←前  目次  次→

※性描写があります。ご注意ください。

海底で、一人だった。

光の差し込まない孤独な壁の中で生きてきた。  それが生まれてから死ぬまで自分の運命なのだと知ってから、ずっと。そうしなければ自分が存在することは許されないのだと思ってきた。  なぜならば、自分は「変異性α」だからだ。  愛したいと思って、守りたいと思って伸ばした手は、いつしか愛したいと思ったものを握り潰してしまう。  目の前で獣の自分が踏み潰すその生命を、まともな神経で目の当たりにすることなど出来るわけが無いと思っていた。

壁の向こうの光は自分のものにはなり得ない。  どんなに望んでも、この手には出来ない。

けれど熱はその手に籠もり続けて、いつからか「希望」というわずかな光が灯り始めた。  定められた性は「希望」を潰えさせようと光を覆う。  けれど傷ついたその手が、壁の中にいる自分に伸ばされる。引きちぎられようともなお、その手は自分を探している。  繋ごうと。  光を共に、灯そうと。  伸ばしていいのだろうかと動かした指先は確かな熱を持って、その手に触れる。溶け合ったその場所から「希望」が徐々に形を取り始める。  想像さえしなかった未来への輪郭を、少しずつ描き始めて。

――あなたを、ずっと探していた。

まだ残る肌寒さを滲ませた光が、重なり合う木々の葉の隙間から零れ落ちる。

葉を落とした広葉樹の枝々の隙間からのぞく、空へそびえ立つようなその建物を仰いだ。  無機質な四角いその頂は雲ひとつ見えない青い空に溶けていきそうにも思えた。出入りする人々の喧騒が何度も行き交うのに耳を澄ませる。遠くには車の行き過ぎる音が響いていた。すぐ近くにあるようでいて、別の世界の物音のようなそれは、現実と自分をつなぐ唯一の糸のようにも思えて、意識的に周囲に視線を送る。  数日、数週間おきに幾度か訪れたその建物と周辺の景色は、自分にとってはすっかり馴染みのものになってしまった。出来ればそうでない方がいいし一度で済ませようとするあちら側の努力も理解は出来たが、それでもあちら側が把握しておきたい情報は膨大であるようで、事情聴取にはそれなりの期間を要した。  気が付けばもう、季節は進んでいる。  けれど唐突に、今日が最後だと言われたのには違和感を感じざるを得なかった。まだ尋ねられるだろうと思っていたことの半分も話し終えないままで、捜査は終了なのだと、今日はそう目の前で告げられた。  理由を尋ねても、返ってくることはおそらく無い。そうして自分は、これ以上何かを咎められたり罰を受けたりすることは無いだろうとも言われた。嫌疑不十分と苦々しい顔でそう言われたことに、何か自分では制御出来ない力が働いたことは間違いが無いのだろうとそう思った。  上層部からは何の連絡も無い。Ωである彼がある事件に巻き込まれ拉致監禁された一件の経緯については報告済みだが、それに対しての返答は全く、わずかな波を立てるほどにも無かった。  そうしてそれが何よりの返答にも思えていた。自分と彼の意志によって左右される物事ではないという上からのそれは、無言の命令なのだろう。  積極的に罰を受けたいというわけではない。  それでも、自分がしたことに報いはあるのではないかと思っていた。暴走した自分の中の獣が働いた行為は通常許容できる域を超えていた。  例え相手が法を侵しているのだとしても看過出来るものではない自覚はある。だからもう「いぶき」に乗り組むことが二度と叶わなくなるのであっても、それは仕方がないことなのだろうと自分を納得させてここには向かっていた。  むしろその方が楽だったのかもしれない。もう必要ないのだと切り捨てられた方が自由になれる気もしていた。けれど得体の知れない力は、「変異性α」という獣を内に飼う自分を手の内に入れたまま、その手を未だ縛めようとしていた。 「いぶき」は閉じ込めておく檻か、守る羽毛布か。  そう言った航空団司令の物言いたげな目が思い出される。それは彼の存在を例える言葉だと受け取っていたが、けしてそうではなかったのだと、今になって思う。

閉じ込められ、そうしてまた守られていたのは自分だった。

それでも。  一度は受け入れていたその運命の流れをわずかに変えたひとつの「希望」はまだ手の中で熱を失ってはいない。  だから今ここに自分は、「秋津竜太」として立っていられるのだと思った。  意識のある最後の瞬間に抱きしめたその身体が湛えた温度はまるで自分を包むようにして今も残り続ける。  これからの自分がどう在るべきなのか。  答えはまだ、ぼんやりとした光の中で所在なく揺れているだけだった。けれどその在処だけははっきりと、自分の中で位置づいている、そんな気がしていた。

「あなた、———秋津さんですね?」

面会希望の申請書に名前を書き込んだところで看護師が一瞬眉を寄せたのにはすぐに気付いた。  看護師はしばらく待つように告げると奥の診察室へ向かう。そうして中にいる誰かと話をすると、こちらへ戻って来た。  彼、新波歳也への面会を許可する前に話しておきたいことがあると告げられて、奥まった場所の小さなカンファレンスルームへ通される。やって来たのは白衣を纏って当惑したような表情をわずかに滲ませた医師だった。  彼が抑制剤の過剰摂取によって体調を崩していることを知った時に、長年彼のかかりつけだった医師ではなくこの大学病院の医師に変更したのは自分だった。  この大学病院がΩの研究に関してこの国において最先端の情報を有していることは知っていた。ここならば、彼の抱えた事情を理解し最も適切な対処法を見出してくれるだろうとそう確信して、彼のことを依頼した。  依頼はしたが実際にやり取りをしていたのは医務官で、目の前の医師は自分の顔も名前も知らないはずだ。けれどここに呼び寄せられたということは、彼に関する自分の何らかの情報がこの医師に伝わっているということなのだろう。ほんのわずかに警戒したようなその硬い表情には、彼に対して自分が行った行為に対する非難めいた色も滲んでいるような気がした。  その部屋に据えられた大型の水槽の中では、小さな熱帯魚がゆるりとした速度で泳いでいる。エアーポンプの吐き出す小さな泡が、濃い海の青に染められた水槽の水の中で、こぽりと微かな音をたてる。 「秋津竜太です。・・・・第五護衛艦隊群所属『いぶき』で艦長をしております」 「ええ、それは聞いています」  かしこまって小さく礼をして頭を下げたが、医師の彼は短くそう切るように言っただけだった。  言葉少なに回転椅子に腰掛ける。こちらに向き直ったのを確かめて、口火を切った。 「副長の新波の容態が気になりまして。今日は面会に参りました」 「そうですか」 「彼は、今どのような状態でしょうか」  そう型通りに尋ねた自分の顔を、医師の彼が一瞬見咎めるようにまじまじと見つめたのが分かった。  きしりと回転椅子が軋む音がする。分からないほどに小さく眉間に皺を寄せ、考え込むような仕草を見せる。  数分にも思えるような重い沈黙のあと小さくため息を吐いて、彼は口を開いた。

「あなたは、αですね」 「・・・、ええ。そうですが」 「そして新波さんの『番』であった。  ・・・あった、ということは過去形ということですが」 「・・・・・・、」 「あなたが彼を『番』にし、そうして解除した本人ということで間違いは無いのですね」 「・・・・・・、その、通りです」

「——面会の前に、あなたに確認しておきたいことが、あるのです」  やや棘のあるその言いぶりに、医師のこちらに対する警戒心があからさまに見えた気がした。  ひとつ低くなって、一つ一つの言葉を慎重に選び取るように、その医師の彼は言葉を続けた。 「αが『番』を解除することによるΩへの影響を、あなたは知っておられますね」 「・・・」 「新波さんに対してそれを行ったことには明確な意図があったということですか」 「それは」 「彼の命を危険に晒すことを了解した上で、それを行ったということなのでしょうか」 「・・・」 「その上でここへ面会に来た理由は、一体何なのでしょう」 「・・・彼は、それほどまでに容態が悪いのですか」

切るように尋ねた自分に、医師の彼は返してきた。 「いいえ」 「・・・、」 「彼の容態は今は安定しています。  警察病院からこちらに搬送されて来たときは意識の混濁が激しかったのですが、今は回復しています。記憶が途切れている部分も多くありますが、警察の事情聴取を受けることが出来るくらいには、体力も戻ってきています」 「そうですか、・・・」 「ただ、長時間の拘束と抑制されなかった『発情』の余波による衰弱の影響は大きいと言えます。まだしばらくは、療養する期間が必要でしょう」 「・・・」 「それでも、『番』を解除されたΩの状態としては、新波さんの今の容態は奇跡に近いものがある」  医師はそう、感じ入るような口調で、奇跡というその言葉に力を込めて呟いた。

「本当に、αに『番』を解除されたのかと思うほど。  ——今の彼の状態はむしろ、『番』を得た理想の状態に限りなく近い」  そうして医師は、Ωとαの『番』の関係に関する持論をこちらに話してきた。同じことをずいぶん前、彼にも話したのだという。  αとΩが『番』の関わりを結ぶことでΩの「発情」は安定し治まる。それはけして生物学的な理由からだけではなく、人間という生物ならではの感情の流れが影響することが大きいのだという。  社会的にΩが存在意義を確立すること。つまり、Ωが自分を十分に必要とされることによって、Ωの「発情」に関する物質の流れに変化が起き、そうして「発情」のリズムが安定するということだった。 「好きな人と一緒にいることで、安心する」  医師の彼はそう、ずいぶんと噛み砕いた表現で説明してきた。非科学的なことは十分承知した上での発言だと、そう言い添えることも忘れなかった。  そうして、『番』を解除する場合には先ほど説明したことと逆のことが起きるのだということも付け加えてきた。 「——ですから、『番』を解除されたはずの新波さんの生体リズムがとても安定していることに、私たちは説明がつかなくて。正直、戸惑っています」 「・・・・・・」 「あなたとの関わりの中で、新波さんのΩとしての特性に変異が起きたのだとしか、考えられないのですが」  彼はそこまで一息で言い切って、そうして力のこもっていた肩から少しだけ力を抜いて、大きく、深い息を吐いた。

「αのあなたと、Ωの新波さんとの中で。  ——新たなつながりが生まれた。そういうことなのでしょうか」

「あなたは何故、新波さんとの『番』を解除したのですか」 「それは、・・・・・・」 「『番』を解除するという行為は、αにとってもけして小さくはないリスクを伴うことです」 「・・・」 「あなたに新波さんに対して多少なりとも添い遂げようとする心があるのなら、わざわざ『番』を解除する必要はなかった。けれどそのリスクを侵しても、解除せねばならない理由があったということなのでしょうか」  答えることは、自分の持つ「変異性α」についての説明をすることになることと同義だ。 「変異性α」の自分についての情報は高い秘匿性があり、それは本人でさえも、強く口外することを禁じられている。例えΩについての専門的な知識を持ちうるこの病院の医師に対してであっても、簡単に口にすることには憚りがあった。黙り込んだ自分の表情を伺うように、医師の彼はこちらをじっと見つめて、動かない。  学術的な興味もあるのかもしれない。そうして純粋に医師として彼を案ずる感情もあるのかもしれない。  どちらにしても、理由を上手く説明することは出来ないと思った。  自分でさえも、暴走する己の中の獣の熱に流される中で彼に求められ下した決断だ。 『番』を解除することで彼の身に何が起きるのかということくらいは承知していた。それでも、そうすることが自分を救うことなのだと言われて、失う恐怖と救われる希望の狭間で迷い果てた末に彼とのそのつながりを解くことを選んだ。そのことはどんなに言葉を尽くしても、詳細には説明しきれないのだと思っていた。  言い淀んだ自分を見つめたまま、医師の彼は、静かに言葉を継いだ。 「・・・彼の状態は安定しているとはいえ、何がきっかけで悪化するかはまだ分かりません」 「・・・」 「特に、今の彼がαと接触することには慎重な判断が必要だと思っています。  主治医は私です。私はβですのでおそらく問題ありませんが。現状、αの関係者は彼には一切近づけていません」 「・・・そうなのですか」 「あなたはαだ。そして一度は彼と『番』を結んだαでもある。——今の彼の状態から判断すれば、今日はあなたにはお帰りいただきたいところですが」 「・・・」  冷たいとも取れる医師の硬い声に、背が氷のように冷えた。一瞬強張ったこちらの表情を察したのか、次の言葉を紡いだ医師の声音は、ほんのわずかに和らいだ色を見せる。 「新波さん、彼自身にまず許可を取ります。その上で、十分にこちらの準備をした上で面会を許可します」 「・・・分かりました」 「お待ち下さい」  そう言い残して、医師は席を立ち部屋を出ていった。  ひとり残されたその部屋の白さが、目に灼き付くような気がした。残る冬の冷えた温度を孕む午後の光が、大きく取られた窓の外から差し込んで、足元を照らしていた。  リノリウムの床は冷たい温度を伝えてきて、けれど光は暖かく降り注ぐ。  自分で歩いていけば、手を伸ばせば届く。あの日触れられなかった指先に比べればそれほど近い距離に彼はいるはずで、けれどその姿は遥か遠くの景色のように覚束ない感覚で目の前にある。

『俺はもう、何も奪われない』

奪われた心以外は、何も。  衝動と熱に浚われそうな意識の中で聞いたその声が、手のひらに籠った熱と共に脳裏によみがえる。  なぜここに来たのか。あの日から自分の中で何度も繰り返した問いを、刻みつけるように口の中で声無く呟いた。静寂は波紋を広げるように辺りを支配していた。

人の温度を覆い隠したような低くくぐもった声が響く。 『特定の他者に依る関係性はある種不健全とも言える。そう、例えば比翼の鳥のように』  それは自分の持つ性と運命を憐れむようにも聴こえた。 『お互いの不備を補い合うことは支え合うことだと。その脆い美しさや尊さが果たして我々に必要なものなのか』  それでも選び取るのだとしたら、そこに何が生まれるのか。彼に、答えたかどうかは定かではない。

扉の手すりに手をかけて、するすると音無く滑らせる。  開いた隙間から、淡い光と薬品の匂いに混じって、甘くささやかな花の香りが漂った。身体の芯を疼かせるような熱の気配はそこには無い。ただ柔らかに首筋を撫でるように身体を纏うだけだった。  足を踏み入れた気配を感じ取ったのか、小さく布が擦れる音がする。明るい色で統一された個室の奥に据えられたベッドの上で、彼は身体を起こして、窓の外の景色を眺めていた。  一歩近づくごとに、花の香りはほんのわずかに濃くなって、底の方で速度を速める心臓の拍動が静けさに響くような気がした。俯きがちだったその顔を上げ、彼の姿を視界に捉える。  差し込む午後の太陽の光に彼の横顔の輪郭は曖昧にぼやけていくような気もした。まるで幻のように、空気を揺らすだけで溶けて消えそうにも思えて、けれど鼻先に染みるような懐かしい香りは、彼がそこにいることを確かに伝えてくる。 「・・・・・・新波さん」  名前を呼ぶと、横顔がこちらを向いた。自分の姿を把握するまでに数秒ほどの時間をおいて、彼は小さく、口の端を上げて微笑んだ。 「秋津」  低く穏やかな声が耳に届く。底で縮こまっていた自分の胸が、小さく締め付けられる気がした。

「わざわざ御足労いただいて。艦長」  彼はそう言って、小さく頭を下げた。それに上手く返すことが出来ずに顎だけで頷くとベッドの傍らにある簡易の折り畳み椅子を広げて腰掛けた。  十分に間隔を置いて。それは医師から指導されたことだ。  自分が放つ香りは今のところは感じられない。彼の持つ香りも、淡く、それは布の洗われた清潔な香りに混じってしまうほどに微かに漂うだけだった。  フェロモンを薬などによって抑制しなければならないΩとは違い、ある程度自分のフェロモンの表出はコントロールすることが出来る。「番」にすると決めたΩに対して放たれることはあっても、特にそういった関係性を持たない相手、番うことを望まない相手に対してそのフェロモンを出さずに接することは可能だった。「変異性α」であることが判明してから、抑えることやコントロールすることについては身体に嫌というほど叩き込んである。それを第二性に影響されることが少ないからだと、当初彼に誤魔化していたことを思い出した。 「体調はどうですか」 「ええ、まだ本調子ではありませんが、ずいぶん楽にはなりました」 「そうですか」  彼は少しだけ困ったようにそう言った。 「医者が言うことには、まだ経過を観察する必要があるということで。しばらくはまだここを出るわけにはいかないようです」  わずかに躊躇うように視線を落として、やがて言葉を重ねるのが分かった。 「・・・長い間『いぶき』を留守にしてしまっている。そのことが気がかりで」 「それは問題ない。あなたの席は空けてある。任務も滞りなく、どうにかやっているから心配しなくていい」 「そうですか、・・・」  責任感の強い彼のことだから、ずっと心に引っ掛かっていたことなのだろう。答えた自分に彼はほんの少し安堵したように表情を緩めた。  淡々と、今の状況を話せる範囲で口にする。彼が心配している状況は予測のつくことで大体を処理してこちらに来ている。それは彼も分かっているのだろう。こちらの報告を小さく相槌を打ちながら聞いていた。 「新波二佐、あなたは療養することに専念して欲しい」 「・・・、ええ」  念を押すようにそう言うと、よろしくお願いしますと彼はそうもう一度頭を下げてきた。  時おり挟まれる沈黙は、緩く流れる時間をさらに滞らせてまるで時間が止まったようにさえ思える。小さく耳に響くのは彼の指に付けられたサチュレーションモニターの規則的な機械音だけだった。 「艦長」と「副長」としての決まりきったような表面の会話の中に、αとΩというお互いの関係性は滲みもしなかった。けれど感じていることは分かっていた。  言葉に、形にするのはどちらが先かというだけで、二人とも今話すべきことがそれでないことは十分に承知している。  病衣だろう淡い色のシャツからのぞく、ほんのわずかに頼りなくなった首元に、少し長くなった彼の襟足の細い髪がかかる。その奥には、赤い噛み跡がまだはっきりと残っていた。  それは自分が残した傷で、彼を今の状況に追いやったまさにその証でもある。  けれどそのことを積極的に口にすることに躊躇いが生まれる。踏み込まなければいけないことは分かっていて、けれどその一歩を自分の中で踏み出せずにいた。

「・・・ユーシイは」 「え?」 「彼女は、どうなりましたか」  遠慮がちに口を開いたのは彼の方だった。彼の手元に向けていた視線を上げると、ゆらりと揺らぐ感情の滲み出るような彼の顔が視界に入った。  出て来たその名に、記憶を手繰り寄せる。彼が心を砕いていた幼さの中にΩの色香を漂わせた彼女の姿がぼんやりと思い浮かんだ。  紅い唇がほんのりと上がって、柔らかに微笑む。「トシヤ」と名前を呼ぶ声のあどけなさは自分の記憶にもはっきりと残っていた。 「・・・彼女は、本国に強制送還になるそうだ」 「、そうですか」 「間接的とは言え、彼女の『番』が行っていた人身売買への関与が疑われた。彼女もそれを一部認めたらしい」  そう、聞いた通りのことを型どおりに報告した。不必要な感情や感傷はかえって彼の心を乱すだろうと判断してのことだった。 「彼女の『番』ほどに組織の犯罪行為に関わっていたわけではなさそうだが。『番』のしていることを知っておきながら黙認していたのは間違いないと。彼女もそのことについては心痛む部分があったようでな。止めることが出来なかったのだと悔やんでいたそうだ」 「・・・・・・」 「ただ彼女の『番』も、『李』に指示された上で人身売買に関わっていたそうだから。・・・向こうがどのような判断を下すかは分からないが」 「そうですね」 「あなたのことも気にかけていた」  そう告げると、彼はわずかに、目を見開く。 「・・・」 「しばらく前に、彼女に面会する機会があって。少しだけだが話をすることが出来た」 「・・・・・・」 「あなたのことを、話してくれた」

『私はこれからどうなるか分からない』  厚いガラスの向こうで、彼女はそう言って、小さく微笑んだ。  その笑みはどこか諦めているようでいて、けれど瞳の中に宿る色は、「生」を強く望むその感情を強く滲ませてもいた。 『兄に会うこともこれから一生叶うことはないかもしれない。・・・トシヤにも。もうたぶん二度と会えないと思う』  小さくそう儚げに呟いた彼女は、その生きてきた時間に見合わない、幾重にも折り重なった複雑な思いをその笑みに浮かばせて言葉を紡いだ。  彼女の素性については彼に聞いて知っていた。向こう側の国の戦闘機のパイロットの妹だったという。彼に頼まれて、あの事案のさなかに兄だというそのパイロットに話をした。けれどそれだけのことだ。彼女が彼とどんな話をしてどんな意識を共有したのかまでは知らされてはいなかった。  目の前の彼女はそれを話すことは無い。また彼に尋ねても知ることは出来ないだろう。  この度の一件の首謀者でもある「李」が繰り返しΩについて語ったあの口ぶりからしても、本国へ帰された彼女にはけして楽とは言えない道が待っているのだろうことは簡単に想像がついた。けれどこちらから何らかの働きかけをすることは出来ない。 『——でも、『希望』は捨てたくないの』  彼女はそう言った。 『トシヤが最後まで『希望』を捨てなかったみたいに。『番』のあなたと共にいることを、諦めなかったみたいに。  私も、どんなに苦しくてももう救いが無くても。『幸せ』になる『希望』は、捨てないで生きていきたい』

『『希望』は『絶望』と変わりない場所にある。  ——だから、きっと。私も、生きていける。トシヤのことを思い出したら、頑張れる気がするもの』

『『Ты много значишь для меня.』  ・・・ありがとう、リョウタ。あなたが伝えてくれた兄の言葉も、・・・忘れないから』  そう言われたことは、彼に告げる必要は無いだろうと、喉の奥に収めた。 「・・・」  淡い色で染められた部屋に無言の空間が広がって、口元に手を当てた彼が睫毛を震わせて目を伏せるのが分かった。息を深く吸って、吐く。そのゆっくりとした動作が目に映る。  奥の窓に、遠い海の景色が陽炎のように滲んで浮かぶ。彼女が向かう先の未来がそこにある気がした。「絶望」に沿う、「希望」は捨てない。目の前で言葉になることは無いだろう、彼女への思いの込められたその息遣いを、ただ黙って彼の姿と共に心に刻んだ。

「——申し訳ありませんでした」  彼の膝にかかる白い布は、陽の光を受けて波のような陰影を形作る。  今までの経緯を踏まえた上で放つ言葉にしては陳腐が過ぎると思ったが、今言葉に出来るのはこれだけしか無い。掠れた細い声音でそう言って頭を深く下げた自分に、彼は黙って視線を送って来た。  わずかに揺らいで、そうして水に浸した糸が張るように身じろぎさえしなくなった部屋の空気が、痛いほどに肌を刺す。沈黙が続いた。 「あなたを、こんな状態に追い込んだのは私だ」 「・・・・・・」 「私はあなたを守るつもりだった」   彼を守ろうとした、そのことに間違いは無い。  彼がΩであると知ってから、どうすれば彼を守ることが出来るのか、それだけを考えて来た。自分が「変異性α」である、その詳細については口には出来ない。そうして、「変異性α」が持つ特質についても、彼に話すことは出来なかった。それでもどうにか彼を救おうと手を尽くしたつもりだった。  一度は『番』にすることも考えた。それは彼が苦しむ「発情」から彼を解放するためだった。『番』にしたΩを手にかけてしまう可能性を孕んでいても、彼が理不尽に与えられた性に翻弄されて自分を見失っていくのを見ていることが出来なかった。 「けれど守れなかった」 「・・・」  結局『番』にすることを一歩手前で躊躇することになった。噛みつく寸前に自分の持つ獣の性が一瞬ちらついた。そうして項に触れた口元は、それ以上進むことは出来なかった。 『番』に出来ないならせめてと、彼を守るためのネックレスを渡した。居場所を把握するため、そうして自衛するための仕組みを組み込んだそのネックレスも、彼を守り切ることは無かった。  欲に流されて強制的に彼に『番』を結ばせたのは自分だ。彼が自分の持つ性について知り、救おうとして差し伸べてきたその手に身勝手にも縋った。それは彼をいっそう苦悩の内に貶めることになった。  そうして最終的に『番』を殺そうと暴走した己の中の獣を収めるために、彼はその『番』を解除するように言った。結果として彼は命を失う危険を冒すことになって、今ここにいる。  その場その場で自分が下して来た決断はすべて裏目に出て、彼自身の命さえも奪おうとした。  相対しているものが先の事案のように、戦略を構築し攻略出来る種類のものならばこんな間違いは犯さない。悔いることに意味があるのは、その先の在り方を定めることが出来る時だけで、今の自分はただ己の行いを悔いて許しを乞うだけの生き物だった。  その許しの先に何を望むのかも分からないまま、ただ頭を垂れる。そのことにも意味があるとは思えなかったけれど、そうするより他、何も思いつかなかった。

「私はあなたを苦しめただけだった」  その独白は彼に届いているのかどうか、俯いて彼の手元だけが見えるその視界では判断することが出来なかった。  沈黙は自分と彼の周りに広がったまま、揺らぐことは無い。手の甲が熱くなって、それは自分の身体の中で自分の一部として巣食う獣が息づく気配であるようにも思えた。 『番』を解除することでΩである彼に何が起きるのか、それを承知した上で『番』を解除し、それでいて何故ここに現れるのかとあの医師は自分に問うてきた。彼の命を奪うような真似をしておきながら、その手を離すことをひどく躊躇する自分を、その医師の目は見抜いているようにも見えた。  答えは見えない。海の底で壁に阻まれながら背を向ける自分の姿が思い描かれた。  自分はどうしたかったのか。ここに来て、彼に何を紡ごうとしたかったのか。それは言葉にならずに、ただ時間だけが過ぎていくのを感じていた。

「——詫びるために来たのか」

氷のように空気に張り巡らされたその静寂を柔らかに打ち崩すような声が、耳に届く。  顔を上げると、こちらを見つめる彼の視線と自分の視線がぶつかった。ぶつかったそのまま、ゆるりと絡まり合う。捉えられて離せずにいるその視線の間に、お互いの花の香が薄く揺蕩うそんな気がした。  彼の目の色はどこまでも真摯で、内に秘めたこちらの本当の心を暴こうとする。隠すつもりは無かった。けれど曝け出すことも出来ないで、ただ口を噤んで、彼のその視線に無言で応えるだけだった。 「そうやって俺に謝れば、何も言わずに済むとそう思っているのか」 「・・・、そんなつもりは、」 「だったら用件は済んだ。詫びるだけで来たなら、帰ってくれ」 「新波さん」 「許すも許さないも俺には無い。『番』を解除することをあんたに強いたのは俺だ。だから何も言うつもりは無い」 「・・・」 「俺も、好き勝手にやらせてもらった。お互い様だ」 「そんなことでは無いでしょう」 「じゃあどんなことなんだ。あんたは、俺の何を聞きたい」 「・・・・・・」 「俺にどうして欲しいというんだ」

「・・・あんたは、何を望んでいるんだ」

言葉は鋭い。けれど声音は尖るわけでもなく、穏やかで凪いでいた。それは晴天の海の平かな景色にも似ていた。  水平線と空が溶け合う、そのさまが思い描かれる。 「秋津」 「・・・・・・・」 「俺はもう何も奪われない」  彼はそう言って、こちらを見据えた。 「俺は自分で決めて、あんたと『番』を解除することを選んだ。  その後自分がどうなるかも分かった上で、それでも守ると決めた。・・・あんたを」 「新波さん」  黒く艶めいた瞳の色は、自分を映している。深い海の、それは闇ではなくて潜ませたわずかな光のように彼の言葉が、壁の奥で蹲る自分に降り注ぐ。 「・・・俺は何も奪われなかったし、こうやって生きている。これからもそうだ。  俺はもう奪われたりしないし、ちゃんと、自分で自分の在り方は決めて生きていく」 「・・・」 「俺がΩであることは何も変わらない。それはもう俺の一部だ。それでも、全てじゃない。  ・・・俺は俺に、ちゃんと折り合いをつけて、生きていくつもりだ。たとえ、それが意味の無いことだったとしても。 『希望』は捨てない」

「——俺は、『秋津竜太』と共に。生きたいと願った」

「・・・あんたは、どうしたい」  彼の手が不意に伸びて、膝の上に乗せていた自分の右手の上に被せられた。  冷えた温度に重なるその手の温もりにびくりと自分の肩が揺れた。そんな風に感情をあからさまに揺らした姿を見せるのは、彼の前でしか無いことだった。  扉の向こうで控える医師の顔が思い浮かんだ。彼の顔からつながるいくばくか痩せたようなその身体を見つめた。彼の様子に大きな変化は無く、ただ、淡く甘い花の香りが触れ合った肌から染み出してくるのが分かるだけだった。  香りは彼を包んで、滑らかに湿ったような色をその表情と見つめる視線に滲ませる。それが彼自身のものなのか、Ωの性が為せるものなのか。考えるよりも、それが目の前にいる新波歳也であると受け入れるべきなのだと、頭の片隅で思う。  己に与えられた性は、己の一部であって、全てではない。そうして、どんな新波歳也なのだとしても、自分が今抱くこの感情が変わることはないだろう。 「俺は決めた。あんたは、決めるのか」 「・・・・・・」 「あんたの望みを、教えて欲しい」 「私は」  指と指の間に柔らかに、彼の指が絡まる。ほんの少し力の込められたその指は、わずかに震えているようにも思えた。 「——あんたが決めたことなら、俺はきちんと受け止める。あんたの望むようにする」 「・・・・・・新、波さん」

「それが、俺の望みだからだ」

願うことは、果てのない苦しみも伴う。  叶うことを求めて、いつまでも。叶わない「希望」を長く抱き続けることは「絶望」にも似た痛みだ。それは自分が、一番よく理解していることのはずだった。  それでも人は手放すことが出来ない。その「希望」が、自分の生きる標になることを、知っているから。 「新波さん」  身体の中で、光の抱く熱が徐々に広がる。熱は自らの身体から放たれて、そこから抜け出ようとする。伸ばされた手は傷ついて、千切れそうなわずかな「希望」を持ち続けて、こちらへなお、伸ばされる。  その手を取ることは自由で。拒むことも出来た。孤独の壁の中で生きることも、誰も否定はしない。それが自分で、決めることならば。  それでも願う。  この手が、取って握り締めた手を傷つける未来を孕んでいるのだとしても。  永久を願って繋ぐ手が、いつまでも続かないものだとしても。

繋ごうと。  その手で、光を灯そうと。 「——・・・・私は、・・・・・新波さん・・・・・・」 『『希望』は、捨てない』 「私に、」

「・・・・・私に、あなたを。守らせて、ください」

ずっと、これからも。  そう言った言葉は掠れて、形になりきらなかった。  重ねた手にひとつ落ちたのはどちらの涙だったのかは分からない。  小さく頷いた彼が額を寄せてくる。近くなって触れ合った肌の温度が溶け合って、彼の息遣いが、耳元をくすぐる。絡め合った手に強く力を込めた。彼がそれに返して来るのを確かめて、鼻先を触れ合わせる。  唇が重なるのは必然で、かさついた彼の唇のその温度がどうしようもなく温かくて、底で凍りついていた孤独な自分の姿を溶かしていくのが分かった。  伸ばされていた手を、ようやく掴む。そうして湧き上がり始めた光が、広がる。  ——ずっと探していたのは、この熱だった。  辺りに花の香りが柔らかに広がる。花の散る海に打ち寄せる波のようなその香りを呼吸と共に、身体に染み付かせた。  唇をゆっくりと離して、彼の身体をおそるおそる抱き締める。肩口に鼻先を寄せて、彼が安堵したように力を抜いたのが分かった。彼の漂わせるその花の香は、春の予兆を滲ませる香りのような気がした。目の前で花びらがゆらゆらと頼りなく舞う、そんなイメージが浮かんだ。

ちゃり、と小さな金属音がする。  浮いた彼の鎖骨と鎖骨の間に見えたのはあのネックレスだった。窓から差し込む光を受けて、その銀色に小さく丸い光が灯る。 「希望」が見えると言ったのは彼女だった。彼の胸元で揺れる「希望」に、胸が締め付けられて、痛んだ。それは、どこまでも甘く優しい痛みだった。

在天願作比翼鳥 (天に在りては願わくは比翼の鳥と作り)  在地願爲連理枝 (地に在りては願わくは連理の枝と為らんと)  天長地久有時盡 (天長く地久しきも時有りて尽く)  此恨綿綿無盡期 (此の恨みは綿綿として尽くる期無からん)

かちりと扉が締まる音を聴く。  腕を取って、背から抱きすくめた。まだ痕の残る首筋に唇を埋める。ふるりと彼の肩が小さく揺れた。  長い間の不在は部屋の中に温い空気を籠もらせていた。薄暗い空気は滞留して、古びたような匂いをさせる。  腕の中に入れたまま、その身体を両の手で反転させた。しなやかで滑らかな二の腕はそれでも、長引いた療養期間を経たせいか、ほんのわずかに華奢になったような気がした。彼はされるがままに、こちらに向き直った。  熱を帯びて少し濡れたような薄赤い目がこちらを見つめる。薄く開いた唇に許可の意志を感じて、そのまま、その唇を塞いだ。  背がとん、と玄関の壁にぶつかる。その勢いで彼の身体を軽く壁に押し付けて、腰の辺りに手を差し入れた。 「・・・、ん、・・・・っ」  歯列を割り、舌を差し込む。口内の粘膜を余すところなく舌先で撫でて、奥で待ち望んだように存在していたその彼の舌と自分の舌を絡めた。先で触れるようにすると、彼は徐々に行く先を慎重に確かめるように、その舌を差し出してきた。十分に触れ合わせて、どこか心地よくさえ思えるざらりとした感触を味わう。  角度を変えて、時おり距離を取りながら、何度もその唇を貪った。差し入れていた手を、引き寄せる。  胸元がぶつかる軽い感覚がして、肌が触れる面積が増えるとその温度も布越しではあるけれどよりリアルに感じられるようになる。それが自分の中の熱を徐々に押し上げた。  呼吸の合間に、彼が息を整えながら、小さく喘ぐように自分の名前を呼ぶ。 「・・・、あき、つ・・・」  蕩けたようなその声音がじわりと底の神経を侵す。ゆるりと立ち上がる自分の熱を、力が抜けて柔く開いた彼の脚の間に擦り付けた。  そのまま流されそうなその湿った空気を留めるように、彼が手のひらで胸元を押す。少し身体を離して、向き合った。 「新波さん」 「・・・、」  湿り気を帯びたようにほのかに赤く染まる目元を指の腹で撫でる。そのまま、5本の指と手のひらで彼の頬を包み込んだ。彼は言葉無く、溶けたような視線を泳がせた。  戸惑ったようなその彼の表情は、それでも得も言われぬ色香を漂わせる。自分の中で抑え込んでいた欲が、さざ波のように小さく、立ち上がるのが分かった。

「フェロモンが、あんたの。・・・強い・・・」  彼はしばらくは口を噤んで黙っていたが、観念したように小さな声でそう呟いた。そうして耐えきれないというように、熱い息をゆっくりと吐いた。箍を緩めていた自覚はある。言って、その気恥ずかしさに目を一瞬伏せたその仕草に、心臓を底から強く掴まれるような気がした。伏せた睫毛が小刻みに震える。目元がじわじわと血の色で染まる。  イランイランの香りが強く漂った気がした。彼が己の中の何かを抑え込もうとしているのは確かで、それは、彼の中の性がそうさせているのだろうと思えた。  腰に彼の手が添えられる。迷うように宙をふらついていたその指が、ようやくこちらのシャツの布を、やわやわと掴んだ。 「新波さん。我慢、できませんか?」 「・・・そうじゃな、・・・くて」 「私もです」  頬を包んだまま息を吹きかけるようにそっと囁くと、彼が小さく顔を歪めたのが分かった。 「私はあなたを、抱きたい」 「・・・、あ・・・っあき、・・・つ・・・」

「あなたを、私のものに・・・したい」

昼中の寝室は、カーテンを引いても薄明るい。  お互いの身体もはっきりと、目を凝らさずともその輪郭を捉えることが出来る。昼日中の情事に纏わりつく罪悪感や背徳感は、本来隠れているべき場所を暴くように明るいからなのだろうかと思った。  纏っていたその服を彼が自分で脱ごうとした手を止める。手首を掴んで、軽く食むようなキスを落とした。小さな水音をさせながら、何度かそれを繰り返す。そうしておきながら、一つずつ、彼のシャツのボタンを外す。  するりと落ちた布に隠されていた身体は、思っていたよりも淡白くなっていた。数ヶ月ほど、「いぶき」に乗り組むどころか外へ出ることもままならなかったのだ。無理もないと思い直す。  それでも長年丁寧に鍛え上げられてきた身体つきはわずかに頼りなくはなったけれど、そのしなやかさや美しさは失ってはいない。指先で肩から腕のラインをなぞった。腕から指先へ、そうして脇腹を辿る。  口づけに答えていた彼の手も、こちらの服に触れた。ボタンに指をかけ、確かめるように一つ一つを外していく。撫でられるたびに、触れる唇から彼の温い吐息が漏れる。ぱさりと音がしてお互いの肌を顕にした。自然と彼の背に腕が回って、啄むだけだった唇の動きを深くして、彼の熱くなった口内を味わった。  唇を繋いだまま、二人ベッドに沈む。  鎖骨を唇で食み、舌を滑らせた。脇腹を手で撫でながらも、唇だけで、胸元に小さなキスをいくつも降らせた。時折強く、噛むように触れると、彼の締まった腹の筋肉が、ぴくりと硬くなるのが分かった。  遊ぶように触れていた唇で、胸元の弱い部分を摘んだ。指先をもう片方で引っ掻くように触れて、何度か繰り返す。 「、・・・ひ、ぁ・・・」  びくりとベッドに背を預けていた彼が喉をのけぞらせるのが分かった。甘く引き攣れた声が、室内の空気を濡らしていった。  何度か緩急をつけて飽くことなく弄ると、あ、あ、と抑え込めない彼の声が漏れて響く。しっとりと全身に熱が広がって、投げ出していた脚の指先で、彼は身体を強張らせるように、シーツを掴んだ。無駄な肉のないすらりとした脚が、爪先まで硬直したように伸ばされて、その曲線がカーテン越しに感じられる薄い光の色に染められて、薄灰がかったシーツに皺を作っていく。そのさまが艶めかしい。  じわじわと汗ばみ始める彼の肌は吸い付くように肌理が細かく、唇を這わせると後を引くような甘さが残る。張り付いて離れないその皮膚の弾力に酔い痴れた。  一度彼と身体を重ねた時は彼に対する思いというよりも、唯一のΩを手に入れようとする獣の熱に押されてただ己の快楽の行く先だけを追っていた。今とそう変わりもない気もしたが、彼の温度をより近く、より現実的に感じられているのは今だという、そんな思いが頭を掠める。  胸元を繰り返し吸い上げながら、指先は脇腹から腰にかけてを撫でつけて、そうして脚を開くように内腿を軽く抱える。その中心にある熱は、緩く立ち上がり始めていた。  しつこく同じ場所を責め立てられた彼の手が、後頭部に添えられて、短く硬い髪を掴む。少しずつ荒く熱くなっていく息遣いが、さらに奥の欲を駆り立てるのが分かった。 「・・・、っぁあ、や、ああ、っ」  柔らかに熱を握り込み、そうして指先で探るように擦り上げる。指の先で、すいとその筋をなぞると、腰が大きく揺らめいた。ごく素直に反応するように、手の中のその彼の欲は体積を大きくさせる。  つ、と濡れ始めたその先を指の腹で小さく刺激すると、ああ、と苦しげに声を上げて彼は閉じていた目をうっすらと開けた。じわりと、目元に水分が溜まって、今にも零れそうになっている。  ゆるやかに上り詰め始める熱を制御出来ず、定まらない視界の中で彼はこちらの姿を確かめようとふらふらと視線を泳がせた。自分に降りかかる心地よさを消化しきれず切なげに歪んだ表情は、組み敷く恍惚をいっそうそそり立てる。だらしなく緩んで開いた内腿の白さに、喉の奥が唾液で満たされているのを感じた。  彼から匂い立つのは息苦しくなるほどの濃く甘い花の香りで、それは彼の持つ性がもたらすものだということは理解出来た。滑らかな肢体に、濡れた肌。彼が敢えてその自分の持てるその特性を解放しているかどうかは、尋ねる暇も与えられなかった。

「あ、ぁ、あっ・・・あき、つ・・・」 「新波さん・・・」 「も、もう・・・ゃ、いや、・・・無理だ・・・」  小さく顔を横に振るような仕草を見せて、彼は縋るように髪を掴んでいた手を、おもむろに離す。ぶるりと彼の肌が震えて、脚が腰元に一瞬絡んだ。熱に添えていた手を離すと、はぁ、とひとつ、彼は大きく深呼吸をした。  熱は立ち上がったまま、わずかに濡れたその先から、水滴がひとつ線を描くように落ちる。  長い指先がその奥の場所に遠慮がちに触れて、押し広げるようにして彼が腰を持ち上げたのが分かった。望むのが何かはすぐに分かって、ぐらりと大きく打ち寄せるような欲の波に、自分の意識が浚われそうになるのをどうにか留める。 「ここ、・・・・して、・・・ここが、いい・・・んだ・・・」  途切れ途切れの懇願に、どうしようもない暗い支配欲が喉元にせり上がる。けれどそれはどこか、労るような優しさも滲ませていた。  彼の脚を割り開くように自分の脚を差し入れた。そうして、腿と腰全体を持ち上げると、その秘められた部分が、薄暗い陽の光に晒されて顕になった。

粘膜を指が擦る、ねっとりとした水音が響く。指先を意志を持って動かすたびに、彼のその奥の粘膜はまるでそれ自身が意志を持ったようにぬるりと動いて、その指を絡め取ろうとする。 「ん、っあ、ぁあ、あっ・・・あ!」  指を敢えて湿らせる必要は無かった。彼のその場所はすでに溢れんばかりに蜜を湛えて、十分に潤っている。指を抜き差ししている内に、それは手のひらに沿って零れて、布にわずかな染みを作っていった。生温いその感触にぞわりと背筋が痺れるように震えた。  奥にぐ、と差し入れても、その指先をいとも簡単に飲み込まれる。誘い込まれるように最奥を探った。根元まで入れ込んだその最終地点で、熱い壁を何度も捻るように掻き回す。彼の背が弓なりに反って、甘い喘ぎ声が耳元に響く。 「あきつ、秋津・・・ああっ、はぁ、っ・・・」  腿を支える手と腕に、彼の腕が絡みつく。伸ばされた腕の先の指の爪が二の腕を引っ掻くように強くその肌に立てられて、ちり、とした刺すような痛みが一瞬走る。  はくはくと、浅い息を吐き続けるその口元に自分の唇を寄せた。指の動きは止めないままに、彼の唇を覆うように口づけた。 「ん、ぅう」  離そうとすると、まだ足りないとでも言うように、彼はさらに食いついてくる。互いの唾液が行き交って、顎を伝って、雫が垂れ落ちる。  彼の中に恥じらいは残る。けれどすすんでその快楽に溺れて心地よさを味わうその姿は否応がなしに、彼の持つ性の本来の姿をこちらに伝えてくるような気がした。  これがΩが持つ特性なのだ。彼が今まで心から嫌悪し、与えられたことを呪って来た性の姿だった。 「ん、んっう・・・ぁ、いれ、て」  彼の肌が薄く血の色を纏って来る。全身に散る赤い痕に滲むかのようにその花びらの熱の色に染まり始める。溶けて落ちそうな気だるさを滲ませたその声が、一歩手前で踏み留まろうとするその理性を薙ぎ払っていくようだった。  彼の指先が、彼と同じように硬く反り上がったその熱に触れる。これから始まるだろうことを恐れているようにも思えた。触れて、そうして握り込む。 「・・・・・・、新、波さ」 「入れて、これ・・・・早く・・・・、し、して・・・ほしい・・・っ、ぁああ」

「入れて」

指で慣らしたその場所は柔らかく解れてはいたけれど、慎重にその熱を差し入れる。  わずかに感じた異物感に、彼が眉を寄せ、そうして腰が引けるのが分かった。しっかりとした腰を抱き込み、後ずさろうとするのを留めて、ずぷりと中に押し入れる。指で十分に滑らせたその粘膜は、始めこそ拒むようにきつく熱を締め付けてきたが、奥に進む内、ゆるゆると包み込むようにそれを飲み込んで来た。  締め付ける感覚はそう変わりは無いが、強くも弱くもない力で熱を抱き込もうとするその心地よさは頭の芯を揺さぶっていく。奥の感じ入る場所へ誘うように彼は腰を揺らめかせた。まるで慣れたようなその動きに、こくりと喉を鳴らした。  悩ましげな表情が視界に映る。崩れて落ちた髪を一房取って、口づけた。髪のその一筋にさえ、濃い花の香りは匂い立つ。鼻から染み込むその香りがまた、自分の中の獣を呼び覚まそうとする。  更に奥に差し込み突き上げながら、彼の瞼にキスを落とした。  むずがるように顔を震わせてから、彼はまた、快楽に酔ったか細い声をあげる。 「あ、あ、んあっ・・・・・あ」  肌を打ち付けるたびに、ぶつかりあって擦れる水分を湛えた音が響く。根元までしっかりと飲み込んだ彼のその場所はひくひくと痙攣しているようにも見えた。荒い二人の呼吸の音に水音が重なって、艶めかしい和音になって耳を刺した。  抱え上げた腿がふるふると震える。寒いのだろうかと思ったが、火照ったように熱い温度を湛えたその彼の身体からはじんわりと汗が吹き出している。それは自分も同じで、冷えた室内を暖めるように上がっていくお互いの身体の温度を混じり合わせた。 「はっぁあ、あっ、・・・あき、つ・・・っ」  腰に淫靡に絡みつく彼の脚を受け止める。そうして一度強く突き上げて彼の泣くような声を聞いた後、ぬる、と一度その熱を半分ほど引き抜く。 「?・・・、あ・・・・っ・・・?」  熱に浮かされながら彼はこちらを見上げた。すっかり汗で湿った髪が彼の目を覆うように被さる。前髪を少し掻き上げて額を撫でるように触れると、気持ち良さげに彼は目を細めて、わずかに反った背をベッドに沈み込ませた。  安堵させるかのように口元を上げたが、自分もそれほど余裕があるわけではない。抜き出された自分の熱はまだ硬いままで、さらに強い刺激を求めて、その内に熱い温度を籠もらせる。

繋がったままで、彼を促し身体を反転させた。  程よく筋肉質で美しく浮き上がる肩甲骨が顕になる。彼はうつ伏せになって背を反らす。繋がっているその部分がよく見えるように、そうして熱を飲み込みやすいように、ゆっくりと脚を広く開いていくのが分かった。 「新波さん」  名前を呼んで、ずぷ、と再びその熱を根元まで差し込んだ。ぎゅうと締め付けてくるその内壁は熱くて、蕩けそうに甘い刺激を送ってくる。びくりと彼の全身が震えた。そうして、ゆらゆらと、熱を取り込むように、腰を上下させる。 「んあ、ああ、あ、はぁ・・・・っ、」 「気持ちいいですか・・・?」  こくこくと小さく頷くそのさまが幼く見えて、心臓の奥が震えた。 「、ぃい、いいから・・・っもっと、も、っと、して、・・・」  奥の脳細胞をびりと刺激するような甘い懇願に、またひときわ強く自分の腰を打ち付けた。ああ、と大きく彼の背が弓なりに反る。背骨がしなって、筋肉が蠢く様子が手に取るように分かる。  角度を変え、彼の背に覆いかぶさるようにした。心地よさを逃がすように強くシーツを握る手に、自分の手と指を絡め合わせる。挿入される角度が深くなって、一番感じ入る場所を刺激したのだろう。声無くだらしなく開いた口から、つ、と唾液が垂れ落ちる。  律動は留めないまま、空いた手で硬さを保つ彼の熱を握る。差し込むリズムに合わせて擦り上げると、びくびくと、彼の背は何度も、覆いかぶさった自分の身体の下で痙攣を繰り返した。 「ふ、ぅん・・・・っあああ・・・・っ!!だ、だめ、だ・・・っあきつ、あきつ・・・っ」 「・・・、新波さん」 「いく、い、いく・・・・。んうっ」  血を止めたように白くなった指先が、シーツを強く、握りしめる。甘い掠れた声が、最後の刺激を待って何度も自分の名前を呼ぶ。 「あきつ・・・・、ぁ、あ・・・っ」

『食い殺したい』  一瞬遠のいた自分の意識に気が付くと、まるで宙に浮いたように冷静に自分を眺めている自分がいた。  そうして今彼を抱いているのが獣の自分であることを、どこかぼんやりと見つめていることを知る。 「変異性α」の自分が彼に食らいつこうとしているのが分かる。にやりと口元が歪んで、それは肌を合わせる快楽ではなくて、獲物を見つけ定め、喉元を引き裂く予感に酔うその快楽に喉を鳴らす笑みだった。  自分のものにすれば良い。今、この場で殺せば永遠に、この獲物は自分のものだ。誰かが、そう頭の奥で甘美で残酷な言葉を囁いてくる。  ——殺せ、食い尽くせ。そうして、自分の血と肉に。

それがΩの運命なのだから。

『特定の他者に依る関係性はある種不健全とも言える。そう、例えば比翼の鳥のように』 『比翼の鳥』 『我が国の古い詩だ』  馬と呼ばれた彼はそう言って、その一部を吟じた。 『在天願作比翼鳥 (天に在りては願わくは比翼の鳥と作り)  在地願爲連理枝 (地に在りては願わくは連理の枝と為らんと)  天長地久有時盡 (天長く地久しきも時有りて尽く)  此恨綿綿無盡期 (此の恨みは綿綿として尽くる期無からん)』

『・・・』 『比翼の鳥とは、一眼一翼の想像上の生物だ。二羽で番とならねば、飛ぶことさえも出来ない』  彼はそう、先ほどのやり取りなど忘れたかのようにそう呟いた。 『互いの不備を補い合い、支え合う。そうして連綿と続く、死ぬまで、死んでからも。比翼の鳥とは、永久に続く者たちの仲睦まじさを表したものであるとも言われている。  しかしその脆い美しさと尊さは、血の行き交う世界に生きる我々に果たして必要なものなのか』  彼の言わんとしていることを噛み砕こうとしたが、それよりも、今因われたままの彼のことに意識は向いて、彼の話は与太話にしか思えなかった。 『・・・『変異性α』が、自分の情報を持つことは許されていない』  切るようにそう告げた。 『承知している』 『あなたに先程告げたそのIDとパスワードは、私が独自に民間の調査機関に依頼して調べた、私自身の遺伝子情報に繋がる。  抜けが多く、解析不能な部分もあるものだ。それでも貴国の技術を以てすれば、多少なりとも求めるものに近くなるだろう』 『十分だ、元より期待はしていない』 『これで、取引は成立ということでよろしいか』 『・・・いいだろう、貸しということにしておきましょう』  く、と低く喉を鳴らして、馬というその男は小さく笑った。  嘲るようなその調子も滲ませたその声は、彼を助けるために自分の身をわずかに投げ売った自分の振る舞いを侮蔑しているようにも思えた。 『あなたをそこまでさせるそのΩも大変興味深いものだが。・・・新波と言ったか』 『・・・これ以上、話すことはありませんが』 『そうだな、余計な話はお互いの足元を掬うに過ぎない。  ・・・・あなたの片翼が無事に救われることを私は願っている』

『——あなたの、比翼の鳥が』

「、ん、ふ、んん・・・・っ、ぁ、あきつ・・・・」  彼の首筋に手をかける。  長くなった襟足からのぞくその薄い色の項には、赤い噛み痕が残っていた。それは獣の、「変異性α」の自分が刻みつけた傷だ。衝動と欲に流されて、彼に噛み付いて、彼を自分の運命に縛り付けた、その証拠だった。 「、ぁあっああ・・・・」  彼が腰を揺らめき震わせ、わななくような声を上げた。  噛み付いた瞬間に吹き出した血の色を思い起こすと、ぐらりと目眩がした。甘く喉を潤す血の味が思い出されて、底の獣を揺さぶる。破壊する恍惚とカタルシスを得ようと、手のひらに力がこもる。  彼を抱え込み熱を打ち付けながら、視界がふらつくのが分かった。葛藤は胸に広がり、様々な色が混じり合って衝動をコントロール出来なくなっているのを感じた。  ——駄目だ。  このままでは彼の命を再び奪おうとする獣が目覚める。冷えた恐怖と、それを押し流す獣の熱が、全身を駆け巡った。

——囚われているのは自分だ。  その性に、抗うことの出来ない運命に未だ縛り付けられているのは彼ではなく自分だった。  馬に情報を渡したのは、彼を救うためだけではないことは奥底で感じていた。  自分でさえ把握することが許されないその「変異性α」の特性を憎み、呪っているのは他でもない自分自身だ。自分も、大切に思った誰かも、全てを傷つけていく、その情報に何の価値があろうか。投げ出して彼を救えるならそんなもの、そんな自分は壊してしまえばいいのだとそう思って、彼にその不確かな情報を手渡すことを決めた。  それで自分がたとえ壊れても。彼が救えるならいいのだと思っていた。  けれど獣の性は、自らの手で彼の命を奪おうとした。彼が奪われようとしているその瞬間に、獣は解放され暴走した。 『あなたを奪って。——私のものにする』  最後に銃口を突きつけたのは、獣の自分だった。  獣は自分の中で生き続ける。逃れることの叶わない、それは自分の抱いた、運命だ。

『俺は俺に、折り合いをつけて生きていく』

「・・・・ぁき、・・・あ、りょう、た」  不意に名を呼ばれた。触れ合わせていた手のひらの温度が、自分の意識に戻っていく。  腕の中にいる彼の身体を感じた。彼が、枕に伏せていた顔をこちらに向けていた。熱が点って赤く染まった目元から、涙が零れる。  鈴が鳴るように、彼の声が、滾って制御を失いつつあった熱を収めていく。被せた手に力を込めて握ると、同じ力で、彼が返して来る。  木々の枝葉が絡み合うように、指と指を繋ぎ合った。 「新波さん、・・・・」  獣の熱を飲み込んだまま、彼はこちらを見上げた。何かを言うように、吐息に混じって、口元が動くのが見えた。  耳を寄せて、その声を辿る。 「りょうた・・・・」  確かに彼が紡ぐのは自分の名前で、粒になった光が煌めくように、獣に支配されようとした己の身体を柔らかに包んでいった。  胸が締め付けられる。泣きたいほどに、感情が昂る。  彼が指を絡めた手を、自分の口元に近づけるのが分かった。そうして、紅い痕が残るその手の甲に口先で触れる。情欲に縛められた空気の中で凛と、清涼な空気が濁りを裂くように。彼は何度も、愛おしむようにその手の甲に口づけた。

——愛したい、慈しみたい。  食い尽くすのではなくて、そうして一方的に自分のものにするのではなくて、ただ。  αの自分のことも、獣を宿したこの身のことも。Ωの彼のことも。ちゃんと受け入れて、癒やしてやりたい。

愛してやりたい。  願ったのは、それだけだ。

繋いだ手はもう解けない気がして。 「あ、ああ・・・・っ!!」  彼の中に、自分の欲を解き放った。強く磨り上げた手のひらの中で、彼も、その熱を吐き出すのが分かった。

花の香りは、淡く辺りの静けさに揺蕩う。

衝動はなりを潜めて、穏やかな波のような時間をゆるゆると過ごしていた。微睡みと覚醒の間を行き来する彼を、腕の中にしっかりと抱きしめている。  枝のように絡み合う脚の温度を感じながら、爪先を触れ合わせる。布を引っ掻く音がまた寒さを溶かし始めた室内に小さく響く。  肌寒さに彼が小さく身震いをしたのが分かった。とろとろと目を開け締めして、怠そうに時おり、身を捩る。  かかる前髪を後ろに掻き上げて、顕になった額に、幾度目かの口づけをした。いつもならすぐに起き上がってシャワーを浴び、服を着替える。けれどそれをする気になれずに、こうやって流れる時間に身を任せている。  彼が身じろぎするたびに、しゃら、と小さく金属の音がする。  彼の首にかかっているそのネックレスに指先で触れた。冷たい感触が指先に伝わる。 「・・・・・・」  指に鎖を絡めて、遊ぶように触れていると、彼がわずかに覚醒したように、目を開いた。 「新波さん」 「・・・、竜太。・・・・・」  黒く深い、透明度の高い瞳は奥に潜む光をぼうと、映る自分の姿と共に浮き上がらせる。  少し逡巡するような表情を浮かべて、やがて彼は胸元に収めていた指先をわずかに伸ばして来た。柔らかに、確かめるように頬に触れて、撫でて来る。  そこに自分がいることを、感じるように。  ネックレスの鎖から指先を外して、彼の手に自分の手を重ねた。ぬくもりは溶け合い、一つになる。  比翼の鳥がようやく飛び立つように。一つになって。そうして熱は灯る。

「・・・俺は、あんたのものになったのか?」

掠れた低い声が、そう尋ねてくる。  眠気が手伝って舌足らずなその声音に、どうしようもない愛おしさがこみ上げて、目元が熱くなるのを止められなかった。  腕を伸ばして、抱き寄せる。残る項の傷に唇で触れて、そうして彼の首筋に、顔を埋めた。  願い続けた『希望』が叶う、その番の羽音が空に響く。  願い続けて、「絶望」を隣に沿わせながら抱き続けた「希望」が形を取り始める、その予兆が。 「・・・、いいえ」  紡いだ言葉は、震えてようやく声になる。

「私が、・・・あなたのものに、なったんです」  耳元で囁いた。そうしてもう一度、その身体を強く、抱きしめた。

←前  目次  次→