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常緑樹の葉擦れの音が耳を撫でる。  葉と葉の隙間から光が漏れて、小さな粒になって灰色の足元を照らしていた。  深まった秋の空は濁り気の無い青に薄い鱗雲の色を溶かして、頬に冬の気配を微かに纏わせた小さな冷たい風が柔らかに吹く。  そのささやかな風に乗って、果実の花の香りが鼻先を掠める。季節外れのその果実の香りは、清々しさにあどけない甘さを滲ませていた。  行き交う人々の表情はぼんやりとして、曖昧な輪郭しか浮かばない。一瞬目を閉じれば、すぐに消えて無くなってしまうようだ。けれど目の前のその姿ははっきりと、繊細な線を描いて、そこにあった。

「新波さん、どうかしましたか」 「・・・・いや」  目の前に置かれたカップの中の液体が小さく揺れる。人もまばらなテラス席の椅子の背もたれにもたせかけていた身体を、少し起こした。

その微かな香りは香水と言っても差し支えない程にわずかに香って、それはもう、αを惑わせるようなフェロモンの香りではない。  きっと彼は、その香りが漂っていることにすら気が付いていないのだろう。きっとこの香りの意味と在処を知っているのは、同じΩの自分と、彼の「番」である滝一佐だけだろうと思った。  緩く身体が泳ぐようなシャツの上に羽織った少し厚めのカーディガンの前側を引き寄せる。彼はそうして視線を落として、自分の目の前にあるカップに口を付けた。  シャツの襟元からのぞく華奢な首筋に「チョーカー」は無い。その有無だけなら自分も同じことだ。けれど意味合いが違うのだろうとひっそりと、彼に気づかれないように目を逸した。  あの頃の、限界まで傷つけられて誰のことも拒絶していたあの目も、顔つきもそこには無い。それは彼の今いる環境の穏やかさと暖かさを表しているようでもあった。  自分の状況はさておいても、彼がそうやって今、心を落ち着けて過ごしていられていることに安堵した。

「・・・まさか、あんな場所で会うとは思っていなかった」 「私もです。新波さん」  彼はそう言って、やんわりと微笑んだ。薄赤の唇の端が、ふわりと綻ぶように上に上がる。 「もうずいぶん長い間、あの場所には行っていなかったから。最初は迷ってしまいました」  相変わらず広くて。目的の場所にたどり着くのに半時間は掛かったのだと彼は気恥ずかしそうにそう言った。  彼に会ったのはあの日、涌井群司令と話をした日のことだ。  防衛省の庁舎の玄関口で数年ぶりに再会したことを思い出した。その日は予定が入っていてゆっくりと話す時間は取れずに、再び会う約束をして別れた。そうして今日を迎えている。  何でも無い調子でそう話す彼に、こちらが沈んだ口調で応対するのはどこか気まずいような思いがした。けれど溢れた声には、どうしても心配の色が滲んでしまう。 「・・・・、あまり、良い記憶のある場所じゃないだろう。大丈夫だったのか。」 「ええ。確かに、少し。躊躇はしましたが」  柔らかな笑みは変わらないが、ほんの少しだけ、彼は何かを思い出すように視線を泳がせた。 「・・・でも。滝さんも、休みのついでだからって近くまでついて来てくれていたので」 「、そうだったのか」 「はい。だから、大丈夫でした」  また話をしてやって欲しいと、そう言った低い声が耳によみがえる。  あれからずいぶんと時間がたっているような気はしたが、それは自分の体感であるだけで、実際は、半年もたっていないことに気が付いた。  彼と電話越しに話をしたことが、数年ほども前のような気もする。思い返せばあの後、色々なことが自分には降り掛かってきた。  一つ一つが、今までの自分のあり方を根本から変えていくような出来事ばかりだった。けれどそのことは、彼には言う必要は無いだろうと思う。 「滝さんは他の用事で、あの時はいなかったんです。・・・・でも、新波さんに会いたいと言っていました」 「・・・・」 「あの尖閣の事案の後、ちゃんと話が出来ていないからと」  澄んだ色の丸い目が自分を映す。

「・・・・私のことだけではなくて。  あなたのことが、心配だからとも」 「・・・そうか」  どう答えていいのか分からずに、曖昧な相槌を打つだけに留めた自分の姿を、彼は黙って見つめていた。  靴を履いた爪先に、淡い光が落ちる。白く丸いその光がゆらゆらと頼りない波のように揺れるのを、まるで海の中で彷徨うような気持ちで、眺めていた。

しばらくの沈黙のあと、彼が口を開く。 「・・・・尖閣での戦闘では、ずいぶん活躍されたのだと聞きました。あの、αの艦長と共に」 「・・・それは違う、第五艦隊の成果だろう」 「・・・・」 「俺が何かを成し遂げたわけじゃない」  切るようにそう言った自分に、彼は答えなかった。  それは素直な感情だった。謙遜するつもりも卑下するつもりもなく、ただ言い聞かせるように言葉を重ねる。 「第五艦隊の誰もが、経験したこともないぎりぎりの状況で戦った。『いぶき』だけでは、あの事態は乗り越えられなかっただろう。  皆が意志を一つにして、この国を守るために動いた、その結果だ。誰の功績だとか、そんなことじゃない」 「ええ」 「・・・滝一佐も、難しい状況を、よく切り抜けてくれたと思う」 「そうですか」  彼が静かな声で、相槌を打った。  かつては同じ洋上にいたのだ。自分が言わんとしていることも彼は理解しているのだろうと思った。  雑踏のさわさわとしたざわめきが、一瞬遠のくような気がして耳を澄ませた。形にならずにふわふわと宙を浮く言葉の羅列は、和音のように重なって自分の頭に響いて来る。

「・・・・情けないことだが」 「・・・・?」 「Ωである俺が、この国を守ってやると。  それがこの国に対する俺なりの復讐だと思って、やってきた。あの時あんたにはそう、偉そうなことを言ったが。  ・・・・実際は、何も出来なかった」 「・・・・」 「結局誰かに、手助けされるばかりで。・・・・自分ではどうにも出来ないことを、代わってもらうばかりだった」 「、・・・新波さん」

「誰の痛みも代われない。背負わせるばかりで。  ———この国どころか、誰のことも。俺は救えないままだった」

それは、尖閣のあの事案のことだけではないのだろうと、話しながらそう、うっすらと感じた。  尖閣の事案の件もすべて完了したわけではない。積み重なる日々の中で何より強く心を囚われているのは、この国の行く先のことではない。  目の前の彼にそれを吐露したところで自分の中に巡り続ける迷いや後悔が消えるわけではないことは分かっている。それでも零してしまうのは、自分が心にそれを抱えきれなくなっているのかもしれないと、奥底でそう思った。  着たシャツの奥の胸元で揺れる小さなネックレスが、わずかに熱を籠もらせた気がした。  触れた唇を離して向き合った彼の、痛みを孕んだ小さな微笑みを思い出す。日に照らされて赤茶けた虹彩の色は胸を刺して、心の底を揺さぶった。

『私は、あなたを奪いたくはない』  次第に薄らいで消えていく花の香りが、離れて閉じていく彼の心のようにも思えた。

「・・・・あの場所にいたのは」 「、・・・?」  口火を切った彼の、穏やかで緩やかな声に耳を傾けた。  彼は少し考え込むように視線を遠くにやってから、再び口を開いた。見上げた先にある空の明度に呼応するような声は、ざわめきの中でもはっきりと耳に届く。何かを伝えようとする彼の顔を見つめた。 「あの日あの場所にいたのには、理由があって」 「理由?」 「はい。実は」  彼がカップを持つ手の指に少しだけ力を込めたのが分かった。数秒ほど発する言葉を考えるようなしぐさを見せたあと、いっとき目を伏せて彼は口を開いた。

「まだ、正式に決まったわけではないのですが。  私と同じようなΩの隊員の相談に乗ってやって欲しいと、頼まれて。その話を聞きに、あの日は来ていたんです」 「・・・・、」 「防衛省が取り組む事業の一環だということですが。  各部隊におけるΩの待遇を見直すために、協力してほしいと言われて」 「・・・・それを、受けたのか?」 「はい」 「大丈夫なのか。・・・・滝一佐は?」  おおよそ彼から出るとは思っていなかったその言葉に小さく顔が歪む。  心持ち感情を抑えめにして口にした問いに、彼が答えた。 「私がやりたいなら、かまわないと言われました。  ・・・ただ私も、前のことがありますから。十分に協力出来ない時はあると、滝さんが上に口添えはしてくれています」 「・・・・それでも、そんなことを」  人としての尊厳を蹂躙されて手酷く扱われたこの場所に、何を差し出す必要があるだろうかと、そう思った自分の心を相手は見透かしているのだろう。こちらを見て困ったように笑ったのが分かった。  自分たちを人として扱わないこの国など守る意味がないと、そう言い切った彼のかつての表情が思い浮かぶ。  湧き上がる悲しみや憎しみや落胆を視線に溶かしたあの顔は、同じΩの自分をどうにかここに留まらせようとした、ひとつの理由でもあった。

「馬鹿みたいですよね。・・・まだ未練がましく、あの場所から離れられないでいるんです」  彼はそう言って、薄く自嘲めいた笑みを浮かべた。 「・・・・・・」 「滝さんにも最初は言われました。  傷を増やす必要は無いって。長い時間をかけてやっと癒えて来たのに、それをどうしてほじくり返すようなことをするのかって」 「・・・・」 「でも私にとっては、大事なことだと思っていて」  彼はそう言って、落としていた視線を上げた。頭上の空の薄い青色を映した目は自分だけではなくて、これまでの出来事も、これからの出来事も、全て含めて見据えているのだろうかと思った。 「・・・・新波さんに助けてもらって、滝さんに傍にいてもらっている。  でも誰かに救われて支えられて生きていくばかりでいいのかと、思っていたんです。ずっと。」

「救われたなら、今度はそれを返していくべきなんじゃないかって、そう思ったんです。  ・・・だから、この協力依頼を受けることにしました」 「・・・・・そんなことを」  する必要はないと言いかけたその口を、彼の柔らかな声と笑顔が遮る。 「新波さん」 「・・・・」 「あなたに救われた私が、あなたに返せるものがあるのだとしたら。  かつての『私』に、手を差し伸べることなんじゃないかって」 「それは、」 「あなたがそうしてくれたように。  救われて終わりじゃなくて。掬い上げる手を繋いでいくことが、今の私が、あなたに返せることじゃないかと」

「新波さん、あなたは誰も救えなかったと言うけれど、そんなことはありません」 「・・・・」 「私を救ってくれたのは、確かにあなたです」  空から柔らかく吹きかけるように、小さな秋の風は彼の細い前髪をほんのわずかに巻き上げた。その風は彼の淡い香りを乗せて、自分の身体を包むように撫でて、後方へ吹き去っていく。 「私はあなた自身を救うことは出来ないと思う」 「・・・・」 「私の手はあなたの持っているものを背負うには、全然、足りないから」  彼が視線を落とした先に、すべらかな彼の手のひらがある。 「でも、何か出来ることがあるのなら。それをやっていくことが、これからの私がやるべきことなんだろうと思って」  彼は続ける。 「それに、私がそうやって生きていくことで、『番』になってくれた滝さんにも、何かを返せる気がするから」

「あなたがして来たことを繋いでいく。  ———それは、Ωとして私が生きていくための意味になるんです」

「私が出来る形で、少しでもあなたを支えることが出来るなら。・・・・・そう、思っているんです」 「・・・・」 「だからあなたがそれを負担に思ったり、過ぎたことだなんて思わないでください」  長く寒い時期を越えて、少し遅れた春のささやかな陽光に花を広げるように。抱えてきた痛みは彼のこれからの人生の底に消えることなく流れ続けるのだろう。  けれど、その痛みを内に秘めて留まる日があっても、彼は前を向いてわずかずつ歩き始めている。彼の小さく、けれど確かな微笑みが、そのことを伝えてくるようだった。  彼の視線がふと、自分の首元に向けられる。「チョーカー」の無いその首筋には、「番」の傷痕とわずかな光を放つネックレスがあるだけだ。  自分が言葉にすることのない何かを彼は感じ取っているようだった。静寂の切れ間を縫うように、葉を揺らす風の音が聴こえる。 「新波さん。・・・・・・あなたはもっと、自分の望むように生きてください」 「・・・」 「もういいんです。・・・あなたは、もう十分、自分を差し出してきたと思うから」

「———願うものを手に入れて。自由に、望むままに。生きて下さい」

細く白い指が、届かない空をなぞる。  四角く狭い、彼女の世界の端から端へ。彼女の目に映るのは広く、何も遮るものの無い青い空だ。  愛おしい人が翼を広げる空。たとえ自分が触れることを許されなくても。それが一人運命のぬかるみに浸かりながら空を見上げる、彼女の生きる意味になっている。

『兄が自由に飛ぶのを、私は想像する。  それでいい。———もう一生、会わなくてもいい』

『もうここに来ちゃだめ、ひとりで』  そう別れ際に言った、彼女の言葉が不意に頭に浮かんだ。  眩しい青やピンクのネオンに彩られた建物が、暮れる秋の夕刻の空の色に浮かび上がる。どこかで見たような不夜城の様相を呈したその景色を、小さく見上げた。  日本という国から細く見えないほどの一線を引いたその場所は、日が落ちるとその空気をいっそう濃くさせる。観光客の笑い声と、それを呼び込もうと片言の日本語で話しかける高い声とが混じり合って、国籍を取り払ったように浮ついて艶めいた雰囲気をそこに作り出していた。  目が眩むような表側の店舗の賑やかしさとは裏腹に、その建物と建物の隙間にある空間は、手を伸ばすだけで掴まれて引きずり込まれるような紺色の闇を沈ませている。その奥にあるのは、きらびやかで気安い世界の澱のような部分を凝縮した世界だ。つい先日、その世界に巻き込まれかかったことを思い出す。  肉を売るような軽さで自分の身体を扱われたことは、普段は浮き上がることはなくても、何かのきっかけさえあれば自分の心の奥で黒い指を伸ばして神経を鷲掴みにして、身体をわずかに凍らせる。  ひとつ息を吐いて唾を飲み込んだ。少し湿って、ぬめるような光沢を滲ませる地面を踏みしめた。  人差し指と親指で、その細い鎖の先の飾りを摘む。その飾りは変わらず、少し冷たい温度を湛えていた。

シャツの下に提がっているそれは、彼に与えられた「護身用」のネックレスだ。  あの日彼と身体を重ねた日に落ちたそれを拾って、手放すことが出来ずに持っていた。返すように言われたわけでないことも手伝って常に身に着けるようにはしていた。  自分の手のひらから落ちた時に、捨てることも出来たのにそれをしなかった。医師から言わせればそれは、「番」を獲得したΩの習性である「巣作り」行動の一環であるらしい。  これを身に着けることに抵抗が無いのは、今まで着けていた「チョーカー」が使い物にならなくなったからというのもある。「番」がいても「発情」が収まらない自分が身を守るには、何かがあったときに居場所を知らせるこれを持っておかねばならないと自分を無理に納得させているのだと思っていた。  けれどそれだけでないことにも、うっすらと気が付いてはいる。確信とまではいかずとも、わずかずつ、はっきりとした形を描いて色付いていくその感情を、認めざるを得ないと思う自分がいる。

――望んでいるのだ、自分は。  彼の「番」であることを。  それはΩとしてなのかもしれない。「番」のαを求めるΩの本能が、ただそうさせているだけなのかもしれない。  それでも、自らの身体の内に点ったその感情を拒むことは出来ない。

与えられるだけではなく、差し出すだけでもない。  自分と同じようにαという性に囚われて生きる彼の隣に、自分は自らの意志で立ち続けたいと願っている。  長く共にありたいと。そうして彼の痛みを少しでも掬い上げられたらと。それは、同じ志を重ねる者であるからというだけではない。  そうすることで、自分もまた救われるのかもしれないと思っている。  祈るように願う感情はいつの間にか少しずつ心の底を押し上げて、自分のあり方を自分でも制御できない場所から、変えようとしている。

「姜语汐?」  訝しげな顔を浮かべて、雑貨屋の店員はこちらに視線を送ってきた。観光客というには堅苦しく、場の空気にどこか合わない雰囲気を漂わせた自分の姿に、店員が明らかな警戒心を抱いているのは分かった。 「あんた日本人?警察?」 「いいえ」  そうではないと説明すると、納得はしないが飲み込んだような表情を浮かべる。ただの人探しだということを重ねて説明した。そんな女は知らないというような素振りを見せていた店員だったが、説明をしている内にようやく、彼女の行く先について話す気になったようだった。 「・・・语汐はいつもふらふらとどっかに行ってるんだよ。今もどこにいるかは分からないね」 「そうですか」 「学校にもあまり行っていないようだしね。何してるかなんて私の知ったことじゃない」  面倒そうに店員はそう言った。雑な応対ではあるが、嘘は言っていないのだろうと思う。  この雑貨店は先日、彼女と出会った場所でもある。この店の軒先で日本人のαに囲まれた彼女を連れて逃げた。  彼女と別れた時、連絡先を交換さえもしなかった。お互いにこれが最後で、もう二度と会うことはないだろうという気持ちで別れたのだから仕方がない。今自分が彼女を探している理由も、あの時には想像さえもしなかったことだ。この場所に足を踏み入れることも、もう無いと思っていた。  けれど今自分はここにいて彼女を探していた。どうしても彼女に会わなければならない理由が出来たからだった。

「分かりました、ありがとうございます」  あてがないよりはと記憶を辿ってこの辺りにやって来たはいいものの、やはり無駄足だったかと小さなため息が漏れる。諦めるつもりは無いが、今ここで得られる情報は少ないのだろうと、警戒心を解くことなくこちらをじろりと睨みつけているその店員に心持ち丁寧に礼を言った。 「语汐」という名前を出して反応があるくらいには、彼女の存在はこの場所では認知されているのだろう。けれどおおよそ、心配というには程遠いその態度から、彼女がこの辺りでどういった扱いを受けているのかはうっすらと理解はした。本国よりはこちらはましだと彼女が言っていたことを思い出した。  向こう側の国では、Ωが心安く生きられる場所など無いのだと。細く痩せぎすな身体と、繊細なラインを描く横顔に、どうしようもない憤りと、諦めを浮かべていた。ここにいるだけ幸運なことでそれ以上の何かを望むのは傲慢なことだと、そう言いたげに小さく切り取られた空を見上げていたその姿が、瞼に浮かんだ。  彼女の手がかりが得られないならば長居することもない。形だけの挨拶をしてその場を去ろうと踵を返した自分の背に、店員の視線と共に声が降り掛かってきた。 「あんた、Ωじゃないの」 「・・・・・」

振り返ってしまったことを一瞬後悔した。それは何よりも強い肯定と同義だ。けれど襲いかかって来るわけでもなく、その店員はこちらを珍しいものでも見るように、見据えていた。 「良い香りがするよ。・・・南の花の香りだね」 「・・・・、」 「『発情』期かい」 「・・・匂いますか」  隠し立てしても詮無いことだと、手短に返答した。  店舗の入り口辺りでは、観光客だろう複数の客が品物を手に取って談笑している。奥まったこの場所を気に掛ける様子は無い。 「匂いはそれほどでもないがね。ちゃんと薬を飲んでるんだろう。  だが空気は隠せない。・・・・私はβだが、Ωは見れば分かるんだよ。佇まいっていうのかね。どうしても」  興味深いというほどでもない表情を浮かべて、店員はそう小さな声でつぶやいた。 「男のΩはそうそう見ないから珍しいね」 「・・・・・・」 「そんな丸腰で、语汐を探しに来るなんて。なんと無防備なことだ。それじゃ、捕まえて売っぱらってくれと言ってるようなものだよ」  店員はそう言って、小さく呆れたような息を吐いた。 「あの子は、そういう良くない連中とつるんでるからね」

「日本人のΩは高く売れるんだよ。  品も良いし、清潔だ。『番』にすれば従順で、あっちの方も上手い。奉仕するのが板についてるんだろうが。  向こうのΩは貧乏な奴らが多いからね。小汚くて栄養状態も悪いから子を残すにも質が悪い。だからそれに飽きた金持ちがここ最近日本人のΩを買い漁ってるのは、この辺りじゃ普通の光景だ」 「・・・・・」 「男も女も関係無い」 「・・・・そうですか」 「気分が悪いかい」  隠したつもりだったが、喉の奥でせり上がった吐き気のようなおぞましさはしっかりと表情に出ていたようだった。その表情を睨めとるように見つめてから、店員は言葉を重ねた。 「・・・・・・」 「けどそれは、ここの現実だ」 「・・・」 「あの子も・・・语汐も。その現実を生きている。そうやって生きていくことしかあの子には無い」

「それがあの子の運命だから」

「あんたも気を付けた方がいいよ」  店員はそう切るように言った。 「尖閣のあの件があってから、こっちの商売もてんでさっぱりだからね。  合法に稼ぎにくくなったから、Ωや薬物の取引に手を伸ばす連中も増えてる。Ωだとみれば、所構わず取り敢えずさらって売り飛ばせばいいと思ってる質の悪い奴らがわんさといるからね。」 「・・・」 「まあこの辺りはこないだ警察の一斉摘発があったから、ちょっとは大人しくなってるだろうが」  続く言葉に耳を傾けた。 「この辺は法律なんてあってないようなもんだ。  あんたみたいに何も知らないで迷い込むΩを狙ってる奴なんて山といる。・・・十分、自衛はしておくがいいよ」 「・・・ご忠告、いたみいります」 「あんたが语汐とどんな関係かは知らないけど。  ・・・必要以上に関わってもいいことは無い。Ω同士、思うところはあるのかもしれないがね」  念を押すように店員はそうつぶやいて、口を閉じたまま目を逸した。  それ以上は持っている情報もなく、そうして無駄口は叩かないという意志を感じて、もう一度頭を下げてから再び踵を返した。言葉は無いが、視線は自分が歩む後を最後まで追いかけてくる。店の外に出ると一瞬、冷えた晩秋の夜の空気が身体に纏わりついた。

光が落ちて青ずんだ夕空に、白金色の細い月が浮き上がっている。  洋上で見上げる空は海と同化して、触れられそうに近く感じることがある。けれど小さな鉢に揺れる水面に映る月のように、この場所から眺める空はひどく狭くて途方もなく遠いもののような気がした。  細い指先を伸ばして、触れることの出来ないその空を撫でるように見上げる彼女の横顔が瞼に過ぎった。  薄い色のバンドカラーシャツの下でネックレスが揺れる。あの日自分に触れてきた彼の指先の温度のように、熱くて冷たい感触が自分の胸元の温度を上げる。  ひとつため息を吐いて、眩しい人工的な光を放つ表側の景色の奥に視線を遣った。 『だってトシヤ、あなた隙だらけのおじさんだから』  そう困ったように笑う彼女から漂う、甘やかな香りのことを思い出す。  誘い込むように手を伸ばしてくるその暗闇に、足を進めるべきでないことは分かっていたのに止めることが出来なかった。  ぬるりと、すえた匂いを放つ水の溜まりが足元を捉えて、その暗い水底のようなぬかるみに、自分を引きずり込んでいくのを感じていた。

愚かしいことは分かっている。  冷静な判断でないことも、理解はしている。  それでも彼女に会って伝えなければいけないことがあるのだと視線を前に向けた。一歩を踏み出した。

忘れられないでいた。  あの日に触れて繋がった肌の感触と温度を。そうして、与えられて抗えないままでいる衝動に歪む、彼の心も。

薄く意識を取り戻し始めた自分の鼻先を突くのは、壁に染み付いた煙の香りだった。  鈍痛を訴える頭に顔を小さく顰める。動きの鈍い瞼の筋肉に意識を集中して、細く、目を開けた。  焦点が合わずにぼやけていた視界が、徐々にはっきりとして明るみを取り戻し始める。それと同時に、甘いバニラの香りが漂って、掠れたような高く細い声が、自分のことを呼んでいるのが分かった。 「トシヤ!」 「・・・・ユーシイ?」  まだ現実と非現実の境目をふらふらと行き来する意識で声のした方を探るけれど、薄暗い明かりが一つきり灯るだけの部屋の様子は半分以上が黒い影に覆われていて分からない。首だけを動かして確認できるだけの範囲を見渡す。首がぎしりと、嫌な音をさせて奥で軋んだ。  捕まった時に吸わされたのだろう薬物の影響なのか、身体は思ったようには動かない。全身が、何かの岩を乗せたような重みで囚われて、じくじくとした痛みは頭の中を打ち続ける。  声は自分よりも少し離れた場所でするようだ。床に手を突いて移動しようと腕を動かしたところで、手首が自由にならないことに気が付いた。  がちゃりと重い、金属が擦れる音がする。手錠が、後ろ手にした自分の両の手首と、部屋に設えられた重々しい机の脚を縛り付けていた。無駄なことだとは思ったが、思い切り腕を引く。鎖が音をさせてぴんと張る感覚だけがして、机の脚はびくともしなかった。 「トシヤ、大丈夫?」 「ああ、・・・・ユーシイは」 「私も大丈夫。どこにいる?」 「ここだ」  意識が徐々にはっきりしてきたことと、暗がりに目が慣れてきたことも手伝って、ようやく自分がいる空間の大体を把握出来るようになってきた。目を凝らすと数十センチ先、自分が鎖で括り付けられている机の脚の向かい側に彼女も同じように拘束されていることが分かった。  出会った時とそう変わらない、長い胸元までの黒髪と、それを映えさせる雪のように白い肌が、薄い明かりの中でも分かる。ほっそりとした剥き出しの脚は泥汚れでところどころ薄茶の染みを作っていた。  薄手のブラウスから肌の色が透ける。その頼りなげな手首を手錠ががっちりと掴んでいる。  どういった経緯でそうなったのかは分からない。けれど、おおよそ、自分と同じように薬品をかがされて連れて来られたのだろうと思った。 「怪我は?」 「無いよ、トシヤも?何もされてない?」 「今のところは、・・・」 「そう、良かった。・・・・・トシヤ、なんともなくて」 「・・・・・・」 「無事で、よかった」  丁寧に整えられた眉を小さく下げて、彼女は薄い赤色の唇を上げて微笑む。  出会ったあの日に見せた、言えない思いを滲ませたような微笑みに、小さく胸が痛んだ。自分の置かれた状況はまだきちんと飲み込むことは出来ないが、探していた彼女に再び会うことが出来たことに、ほんのわずかに安堵する自分がいた。

「ここはどこだ?」  離れた場所に見える出入り口以外に、窓一つ無い部屋には、煙草の煙の匂いが染み付いている。  ぽつりと点った明かりを頼りに周りに置かれているものを見渡した。革張りの椅子が数脚、酒のボトルが並べられたカウンター、碁盤目状の白線の描かれたテーブルに、丸いチップやカードが置かれたままになっている。  自分が拘束されているテーブルがどうやらカジノテーブルだということは分かった。下卑た高級さを滲み出させたような木目のその机は、ちょっとやそっとでは微動だにしない重みがあった。自分たち以外に誰もいないが、纏わりつく沈んだ暗い空気はそこで普段何が行われているのかを知らせて来るようだった。 「カジノか?」 「・・・、たぶん、そう」  彼女は小さな声で返答する。  まだ小さく痛むが少しずつすっきりとしてきた頭で、最後の記憶を辿った。  彼女・・・语汐を探して、表通りから奥まった場所へ足を踏み入れた。狭く湿って、薄暗い店舗の入り口が立ち並ぶ通りを慎重に歩いて彼女を探していたが、さらに細く真っ暗な裏通りに入り込んだところで、記憶は途切れていた。  おそらくその辺りで、自分はさらわれたのだろう。目的は考えずとも分かる。記憶が途切れる前、雑貨店の店員が話していたことをうっすらと思い出した。 『日本人のΩは高く売れるんだよ』  きちんと認可を得た賭博場ならば、自分たちはこんな形で拘束されてはいないだろう。おそらくこの場所は、日本の法に則って営業はされておらず、良からぬことに使われている。  ひょっとするとここで、Ωのやり取りも行われているのかもしれない。けれど、今自分がいるこの場所がどこにあって、誰の管轄下にあるかは心当たりもなく、全く分からないままだ。

「・・・・・・来ちゃいけないって、言ったのに。トシヤ」  彼女は自分が傷ついたようにそう言って、こちらを見た。黒髪の色に似た、濃い色の瞳がふるりと揺れる。 「トシヤはこんなところに来ちゃいけない人でしょう。軍の、・・・偉い、人なのに」 「・・・・ユーシイ」 「どうして来たの」 「・・・」  そう言った彼女の目が、悲しげに小さく歪んだ。 「あなたがいなくなって、きっと今ごろ、あなたの国の軍部は大変なことになってるわ。そんなことも分からない?」 「・・・」 「本当にバカなおじさん」  冗談のように彼女は言ったが、声音は冗談のようには思えない。  視線を薄汚れた床に落として項垂れた彼女に手を伸ばそうとしても出来ない。重く皮膚に沈み込む鎖は解けそうには無かった。身体だけほんのわずかに、彼女の方へ移動させる。 「馬鹿でもいい。・・・・ユーシイ」 「トシヤ」 「俺はやることがあって、あんたを探していた」  二人以外に誰もいないしんとした静寂が漂う空間で、自分の声だけが響くのが分かった。

「———ユーシイに、どうしても伝えておかなければいけないことがある」

「伝えて?」 「ああ、でも。・・・・それは、まずこの状況を理解してからだ」  少しずつはっきりとする視界に天井を捉える。鈍色をした微動だにしないプロペラファンが目に入った。壁にも床にも染み付いて身体にべたりと張り付きそうな煙草の苦い匂いは、まだ底でくすぶっていた頭の痛みを再びぶり返そうとしてくる。  どうにかしなければならないことは頭では理解しているが、まだ重い身体と、1メートルも動かない拘束を施された状況では、何をするということも出来ない。ここがどこさえも分からないでいる。  縛められてほとんど自由の利かない後ろ手で、ポケットを探った。携帯はおそらく落ちたか取り上げられたかで、その存在は確認することが出来なかった。記憶を失う前に持っていた筈の手荷物は、行方知れずだ。  残る頼りは、自分が首から下げたこのネックレスだけだった。彼に「護身用」に手渡されたそのネックレスには、居場所を把握するための仕掛けが施されている。  彼に居場所が伝わっているとしたら、帰って来なければ何らかの手立てを講じるはずだろう。それを今は期待するしかない。 「・・・・、っ」  どうにか部屋を抜け出す方法は無いかと、考えようとするが頭の中を冷静に整理することが出来ない。  抜けきらない薬のせいか、身体の重さはいっそう背に感じられて、大きく息を吐いて、しっかりとした頑丈な机の脚に身体全体をもたせかけた。

「——・・・・、」  全身が火照ったようにじわりと熱い。  本当にこれは、吸わされた薬品のせいだけだろうかと、また非現実へ腕を引こうとする意識をどうにか現実へ引き寄せようと唇を噛んだ。吐く息の間隔は徐々に狭まって、孕む温度は熱くなる。  彼女の漂わせるバニラの香りに、うっすらと濃い花の香りが混じり始める。抑制剤は普段はピルケースに入れてポケットか鞄に携帯していた。「発情」の周期が近いこともあって、多めに処方しておくと医務官が数錠ほど追加して抑制剤を手渡してきたことを思い出した。  不意に過ぎった薄暗い予感に、手をまさぐってはみたが何も触れることはなかった。つまり、「発情」が起きてしまったら、今のこの状況では為す術がないということだ。 「トシヤ」  彼女が不安げな表情を浮かべてこちらに視線を送ってくる。何でも無い素振りを見せたつもりだったが、身体の反応はどうしても隠し切れないようだった。  自分でもようやく分かるほどに、自分の「発情」の匂いが周りに染み込んでいるのが分かる。煙草の煙の匂いに入り混じって、自分の身体から立ち上る生温く甘い花の香りが辺りに充満しつつある。彼女もそれを察しているのだろうと思った。 「もしかして、今『発情』期なの?」 「・・・・らしい」 「薬は?抑制剤は?」  小さく首を横に振ると、彼女が顔を歪めた。言葉を重ねる。 「さらわれた時に奪われたか、落としたか。・・・・とにかく、今は無い」 「・・・・そんな。じゃあ、『発情』を抑えられない?」 「ああ」  尋ねられて、答えを形にしていくうちに、頭のどこかでこの状況を客観的に見つめ始めているのがおかしいと思った。思ったよりもずっと、危機的な状況のようだ。けれどそれを打開する良案は、ぼんやりと霞がかったように熱が籠もる頭に、わずかにも思い浮かばない。

「・・・・・ごめんなさい、トシヤ」 「・・・、え?」 「私のせいだ」  小さな呟きに耳と視線を傾けた。彼女は俯いて、ほんのわずかに肩を震わせていた。  長くまっすぐな髪が垂れて、折り曲げた膝にかかる。そうして俯いた彼女の表情を覆い隠している。 「トシヤがこんなことになったのは、私のせい。・・・どうしよう」

「・・・・奕辰が、捕まったの」 「イーチェン?・・・、ああ・・・・」  彼女と初めて出会った時に遭遇したある事態のことを思い出した。じっとりとして、ぬらぬらと光る獣の目で自分のことを獲物を捉えるように見つめてきたあの目が蘇って、背がふるりと一瞬震える。  奕辰。確か彼はαだと言っていた。  彼女は小さく頭を上げた。わずかに濡れたような目で、こちらを見つめる。黒目がちの瞳に、うっすらと水の膜が張る。 「この間、あの辺りで大規模な一斉摘発があって。こっちの国のΩの売買に関係していた人間が一斉に逮捕された。  奕辰はちょうど、捕まえた日本人のΩをブローカーに引き渡してたところで。・・・・そのまま、警察に捕まって」 「・・・そうだったのか」 「今は勾留中。塀の中にいる」 「・・・」  彼女は言葉を重ねる。 「奕辰は嵌められたの。摘発の情報は掴んでいたはずなのに奕辰には知らされていなかった。証拠も押さえられて、有罪は間違いない。  このまま起訴されたら奕辰は本国に強制送還になってしまう。  ・・・そうなったら、奕辰はあっちで無事にいられるわけがない」  声は小さく刻むように震えていた。あの日、自分を手に掛けようとした彼に、彼女が放った言葉が思い出される。 『あんたの『番』は私でしょう』

「——奕辰は好きでΩを売ってたわけじゃない。  頼まれたから、逆らうことが出来ないから。だからそうするしか無かった。そんなこと、言い訳かもしれないけど。  奕辰だって、苦しかった。αとして生まれて、期待されたのに望んだように上手く生きられなくて、だからせめて、言うことを聞くくらいのことはって」 「・・・・ユーシイ」 「奕辰をどうにか助けたくて。だから私、

・・・・トシヤを、売ってしまった」

「私の知ってるトシヤのことを話したら、奕辰が戻って来られるようにしてくれるって言うから。それに」 「・・・・」 「・・・・・兄にも連絡を取ってくれるって。  今の兄のことを教えてくれるって言うから、私」  語尾はすすり泣くような小さな叫びにも似た声に掻き消される。彼女は顔を伏せて、肩を大きく震わせながら上下させた。 「トシヤが日本の海軍の偉い人なんだってこと、話してしまったの。もしかしたら『イブキ』のことも知っているかもしれないって。  トシヤを捕まえれば、日本の軍の情報を盗むことも出来るかもしれないって。  トシヤの秘密も話してしまった。・・・・トシヤが、Ωだっていうことも、全部」 「・・・・そうか」 「だからきっと、トシヤをさらった人間はトシヤを狙ったんだと思う。  トシヤを利用するために。トシヤの持ってる、情報を聞き出すために。  トシヤがこんな目に遭っているのは、私のせい。

ごめんなさい、トシヤ。ごめんなさい、ごめんなさい・・・・・」

「ユーシイ」 「・・・、」 「自分を責めなくてもいい」 「だって」  顔を上げた彼女と向き合う。長い睫毛に縁取られたアーモンド型の目が小さく震えていた。 「隙を見せて捕まったのは俺だ。あんたを探して、あんたが来るなと言った場所に分かった上で踏み込んだ」 「・・・・・・」 「間抜けなのは間違いない。・・・まさか、こんな状況になるとまでは、思っていなかったが」  かちゃりと手錠をわざと鳴らす。ふざけたつもりは無かったが彼女は眉をぎゅうと寄せて、赤い花の花びらのような唇を小さく歪ませた。

「トシヤ」 「・・・会えて良かった、ユーシイ」

それは心の底から湧き上がって、形になった言葉だった。  彼女を責めるような感情は湧いては来ない。全ては、自分が招いた事態であろうという自覚はある。  言って小さく口元だけで微笑むと、彼女の黒目を包む水の膜が厚くなった気がした。涙をこらえているのかもしれない。自分の言葉くらいでは罪悪感を拭うことも出来ず、安堵の材料にはならないのだろうと、わずかに胸は痛んだ。  それでも彼女はぎゅうと歪ませていた唇を噛むように引き結んで俯いた。  狭く届かない空さえも見えない場所だった。この状態を理解するにはまだ遠く、そうして終わりが見えるのかも分からない。  少しずつ中から温度を上げる自分の身体も、どこまで誤魔化すことが出来るのか。それすらも、一寸先の薄暗い闇に溶けて、答えは見えなくなっていた。

『李中校、話が違うのではないか』

『何がです大使』 『あなたが、当局にとって重要な客人を呼ぶというから、接待用にとあの部屋を貸したというのに。何だあの有様は』 『彼らは極めて重要な客人ですが』 『どこの馬の骨か分からない女と、日本人の男のどこが重要か。しかも二人ともΩではないか』 『それがどうかしましたか』 『Ωに何の価値があろうか。売ってもあれでは二束三文にもなりはしない。・・・ついこの間、日本の警察に摘発されたばかりだろう』 『よくご存知だ』 『あれはうまく逃げおおせたようだが、日本の公安が今は特に目を光らせているとも聞く。大使の私の肝を冷やして、どういうおつもりか。  ・・・・もしや、李中校。あのΩを本国に』 『大使。・・・・あなたも人のことは言えますまい』

『あなたが、外交特権があるのを良いことに大使公邸の隠し部屋で違法な賭博を行い小銭を稼いでいることは、馬大校から聞き及んでいますぞ』

『・・・・』 『当局にその情報はすでに伝わっている。黙認されているのは、あなたの硬い口を信用しているからに他ならないのです。  もっと言えば、あなたのその小狡い罪状はそれによって目溢しされているに過ぎない』 『李中校』 『・・・・彼らは、我ら人民解放軍にとって大変重要な情報を持っているのです。 特にあの、日本人の方は』 『・・・・しかし』 『必要なものさえ得られたならば、大使、あなたに迷惑を掛けることはいたしません。  ・・・今しばらく、見なかったことにしていただきたい。よろしいな』 『・・・・』

「・・・・、ぅ、っ」  熱を中に無理やり収めるように、大きく息を吐いた。一つの塊のようになって内蔵を打ち付けるその熱は、ほんの一瞬散り散りになる。けれどそれも、その場しのぎでしかないことは理解している。  再び下腹にせり上がっては引く、波のようなその欲を目を閉じて、唇を強く噛んでやり過ごした。血の味が口内に広がる。逃した本能の熱さはまた再び、そう間もなく舞い戻って来るだろう。段々その熱の波に制御が利かなくなりつつあることを感じていた。 「トシヤ、大丈夫?」  手錠をかけられたままで机の脚に力なくもたれかかる自分に、隣で同じように囚われている彼女が小さな細い声を掛けてくる。心配無いというように笑ったつもりだったが、表情はそんな風には映らないのだろう。困惑して言葉を失っている彼女に、申し訳ないと思う。  窓もなく光の差さないこの部屋では時間の感覚がほとんど無い。今が昼間なのかも夜なのかも分からなかった。そうして、自分がここに連れて来られてからどれくらいたっているのかもさっぱり見当がつかない。ずいぶん長い時間拘束されているような気もするが、それは体感であるだけで、実際は、1日もたっていないのかもしれない。  けれど自分に残された時間と余裕は無いことは明白だった。自分の意志で、この身体をコントロール出来なくなってきている。  抑制剤を服用しないまま迎えつつある「発情」期の身体の反応は凄まじく、それは少し前、身体に合わない抑制剤を飲み続けていた頃に戻ったかのようだった。  連絡の手段も絶たれて、拘束を解くだけの力も残っていない。ただ相手からの働きかけに自分が応える、理性的な自分を保つだけが今の自分が出来る精一杯であることは嫌というほどに分かっていた。  留まる感情を手放してしまったら最後、欲を求めるだけの生き物になる。それだけは、出来ることならぎりぎりまでは避けなければいけないと、床に倒れ込みそうになるのをどうにかままならない手を床について耐えた。  身に着けたままのネックレスが小さな音をたてて揺れた気がした。  彼がこの、自分の異変に気が付いていれば。そう、か細い糸のような希望に、今は縋るしか無かった。

「新波二佐」  扉が開くぎし、という重い音が聴こえて、隣の彼女がびくりと肩を揺らすのが分かった。  ぼんやりとする頭のまま、顔を上げる。しゃんと伸びた背筋できびきびと歩いてくる初老の制服姿の男性が、自分の目の前に立つのが分かった。  黒く艶光るジャケットの袖口に、金色の刺繍が施されている。胸元の徽章は幾重にも連なって、彼の立場と階級を知らせてくるようだった。 「お加減はいかがですか」  流暢な日本語でそう尋ねてきたが、返答はしなかった。返答をする力ももう無駄に思えている。見れば分かるだろうと、黙って小さく睨みつけるように彼を見据えると、黒々とした瞳をこちらへ向けて、口の片端を上げて微笑むのが分かった。 「まるで花を敷き詰めたようだな」 「・・・・・」 「どこもかしこも、花の香りだらけだ。Ωの『発情』期というのがこれほどまでのものとは」  けして褒め言葉ではない声音で、彼はそう淡々とした口調でそう言った。  甘く濃い花の香りが自分の身体に纏わりついていた。息が詰まりそうなその香りを、自分ではどうにもすることが出来ない。目の前にいるのはαで、底の方から、αの身体を求めて貪ろうとする本能がどろりと溢れて零れそうになっている。  じわりと下腹の奥が湿って、水を湛える感触がした。ぎゅうと中心を締め付けるような欲の発露に、大きく息を吐く。 「私はαだが。・・・・理性を奪われそうな香りだ。  あなたが男で、軍人でなければ、とうの昔に襲いかかっていただろう。Ωの誘惑に、αは弱い」 「・・・、」 「抑制が利かないのは辛いだろう」  そう言って、心持ち乱暴に顎を掴み取られる。無理に引き上げられて反った喉元がひく、と鳴った。

「あくまで予備薬だが、抑制剤が無いわけではない。・・・・必要ならば、差し上げるが」 「、必要ない・・・・」 「このまま欲だけの獣に成り下がると」 「獣には、・・・・ならない」 「強がることはない」

「・・・・っあ、あ・・・っ!」  シャツの襟元を無理に広げられて、強引に手を差し入れられる。肌の温度が沸騰したように上がって、上げた声がひどく艶を滲ませているのが分かった。  執拗に腹から胸元までを撫で回される。触れる薄い皮膚が神経細胞の一つ一つになったかのように、どこに触れられても、昂る熱を引き上げる着火点にしかならなかった。 「、っ・・・ひ、う」  頭の奥ではこの感触があまりにもおぞましく、快楽とは程遠いものであることは理解しているが、滲み出す本能はそれとは相反する反応を示そうとする。気を緩めれば自分の性に己を浚われて、どんなものでもいい、ただ自分の欲を満たすものを求めて腕を伸ばしてしまう。  身を捩るだけの力も残されていない。されるがままになって、抑えきれない卑猥な声を上げるしかできないでいた。 「まるで軍人とは思えない振る舞いだ、新波二佐」 「・・・・っぁあ・・」  胸元を十分に撫で尽くした手が、ベルトにかかるのが分かる。拒もうと腰を捻った。けれど無駄な足掻きのように、腹筋のあたりを強く押さえこまれて身動きが取れなくなる。  布の下で硬さを持ち始めるそれを悟られてはいけないと力を振り絞って押さえ込む手を振り切った。前のめった勢いで、床に身体を打ち付ける。 「・・・・っ」  がちゃりと、手錠がわんと大きな音を響かせる。  床に倒れて荒い息を吐く自分の喉元を締め付けるように、何本もの太いラインを縫取った袖口が、顎を引き掴んだ。気管が狭まった勢いで、ごほ、と咳き込んだ。  花の香りが濃くなる。どくどくと、流れを激しくさせる血流が、全身を巡り続ける。

「このまま抱き捨てられ海の藻屑になるのと、抑制剤を服用し、我が軍の協力者になるのと、どちらがあなたにとって良い選択か」 「・・・・、」 「どちらにしても、交換条件に変わりはないが。

——空母『いぶき』の詳細と、それに乗り組む、『変異性α』、秋津竜太一佐の情報。それを、私達の軍は求めているのだ」

『止めてよ!!』  隣で甲高く叫ぶ声が部屋に響く。 『あんた奕辰の父親でしょ!!こんなことして何の意味があるのよ!!』  叫んでいたのは彼女だった。黒い目がぎりとつり上がって、彼を睨みつける。  彼はゆっくりと、彼女を見た。数秒ほどの沈黙の後、それは一瞬のことだった。 「——ユーシイ!!」  彼女の羽のように軽く細い身体に、黒い革靴がめり込む。  腹の辺りを蹴られた彼女が手錠の鎖がぴんと張るぎりぎりの距離まで身体を斜めに傾がせたその勢いで、彼が彼女の頬を広い手で張り飛ばしたのが分かった。  みるみるうちに、彼女の白い頬が赤みを帯びて、内出血を起こして腫れていく。口の端は切れて、つ、と一筋血の線が描かれる。 『——Ωの女が、軽々しく口を利くな』 『・・・・・』 『奕辰は実に役立たずな息子だが、私の手先になって、Ωの売買に関わりすぎた。あのまま勾留されて起訴されれば、あの馬鹿息子は耐えきれずに全てを日本の検察に話してしまうかもしれない。  そうなっては私の身も危ないのでな。心配せずとも、手は打ってやる』 『・・・・最低・・・・』 『そのためには、この男から軍部の情報を取らねばならん』

そう低い声で言った彼が、彼女の背をもう一度蹴り上げた。  そうして、こちらを見下ろした。光を宿さない黒い底の無い闇のような目が、まるでごみ屑でも眺めるかのように、床に倒れ込んだままの自分を見つめているのが分かる。  おもむろに伸ばされた手で、髪を掴まれる。睨みつけた視線は、下卑た笑みで塗りつぶされていくような気がした。 『軽々しく機密を話すような男ではないのだろうが。・・・仮にも、日本国の自衛官ならば』

『例え情報を取れずとも。軍部を多少揺さぶることくらいは出来るだろう。——この男のΩには、肉片一つでも、利用価値はある』

『お前は、全てが終わったら輪姦して本国へ送り返してやろう。大した値段もつかないが』 『・・・・・』 『むろん兄には、そのことは言わないでおいてやる』  床に唾でも吐くように彼はそう言うと、放り投げるように手を離して立ち上がる。そうして制服の襟を正して、両手を払うと、踵を返した。  ドアに立つ見張りの男に二、三何かを告げると、そのまま扉を閉じる。  規則正しい足音が遠のくのを床に伏せたまま聞く。目を閉じて、深呼吸を繰り返した。冷えた神経が、熱を一瞬彼方へ放り去ったようだ。起き上がる力さえも、今は残っていなかった。 「トシヤ、・・・トシヤ!!」  乱れた髪をそのままにして、彼女が名前を呼ぶ。重怠く、感覚を失いつつあるその背をどうにか動かして、彼女の方を向く。 「大丈夫だ」 「トシヤ、ごめんなさい、ごめんなさい」  赤黒く腫れた頬が痛々しい。口元の血の跡が生々しく彼女の白い肌を染めている。くしゃくしゃに歪んだ顔で、彼女はぼろぼろと涙を零す。  手を伸ばしても届かない距離だった。そうして手を上げることも難しい。

「ユーシイ」 「・・・・なに?」 「あんたに、・・・伝えなければいけないことがあると、言ったな」

『———语汐という妹がいると、確かにそう言っていた』 「ゆうぎり」から帰還した彼が、そう伝えてきたことを思い出した。「いぶき」を始めとした第五艦隊との戦闘の末に緊急脱出を図り、護衛艦「ゆうぎり」に収容されたのは「殲」のパイロット、姜语汐の兄だった。  直接話すと言って「ゆうぎり」に向かおうとする彼に、迷ったが黙っていた彼女のことを話した。撃墜した相手の戦闘機が「殲」であったことにどこか予感めいたものを感じたからだった。  もしそのパイロットが、彼女の愛おしい人ならば。非常時にごく私的なことを依頼した自分に何かを投げかけるわけでもなく、彼は分かったとそれだけ返答して来た。 『幼い頃に自分がα、妹がΩであることが分かり、引き離されたと。それからは妹のことは一切口に出すことを禁じられて、ここまで来たのだと』  语汐が日本で生きていることを知り、頑なに口を閉ざしていたパイロットはほんの一瞬だけ表情を緩めて微笑んだという。 『Ωは本国ではまともな生き方が出来ないから、日本にいるならばきっと安心だ。  会えるなら会いたい、声を聞いて、成長した妹と話をしたいと言っていた。  だが、今の自分の立場ではそれは到底叶いそうにないからと言って』

『——どうか妹に伝えてくださいと、あなたに。伝言を預かって来た』  彼はそう言って、口の端だけを小さく上げて柔らかに笑みを浮かべた。

『『Ты много значишь для меня.(愛している)』と。』

「・・・・だから、ユーシイ」 「・・・・、」  大きく見開かれた黒真珠のような瞳から、大粒の水滴が幾粒も溢れてこぼれる。それは白い頬をなぞって、くっきりと浮いた鎖骨に溜まりを作るように、流れ落ちる。  しっとりと濡れそぼる頬を指先で拭ってやりたいという思いはあるけれど、それは叶わない。肌の中から湧き出すような血の色を目元に滲ませて、彼女はこちらをじっと見つめた。  熱を籠もらせたままの身体は自分自身でその重みを支えきれなくなってくる。床に張り付いたようになっていた背を、少しだけ起こした。  大丈夫だと、そう口角を上げたが、上手くいっているのかは分からない。伝えようと思っていたその言葉を、どうにか紡ぐ。 「あんたは、どうにかしてでも、生きなければいけない」 「トシヤ」 「兄のために。そして、奕辰のために。」 「・・・・」 「・・・あんたが言ったんだろう。俺に」

『大切な人がいるなら。そして、大切にしてくれる人がいるのなら。  あなたは、その人のために生きなければならない』

瞼に描かれるのは彼の小さく控えめに笑う姿だった。  少し前には誰よりも近い距離で肌の温度を交わしあったはずの彼は今はまるで幻のように遠い。  もう届かないかもしれないとも思う。簡単に、何でもないことのように命は奪われて、そうして海の藻屑になるのかもしれない。もう、どんなに願っても、その手に触れることも叶わないまま。

『——願うものを手に入れて。自由に、望むままに。生きてください』

それでも願うことならば、もう一度その人のために生きられるなら。自分が出来ることが、この手一つで彼を守ることなら。  そうしよう、自分は。それが、望みだ。  彼女が目元を泣き腫らしたまま、何度も頷いた。鼻先に、自分の漂わせるものとは違う、淡く優しい花の香りが香った気がした。

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