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どうして箱の底に「希望」は残ったのだろう。  どうして神様は、箱の底に「希望」を隠したのだろう。

消え入りそうな、いや、始めから弱々しい力を放っていただけのその「希望」を、どうして人は手放すことが出来ないのだろう。  どんな絶望や虚無に覆われても底にわずかに湧き上がろうとするその光を。  掴むことを願って、手を伸ばしてしまうのだろう。

彼の指先が触れて、その手のひらに熱が灯る。  その熱は徐々に眩しさを増して、やがて。海の底の闇にいる二人をその場所から、白い光で覆い始める。

――その熱と光はもう消えない。  そして誰にも、何にも。もう奪われたりはしない。

怒号とざわめきが遠のくとともに、冷えたコンクリートの温度と、地下水と泥の混じり合ったようなすえた匂いが辺りに漂い始める。  酸素が薄くなったような気がするのは、今向かっている場所が囚われていたその部屋よりももっと奥、地下の最下部だからだろうか。まるでかつての記憶を呼び覚ますようだ。胸元で内蔵をかき回すような吐き気がして、それを抑えるために口元に力を入れた。  吐き気の理由はそれだけでないことも分かっている。内で巡り続ける「発情」の熱は全身に絶えることのない重怠さと痛みをのしかからせている。本当ならば歩くことも覚束ないはずで、熱が籠ってぼんやりとした意識の中でどうにか、理性を保とうとする自分を気力だけで奮い起こしている状態だった。  のろのろとした足つきで地下への階段を小突かれるように降りる。縺れて倒れ込みそうになる身体を、薄いシャツの襟ごと首元で引き掴まれて、引きずられるように扉の向こう側へ放り出された。  硬いアスファルトの地面に膝を付いて、吐き気を逃すように大きく息を吐く。手をついたら最後、そのまま地面に伏して動けなくなるだろうと思った。それは背後で自分の両手を掴み上げる男もそう思ったのだろう、目的地はまだ先だとでも言うように乱暴な手つきで、半ば強引に襟を引き上げられる。 「歩け」  吐き捨てるような調子の言葉に合わせるように、後頭部に添えられた金属の硬い感触が、強くなったような気がした。  どうにか身体を起こして一歩を踏み出す。けれどその足元はまるで空気のように浮ついていて、自分ではもう、しっかりと地面を踏みしめることは出来なくなっていた。

薄明かりが灯るその場所は、地下の駐車場だった。幾台かの黒い車が並んで駐車しているその輪郭が、暗がりに慣れた目でようやく分かる。  黒い影の奥の壁に、もう一枚扉があることが分かった。おそらく屋外へ出る非常口のうちの一つなのだろうと思った。  建物の大部分は捜索が入り、今ごろは捜査員が血眼になってこの背後の男、「李」を探していることだろう。建物の外も逃亡を防ぐために厳重に警備が張り巡らせてあるだろうことはすぐに想像出来た。車で逃げるということは難しい選択だろうと思う。強引に警備の網を強行突破したところで、迎える結末はこの男にとって良いものではないはずだった。  それでも彼の手付きや行動には諦めという感情はあまり見えない。捨て鉢、自暴自棄とも取れるのかもしれないが、それを一人でやってのけようという気概は無いのだろうことは理解した。  けれど指摘するほどの力は残っていなかった。この後ろで掴まれた両手を振りほどくことすら出来ないでいる。目を閉じて、できるだけ多く酸素を吸おうと深く呼吸を繰り返した。自分の吐く息の温度は生温く、そうして、そのたびに揺れる空気に、自分が漂わせる「発情」の花の香りが鼻を掠める。  シャツの下の肌は、本能に忠実に自分に触れる肌を求めて疼いて、布が擦れるだけでも震える。吹き出す汗にじっとりと布が水分を含んでいるのが分かる。微熱がずっと続いているようなその濡れた感覚を、どうにもすることは出来ないままだった。

『――忌々しい香りだ』  背後からそう、低く唸るような声が耳に届いた。  向こうの国の言語で紡がれるその言葉は、意味は分からないでいる。けれど声音で、こちらを貶めている気配はどことなく理解した。  欲よりも恐怖や憤りが勝って気が付かないでいたが、この男もαだ。「発情」を迎えたΩのフェロモンを前にして、理性を掻き乱されるのを制御するのは多少厄介なことなのだろう。  間髪入れず襲いかかるわけでもないその素振りは、まだ軍人として思うところがあるからだろうかと思った。その思いが滲み出たような掠れた声の調子を、抵抗するでもなく黙って聞いていた。

『そうやって、誰彼かまわず誘惑をする。  αを拐かし、番と子を得ようとする。そのためだけの身体を持っている。  ――Ωという生き物は、実に愚かしい』 「・・・・・・」 『分を弁えて、何も考えずαに傅き生きていればこのようなことにはならなかっただろうに。  それさえも分からぬほどに愚かだということか』

「・・・、何を言っているのか、分からない・・・」  絞り出した自分の声は、自分でも驚くほどに細く小さい。  何かを押し止めるほどの力さえもないその言葉は、空に虚しく溶ける。男は続けた。 「あの『変異性α』、秋津竜太から情報を得て、馬に直接取引を仕掛けるのだ。そのためには、お前も一緒に、ここを出てもらう」 「それをして、・・・何の意味が」  尋ねた言葉に、一瞬の間が空く。そうしてゆっくりと、十分な時間をかけて「李」は言葉を選ぶように返答した。 「あの『変異性α』の男にお前はずいぶんと重宝されているようだ。  お前のようなΩの男の何にそれほどまでに惹かれるのかは理解できぬが。お前の存在が、あの『変異性α』にとっては最大の弱点でもあるのだろう。  ならばお前ごときでも、利用する価値はまだあるということだ」 「・・・・・・」 「用が済めば自由にしてやる。取引が上手くいけばの話だが。」 「李」の言葉が、霞がかったような意識の中に響く。 「・・・もし失敗したならば。お前のいる場所は、もうここには無い」  日本語で語られたその彼の思惑に首と背を捻って顔を睨みつけようとした。  その額に、銃口のひやりとした感触が伝わる。こくりと唾を飲む、その動きさえもまかり間違えば引き金を引かれるきっかけになる、そのぴんと張るような緊張感が一瞬辺りを包んだ。 「・・・」  拳銃の扱いに慣れているのだろう、震えもせず一点を狙い定めたようなその銃口に、背筋が凍りついたように動かなくなった。

「妙なことは考えぬことだ。新波二佐」 「・・・・、っ」

「あの扉の向こうは管理者用の緊急避難通路になっている。登れば管理者しか知らない屋外への出口に通じている。あの騒ぎでは手は回っていないだろう。そこから外へ出る」 「・・・・・・・」 「行け」  掴まれた腕ごと、扉へ向かって背を突き飛ばされるかのように強く押される。  足裏を踏ん張ってはみたが、詮無い事だった。抵抗したところで、事態を打開するための策が浮かぶわけではない。自分の意志で動かすことさえも十分に出来ない身体では流されるように促される方向へ歩を進めるのがやっとだった。  諦めたわけではないと言い聞かせても、それで全てが自由にはならない。どんなに違うと言い張ってみても誰かの助けを待つより他のない自分の状況に、知らず知らずのうちに奥歯を強く噛んでいた。  視界がふらついて、身体が傾いた。壁にもたれかかるように体重を預ける。浅く深く、肺に酸素を取り込もうと何度も繰り返し息を吸って吐いてを繰り返した。  膨らみ上がってまた萎む、そのリズムを繰り返す熱の行く先を目を閉じて追う。ずくずくと疼いて奥で欲が満たされるのを欲するその身体の温度を、鎮めようと俯いた。一筋、汗が垂れ落ちた。

「希望」。  小さく微笑む彼女がそう言った言葉が頭を巡る。  光は見えない。けれどその言葉に、小さく灯火が灯る、なぜかそんなイメージが眼前に広がった。  胸元で揺れるネックレスの金属の感触が伝わる。ほのかに肌の温度を籠もらせたその彼の欠片に、胸が引き絞られるように痛む。  伸ばした手が離れた瞬間のことを思い出した。  もしあのときに手を取れていたら何かが変わっていたか。それとも何も変わらなかったか。  けれどその問いは、彼と「いぶき」に乗り組むようになってから、もう数え切れないほどに繰り返してきたことのような気もした。  手はずっと差し伸べられていて、それは自分を救うようにも見えて、彼自身が救いを求める手でもあった。  初めて指を絡めて握りしめられたその手に、点った熱の感触がよみがえる。  それは彼の熱でもあり自分の熱でもあった。熱を預けて交わして、そうして手を取る機会は幾度もあったけれど、そのたびに迷い拒んで拒まれた果てがこれだというのだろうか。

躊躇うことなくその手を取れていたら、「希望」は叶えられていただろうか。  そうして光は今、二人の前にもう見えていただろうか。

「新波さん」

わんと響く低く張りのある声がしたのは、扉に手のかかろうとするその一瞬の後だった。  規則的に刻まれる足音とともに、彼の姿が現われる。落ち着いているようにも見えるその顔つきを確かめた瞬間に、アスファルトの土の匂いを拭うように、温く水気を保った花の濃い香りが辺りに漂うのが分かった。それが彼のαのフェロモンの香りであることは、もう考えずとも分かっていた。  その香りは、包み込むように自分の放つ香りと混じり合う。 「・・・・・秋津・・・!」  細く絞り出すような大きさでしか出せない声が、彼の耳に届いたのかは分からない。けれどこちらを見据えて一歩一歩近付いてくる彼の姿は静かな圧力を湛えてそこにあった。  ぴったりと頭に付けられた銃から、かちりとトリガーに指のかかる音がする。ぐ、とこめかみに押し付けられるように銃口は頭の横に沈み込む。どくりと心臓が底から低く大きく波打った。  彼が歩みを一瞬留めるのが分かる。表情に大きな動揺も狼狽も見えないように思えるが、彼の本意はその表情からは掴むことが出来なかった。  換気されることなくこの場で淀み続ける空気はぬるりと辺りを包んで、身体に纏わりつく。埃の匂いも孕んだその空気は吸い込むと喉に引っかかって、全身に行き渡らない。 「・・・・動くな」  低い声が響き渡る。その声と同時に、肌に銃口の沈み込む感覚が強くなったような気がした。 「まだ、取引は完了していませんな、秋津どの」 「・・・取引」

「あなたの情報・・・『変異性α』の情報を渡してもらいたい。そうすれば、このΩを解放しましょう」 「取引はすでに成立し得ない」  彼の落ち着いた調子の声が地下の空間に響く。 「私の情報を得たところであなたに待っている結果は変わりないだろう。外にも警官はいる。あなたを手助けする人間はもういない。  李中校、少々往生際が悪いのではないか」 「あなたこそ、自分に分があると勘違いしているのではないか?」 「・・・、」 「人質はまだこの手にあるのだ。あなたの行動次第で、このΩの頭は消し飛ぶことになる」

「――眼の前に欲しがっていたものがあれば、簡単に手の平を返すのが人間だ」  そう「李」は言葉を重ねる。 「馬大校も同じく、『変異性α』であるあなたの詳細が得られるとなれば私への扱いを覆すことだろう。それくらいのことを造作もなくやってのける人間だ」 「・・・・・・」 「欲しいものを得るためなら、罪も罰も捻じ曲げる。  人の世など、そんなつまらぬものだ。一握りを除いて、愚かな者ばかり。  あなたも『変異性α』ならば、そのことは身に染みて理解しているだろう。」

「人は渇望すればするほど、それを得るために手を汚すことを厭わなくなる。  ――その醜悪さに、Ωもαも無い。等しく、人間の業だ」

「・・・新波二佐を離してもらおう」  彼の声は抑揚なく淡々と聞こえる。  けれどその声はひとつ低くなり、ゆっくりとした響きに変わったのが分かった。こちらを見つめる表情は鋭い刃を見え隠れさせるように冴え渡り、冷えた感情を宿した目が、自分の背後に立つその男に向けられている。 「情報が先だ」  一瞬その男の、トリガーにかかる指先が震えたような気がしたが、声の調子は変わることはなかった。淀みなく伝えられる要求は、微塵の揺れも無かった。 「それとも、・・・どうせ捕らわれるというなら。  このΩを死体でお返しした方がよろしいか」 「・・・・・・」 「あなたにとってこのΩは重要な位置を占める者なのでしょう。少なくとも大きな損失として計上できるほどには。  私は実戦で拳銃一つまともに扱えぬそちらの国の軍人とは違う。数多の人間を血で汚してきた自負はあるのでな。  引き金を引くと決めたら、外すことはしない。確実に殺す」 「過ぎた冗談は、後で悔いる結果になる、――李中校」

「それは虚勢か?  ならば試してみましょう、秋津竜太一佐、

・・・空母「いぶき」艦長」

「トシヤ!!!」

土と湿った花の香りが漂う空気が大きく揺れて、甘い香りが風のように鼻先を掠める。  目の前で翼のように、淡い色のロングブラウスが翻った。  そして細く白い腕が目の前で男の腕を掴むのが見えた。予想だにしなかった彼女の存在とその動きに、「李」が明らかに狼狽した表情を浮かべる。 「ユーシイ!!」  彼女に掴まれ揺さぶられた男の腕から、拳銃が離れて足元にごとりと落ちた。黒く艶光るその塊が地面に転がる。  それを確かめて、彼女はすかさず屈み込み、拳銃を手に取ると立ち竦む彼のいる方向へ向かってそれを滑らせるように投げた。  アスファルトと金属が擦れ合う音がして、拳銃は数メートル先、彼が手に取れるほどの距離まで飛んでいく。「李」が憤りに震えて、自分の両手を掴んでいた手を離した。  無理に引きずり上げられるように立たされていた身体は解放された勢いで支える力を失って、前方に倒れ込むようにして膝と手を地面に付く。そのままずるりと脱力しそうになる自分の身体を、その両手で何とか起こそうとした。  何事かを本国の言葉で叫びながら、男は立ち上がろうとした彼女の身体を足で蹴り上げた。彼女の細く頼りない身体はそのまま後方の壁に吹き飛ぶ。背を強く打ち付けて彼女は表情を歪めたけれど、長い睫毛に縁取られたその丸く形の良い目を吊り上げて、「李」を睨みつけた。  数分にも満たないその時間の出来事に、思考が追いつかないでいた。上から重く空気がのしかかるような怠さを訴える身体を起こして、逃げる体勢を取ろうと足を踏み出す。  その次の瞬間に、強い力で首元を押さえつけられて再び地面に伏せる結果になった。ちょうど項の噛み傷の辺りを強く掴まれて、皮膚を電流のように走った刺すような痛みに、顔が歪むのを留めることが出来なかった。

「・・・・、っぐ・・・」  息が出来なくなって、喉から引き攣るような細い声しか出ない。 『お前は逃さない、逃さない。このΩ、殺してやる!!』 「トシヤ!!」  彼女が小さく、甲高い声で叫ぶのが聞こえる。  彼女が身体を起こして、こちらへよろよろと向かってくるのが見えた。駄目だ、来るな。そう言いたいけれど、口元が力無く動くばかりで、声は出ない。  骨が折れんばかりの力で、硬いアスファルトの地面に喉から顔にかけて押さえつけられた。無理に狭められた押し潰されそうになっている気道は呼吸がままならない時間を重ねて、そうして徐々に、意識が薄らいでいく。  ――息が出来ない。  灰色に濁り、はっきりと映像を結ぶことが出来なくなった視界をゆるゆると手放してしまいそうになった、その時だった。

彼の纏う花の香りが濃く、まるで自分を守るように身体を包んで強く漂い始める。  首を掴む力が不意に緩んで、喉に空気が一度に入り込む。咳き込んで背を丸めてどうにか息を整えると、ゆっくりと、重い頭を持ち上げた。  全身を覆う重怠さと痛みは、まだ引かない。 「・・・・、ひ・・・・っ」  尻を床に打ち付けたその男の額には黒く光る銃口が突きつけられている。  長い指先が引き金にかけられて、そこを撃ち抜きさえすれば一瞬で命を奪うことが出来るだろう位置に銃口はあった。その指先を伝い腕の先にあるのは彼の身体だ。すらりとした体躯が、男の前に立ちはだかる。 「・・・・・あき、つ・・・・・・」  呟いたその自分の声に、彼は反応しなかった。  微動だにしない拳銃を掴む手は、1点のみに狙いを定めて、そこにあった。  腕の先に繋がる、彼の顔を見遣った。足の先から冷えていくような恐怖。その感情には確かに覚えがある。

――殺される。

鳶色の透明な色をしていたはずの彼の目は、暗く濁った夜の色に染まっている。  何も映さない、自分でさえも映そうとしないその目に、こくりと喉が鳴る。時間は流れているはずなのに、どこか息を止めたように動かない。耳を刺すような鋭い静寂が、その場に広がっていた。

『『変異性α』は、その高い能力と引き換えに、特に強い衝動性と暴力性を持っている。  我々が持つ『第二性』の中でも、最も危険な種と言えるでしょう。』  小さな泡が立つ音が響く空間に、穏やかで、けれど冷ややかなようにも思える医師の声が響く。 『αは獣だ。  一度『番』を手にしたら、自分の『番』を奪われないために、よりいっそう支配欲と凶暴性が増す。』  獲物を引き裂いてやらんとばかりに睨めつける獣の視線が自分を捉えて舌なめずりをする。      『私はいつか、あなたを。――食い殺してしまう』      獣の性と己の理性との狭間で叫ぶようにそう告げる、彼の歪んだ顔が眼前に浮かぶ。声は静かで、それでも抑えきれず吐き出されようとする熱を孕んで鋭く耳を裂いた。  彼が爪を立てて引き裂こうとしているのは獲物である「番」ではなく、まるで彼自身の皮膚と心であるような気がした。  生涯を通してその特性から逃れられない『変異性α』という性を内包し制御する苦悩が、Ωという性に縛られて生きてきた自分の孤独と重なり合うのが分かった。

『同じ孤独を知る者同士だからだ』

海の果てと行き着く先を見通したような、その声が聞こえる。 「いぶき」を通して重なってきたお互いの運命は、まるで始めからそう決まっているもののような気さえした。  それはΩとαという惹き合う性だということを超えてもっと。出会ったその瞬間からずっと。自分は彼を必要として、また彼も、自分を必要としていたのではないかと思った。

背を過ぎった恐怖は一瞬で、まるで無機物を眺めるかのように言葉無く相手を見下ろす彼の顔を冷静な頭で見つめる自分がいた。  彼は元々人前であからさまに感情を出すような人間ではない。それでもほんのわずかな視線の動きや声の調子や小さな笑顔が滲ませる柔らかな空気で、彼の心は読み取ることが出来ていた。  けれど今の彼はそれがすっぽりとどこかに抜け落ちたように、暗く濃い闇の色を表情に沈ませている。喜怒哀楽といった感情が始めから存在しないかのようなその顔は、端正な作りも相まって、獣というよりはつるりとした無機質な人形のようにも見えた。  しっかりとした骨太な肩口から伸びる腕の先には、黒い拳銃が握られている。薄暗い空間にぽつり点った明かりの下で、彼の持つその黒に光が反射して小さな光を放った。引き金にかかった節張った長い人差し指は彼の中で組み上げられたタイミングで、いとも簡単に手前に引かれ、瞬く間に形勢が逆転し狼狽える男の命を奪うのだろうと思えた。  静寂の力というものがあるのなら、今自分と彼と、「李」の周りに広がっていくものはそれに近いのではないかと思った。重苦しいわけでも、ねっとりと絡みつくのでもない。けれど圧倒的な存在感でそこにある静寂。  その力は物事を予想しない、あらぬ方向へ押し流そうとしている。そんな薄暗い予感が自分の中にある。

『や、止めてくれ・・・・・』  弱々しく掠れた声が、支える力も無く床に身体を横たえたままの自分の耳にも届いた。  それは、つい先程まで自分を羽交い締めにしていたはずの男の声だった。拳銃を奪われ、退路を絶たれたその声は、自分に押し被さる彼の『変異性α』としての覇気に気圧され、力を失っていた。  自分の身体から立ち上るフェロモンの花の香りではなく、彼の纏う湿気を帯びた花の甘く濃密な香りが身体を包む。まるで自分の身体を覆って守るようにその香りは身体に染みて浸透していった。喉を湿らせる唾液を飲み込む。顔だけを動かして彼を見上げた。  見つめる自分の視線を受け取ろうとする、彼のその感情はやはり暗い色に飲み込まれてわずかでも読み取ることは出来ない。今まで過ごした時間の中で描き出していた秋津竜太という魂が抜け落ちたような佇まいを見せる彼の姿はそれでも、変わること無く秋津竜太自身で、彼の持つ『変異性α』の姿だということははっきりと理解することが出来た。  懇願する男の声に反応するように、彼は拳銃を握る手に力を込めた。額にめり込むように強く深く、銃口を押し付ける。けれど表情はわずかにも動かず、目の色にもさざ波一つ立つことは無い。  ひ、と男が喉をのけぞらせて表情を歪めた。ほんのわずかにでも逃亡の意志を見せれば、彼は躊躇なく引き金を引くだろう。言葉も無く指先一つ据えられた場所から動くことはない、そのことがかえって、彼の狙いをあまりにもはっきりとさせていた。  理性の箍を外して相見えた彼の持つもう一つの姿に、どんな言葉を掛けることが出来るのかと考えた。けれど、答えは見えない闇の中にあって、気を緩めれば非現実へ浚われてしまいそうな意識の中では、彼のその色を失ったような顔を見つめるだけで精一杯だった。

「李中校。あなたは私の『番』に手を出した」

ごり、という何かが砕ける音が聴こえて、それと同時に、轢き潰された動物の最後の慟哭のような叫び声が地下の空間に響き渡る。  それは彼が、男の腕の骨を砕いた音だった。眉一つ動かず、その悲痛な叫びが聴こえなければ、何が起こったのかさえも分からないほどに一瞬の出来事だった。  妙な方向に曲がった腕を抱えて、男は床へもんどり打つ。その腹の上を躊躇なく蹴り上げて、彼は再び、銃口を苦しみ悶える男のこめかみへ当てた。  うっすらと唇の端が上がる。けれどそれは笑みと言っていいものなのかは分からない。紅い舌は下唇を湿らせるように端から端へ移動した。そうして静かで澄んだ彼の声は、言葉を紡ぐ。 「それがどういう意味を示すか」 「・・・・、ぁああ・・・・!」 「あなたは身を以て知れば良い」  体重をかけて、今度は片足の足首を彼は砕いた。低く、何かが潰れるような音が耳元でする。  目を見開いて喉をのけぞらせて、男は泡を吹くように二度目の慟哭を響かせた。獣の咆哮にも似たその叫び声は濁り、淀んだ地下の空気を揺らす。それに混じる鮮やかな色の花を思わせる濃く甘い香りが、その空間を狂気で満ちさせていった。

「屑のような軍人でも、それなりに覚悟はしているのだろう」 「・・・・・・」 「屑の分際で、私の『番』にずいぶんと手荒な真似をした。その報いは受けてもらう」  心臓がどくりどくりと、自分では抑えきれないほどの速度と深さで波打ち始める。  これが『変異性α』の正体だというのか。あまりにも強い暴力性が高い能力と共にテロリズムや戦争に利用されないために、『変異性α』は全て一箇所で個体情報を管理され、生涯にわたって監視され続ける運命だと言っていたのは彼だ。  ――これが、その理由だっていうのか。  初めて見るその彼の『変異性α』の姿に、投げ出した足先から頭の先まで、背筋をおぞましさと恐怖が撫でつけていく。寒々しいわけでもない、むしろ自分の熱で火照って熱を持つはずのその肌に、鳥肌がぞわりと立ち上がる。  生物としての本能が、目の前の状況を危険だと、脳内で知らせてくる。  がちりと音がして、男のこめかみに添えられた拳銃の引き金に力を込めるその小さな音が響いた。叫び声も上げられず、ひくひくと喉だけで小さな声を絞り出す男は、もう命乞いをするだけの力も残っていないようだった。  喉元を引きちぎり、その足で踏み潰した虫の息の獲物を見下すように、彼はうっすらと目を弓なりに細めた。その目に、光の届かない海の底の黒い色が宿る。  弄び、引き裂いて食い尽くす恍惚に似た感情を滲ませる彼の姿は、今まで自分が目にしてきた彼の姿とはどんなに重ねても重ならなかった。

『常に監視されていること、強く抑制されていることを担保にして、私は今、この『いぶき』に乗り組むことを許されている。  しかし、『変異性α』であることが広く知られることになれば、『いぶき』に乗り続けることはおそらく困難になる。』  穏やかで、けれど積み重なる痛みを沿わせたような彼の声が、耳の奥で鈴のように響く。  項の傷に、じわりと鈍い痛みが浮き上がるのを感じた。 「・・・・・・あきつ・・・」  指先一つも動かなくなりつつあるその身体を地面に這わせて、彼に少しずつ近づく。ざらついた地面に爪を立て、少しずつ。砂の粒が身体と擦れ合う音が聞こえる。 『――私はまだ、この場所でやるべきことがある』

『あの極限の状態を乗り越え、過ごしたあなたとも。  ――『いぶき』艦長として。まだもうしばらく、共に歩みたいと思っている』

自分の付けた傷痕を悔いて、癒そうと何度も口づけた彼の唇の乾いた感触と熱が、不意によみがえる。  自分が伸ばしたその手を受け入れることなく、ただ重ねただけのお互いの唇の痛みが零れる。 「秋津・・・・・・!!」

「・・・・、駄目だ、」  伸ばして開いた手のひらで包むようにして拳銃を掴んだ。  引き金を引こうとする指に自分の指を絡めて、しっかりと結びつけるように握りしめた。  薄く笑っていた彼の目が一瞬見開かれて、そうしてゆっくり、こちらに視線を動かす。物珍しいものを見るような目つきで、彼はこちらを、濃い色をした目で見つめてきた。 「秋津、そこまでにしろ・・・・」  からからに渇いた喉からは、細く捩った糸のような声しか出ない。それでも力を振り絞って、その言葉を紡いだ。  握りしめた手に力を込める。目を伏せて、もう一度彼を見据えた。  感情を滲ませない、眉ひとつ動かさないその彼の表情は一瞬心を凍りつかせるようだった。けれど目の前で銃を握る彼は、秋津竜太であって、秋津竜太でない。どちらも本当の姿ではあるが、けれどそうではないのだと、必死に拒む中の自分がいることに気付いていた。  目の前にいるこれは、彼ではない。「変異性α」は彼の一部であって、全てではない。そう、自分に言い聞かせる。 「・・・何故止める」 「それ以上は、やり過ぎだ・・・!」  ならば、止められるのは「番」の自分しかいないことも分かっていた。それは誰にそう言われたわけではないが、確信をもってそう自分の中で繰り返す。  抵抗する意志のない者に執拗に攻撃を仕掛ける必要は無い。今引き金を引いて彼の命を奪うことが、必要な事項でないことは彼も理解できるはずだ。過剰防衛と取られれば罪に問われる可能性もあるだろう、既に骨を2本折っている。命まで奪うことは、彼の今後に大きな影響を及ぼすことになる。  そうして『変異性α』としての自分を解放してしまった彼がどういった扱いを受けるかそれは簡単に想像出来ることだった。 「・・・これは、あなたに手を出した。私の『番』に」  淡々とまるでそれが当然のことのように、低く抑揚のない声で彼は言葉を重ねた。それに頭を横に何度も振って、答える。 「秋津、早く、正気に戻れ・・・!」  拳銃と彼の手を握る自分の手を離すまいと、絡めた指を何度も絡め直す。  力が思ったように入らずに歯噛みする。自分の身体も限界であることは分かっていて、けれど今、この手を離してはならないと、彼の目をぎりと睨みつけた。  それを理解しているのか、それとも眼中にすら入らないのか、彼は冷えた温度を湛えた視線を自分に送るばかりだった。そうして静かに、彼は続ける。 「・・・私はあなたを誰にも奪われてはいけない。  奪う人間は、排除しなければいけない。」 「秋津」 「私の『番』は、私のものだ。・・・奪うことは、許されない」 「・・・秋津!」

「私のものに手を出す人間は、――絶対に、許さない」

再び引き金に力を込めたその指を身体全体で抑え込むように留める。手先だけでは止めることは不可能だと思った。  彼の腕に覆いかぶさるように、自分の身体を重ねた。顔を上げ、彼を見る。 「・・・・・・・あんたに、撃たせるわけにはいかない・・・」 「離れてください、新波さん」 「撃たせない。絶対に、・・・撃たせない。  ・・・・あんたにはまだ、やることがあるんだろう」 「・・・・・・・」 「あの場所で、『いぶき』でまだ為すことが・・・・・あるんだろう!!」  喉を引き絞って叫ぶように声を出した。そうして胸元に引き寄せるように、その腕を掴んで、全身で抱き締める。 「・・・新波さん」  一瞬彼が、拳銃を握る力を緩めたような気がして、彼の顔を見つめた。感情の温度を滲ませず見下ろす彼の表情は、変わらないままだった。

「――・・・ならば、あなたを奪うしかない」

「・・・・・、あき、つ」  掴んでいた腕の中からするりと抜けた銃口が、額に添えられる。  喉の奥に唾液が垂れ落ちた。どくどくと忙しない音を立てたままだった心臓が一瞬止まったように硬直する。そうして全身に冷えた温度が巡って、置かれた状況を噛み砕くようにして、彼にゆっくりと視線を動かした。  銃口の向こう側に見えるのは、彼の顔だった。今、額に銃口を突きつけているのは、彼自身だった。  ごり、と額の奥の頭蓋骨に擦り合わせるように、黒く重い銃口が、強く押し付けられる。かちりと引き金に彼が人差し指を添えるのが分かった。彼の指先から、嗅ぎ慣れた彼の、フェロモンの香りが一瞬漂う。  肌がふるりと震えて、それはαのフェロモンのせいなのか、それとも恐怖からなのかは分からなかった。夜の扉を閉じきったような彼の目の色に、自分の姿は一瞬で溶けて消える。それ以上は、何も映さない。 「トシヤ!!」  彼女、语汐が叫ぶ高い声がかすかに聞こえる。けれど、それは彼の動きを止めるまでには至らない。  銃口を押し付けたまま、彼は低く小さな声で言った。

彼の目が、一瞬遠くの景色を眺めるように細められる。 「・・・・・・私の『番』だ。私のものだ」 「・・・・・・、秋津」 「誰も奪うことは許されない。・・・・・ならば、私が奪う」

「あなたを、奪って。――私のものにする」 『私はあなたを、奪いたくない』

――奪いたくない。

「・・・・・・秋津」  目を閉じて、小さく息を吸った。  そうして、細い呼吸を繰り返した。冷えたような温度を保っていた心臓が、落ち着きを取り戻したように規則的なリズムを刻む。それに意識を集中した。  銃口は額に当てられたままだ。引き金にかけられた指から力が抜けることもない。そのまま、彼を真正面から見据えた。彼の目に、一瞬戸惑いのような色が滲んだのを、見逃しはしなかった。 「番」のαである彼の気配は、嫌でも「発情」を起こした自分の肌を刺激して、今にも欲の制御が外れてその場所から吹き出しそうになる。けれどそれを留めて彼に指先を伸ばした。 「新波さん」  そのまま、拳銃ごと彼の手を抱き込むように握り締めた。ほのかに奥に点り始めた、彼の手のひらの温度が指先に少しずつ染み渡る。濃い花の香りは変わらず自分の身体に纏わりついて、けれどそれは、強い執着でも依存でも、ましてや加虐性などでもなく、ひどく優しく、弱々しい気配を漂わせていた。  それは触れることに躊躇して恐れる彼の奥の秘められた感情を溶かして、そこにあるような気がした。前面に現れている「変異性α」の気配はそこにはない。  孤独の壁に囲まれて奥で縮こまる彼のイメージが、瞼に浮かぶ。その小さく微かに漏れ出る感情に手を伸ばそうと、握りしめた指に、残った力を込める。 「秋津、」 「・・・・・・離せ、新波さん」  その言葉を何度か、頭の中で繰り返した。  伸ばした指先は、暗い海の底を探る。彼を探して、その手を伸ばす。

そうして触れた何かに、熱が籠もる。  恐る恐る触れるその正体はもう分かっていた。そこにいることは分かっているから。そう、願いながら。

――あなたを、ずっと探していた。

「秋津。――・・・・・・『番』を解除しろ」  彼の香りに阻まれるように熱と痛みが交錯する視界をどうにか開いて、そう告げた。 「そうすれば、・・・あんたの中の『獣』は、・・・落ち着くはずだ・・・」 「・・・・・・なに、を」  1ミリさえも表情を動かさなかった彼の目に、一瞬元の色が戻った気がした。うっすらと夜の色を消して滲み始めるアンバーの瞳に、自分の姿が映って揺れるのが分かった。わずかにもう一人の秋津竜太が戻ってきつつあるのを確かめて、握り締める手にもう一度力を入れた。 「『番』を、・・・解除するんだ」 「・・・、だめだ」 「秋津」 「そんなことをしたら、あなたは」  乱れた「発情」のリズムを落ち着かせるには、「番」を解除することが一つの方法であると、そう言った医師の顔が浮かび上がった。  けれどそれは現実的ではないとも言われた。Ωにとって、「番」は一生に一人の、唯一無二の存在だ。どんなに望まないものでも一度結んだ「番」を解除すれば、それはΩ自身の命の危険に繋がる。気が狂って、命を落とす。  今ここで彼が自分との「番」を解除すれば、自分の身体がどうなるのかは全く分からない。それでも、発した言葉を収めて無かったことにすることは出来なかった。

「できない」  感情を一瞬顕にした彼の声が、叫ぶように何度もそれを繰り返す。 「『番』は解除出来ない、それだけは、できない」 「秋津、そうすれば。・・・あんたを、守れるんだ」 「できない、そんなことはできない」  銃口を向ける手の力が緩むことは無い。 「変異性α」の自分とそうでない自分との境目を行き来するように、彼はまるで子どものように何度も首を小さく横に振った。

「あなたは、ずっと探していた私のたったひとりなんだ。私のたった一つの『希望』なんだ。」

「新波さん、私はあなたをずっと探していた」  夢うつつで聴こえた、暗い海の底からの彼の声が、現実になって、自分の耳に届く。 「・・・・・・」 「米研修で、あなたがΩと知ってから、ずっと。・・・あなただけが、私のたったひとりだった。  同じ孤独を共有できるのはあなただけだと、あなたを守ることが出来るのは私だけだと、ずっと、思って」 「秋津」  握り締めている彼の手が小刻みに震える。迷わず1点に照準を定めていたはずの彼の手が、躊躇うように自分の手のひらの中で泳ぐのを、包むように握り込んだ。  その存在がαであることさえも意識していなかったノーフォークでの日々の中で、彼が既に自分を見つけていたことにわずかながらに驚いた。そうして自信に満ちて優秀さを隠すこともなかったその態度の奥に抱えた感情があったことに、ひどく胸が締め付けられる思いがした。  自分が見付けるよりもずっと早く、彼は自分を、その孤独の中で探し当てていたのだ。  分け合える相手を、満たし合えるたった一人の「番」を。そうして「いぶき」での日々を経て、ここで向き合っている。  自分の、抗えない運命に。けれど、変えられるかもしれない、そのわずかな「希望」を孕んだ、未来に。

「『変異性α』は、その執着のあまりに、自分の『番』を殺してしまうことがある。  私はそのことも理解していた。だから一生、『番』を作ることはないと、ずっとそう思って生きてきた。けれど、」 「・・・・・」 「あなただけは、どうしても。――・・・・・どうしても、『希望』を捨てられなかった」

『希望』  彼の紡ぐその言葉はどこまでも儚く幻のようで、けれど捨てられない光のように、握りしめた手の中で熱を持ち始める。 「あなたが、私のたったひとりになってくれればと」 「・・・・・・」 「あなたが、『番』として私と共にいてくれればと、・・・・その、希望を、捨てられなかった」  胸に提げたネックレスが小さく返事をするように揺れる。彼女の言葉がその小さな飾りに重なるような気がした。 『そのネックレスには、その人の、『希望』が見える』  どんなに愚かしいのだと分かってはいても、叶わない希望であることが分かっていても、人はその「希望」を捨てられない。  焦がれて手を伸ばす。いつかは、それが叶う日が来るのかもしれないと、ただ、願うだけのことでも。手放すことが出来ずにいる。 「新波さん」  高い透明度を取り戻した彼の赤茶けた瞳が、ぐしゃりと音をさせるかのように歪んだ。

「私には、――・・・・・あなただけだ・・・・・」

「秋津」  引き金に添えられた彼の人差し指をそっと外した。  固く握り締めたその手を緩めて、壊れ物に触れるように、そっと彼の頬に添える。  汗で湿った彼の肌が指の腹に吸い付いて、もう離れないとでも言うように、ぴたりと惹きつけられる。水分で満たされた丸い目が、ゆらりゆらりと揺蕩う穏やかな波のように、自分を映して揺れたのが分かった。  頬を何度か指先で撫でて、そうして腕を回した。自分よりもいくばくかしっかりとしたその肩に触れて、柔らかく、背を撫でるように抱き締める。彼の背が、びくりと震えた。その震えが収まればと、背を抱く手のひらに、わずかに残る自分の力を込めた。  花の香りが、濃くなった気がした。入り込み溶け合うことをお互いに許したその温度と香りは、混じり合って水面に波紋を作るように、辺りに広がり始める。首筋に自分の額を埋めてから、は、は、と小さく息を吐く彼に頬を寄せた。  探していたのは、自分も同じだ。この温もりが手に灯るのをずっと。熱が、光に変わるのをずっと、願って。  わずかな「希望」を捨てられないでいたのは、同じことなのだ。 「『番』を解除してくれ」 「・・・・・それは、・・・・・・」 「俺は、いなくなったりしないから」

「俺は、ずっと、あんたの傍にいる」

「俺はもう、奪われたりはしない。  自分の進む道も、生きる意味も、自分で決める。Ωにもαにも振り回されるつもりはない。  そうして見つけた意味は、けして手放したりはしない。」 「・・・・・・」 「だから、『番』を解除しても、俺は、――・・・・・何も、奪われない」

耳元で、誓うように囁いた。  指先に伝わり溶け合う温度を感じながら、その言葉を自分自身に繰り返しながら、紡いだ。

「あんたに、奪われた心以外は、何も」  奪われたりはしないんだ。 「・・・・・、新波、さん」  ごとりと音がして、銃が彼の手から離れるのが分かった。  彼が、両の手を背に回してくる。力強く抱き寄せられて、埋められた首筋から、引き攣れたような彼の嗚咽が微かに聴こえた。  確かめて、ゆっくりと目を閉じる。もう、ほんのわずかにも残っていない身体の力を抜いて、彼の胸元に、自分のそれを預けた。

触れた先から、合わせた手のひらを中心にして点った光が徐々に溢れて満ちていく。  長く、共にありたい。それは自分が望んだことだった。  薄らいでいく意識の中で、探り合うように絡めた指先の温度だけが、いつまでも残って離れなかった。

蒼穹の高い位置で、互いを呼び合う番の海鳥の鳴き声が響く。

紺青の海面にしっくりと馴染む薄灰色の船体が、ゆったりと桟橋にその身体を横たえている。  特徴的な広い甲板の上に据えられた演台に彼は立っていた。取材に訪れた記者たちのざわめきが、さざ波のように耳に届いては消える。  涌井統幕長の簡単な訓示の後、史上最年少で第五護衛艦隊群の司令を拝命することになった彼の着任挨拶が始まった。滔々と今後の展望を述べるその姿を一瞥して、記者たちの列の奥で、制帽をわずかに深く、被り直した。  慣例に沿えば、その後「いぶき」艦長である自分の訓示が続く。けれど人前で話すことにそれほど慣れないのと、出港までに行う作業を逆算したときに同じようにだらだらと続く自分の訓示が果たして必要かと考えて、丁重に固辞することにした。  前例踏襲に囚われないおおらかな態度の統幕長と、自由だけが取り柄の群司令は、小さく呆れたように笑ってまあいいだろうとそう返してきた。どうせこれから、いやというほど自分はこの艦で話をせねばならないことがあるのだ。今改まる必要は無いだろう。派手なことは、元来好みではない。  たまには堅苦しいことも少しは学ぶべきなのだと、今日の日を迎えるまでに面倒だと零していた彼の姿を思い起こして、口元がわずかに緩んだ。彼の制服の肩で揺れる、金色の肩章は、今自分が持つ一佐のものよりも少しだけ重みを増して、そこにあった。

晴天の、一点の曇りも無い空はどこまでも高く、高度を増すに連れてその青を濃くしていく。  見上げると、深いブルーの海の中にいるような気分になることを思い出した。手を伸ばして掴めそうなその空へ指先をかざす。  求めていた頃は息苦しく、いつも溺れているような感覚がしていた。今はただ、自由に泳ぐそのイメージを描くことが出来る。

もう、息苦しくは無い。

「新波さん」  背後から声を掛けられて振り返る。視線の先に、ゆるりと笑う彼の小さな笑顔があった。  記者が降り、演台の片付けられた広い甲板を海風が撫でる。出港へ向けて作業を進める乗員をちらりと見遣ってから、軽く咳払いをした。 「秋津群司令」 「・・・・・ああ、そうだった。新波一佐」 「気をつけてください。ここは、プライベートではないので」 「ええ、」  反省しているというのでもなく、小さく肩を竦めてから、彼は自分の隣に立った。  淡い花の香りが漂う。海からの風に混じるその香りを、少し深く息を吸って、身体に染み込ませた。肌がひとつ震えて、けれどそれを受け入れるように飲み込むと、あわ立った皮膚は徐々に鎮まって、また深海の底に沈むようにその熱を内に潜ませていく。  淡い心地よさを感じながら、隣で同じように空を見上げた彼の横顔に視線を送った。整ったラインのその横顔はひとつ瞬きをすると、自分の送る視線に気が付いたのか、こちらを向いて、また小さく微笑んだ。 「出港日和だ」 「はい」 「紆余曲折ありましたが、今日を迎えられて、ほっとしています」 「ええ、本当に」  彼が言っているのは、彼が第五艦隊群司令に着任が決定する前に、上でわずかに一悶着あったことだろうかと思った。 「変異性α」である彼の去就について物申す一部の人間が、彼の人事配置に難色を示したのだという。そうもっともらしい噂が流れてきていたのは知っていた。彼もそれを知らないのではないのだろう。  取り敢えず統幕長の権限で黙らせておいたからと、冗談めいた口調でそう告げてきた涌井統幕長の顔を思い起こした。おそらく、Ωである自分についても、何かがあったのだろうことは、察しが付いた。  自分たちが「いぶき」に乗り組む意味と価値は、これからの実績が物を言うだろう。怖気づくことはない。襟を正す思いでお互いに、今日の「いぶき」の出港を待っている。同じ思いを抱く彼に、小さく頷くようにしてみせた。  彼も同じように、小さく頷く。

「また、一つ。」 「?」 「前に進むことが出来た。・・・あなたと」 「・・・・そうですね」

彼はそう言って、制帽を手にして、被り直した。  彼の右の手の甲には、小さな赤い痣が分かる程度に残る。そうして自分の首元にも、彼が付けた噛み傷がわずかだが残っている。  自分たちが背負うものは重みも痛みも、おそらくこれからも変わることはない。歩んできた道も、その歩みの中で付いた傷も、拭われることはない。けれどそれが以前ほどに重荷だと思わないのは、彼と繋いで、分かち合う関わりが確かに、そしてわずかずつ自分の中に根付き始めたからだろうとそう思った。 「またしばらく、あなたと共に、歩んでいくことが出来そうだ、・・・新波さん」 「ええ」 「よろしくお願いします」  差し出された手に、少しためらった後、遠慮がちに指先を絡める。彼がその隙間に指を絡めて、強く、お互いに握り締めた。

「――永く、共に」

光は、与えられて降り注ぐのではなく、内から湧き出して自ら輝く。  二人だけが描く、輪郭を抱いて。  胸元にしのばせている銀色のネックレスに、熱が籠もる。それは自分の熱だけではなくて、彼の熱も溶かしているのだろうと思った。  握った手を引き寄せるようにして、彼が後頭部に手を添えて自分を抱き寄せてくる。唐突な振る舞いに、ほんの少し、拒むように身を捩った。 「、竜太」  囁いた名前に、彼が分からないほどにひっそりと笑みを浮かべて答える。 「少しだけ、いいでしょう」 「・・・・・」 「頑張ったので、5分だけ」 「、・・・5分だけです」  混じり合う花の香りが、潮の香りを包むように辺りに広がる。布に染み込むその甘く濃い花の香りを吸い込んで、そっと、目を閉じた。  頬に指先が触れて、柔らかに肌を撫でる。緩く重なる唇の熱を受け取って、応えた。

その熱は、光に変わるから。

そうして、いつまでも、手の中に。それは消えない温もりを灯し続ける。  お互いの熱を交わすその隙間に、鳥の鳴き声が響いた気がした。  薄く目を開けた先の青空に、二羽の翼が大きくはためく。寄り添うように飛び去るその番の鳥を視界に刻んで、また再び、彼の温度に身を委ねた。

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