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冷めない肌の温度に重なるように伝わるのは、土混じりの水の生温さだ。  覚えのあるその感覚に、閉じて硬直しきっていた瞼をどうにか押し上げた。  すぐにこれは夢なのだと分かった。見上げた先の、灰色に覆われた視界の記憶に、思いを馳せる。  今そこで傷を付けられたように、身体の奥に痛みと熱が残って消えない。それは過去に、αに蹂躙された記憶だった。  伸ばした手は空中を掴むだけで、何も無い。仰向けになって、空を見上げた。  胸元で浅く、息をする。  誰も、助けてはくれない。

重い目を閉じて、また開く。  慣れた油と塗料の匂いがする。身体の中で、熱がのたうち回るように暴れている。冷たく硬い床に爪を立てて、唇を噛んだ。  自分に与えられた身体と、性を呪った。築き上げてきたものをいとも簡単に奪い浚っていくその流れに、歯噛みした。  救いなんてあるのか?そう何度も自問した。  吐き出そうと望む本能とそれを押し込めようとする己の理性の狭間で、自分の身体が引き裂かれて千切れてしまいそうだと思った。  誰も、代わってはくれない。

青黒い海の底にいて、誰の存在も分からずに縮こまる自分に、無条件に降り注ぐ光は無い。誰にでも光は平等にあると思っていたけれどけしてそうではないのだと、自分の存在意義を踏みにじられる度に嫌でも気付かされる。  けれどふと、触れる暖かさと柔な感触が、蹲る自分の手に触れた。  触れた先を追う。続く先は同じ暗闇で、けれど確かに、その温度は感じられた。

――そこにいたのか?

声を掛けたのだと思う。  もう伸ばすことも、伸ばされることも諦めていた自分のその指は知らず知らずのうちに、そのいっそう暗い闇の中を探ろうとする。  確かな手のひらの感触がそこにある。点った熱が、底を照らして光に変わり始める。闇を拭って、繋いだ先の手の在処を、明らかにする。

――ずっと、あなたを探していた。

彼の声が、聴こえた気がした。

「トシヤ」  ぼんやりとどうにか現実に留まろうとする意識を揺さぶるのは、か細く小さな声だった。机の脚にもたせかけていた背をわずかに動かして、声のした方を見遣った。  数時間おきに生存確認のように聴こえるその声の主のことは分かる。目が合った、涙で腫れたその白く儚げな顔に、かすかに微笑んだ。そうすることで何か状況が変わるわけではないけれど、彼女の恐怖と不安がわずかでも拭われるならと、そう思うことでなんとか現実に自分を繋いでいられると思った。 「身体、辛い?」 「・・・・・、大丈夫だ」  何度目かの同じ台詞を繰り返す。  申し訳ないという思いを率直に滲ませたその表情と、残る頬の傷痕に胸は小さく痛む。  拘束されてもう何時間だろうか。それさえもこの部屋でははっきりとしない。どうにもならないであろうしどうにも出来ないことを分かっているのは何よりも彼女自身だ。それでも尋ねずにいられない彼女の罪悪感と後悔に、傷を上塗りしたいとは思わなかった。  大したことではないのだと伝わればと、床に這いつくばりそうになる身体を支える。 「発情」を制御出来ないでいる自分の身体の熱は、間隔を置いて周期的に自分に襲いかかる。それを理性で押し込めて、やり過ごすことを繰り返していた。全身は怠さと痛みで砂粒ほども自由に動かすことは出来ない。皮膚から立ち上るような自分の発情の香りは、辺りに広がって濃く漂い続ける。火照ったように熱い肌から、汗が幾筋も垂れ落ちた。  肌の感覚はもう自分の手から離れて、まるで遠くにあるようだ。上から数個のボタンが外れたシャツの下で、どうにか感じられるものと言えば彼に与えられて身に着けていたネックレスの感触だけだった。この状況を打開する唯一の手がかりではあったけれど、長く膠着状態が続く中でそのことに大きな期待を抱くほど、楽観的にもなれないでいる。  自分に何があったか気が付いたところですぐさま手が打てるというわけではないのだろう。自分を侮蔑の眼差しで見下ろしたあの初老の男性は身なりからしても、向こう側の軍部の人間であることは間違いない。自分の立場も考えた時に、単純なΩの拉致監禁事件で片付けることが出来るのかどうか、それは些か短絡的な予測でしかないと思う。いなくなったことで動くのだろう彼やその他諸々の人間のことを考えないわけではないが、それよりも海の藻屑になる方が早いのかもしれないという思いはある。 『抱き捨てられて海の藻屑になるか、我が軍の協力者になるか』  国家の防衛のことを考えれば、保身のために自分が知っていることを話すという選択肢は自分の中には全く存在しない。生存を諦めるというのでもないが、海の藻屑になるならなるで、最後に全うしなければならない矜持はあるのだと、覚束ない頭でぼんやりと考えた。

それでも、と彼女を見つめる。  不安げに揺れる黒い瞳に、彼女だけはどうにか生きて帰したいと思う。  この国に生きる妹を思って、たった一つの言葉を託した兄の思いに応えるためにも。

『愛している』と。

「トシヤの『番』は、そのネックレスの人ね」 「・・・・え?」 「『番』になったんでしょう」  そう不意に口を開いた彼女の視線は、自分の首筋に向かっていた。それに反応するように、ちりと項の辺りが痛んだ気がした。  傷痕はずいぶん薄くはなっていたが、消えたわけではない。引きちぎられそうな勢いで噛まれたせいで、傷痕はまだ点々と、残っていた。彼女はその傷に気が付いていたようだった。  肯定も否定もせず、彼女を見つめる。  彼女に彼のことを説明するべきなのか迷った。日に透けるアンバーの瞳が自分を映して歪んで揺れるそのさまを思い起こした。 『少し怖い』とそう告げた彼女は、彼がこのネックレスに纏わせた感情を読み取っていた。ならば見たこともない彼の姿も思い浮かんでいるのではないかと思った。 「・・・・『番』にはなったのかもしれないが」 「トシヤの『発情』は治まってない」  続く言葉を遮るように、彼女の細い声が自分の声に重なる。彼女は続けて尋ねて来た。 「・・・・その人は、トシヤの望む、『番』じゃなかった?」 「・・・・、そうだな」  数秒ほどの時間が、いつまでも続く静寂のように思えた。答えたいと思ったのか、そうでないのかが分からなかった。言葉にすれば輪郭を取って形になり始めるその事柄を、認めてしまいたくない自分がいるのかもしれない。 「そうなのかも、しれない」  あの医師の彼が言ったような、「『番』になることでΩが存在意義を獲得し、精神的に安定する」ということが「発情」を治める仕組みなのだとしたら、自分と彼が結んだ「番」の関わりはそうではない。  救われることを願って、彼を救うことを願って、手を伸ばした。けれど願った結果は訪れなかった。  だからこそΩである自分の「発情」は治まらず、彼もまた、「変異性α」としての衝動性をコントロールしきれなくなっている。 「少なくとも、望んでいても、望まれたわけじゃなかった」 「・・・・」 「望むこと自体が、してはいけないことだったようだ」

「変異性α」は、「番」にしたΩを「食い殺して」しまうことがあるという。  彼が言っていたことに間違いが無いのなら、「変異性α」の彼にとって自分と番うことは彼は常に、その獲物を奪われてはならないという本能を刺激され、その脅威と戦わねばならないということだ。そうして、行き過ぎた獣の執着は彼を苦しめて、いずれは、「番」になった自分の命さえも危険に晒す。  彼は、「番」を得る限り、その衝動を持ち合わせて生きていかなければならない。 「番」を解除することは出来る。αからの働きかけさえあればそれは可能だった。けれどそれは、やはりΩの自分の命を危険に晒すことと同義だ。彼は今、どちらにも踏み切ることが出来ないでいる。  それは、他でもないΩの自分がもたらした結果だ。

『Ωとして生きる意味』  淡く白い花の香りと共に微笑んだその笑顔が一瞬浮かぶ。  共に歩む存在を得て、そうして共に歩む存在となって行く先を定めた彼の笑みは、降り注いだ午後の光のように確かな温度を湛えてそこにあった。  その答えを、自分は今見出すことは出来ない。  行く先は濁って先の見えない海底のように自分の前で揺蕩っている。Ωであるが故に「番」を苦悩の内に立たせる、その運命しか今は見えないでいた。

――それでも、望まずにはいられないでいる。  彼と共にあろうと、ありたいと、今この瞬間も。願わずにはいられない。

「トシヤ、パンドラの匣って、知ってる?」 「?・・・・ああ」  痛々しい切り傷が浮き上がって見える口の端を引き上げて、彼女が小さく微笑む。細く長い黒髪が傷ついた頬に触れて、するりと肩に落ちるのが見えた。  髪の流れに沿うように、甘く切ない微かな香りが漂う。自分の放つ花の香りに、淡いバニラとホワイトムスクの香りが、柔らかに重なる。 「覗いてみたいと誘惑に負けたパンドラが開けた箱から、あらゆる災厄が飛び出して、世界を災いで満たす」 「・・・・・そうだな」  それはよく聞く、ギリシャ神話の一つだった。  神ゼウスは火の力を得て神を恐れぬようになった人間への罰として、パンドラという美しい女性にある一つの箱を持たせて地上に降り立たせる。けして見てはならないという箱。その箱の中身を、パンドラは好奇心に負けてある日開けてしまう。  箱からはあらゆる厄災が飛び出し、世界を混乱に陥れる。  彼女は薄い微笑みを浮かべたまま、言葉を紡いだ。 「最後に残るものは何?」 「・・・」  唐突にそんなことを尋ねてきた彼女の真意を汲もうとしたが、それは頭と身体の中を否応なしに行き交う熱に浚われて、しっかりと考えることが出来ないでいた。浅い呼吸を何度か繰り返して、彼女の言葉を噛み砕こうとした。 「・・・最後に残るものは、・・・トシヤなら知ってるでしょう」 「、希望だろう」  それはあまりにもありふれている正解の一つだろうと思う。けれどどこか、その確信は持てずに、一音一音を確かめるように言葉にした。  この世界の全ての厄災をばら撒いたその箱には、最後に一つだけ残るものがある。  それは「希望」だ。全ての闇や濁りや淀みを解き放った後に残る、わずかな救いの光。そのはずだった。 「そう、・・・・希望」 「・・・・」  赤く血の色を宿した唇がふるりと震えてまた笑みを引くのを、その繊細な横顔と共に見つめた。  彼女なりの、今置かれているこの状況の例えなのかとも思う。どんなに危機的なこの状況でも、諦めずに生きることを希望にしろと、そんな拙く一途な願いを自分に伝えようとしているのだろうかと思った。

「ユーシイ?」 「――叶わない希望は、時に絶望になる」  彼女はそう、切るように呟いた。 「・・・・」 「いつまでも願って、いつまでも苦しむ。  会えない人に会えるかもしれない希望。自分に与えられた運命が、ひょっとすると変わるんじゃないかっていう希望。  希望を抱く限り、人間はそれを渇望する己の苦しみから逃れられない」

「希望は、絶望と変わりがない場所にある」

「・・・Ωの私たちもそう。  どんなに絶望しても、傷つけられても傷ついても。  いつか自分の性が意味のあるものになるんじゃないかって。この世界の誰かにとってかけがえのない自分になれるんじゃないかって、」 「・・・・」 「いつまでも願って・・・・離れられないでいるの。この世界から。」  そう言って俯いた彼女の視界に映っているのは、彼女が愛おしいと思うその人が飛び立つ空なのだろうかと思った。  狭く息苦しいこの場所からは見えない青く濃い天色の世界。触れるだけで溶けて、軽やかに足元が浮き立つ。「いぶき」の甲板から臨む、その色を思い起こした。 「いぶき」は、自分を必要としないのかもしれないこの世界を守る艦だ。己を差し出しても捧げても同じだけのものがけして返ってくることのないその世界を、自分はその手で舵を取って守ろうとする。  それはただ、虐げられてきたこの世界への自分なりの抵抗だと思ってきたけれど、本当にそれだけだっただろうか。  撥ね付けられて拒まれるその苦しみを知っていてもなお、あの場所から降りずに立ち続けたのは、ただこの世界が憎かったからだけだろうか。

いつの日からか。自分は絶望に沿う希望をその場所に見出そうとしていたのだろうか。  この世界に必要とされる「希望」を。望む人に必要とされる「自分」を、求めていたのだろうか。 『長く共に、あるのだから』

「ねえ、どうして、箱の底に、『希望』は残ったんだろう」  彼女はそう言った。 「どうして神様は、箱の底に『希望』を隠したんだろう」

「愚かしいって分かっているのに。人間はどうしようもないものだって分かっているのにどうして。  ――私たちはその『希望』を捨てられないんだろう」

「トシヤ」 「・・・・」 「そのネックレス、私怖いって言ったけど。  ――ひとつだけ。言ってなかったことがある」  その彼女の声は、重い静寂と温い熱が支配するその空間に一滴の水を垂らして波紋を広げるように静かに響いた。  それはまるで教会に厳かに鳴り響く、正午の鐘のようにも聴こえた。

「そのネックレスには、その人の『希望』が、見える。  とても、・・・・とても、微かな『希望』だけれど」

「おい、交代だ」

扉の向こう側から微かな声がする。  話し慣れた日本語から、見張りの人間が日本人であることは予想がついた。どういった所属の人間なのかは分からないが、まっとうな警備の人間ではないことは明らかだった。  先日、人身売買に関わる組織が一斉摘発を受けたという話をしていたのは彼女だ。彼女の「番」である李奕辰が逮捕され勾留中だった。人民解放軍の幹部である彼の父親が裏で手を引き、自分の息子を利用して人身売買を斡旋するその組織に、日本人が関わっていないわけではないだろう。 「そろそろ例の客人が来るらしい。中の奴らがまかり間違って自殺を図らないように、しっかり見張っとけだとよ」  24時間見張っているのも骨が折れるのか、彼らの声音はいくばくか乱暴な色を漂わせていた。何かを置くような雑な物音からもそれは分かる。  交代を命じられたのだろう、若い男の声が重なって聞こえた。 「例の客人て。・・・・自衛隊の幹部っていう奴ですか」 「らしいな。中の連中の解放と引き換えに、何か国家機密の取引するみたいなこと、言ってたがな」 「ええ、それって情報漏洩?ヤバいやつじゃないですか。やっちゃいけないやつでしょ」 「お前、俺らのやってることもそう変わんねえからな。言っとくが拉致監禁だぞ」 「まあそうですけど。俺ら日常過ぎて、認識してなかった」  げらげらと品のない笑いが廊下を伝って部屋の中まで響いて来る。 「拉致監禁に人身売買、大使公邸で違法賭博。・・・向こうさんはやりたい放題すね」 「そんなもんだよ。・・・金と地位は人を狂わせんだ。程度はあっても、国境なんてねえよ。」

「そういやあのΩのおっさんも、お偉いさんらしいぞ」 「え?あれが?」 「ああ、何か、二佐とか言ってたな」 「Ωで自衛隊のお偉いさんとか、アリなんすか」 「知らねえよ。身体使って出世でもしたんじゃねえのかよ」 「それもそうだ。でなきゃ間抜け過ぎますよ。  ・・・・確かに、あのおっさん、『発情』期か何か知らないけど、匂いすごいですよね。エロ過ぎる」 「何だお前βだろ、Ωのフェロモンにあてられてんのか」 「あてられてませんけど、・・・・部屋中すごい匂いじゃないですか。全身媚薬みたいなもんでしょう。  俺色んな女、風俗に沈めて来ましたけど。あんなん初めてですよ。あんなの嗅がされたら、ちょっと俺も理性飛びます」 「何だ、じゃあ売り飛ばす前に味見でもするか?  自衛隊のお偉いさん犯すって、なかなか無い経験だろうけどな」

「・・・・Ωって、男でも妊娠するんですよね」 「て言うけどな・・・」 「ちょっと、・・・・興味ありますけどね。どんな感じに、なるんだろうとか」 「・・・・お前も、狂ってんなあ」

俺男は無理だわ。そうつまらないものを放り捨てるような調子で言うのが聞こえた。 「人質が傷物になったら取引が上手くいかんかもしれんだろ。そうなっちゃ困る。冗談はそこまでにしとけ」 「分かってますよ」 「デカいヤマだからな。失敗出来ねえんだよ」  低い一人の声が本気で諌める調子に変わったのを、若い声の方は察知したのだろう。それ以上のことを言うことはなかった。  会話は取り留めのないものに戻りつつある。耳を傾けながら、一つ息を吐く。重ねられる侮辱の言葉に反応する力はもう残ってはいない。  確かに聞こえたのは「大使公邸」という言葉と、「取引」という言葉だった。  おそらく自衛隊の幹部というのは、彼、秋津竜太のことだろう。何らかの形で彼にコンタクトを取り、「いぶき」「変異性α」の情報とこちらの身柄を交換する取引を行うのだろうことは想像に難くなかった。 「情報漏洩」という言葉が冗談で済まないことであるのは自分でも分かる。国家の機密を漏らすことは自衛官としてあってはならないことだ。彼がそう簡単に機密を漏らすような人間でないことは理解しているが、そうなると状況がこちらにとって不利であることは少し考えれば分かることだった。  この状況をもたらしたのは自分だ、と悔いてみるだけ無駄だと思う。それは彼女にも言ったことだった。囚われた今の自分に出来ることなどない。それでも自分の落ち度を顧みて悔やむ時間があるならせめて、流された先で彼の足を引っ張るようなことだけはしたくないとそう、心にだけは誓う。  隣で同じように囚われたままの彼女を見遣る。疲労の蓄積は「発情」期でない彼女の身体も消耗させていた。うつらうつらと頭を上下させながら浅い眠りにつく彼女の白い頬には、まだくっきりと、殴られた痕が残る。  手を差し伸べることも出来ないでいる。自分の身体ひとつ満足に動かせないこの時間の終わりはどのように来るのだろうかと、底でじくじくと疼き続ける自分の熱を持て余すように転がしながら、暗い天井を仰いだ。

「起きろ」  いつの間にか、自分も眠りに落ちていたらしい。  そう低い声が降ったのと同時に後頭部を雑な手付きで小突かれる。踏ん張るだけの体力も失った自分の身体は大きく傾いで、肩から落ちるように床に倒れ込んだ。 「時間だ」  獣が獲物を好きに弄ぶようなそんな素振りで、黒光る革靴を履いた足でその身体を軽く蹴り上げられた。背後から腕を取られ、半ば強引に起き上がるような体勢になり、声のした方を見上げる形になる。 「・・・・・」  冷ややかで、踏めば潰れる小動物を見るような目つきで、見下されていることに気が付く。睨み返すわけではないが、それでも自分の意志はまだ残っているのだとでも言うように、その声の主の顔を見据えた。 「手錠どうします。もう一回付けときますか」  背後から若い男の声がする。 「・・・どうせ抵抗する体力ももう無いだろう。面倒だから解いとけ」 「分かりました」  かちゃりと金属と金属が嵌まり合ってから外れる音がして、手首の重みから解放されるのが分かった。自由にはなったが、両手を掴み取られて後ろ手に縛り上げられているのには変わりがない。そうしてその拘束を解いて、逃げるだけの力も無かった。 「立て」  両腕を引っ張り上げられるような形になって、力の入らない身体をどうにか起こした。視界がふらつく。倒れそうになる身体を、乱暴に引き上げさせられた。同じ高さになったその場所で、黒いスーツを着たその低い声の主と向かい合った。 「・・・・良い面構えしてんじゃねえか、おっさん。さすが自衛官なだけはある」 「・・・・・・」 「Ωなのが残念だ」 「・・・・・・」 「ヤり捨てられてゴミの運命か。もったいねえな」  そう言って、自分から湧き立って香るのだろうそのフェロモンの匂いに顔を顰めるようにして、スーツの男は顎だけをくいと、進行方向へ向ける。背後の若い男がそれに合わせて、背を強く押した。 「女も歩け」  首だけを捻って背後を見ると、彼女も同じように縛められたまま、ゆるゆると歩を進めるところだった。白く細い喉元には、背の後ろから、鋭いナイフの先が突きつけられている。目を伏せた彼女の表情は、長い髪に隠れてよくは分からなかった。 「妙なことは考えるなよ」  前方を歩くスーツの男が、確認するようにそう呟く。 「血まみれのゴミを片付けるのは俺も気分が悪いからな」

燻った煙の匂いに自分のフェロモンの香りが染み込んだ部屋の外は、薄汚い雑居ビルのような場所かと思っていたが、予想に反して、小綺麗な絨毯張りの廊下が続く、一見品のあるホテルのような佇まいの建物の中だった。  埃一つ浮き上がらないかのように丁寧に清掃の施されたその通路に、自分の爪先が沈み込む。足音はしない。擦るようないくつかの音が重なるだけだ。 「大使公邸」という言葉を、熱に浮かされた頭で繰り返す。自分が閉じ込められていたのはどうやら、大使公邸の一室だったということらしい。違法賭博という言葉を若い男が発していたが、自分が括り付けられていたカジノ台も、そういった用途に使われていたのなら納得がいく。 「大使館内」であり日本の司法の手が及ばないことを良いことに、金銭のやり取りを伴う違法な賭博場が運営されていても何もおかしいことはない。ただここで行われているのなら、その存在を大使が黙認しているということだ。あの軍部の男性と何らかのつながりがあるのかもしれないと思ったが、今の自分が置かれた状態では、何かを為すことは出来ない。  彼に今の自分のことを伝えることさえも叶わない。  首元にかかるネックレスが、歩くリズムに合わせて小さく揺れる。冷えた感触は、ずっと変わらないようでいて、けれどどこか、その小さな飾りの中に熱を帯び始めているような気もしていた。ちらりと前方の男の視線が絡むような気がして、手は自由にならないが、心持ち襟元を隠すように、俯く。  自分が部屋の外に出されたということが、その何よりの証だろうと思った。どんな形であれ、彼は近くに来ている。  締め付けられるように胸が痛んだ。吐き出された息の温度は熱い。のろのろと引きずられるように進みながら、少しずつ速度を速めていく心臓の底の音に耳を澄ませた。

「お待ちしておりました」  慇懃無礼とも取れるゆっくりとした調子の日本語が聞こえる。ややたどたどしいその発音と声音から、そう口火を切ったのが、例の軍部の人間であることはすぐに分かった。  後ろ手に両手を掴まれたまま、膝立ちで崩折れるように通路の床に座り込む。壁に押し付けられるような形になった後、彼女と同じように刃先を喉元にかざされたまま、その会話に聞き入る。 「指定通りに一人ここに来られるとは、ずいぶんとあなたの組織は柔軟な姿勢をお持ちのようだ。  それともΩの二佐ひとりいなくなったところで、大騒ぎをするほどのことでもないということか」  彼の返答は無い。こくりと唾を飲んだ。  まるで独り言を呟いているように、低く絡め取るような声だけが耳に響く。 「『いぶき』ではΩでありながら副長まで務めた者であるから、もう少し丁重な扱いをされているのだろうと思っていたのだが。  それは買い被りだったか。」

「――李中校だったか」

「・・・・」 「あなたも自国の軍の中核に位置する者ならば、私がなぜ一人でここに赴いているのか。  その意味を多少は理解していただきたいものだが」

低く穏やかだがその声は張りがあって、耳元を凛と揺らす。  ひくりと喉が鳴ったような気がした。喉元までせり上がるその名前を、呼ぼうとしたけれど上手くはいかなかった。  声は瞼にイメージを描き、心臓の奥を掴んで揺らす。ひどく遠くにいるような気がしていた彼の息遣いが、ほんのすぐ傍で聞こえるような気がした。  彼は続ける。 「下にいた者は帰らせた。あなたに言われた通り。信用ならないのならば、あなたが控えさせていた者に確認を取れば良い」 「――、お気遣いいたみいります。秋津竜太一等海佐」 「それも止めてもらいたい。・・・今回のこれは、ごく私的なやり取りなのでな」 「ではそういうことにしておきましょう」 「中校」はこちらでいうところの二佐だ。「李中校」と呼ばれたその男が彼に丁寧な口調を崩さないのはそれが理由でもあるのかもしれなかった。  けれどそのかしこまった口ぶりに、こちらへの敬意は感じ取ることは出来ない。冷ややかに彼女を蹴り上げたあの目を思い出して、そわりと背筋が粟立つ。  襟元を正すような声が、耳に届く。 「取引には応じていただけるということでよろしいのかな」 「・・・」

「空母『いぶき』の詳細と、あなた、秋津竜太の『変異性α』としての情報。・・・それを渡してもらおう」

「私の情報を得て、どうするおつもりか」  しばらくの沈黙を経て、彼がそう口を開いたのが分かった。 「・・・・・それを知ったところで、新波二佐を解放する条件に変更はありませんがな」 「純粋な興味だ。『変異性α』の情報は、ウイーン条約を批准した国の軍部ならばすぐに参照出来るようにデータベース化されていると、聞き及んでいるが」 「それを閲覧出来るのは我が軍部でも一部の人間に許可された行為です。『変異性α』の情報はあまりにも秘匿性が高く、私のような者では、データにアクセスする権利さえも与えられない。  それは、我が軍の中枢に位置する馬大校ですらも許された権利ではないのです」 「・・・・・、だからか」 「あの尖閣の事案を経て、馬大校はあなたにいたく興味をお持ちだ。  先制攻撃のための武力は持ち合わせないと平和憲法の下に固く誓っているはずのあなた方の国の軍隊は、我が軍が誇る空母を無力化し、あの戦闘を決着させた。それも、防衛という名目を崩すことなく。  あの事案で我が軍はあなた方に一定の勝利を与えてしまった。その先頭を切った空母『いぶき』の艦長があなたで、『変異性α』だという。  ・・・我が国の形勢の不利を拭うために、得られる情報は一つでも多い方が良い」 「そうしてあなたは、その情報と引き換えに自分の罪に目を瞑ってもらおうという算段なのだな」  そう彼が言葉を継ぐ。く、と喉元を揺らして笑う、低い声が聞こえた。 「日本の検察や公安の内部には、必要悪としてこちらの情報機関とのパイプを持っている者もいる。  実は、私の息子が人身売買の罪で今日本の警察に逮捕され勾留されているのです。私とてむざむざと可愛い息子を本国に強制送還したいわけではない。  口利きを依頼するには、それなりの手土産がいる」 「・・・・・」 「それで、多少手荒いがあなたにご足労願ったという訳だ。  さすが日本国の自衛官、新波二佐は全く口を割らなかったのでな。本人に尋ねる方が早いかと」

「――間抜けな部下を持つと苦労しますな秋津どの」  喉の奥を鳴らすようなくぐもった笑い声を含ませて、その男は言葉を重ねる。 「新波二佐は大変優秀でこの度の事案でもずいぶんとあなたの手となり足となってあなたを支えたようだが。  ・・・・やはりΩの性は、隠しきれんのでしょう。こちらの吐いて捨てるほどいる小娘ひとり守るために、無様な姿を晒している」 「・・・・・・」 「情に流されて先の見通しも立てずに囚われる、愚かしいとしか言いようがない。やはりΩは、子を為すための、繁殖の性に過ぎないということだ。  Ωが国家の存亡がかかった戦闘の前線に立つなど烏滸がましい。そういうことでしょう。  そうしてそんなΩごときのために丸腰でのこのことあなたも現れる。日本人というものはこの時代において、未だ手垢の付いたような『平和』に縋って生きているということか。  それとも。」

「――あなた自身が。あの役に立たない男のΩに、ご執心か」 「李中校」

「・・・あまり口が過ぎると、得られるものも得られぬ。その程度のことは我々の間では常識なのでは」  口調は抑揚が無く穏やかとも取れた。分からない程度に下がった周囲の温度が、彼の感情を知らせて来るようだった。普段感情的にものを言う人間ではない。だからこそそれが波立った瞬間は、そのことが痛いほどに分かる。身動きも取れず壁越しに耳をそばだてるだけの自分に歯噛みする。  けれど身体は言うことを聞かない。指1本、上げることも叶わなかった。  数秒ほどの沈黙の後、わずかにトーンの落ちた彼の声が聞こえた。 「――情報は渡しましょう」 「そうですか」 「ただ、それは新波二佐と、彼と一緒にいたという女性の無事を確認してからだ。二人共ここに、連れて来てもらおう。  取引はそれからです」 「・・・・、いいだろう」  その声を合図に、背の後ろの両手を掴み上げられ立たされる。 「入れ」  前に縺れるように開かれた扉の中に足を踏み入れた。続くように、彼女も背を押されるように中へ入る。

「――新波さん」 「・・・・、あきつ・・・・」

視線が混じり合うのと同時に、湿気を帯びた室温に纏わりつくような水気の多い花の濃い香りと、自分の花の香りが絡み合うように溶け合った。  制服でも作業服でもなく、張りのある綿素材のカットソーの上に、薄い羽織を被った彼がわずかに椅子から腰を上げる。けれど背後の見張りにそれを留められて、もう一度彼は席に着き直した。  ほんの微かに、整った眉が歪められる。鈍色の瞳が濁るのに胸が痛んだ。  目と目が触れ合うほどに近く、求め合うままに肌を重ねた時間のことがよみがえる。呼吸の温度と、肌の温度が境目を失ったように身体に染みていく瞬間のことを思い出した。細胞の一つ一つが、その温度を探して震える。 「発情」した身体が強く「番」を求めるのは考えずとも自明のことだった。小康状態を保っていたその情欲が、彼の表情ひとつでまた大きく波立ち始めるのを感じていた。  けれどそれは、今は叶わない。数十センチ歩みを止めなければすぐそこにあるはずの彼に、指先一つでも触れたいと、喉の奥から知らず知らず、叫びそうになる。  小さく歪んだ笑みと共に、離れていく彼の姿も重なっていく。  自分と「番」である限り、自分の存在そのものが彼を苦悩に陥れる、そのことを頭で理解していてもなお、本能から湧き出すその感情を留めることが、出来なくなってくる。抑え込んだものが一気に溢れるように、身動きの取れないその身体を支配しつつあった。

――今すぐ傍に行きたい。どうか。

「では渡してもらおう、――情報を」 「・・・・・」  絡み合い漂う彼と自分の香りには気が付いていないのか、それを遮るように、「李中校」の低く冷たい声が響く。自分を後ろ手に縛める見張りの男が、腕を解いて前に進もうとする身体を床に押し付けるようにして体重を背に乗せてきた。逃亡を防ごうとしているのだろう。喉の辺りを押さえつけられて気道が狭まる。ごほ、と咳き込んだ。  ちょうど項の、残る噛み傷の辺りを強く押された。じわりと熱を帯びて傷が痛むのは、おそらくそのせいだけではない。  彼の長い指が、羽織のポケットに差し入れられるのを見つめた。目を伏せて、彼がその中を探るような仕草を見せる。心臓が奥のほうで大きく音をたてた。 「・・・・ぁき、・・・・つ・・・」  抑え込まれて呼吸をするのがやっとの喉から、掠れた声を絞り出す。  ――まさか、本当に渡すつもりか。その結果を理解した上での行動だというのか。  止めなければ。心は逸っているのに、「発情」を起こして、抑制も利かなくなっている身体は自由には動かなかった。身を捩って動いても動いても、広がって場の空気を揺らすのは自分のΩの甘く濃い香りばかりで、そうしてそれは、彼の行動を留めるきっかけにすらならないでいた。  ――何も出来ない。救えない。  彼と出会って繰り返してきたその思いが、重く怠い身体にさらにのしかかった。自分のために投げ出されようとしているものを留めることさえも出来ない。

『Ωは子を為すための、繁殖の性に過ぎない』  侮蔑に満ちたその声が、何度もリフレインする。この性を与えられて、それでもどうにか生きてきた道程を軽くあしらわれて、世界の隅へ簡単に蹴り出される。  生きていく意味などそこには考える余地もなく、ただ踏みにじられる。 『『希望』は絶望と変わりない場所にある』  その屈辱は、目元を焼き付くほどに熱くさせた。ぎりと奥歯を噛み締めて、血が滲むかのように唇を噛んだ。鉄の味が、口内に鈍く広がる。 「秋津・・・・っ!!」

ばたばたという足音と共に空気が一変したのは一瞬後のことだった。 「李中校!日本の警察です!!」 「何だと?」  部屋に飛び込んできた黒尽くめのスーツの男はそう慌てふためいて言った。呆気に取られたように、自分の背に乗る男が、拘束する腕の力を緩めたのが分かった。 「どういうことだ」 「わかりません、ただ、捜索令状もあるということで。続々と入り口に警視庁の捜査員が」 「ここは大使公邸のはずだ、外交特権で日本の警察の介入は許されていない。  そう大使も、馬大校も・・・・」  狼狽した上ずった声に重なるように、部屋の向こう側から怒号のような何十人もの人のざわめきが響いてくる。そのざわめきは少しずつ、こちらに向かって近づいて来ていた。  後ろ手に縛られたままの彼女が、小さく顔を上げた。黒目がちのアーモンド型の瞳が、見開かれる。 「何が起こっている」

「・・・・・あなたは、ただの侵入者だ」

彼の低い声が、その場所を起点に、水面に波紋を広げるように響き渡った。 「李中校」が驚きに目をわずかに見開いたのが分かった。そうして表情が、ぐしゃりと歪む。 「何だと」 「言葉通りの意味だ、李中校」  彼はそう言った。 「ここに来る前、外交筋を通して馬大校に確認した。『李』という軍人がこちらの関係者を拉致し、解放の見返りに我が国の防衛に関する情報を求めているが、そちらの差金かと」 「・・・・馬、大校に?」  彼の声は淡々と、けれど冷ややかに「李」と呼ばれるその男に向けられる。彼は小さく息を吸うと、言葉を続けた。 「馬大校の答えは『No』だった。 『李』という人間は軍部には存在せず、あなたは人身売買や違法賭博に手を出している、国家の安全を脅かす狼藉者で、当局も現在拘束に向けて手続きを進めているということだった」 「・・・・・・何を・・・・・!?」 「そして駐日大使は警視庁の任意聴取こそ拒否したが、『李』という人物に関しては重要な証言をしている。  脅されて、この建物の地下にある賭博場を貸し出したと。  そこで二人のΩを拉致監禁し、それをだしにして防衛省の情報を盗み出そうとしているとのことだった。」 「・・・・・それでも、ここは大使公邸だ。警察の権利は及ばぬはずだ」 「ここは『大使館』として登録されていない、大使の私邸だ」 「何?」 「・・・つまり、ここで行われた違法行為は、日本の司法によって、日本の法に則って裁かれる。・・・・・李中校、あなたの罪も例外ではない。」

「あなたは今、――ただの犯罪者に過ぎない」

「・・・そんな馬鹿な・・・」 「李中校。あなたは軍部に切り捨てられたということだ」 「・・・・、」 「口が過ぎると、得られるものも得られぬ。・・・・・・私はそう言ったはずだが」

彼は口元に薄い笑みを引いたまま、静かにその男を見つめた。  静寂が彼を中心に広がっている気がした。彼のその瞳は憤りに似た熱を帯びながら、けれど、無用なものを簡単に踏み潰す残酷さを滲ませてそこにあった。そんな風に小さく笑む彼の姿を見ることはほとんど無くて、小さく背と腹の辺りが震えるのが分かった。  怒号は目と鼻の先にまで近付いてきていた。他にも建物内には多くの手先がいたのだろう、揉み合う人間の叫び声がそこかしこに響いている。  それを察知したのだろう。背に乗っていた重みが唐突に離れたのが分かった。 「おい、逃げるぞ」  黒いスーツの男がそう言って、背を翻して扉に向かって駆け出し始める。それに伴うように、艶光る黒いジャケットを羽織っていた若い男も駆け出すのが分かった。  しかし一歩遅かったようだ。男が複数揉み合う物音が、この部屋の壁を振動させた。  突き飛ばされるように、彼女の細い身体が、壁に打ち付けられる。くぐもった悲鳴が響いて、背を強く叩きつけられた衝撃に、彼女が小さく顔を歪めるのが見えた。 「ユーシイ!!」 「待て!!」 「李中校」――今や、ただの『李』だが。彼の手下を留めるような低い叫び声は虚しく宙を舞う。床に張り付いた身体はすぐさま動かすことが出来ない。遠くの何十もの足音が床を伝って、強い振動になって頬を揺らす。逃げるなら自由を得られた今だというのに、長時間の拘束を受けたその身体は、中心が痺れたようになって、硬直したままだった。  大きく息を吸って吐いた。埃の立つようなその空間に、彼のさせる花の香りと、自分が持つ花の香りが絡みつくように漂う。

今なら、届く。

「・・・あきつ・・・」  どうにかわずかに起こした身体で、ゆるゆると手を伸ばした。伸ばせば届く距離に、彼はいる。彼の温度が、そこにある。 「新波さん!!」  彼が席を立つ、椅子のぐらつくかたりという小さな音が響いた。  彼が一歩を進める。長くすらりと伸びた指先が、こちらに伸ばされる。  残った力で、上半身をゆっくりと起こした。膝を付く。彼がその腕を伸ばして来るのが見えた。指先を掴んで、その手を取ろうとしたその時だった。

冷えた硬い感触が後頭部に伝わる。  目の前の彼が伸ばした手を留めて、鳶色の透明な目を瞠るのが分かった。そうして、自分もその感触が何かは、はっきりと理解した。 「、動くな」  怒号が響き渡るその空間で、追い詰められた獣の最後の一声がいやに澄み渡る。  触れようとした指先が離れた。自らの身体に巣食って温度を上げ続ける熱はそのままで、けれど背から水を被せたように、冷たく無機質な恐怖が、自分の心臓を打つのが分かった。

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