで慌てて、唇をぎゅう、と強く引き結んだ。  いつもは「秋津」とは言われない。自分の乗る便の名前を呼ばれるのに慣れきっていて、名前を改めて呼ばれることに少し狼狽える。どくどくと血を送り出す速さを増した心臓の音が、やけに煩い。

「名前、覚えていてくれたんですか」 「・・・・まあ、一応は」  彼はそう言って、少しだけ面映そうに目を逸した。睫毛が音も無く伏せられて、すっきりとしたラインを描く横顔は、垂れ落ちる雨の雫に滲んでしまいそうな気もした。  形の良い唇を見つめる。その唇があの声を紡いでいるのだと思った。じわりと肌が温度を上げて、それは夏の夜の湿気のせいだろうかと思った。

「・・・・用意がいいですね」 「?」 「今日、朝は晴れだったでしょう」 「・・・」 「まさか、雨が降るなんて思っていなかったもので、傘も何も」 「・・・そうですか」 「さすが管制官ですね、新波さん。天気も先読み出来るんですね。」

「・・・、そんな大層なことじゃない。これは置き傘だからな」 「・・・・、」  にべもない返答に、答える言葉は持ち合わせていない。続けようとした口元は萎んで、雨音に言葉はかき消されていく。  速い調子で鼓動を打っていた心臓もひんやりと静まって、落胆に少し項垂れた自分の姿を、彼が訝しげに見つめているのが気配で分かる。  そうしていつもと同じことだろうと思い直した。  いつもそう、的確なコントロールに謝意を述べるその前に、ぷつりと交信は途絶えて、思いは伝わらない。  それと同じだった。数秒ほどの沈黙の後、彼が口を開くのが分かった。

「、・・・・あんただろう」 「え?」 「いつも、ランディングの後に余計なことを付け足してくるのは」 「・・・・余計、」

一瞬、彼と視線が絡まる。  じわりと、感情の温度が知らぬうちに滲み出したような温い視線が、自分を捉えて、どくりと、心の別の部分がゆるりと波立った気がした。  けれど彼がそれに気づいている素振りは無い。少しだけ見つめ合ったあと、彼は目を逸した。そうして逸したまま、彼はあの、温度の無い淡々とした口調で続けた。 「いちいち礼なんて言わなくていい。こっちは仕事だ」  抑えてはいるが、剣呑とした口調がこちらにも伝わる。ざわりと神経がざわついた。  心が追いつかないのが分かる。  彼の、得も言われぬ雰囲気を纏った姿形に妙な感情が湧いて、いつも聴く声には心臓が跳ねるような思いがして、そうして言葉の鋭さには苛立ちを覚える。  忙しい。そう思った。

彼は言葉を重ねる。 「褒め言葉もいらない」 「・・・ナイスコントロールに、ナイスコントロールと言って、何が悪いんですか」 「毎日羽田でどれだけの便が行き来すると思っているんだ。その一つ一つにナイスコントロールもくそもないだろ。礼もいらない」 「でも余計なことではないでしょう。  管制の指示がなければパイロットは動けない。パイロットにとっては管制からのアプローチが全てです。乗客の命を共に預かるのだから、礼の一つくらいは言わせて欲しい」 「・・・それが、無駄だと言っているんだ」  彼はそう吐き捨てるように言って、大きく息を吐いた。

「羽田は世界で最も忙しい空港の一つとも言われている。  一日の離着陸は約1300便。ラッシュ時には、1分に1機が滑走路を使用する。  その間に飛行管制は出発機と到着機の順序を決定して、離着陸を指示する。着陸機の合間に、出発機の離陸許可を出すことになる。  パイロットにとっては着陸後のたった10秒かもしれんが、それが1300便続けばどれだけのロスを生むか、計算くらいは出来るだろう」 「・・・」 「感傷に任せて、無駄なことはしなくていい。  ・・・お互いに、果たすべき役目を果たす。ただそれだけのことなんだから」

「・・・・・、それでも」 「・・・、」

止むことのない雨の音が耳元でざんざんと響く。  その雨音に重なるように、彼の声は胸を押し潰すような調子で言葉を形作る。  けれどなぜだろうかと思った。彼が本気でそれを言っているようには思えない。鋭い否定の言葉を紡ぐ表情は、どこかひどく傷ついているようだった。  不意に、彼と交信をするときに浮かぶあの映像が眼前に広がる。黒い雲と雲の隙間を裂くように光が差して、辺りを照らすようなあの映像だ。  暗い雨を飲み込むように、包んで溶かすように、声が聴こえる。

『大丈夫だ。ーーーーそのまま、降りてくればいい』

「私は、あなたの声に、・・・・・救われたんです」 「・・・・何の、話だ?」  こくりと喉の奥につばを飲み込んだ。胸はじくりと締め付けられるように痛んで、湧き出す記憶に、視界がぐらりと歪む。  形にしていいものかと、一瞬自分の中で二つの答えが行き来する。けれど止めることは出来なかった。

「雨の中にいた私を、あなたが、照らしてくれた」

「無駄じゃ、ないんです」 「・・・・」 「新波さん、私は」  濡れた袖口をそのままに、自分の手が彼の手を取ってその腕を引き寄せる。  雨の雫に濡れた腕はそれでも、仄かに暖かい。湿った肌の感触が手のひら全体に伝わって、ぞわりと本能が底の部分でざわつくのが分かった。  抗いがたい欲のような、得体の知れない願望のままに胸元に抱き込もうとしたところで、するりとその腕を解かれた。  唐突なことに戸惑った色を浮かべるその目が、自分を映しているのが分かる。ゆらりと揺れたその目は、感情を振り切るように一度大きく瞬きをすると、こちらを小さく睨みつけた。 「何の話なのか、分からん」 「新波さん、・・・・」

「とにかく、こっちにいちいち絡んで来るな。  管制官とパイロット、それ以上の繋がりは、必要じゃない」 「・・・・」

彼はそう言って、背を向けた。  緩むことのない雨の中を逃げるように足早に去っていくその背の肩口はわずかに濡れて、下の肌の、薄い色が透けて見えた。  湿気と雨で濡れた身体のラインにぴったりと沿うそのシャツの色が、傘の濃いネイビーの色と共に、夜の空港に溶けていく。  悪手だったと思い直してももう遅かった。頭の先からバケツの水を被ったように雨は降り注いで、彼よりもずっと濡れているはずなのに、その感覚は驚くほどに感じることはない。  ただどくりどくりと大きく音を立てる心臓だけが、生きている感覚のようだった。

ーーー

戦闘機のパイロットはずっと幼い頃からの夢だった。

念願叶って、厳しい訓練を終えて晴れて戦闘機のパイロットになった。けれど実戦配備まで行くことはなかった。  民間機のパイロットよりも、空自のファイターパイロットは狭き門だ。適性が無ければ簡単に、残酷なほどに簡単に振り落とされる。それは、自身の努力でどうにかなるものでもなく、ただ、決定されたことに従うより他なかった。  戦闘機で飛び続けることは叶わなかった。けれど往生際悪く、飛ぶことを諦めきれなかった自分は空自を辞めて民間機の操縦士の試験を受け直した。  思ったよりもずっと簡単で、思ったよりもずっと楽だと思った。それがかえって、飛ぶことへの渇きをますます大きくさせた。

ーーーー俺がしたかったのは、こんなことじゃない。

仕事を舐めていたわけではない。  けれどどうしても、民間機のパイロットという仕事に身が入らなかった。そうして、ぼんやりとしていてもどうにかなってしまっていたのが良くなかった。  ある便にコーパイとして操縦席に座った日のことだ。ひどい悪天候でゴーアラウンドが続き、そろそろどこかに着陸しなければ燃料が尽きるというときのことだった。  上空では乱気流が発生し、乗客の不満、不安は頂点に上っていた。ダイバートはできれば避けたい。けれど着陸の許可は降りなかった。

『馬鹿野郎。秋津、こんな中無理に降りるなんて出来るか』 『これくらい大したことじゃない。降ります』 『勝手なことをするな。これは戦闘機じゃないんだ、客が乗ってるんだぞ』

折り合いの悪い機長と乗り合わせたこともますます状況を悪くさせた。  機長はあてにならない。自分が操縦するしかない。あのときの自分はたった一人で戦闘機に乗る、そんな傲慢とも言える感情に支配されていた。  不安は手元を狂わせる。長く上空で待機したストレスをコントロール出来ずに、判断力が鈍っているのも自分ではよく分かっていた。  乱気流くらいはどうにかなる。隙間を縫えば、どうにか。  その時のことだった。

『大丈夫だ。そのまま降りてくればいい。  ・・・・絶対に、無事に。あんたの機を降ろす。』

耳元に響いた声はまるで雲間から指す光の筋のように、柔らかで静かだった。  神経が徐々に静まって、空が青みを増してみるみるうちに晴れるように、頭の中がクリアになっていくような気がした。  無事にランディングした後、肩の荷が降りた自分の耳に、窓の外の晴れた空に溶けるように、彼の声が染みていくのを感じた。

『ナイスフライト。・・・・秋津さん』

涙が零れた。  止めようと思っても、止めることが出来なかった。

「秋津くん」 「海老名さん」  ブリーフィングを終えた後、声を掛けてきたのは彼女だった。今日のフライトは那覇から羽田の便だ。太平洋上空にある前線と、その周りを囲むように広がる低気圧の動きが気になるが、フライトに大きな影響は無いと情報共有したばかりだった。  何か言い忘れたことはあるかと彼女の顔を見たが、どうやらそうではないらしい。 「新波くんと何かあった?」 「え?」  どうしてという表情は隠すことは出来なかった。どんな顔を浮かべればいいのかと逡巡して、結論、どうしようも出来ないなと観念して、彼女に向き直った。  あの雨の夜の、濡れた彼の腕の温度が手のひらによみがえる。躊躇うような少し歪んだ瞳も頭に浮かんだ。

「ああ、・・・・ええと」 「昨夜新波くんと話したんだけど。何だからしくないから。気になって」 「どうして私だと?」 「あ、そうよね。・・・・違うなら、いいんだけど」 「いや、違わないですけど」 「・・・・そうなんだ、」

「あのさ」 「はい」 「この間、新波くんと仲が良い管制の人に偶然、話聞いたんだけど」  彼女はそう、少し声を潜めて、耳元に唇を寄せてきた。それを拒む選択肢はない。  フライトまでは、まだ少し時間がある。彼女の話に耳を傾けた。

「視界不良?」 「何だ、・・・ついてねえなあ」  淵上機長が、そう言って、ち、と舌打ちをする。管制からの「濃霧」の報告は、那覇から飛び立った数十分後にもたらされた。  上空は暑いほどの日差しに照らされてはいるが、いつもよりも濃い雲の海が広がっているような気はしていた。雲海の下の天候は想像に難くない。 「羽田はILS高カテになりそうだな」 「高カテですか」 「ああ。ちょっと気合入れんとなあ」  淵上機長はそう言って、肩を回すような仕草を見せた。

『羽田は現在、目視での着陸が難しい状況です。  IMCでILSもCATⅢまで引き上げ、低視程体制の準備も整えています』 「ラジャー」  淵上機長の予想は現実のものになりそうだった。操縦桿を握る手にわずかに力がこもる。 「秋津、代わるか」 「・・・いいえ。問題ありません」 「無理はするなよ」 「心得ています」  こうと言ったら聞かない質なのは、長く指導を受ける淵上機長はよく理解しているだろう。黙って、羽田に向かう前方を二人見つめた。ただ白い雲の海が、長く広がる。

このわずかな緊張感は、覚えがある。そう思った。  淵上機長には見えないように、少しだけ、唇を引き結んだ。  目を一瞬閉じて、あの日のことを慎重に、ゆっくりと噛み砕くように記憶の底から取り出した。身勝手に悪天候に向かっていこうとした、あの日のことだ。  経験を積んでもう同じことは繰り返さないという自負はある。けれど苦い思いをしたという記憶はわずかにその手を強張らせた。  状況はあの日とは違う。けれど、頭の中を巡るのは、投げやりだった自分の感情と、冷静さを失った自分の、濁った視界の記憶だ。  思い出すまいとしても、一度蓋を開けてしまったその記憶はみるみるうちにコントロールを失って黒い雲のように眼前に広がっていく。こうなることは分かっていたから残った理性で整理しようとしたが、感情の方が一歩先んじた。  上手くいかない。小さく呼吸を繰り返した。

「秋津、代わろう」 「・・・・いや、機長」 「無理はするなと言ったはずだ。乗客の命が第一だろう」 「ですが」 「代われ」  何かに勘付いたのだろう、淵上機長が鋭い視線と低い声でそう促す。

『JAPAN AIR 910.TOKYO TOWER.  preceding traffic reported runway insight at 500ft.』

「、・・・新波さん」 『安全の都合のため、日本語で申し上げます』  低く、落ち着いた声音は確かに彼のものだった。一つ一つ、流れるようでいて必要な情報は確実に耳に届く。凪いだ海のような声は、底でざわついていた神経を少しずつ穏やかに鎮めていく。  乱高下する感情を背を柔らかに叩いて治めるような、彼の声はそんな風に聴こえた。 『滑走路付近は濃霧のため、管制塔からは目視出来ません』 「・・・」 『横風7ノット。周囲に航空機はいません。  JAPAN AIR 910,runway 34L.cleared to landed.wind300 at 7.』 「新波さん」 『・・・・、秋津』

『大丈夫だ。濃霧でも航空機は降りられる。・・・・互いの声を、信じさえすれば』 「・・・・、」

互いの声を、信じさえすれば。

『絶対に、無事に。・・・あんたの機を降ろす。秋津、降りて来い』

白く濃い雲と雲の隙間から光が差すように。それはけして現実のものではないけれど確かに、そのイメージが自分を包む。  操縦桿を握り直して、彼の声に耳を澄ませた。  大丈夫。子どもの願いのように幼くて拙いその言葉に、何よりも強い信頼が込められている。 『JAPAN AIR 910.report landing』  彼の声が、まるで追い風のように翼を押す。500、100。高度は徐々に、下がってくる。

「ーーーーーーーーNow landing.」 『ナイスフライト。秋津』  やっとのことで絞り出した自分の声に彼の声が重なる。その声は柔らかで包むようで、大きく息を吐いて、操縦席にもたれかかる。

「・・・・ナイスコントロール。  ありがとうございました、新波さん」  ようやく最後まで告げることが出来た言葉に、彼の返答は無かった。  目尻が一瞬熱くなって、けれどかつての自分のように、涙は零れなかった。  それは、成長したということだろうか。それとも、違う意味があるのだろうか。一人、また目を閉じて、彼のことを思った。

今まで見たことはないけれど、瞼に浮かぶ彼の姿は、小さく笑っていた。

ーーー

『新波くんが、すぐに交信を切っちゃう理由が分かったのよ』  彼女は少し沈んだような表情で、そう切り出してきた。

「新波さん」 「・・・・、」  けして大きく驚きはしないが、明らかに狼狽した表情の彼に、少しおかしくなった。駆け寄ると彼は一歩足を後ろに引いて、警戒するような表情をわずかに浮かべる。  彼の業務が終了する時間はすでにリサーチ済だった。彼女の、仕方ないわねと笑った顔が、一瞬よみがえった。

「何なんだ、あんたは」 「何って、お礼を言いに来たんです」 「礼はいらんと、言っただろう」 「今回は本当に助かりましたから、聞いてください。直接顔を合わせて、業務外の時間にすることなら問題ないでしょう」 「・・・・、」 「もっと早く、こうすれば良かったんだ」 「何を、・・・・」

彼はそう言いながらも、こちらを拒む様子は見えなかった。一瞬逡巡するような表情を浮かべてから、彼はふいと顔を逸して、傘を持つ。  それはあの日の夜と同じ濃い海の色をした傘だった。  窓の外は予報通りの雨がただ降りしきる。予報よりは早く激しさを抜け出した今は、優しい雨音が響くだけだ。  隣に立って、同じように歩を進めた。肩が触れそうで触れない距離を保って彼についていく。彼は特に何も言わずに、大きく黒い通勤用だろうメッセンジャーバッグの肩紐を握り直した。

「あんたは徒歩か」 「ええ、近くの寮にいますから。新波さんは?」 「俺は電車で都内まで帰る。残念だが、そこのターミナルまでだな」 「そうか、じゃあ手短に話をしなければ」 「俺に話すことはないが」 「いいです。私が、話をしたいだけなので」 「・・・・」

二人揃ってターミナルを出ると、梅雨明け後の驟雨の、濡れた水の匂いが潮の香りと混じり合って漂っていた。  温く纏わりつくその香りを吸って、彼の横顔を見つめる。  同じタイミングで彼もこちらを見つめていた。視線を逸らさない自分に戸惑ったように、黒目が少しだけ、遠くを見つめるように目の前で泳ぐ。

あの夜のことを思い出しているのかもしれないと思った。  初めて生身の彼に触れた、あの夜だ。

『新波くん、宮崎の空港に勤めてたときに、若いパイロットの子を無理に辞めさせたって言われててね』  彼女はそう言った。 『もちろん後でそれが誤解だっていうことは、辞めたパイロットの子自身の証言で分かったんだけど』

『彼の、業務に対する熱心さが仇になったのね。  噂ってセンセーショナルで、しかも75日で済まないものよね。当時は、結構嫌な噂になってたみたいで。  その後に羽田に異動になったんだけど、その時にはもうパイロットとは必要以上に深く関わらないようになってたって。  だからあの通り。  ・・・新波くんがパイロットと必要以上の交信をしないのは、それが理由』

絶対に、無事に。あんたの機を降ろす。  力強く、共に操縦桿を握るようなその声に滲んでいたのは隠された痛みだった。自分が抱えた、誰にも言うことのない挫折と同じように、彼も言えない傷を抱えていたのだと、そう思った。

「あんたは、何がしたい」  小さな雨の音に混じって、彼は小さく掠れたような声で呟いた。  その声は少し弱々しくて、今日、濃霧の中で聴いた先を導く光のような強さも確かさもない。 「・・・・新波さん」 「管制官の俺に、何を期待しているんだ。ついこの間言っただろう、無駄なことはしないと」  彼はそう言って、少し俯いて目を伏せた。迷うような黒目のラインを覆い隠すような睫毛が、ほんのわずかに震えたような気がした。  夜の色と混じり合うような紺色の傘から、ぱたぱたと、涙のように雫が落ちる。それが、手のひらをしっとりと濡らした。

「新波さん」 「、・・・・」 「あなたも、雨の中に立っていたんですね」

「あき、つ」  濡れたままの手を、淡いスカイブルーのストライプのシャツを纏ったしなやかな背に添える。背骨の感覚を確かめて、その身体ごと、自分の腕の中に引き寄せた。  汗の匂いに混じる、仄かな香水の香りが自分の身体にも移っていくようだと思った。もっとその香りを引き寄せたくなって、空いた腕を回して抱きしめる。  少しネクタイを緩めて開いた襟元から、鎖骨のくぼみが見える。とくりと心臓が一つ、音をさせる。  首筋に鼻先を埋めて、息を吸った。傘を持った彼の手の力が抜けて、傘はその意味を為さなくなる。

「・・・どんなに晴天でも、手のひらを返したように、雨は降る」  彼は腕の中で静かに呟いた。  抵抗する素振りは見せなかった。けれど雨に滲ませた彼の隠された傷が、じわりと水に濡れた絵画の色のように、手のひらから漏れ出してくるような気がした。

「・・・・」 「あんたも同じだ。心を砕いても、それが正しいとは限らない。良かれと思っても、誰かを傷つける時はある。そうして自分に跳ね返る。  だから、初めから関わることはしない」 「私は違う」 「違わない」 「違う」

「新波さん。私は、あなたに何度も助けられた。あなたの声に、何度も」 「・・・・」 「あなたの声が、私をここまで連れてきてくれた」 「秋津」 「だから、今度は私の番です。新波さん」

「雨に濡れても、晴天がいつまでも見えなくても。  私は絶対にあなたの手は離さない。いつか空が見えるまで、あなたの声を信じます」 「・・・・、」 「だから、新波さんも、私の言葉を聴いてくれますか」

「互いの声を信じれば、何も見えなくても降りて来られる。  いつか、ちゃんと目指す先にたどり着く。  ・・・あなたが、言ったことでしょう」

言葉の代わりに、抱きしめる腕に力を込める。ぴくりと肩を震わせて、彼は一瞬身体を強張らせた。けれどしばらくして、ゆるゆると入れた力を緩めて、腰に手を回してくる。背の服の布の辺りをその手が握り込むのを感じた。 「本当は」  雨の音に消されそうなささやかでまろやかな声で、彼が、言葉を紡ぐ。 「・・・本当は?」 「聴きたいと、ずっと思っていた。直接」 「直接?」 「ああ」  彼はそこまで言って、最後の言葉を形にするのを少し躊躇った。けれど抱きしめる腕に少し力を込めると、諦めたように小さな息を吐いて、耳元で囁いた。

「ーーーーーーー声を」

誰の声かは、言わなくても分かる。  頬に触れて、唇を重ねた。濡れた唇から雨の味がして、それを拭い取るように、彼が応えてくるのが分かった。

ーーー

『TOKYO Ground,JAPAN AIR 910.Spot 9 Request Pushback.』 『JAPAN AIR 910,TOKYO Ground, Pushback runway22.』

濁りの無い抜けるような青空が広がっている。  離陸前のブリーフィングでは、低気圧は南下し、今日は一日、日本列島は真夏の晴天が続くだろうとのことだった。  けれど油断は出来ない。空は気まぐれで、それは人間にはどうすることも出来ないことだ。今日の晴天が明日続くかどうかは、空だけが知っている。 「何だご機嫌だなあ秋津」 「そうですか。いつもどおりですが」 「俺の目を節穴だと思ってないか。何だ、良いことでもあったのか」 「さあどうでしょうか」  答える気が無いことを理解したのか、淵上機長はそれ以上は尋ねては来なかった。大きな機体はゆるゆると駐機場を離れ始める。  小さく息を吸った。コックピットの前方を見据える。

『JAPAN AIR 910,Wind 160 at 10kt.runway22,cleared for take off.』

濃い青空と白い光に溶けるようなその声は、この大きな鋼の鳥を広く自由な場所へ導いていく。  その声の主はもう分かっている。口元を緩めて、耳を澄ませた。

『Runway22,Cleared for take off.JAPAN AIR 910.』 『・・・・気をつけて』

「何だ?管制、新波か?」  淵上機長が妙な顔つきをしたのが分かった。 「新波さん。では行ってきま」  ぶつりと雑に交信は唐突に途切れて、温まり始めたエンジン音と振動が背に伝わってきた。笑いが思わず溢れる。きっと機内では、彼女が笑いをこらえきれていないだろう。  いつもと違うその声に小首を傾げる機長を尻目に、操縦桿を改めて握りしめた。彼の紡いだ言葉を、心の中で抱きしめるように繰り返す。

ーーーー気をつけて。

「行ってきます」  強い雨の後の空に降り注ぐ光に目を細めた。  確かに未来を示す滑走路が、くっきりとその前方に映って見えた。

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