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その運命が定まった時から、熱は自分の内で燃え続けていた。

己の肌と身を灼いて、持て余す本能からのその熱をどうすることも出来ないでいた。  伸ばされた手を取っても、その熱が孕む傷と痛みまで預けることは出来なかった。  全てが救われて生まれ変わる、そんな淡い願いを抱きながら、それでも。  救うために、救われるために伸ばしたはずの指先から崩れるように、底の無い暗い場所へ、熱は点りながらも落ちていった。

彼と自分は、同じ場所にいた。  向き合っているのは抜け殻のような身体だけで、お互いの孤独に内向きながら、その、声の聴こえない場所でただ蹲っている。  薄青い暗闇でお互いの姿を見つけても、どうすることも出来ないまま。  二人重なるようにその海底で、与えられることのない届かない光を待って漂っていた。いつからだろうか、一番近くにいてもお互いの存在に気が付かない、そんな場所で。

ーーーー長く、共に。

光はどこからか差し込むのではなくて、内から自ずと、留められない強さで湧き出して来る。  抱えた自らのその熱が、灯に変わるその時が来ている。  今はまだ、見えない光。けれど確かにその瞬間は近づいているのだと。その微かな予感は二人の間に降りかかり暗かった周りを徐々に照らし始める。

その気配を二人で掴む。それだけを、ただ願っている。

ここにいるとあの海での出来事がまるで非現実のようだ。  この場所には来慣れているはずだというのに、どこか違う世界へ紛れ込んだような、そんな気がした。  海上幕僚監部の一室から見える景色を一瞥する。遠くに白く煙るように映るビル群の上に、澄んだ青い空が広がっていた。四角く広い窓に切り取られた、ほんのわずかに輪郭を滲ませるそのビルの姿を視界に映す。本当に、自分たちはこのビルの隙間を埋めるように存在する人々を守るために、戦っていたのだろうか。  今でもまだ、硝煙と油の匂いが漂うあの洋上にいるような気さえする。自分にとっては、あの場所こそが現実だった。 「ご苦労だった、新波二佐」  ばさりと紙を机に置く音と同時に、穏やかで少し掠れたまろやかな声が耳に届く。その声のした方へ視線を動かして、そうして小さく、頭を下げた。  木目の美しい机の色が、目に映る。 「は、」 「戦略構築から分析まで、今回の事案についての経緯が実に詳細に記述されている。申し分ない報告書だ。『いぶき』の今後の運用体制についての提案も大変興味深い。上も文句は言うまい」 「はい」 「・・・・ここまでの報告書を仕上げるまで。ずいぶんと時間がかかったんじゃないのかね」 「いえ、・・・・特には。いつもやっていることですから」  謙遜したつもりは無かったが、相手がどう取っているのかは分からない。  相手が小さく肩を竦める、その気配を感じ取った。ひとつ息を吐いてから、何かを含んだような目でこちらを見つめる、皺の寄ったその顔に向き合った。  黒く艶光るジャケットの胸元には多くの徽章が付けられている。ゆったりと椅子に腰掛けて、彼はこちらに向かって微笑んだ。  涌井群司令。今回の戦闘で前線に立った「いぶき」を含む第五艦隊を率いた人間だ。そして、秋津竜太と共に、自分の抱えた大きな秘密を共有している、その一人だった。

「謙虚だな、新波二佐」 「・・・・・」  呆れるというのでもなく、彼はそう呟いた。  評価めいた響きではなく、ただそう思っただけのように響くその言葉に、特に噛みつくつもりは無かった。

「・・・身体の調子はどうだ」 「はい、問題無く」 「そうか」  彼はそう相槌を打った。そうして続ける。 「・・・・通常の人間でも気が狂うような事態だった。  私も初めてのことでお前さんの事情に構う余裕は無かったが、心配はしていたのでな」 「ありがとうございます。涌井群司令。・・・色々と、お気遣いいただいて」  そう言って再度頭を下げる。微笑みを崩さないまま、彼は細めていた目をさらに山なりにした。  Ωという言葉を一言も発さないその姿勢に、涌井群司令なりの心配りが隠れているのだろうと思った。上手くどう言葉にしていいのか分からずに、口元を引き結ぶ。気遣いと簡単に言葉にしてしまうには、あまりにも心を砕かれすぎていると思った。 「いぶき」へ乗り組む際の配慮も、抑制剤のことも、元々は彼の後押しが無ければ叶うことではなかった。  Ωであるということ。その事実を踏まえてもこの場に自分が立っていられるのは、他ならない彼の采配があってこそだ。「発情」によって左右される不安定な身体を持つ自分を切り捨てるわけでもなく最後まで「いぶき」副長としての役目を自分に預け続けた。その意図はどうあれ、彼には感謝しか無いのだと思う。  この「いぶき」に乗り続けることは今の自分にとっては生命線とも言えた。それは空虚な自分を埋めるためと言えば、実に身勝手な理由だということは分かっている。けれど今の自分が縋っていられるものはこれしかないのだと、言葉にはしないが頭の中で何度か、繰り返した。  この国を守るということ。自分たちを虐げる者への復讐のように抱き続けた思いは今も変わることはない。けれど思いの形はほんのわずかに輪郭を変えて、今の自分を支えている。  それはゆるぎのない事実だ。

「新波二佐」 「は、」  一通りの報告を終えて口火を切ったのは涌井群司令の方だった。椅子から立ち上がり、窓際へ数歩足を進める。柔らかな光の筋が、彼の横顔に差し込んだ。 「今はまだ、現状の人事配置を継続させる方向でいくようだが。  ・・・・いずれは、第五艦隊群司令に秋津竜太を、という話が上で出ている」  窓の外のぼやけたような景色に視線を遣りながら、彼はそう言葉を重ねた。  鳶色の瞳でこちらを見据えるその顔が不意に思い出される。幻のように、かすかに甘い花の香りが漂った気がした。 「・・・、」 「そうなればおそらく、『いぶき』艦長にはお前さんを据えることになるだろう」 「、・・・そうですか」 「尖閣事案で名を挙げた二人だ。この後任人事に文句を付ける者はいるまいよ」  彼は言って、ゆるりと口元だけで笑った。

数秒ほどの沈黙が、その部屋を満たす。  涌井群司令はほんの一瞬だけこちらを苦い感情を滲ませた瞳で一瞥して、やがて再び口を開いた。 「私は古い人間だからな。  第二性がどうのや、平等だの何だのという、小難しいことは国の存亡の前では第一に尊重すべきことではないと思っている。  ・・・・本音を言えばな、新波二佐。」 「はい」 「面倒事を抱えた者に『いぶき』の操舵輪を預けるのは、私は反対だった。ましてや、誰もが経験のない空母の舵取りだ。  お前さんよりも、身体的に安定して、環境的にも適任である者はいた」 「・・・・」 「だが、それを覆すに余りあるものをお前さんは持っていた。それに見合う努力と苦労をして来たのだろう。だから、『いぶき』副長として推薦した。  新波二佐の抱える『面倒事』は私が責任を持って処理する、その心づもりをして、上にもそう言った」 「そう、ですか」 「こんなことを言うとお前さんは怒るだろうが。  あの秋津竜太を制御出来るのは、理不尽な環境に置かれて人間としての悲しみや孤独を十分過ぎるほど味わってきた新波歳也しかいないだろうという思いもある」  彼はそう言ってひとつ息をついて続けた。 「秋津は優秀だが、どこか危うい男だ。  尖閣の事案では彼も一皮むけて、上手くこちらに馴染んで立ち回ったが。・・・今後もそういい具合にいくのかは、分からん」 「・・・・」 「向こう側の連中も、矛先を全て収めたわけではないだろうしな」

「優秀過ぎる者は常に孤独だ。  理解されず遠巻きにされることが良い方に作用すればいいが、そうではないときもあるだろう。  孤独であることが悪い方へ作用すれば、次第に己を蝕む。孤独は孤独を呼んで、内に籠った情熱が狂気に変わるときもある。  それを掬い上げて受け入れ、上手く転がせるのは、お前さんをおいて他にない」

「・・・・」 「新波二佐」  自分よりもずっと長い間、あの広い海を見据えてきたその目が、今の自分を映している。  その視線には、あの戦闘を経て何かを得た、確かな感情があるのだろうと思った。  秋津竜太が持つ一つの秘密について、目の前の涌井群司令がそれを知っているのかは分からなかった。けれどその孤独について語る彼の素振りは、全てを知っているようにも思えた。 「あの男の隣に立つのは、新波二佐しかいない。私はそう思っている」

「それは、・・・・同じ孤独を知る者同士だからだ」

「ーーーーー彼がそれを望んでいるかは分かりません」  高くなった日が、広い窓から差し込んで自分の足元を照らした。白い光が、床を暖めるようにじわりと温度を上げていく。  俯きがちにようやく硬く閉じていた口を開いた自分の姿を、涌井群司令は無言で見つめていた。  細い声はまるで自分のものではないようにも思えた。制服の襟の奥に隠れた項の傷がじくりと痛み始める。徐々に熱を持ち始めるその傷痕に触れることも出来ずに、口の奥で奥歯を噛んだ。 「望まない者に己の全てを捧げるほど、私は出来た人間ではありません」 「・・・・ずいぶんと消極的な発言だな」 「この身体では限界もある。・・・・彼の持つものを背負うには、私のような人間では荷が重いのではと」 「それは、お前さんの本音か?」 「・・・・?」

「荷が重い。  ・・・・それは、心から新波二佐がそう思っている言葉か?」

何かを見透かすようなその目と口ぶりに返す言葉は持ち合わせていない。  話せば、自分との関わりにおいて起きたあの一件まで知られることになるかもしれない。それは彼とのごく私的な関わりで、そこに涌井群司令を巻き込むわけにはいかないと思った。  ひりと痛んで小さく刺すような言葉のいくつかを喉元で収めて、ひとつ息を吸う。 「・・・心からそう思っています」 「そうか。・・・・まあ、人事の件は本決まりではないから。  まだ尖閣の件の処理も終わってはいないしな。頭の片隅にでも置いておいてくれればいい」 「分かりました」 「まだしばらく、自由気ままなあの艦長のお守りをお前さんに頼むことになるが。よろしく」 「了解しました」  冗談めいた彼の目に、上手く笑みを返すことは出来ないでいる。 「身体にはくれぐれも気をつけて」 「はい、・・・ありがとうございます」  小さく口元だけを上げて形だけの笑顔を向けた自分に、それ以上のことを涌井群司令は言うことは無かった。  背を向けて向かい合った扉に、光が照りつける。熱を受けて少しだけ暖かくなったそのドアを、心持ち丁寧に開いた。

柔らかな温みにほのかな冷たさを含んだ秋の午後の光は、窓から差し込んで庁舎の床に淡白い日だまりを作っていた。  歩を進める自分の靴がたてる音が、こつこつと小さいけれどはっきりとした音の粒になって、自分の耳に届く。「いぶき」に戻ってからの予定を巡らせながら出口に向かって歩く自分にぶつかる視線に気が付いたのはその時だった。  すれ違う職員が、隣を行き交う一瞬にこちらをちらりと見ているような気がした。気のせいだろうかとやり過ごしたが、3人目とすれ違ったところで、足を止めた。  袖口を鼻先に近づける。匂いを嗅いだが布の匂い以外は分からない。  自分のフェロモンの香りは、αを前にして強く香らなければ自分ではなかなか認知出来ない。小さくため息を吐いて、鞄の中からピルケースを取り出した。  視線を寄越される理由が必ずしもそれだとは限らないのは理解していた。先日来の事案後の報道で自分の顔も多少は有名になっている。防衛省の職員なら自分のことを知っている者も多いだろう。だから通りすがりに顔をじろじろと見られても特におかしいとは思わなかった。  けれどそうやって自分の名前が広がるのに連れて、この身体の管理には特に敏感にならねばならないのだろうという思いも強くしていた。自販機で水を買い、奥まった建物の壁際に向かう。  ピルケースから抑制剤を取り出して1錠を飲んだ。過剰摂取の前科があるだけに、量についてはとりわけ厳しく医務官から注意は受けていたが、緊急時の服用は1錠だけなら許されていた。そうして、「発情」の周期が近いということも理由にはなる。水で飲み下して、細く長い呼吸をする。  首の奥がちりと痛んだ気がして、辺りを少しだけ見回してから、ネクタイを緩めた。襟のボタンを一つだけ外して、首の後ろ、襟足のかかる項の部分に手のひら全体で触れる。  ちぎれて落ちた「チョーカー」はもう身につけていない。  細いチェーンの感触は、彼に護身用にと手渡されたネックレスの鎖のものだった。人差し指で絡めるようにそのチェーンに触れてから、項に付いたその傷の感触を確かめる。

『新波さん。  あまり喜ばしいことではありませんね』  そう戸惑うような苦い顔を浮かべて医師がこちらに向き直ったのを思い出した。

『ここまで安定して『発情』もコントロール出来ていたのですが。・・・ずいぶんと波形が乱れていますね』  心当たりはありますかと問われて、医師に隠し立てしたところで仕方がないと、事の経緯を話した。  電子カルテに記載された自分のバイオリズムはある日を境に高低差の乱れた不安定な波形を示し始めていた。それは尖閣の事案が起きた日ではなく、あの日、秋津竜太に自分の身体を預けようとしたその日だった。 『あんたの、望むことが知りたい』  迷いに迷って自分を差し出そうとした。「番」になることで身体に変化が起き、「発情」が無くなり自由になれることをわずかに期待して。そうしてそれだけではなくて、自分を守ろうとする彼が望むことが自分と「番」になることなら、そうしようと覚悟して。  結果として彼は自分の項を噛み、そこで「番」の関係は成立していたはずだった。 『『発情』もまだ周期的に起きていますし、数値も日によって大きく乱れている。『番』を結んだΩの状態とは言い難い』  いわゆる、望まない「番」の関わりを繋いでしまったΩの状態とよく似ているのだと、医師はそう言った。  お互いに明確な同意がなく「番」になっても数値が安定するΩが大半だが、稀にこういった「番」にありながら「発情」が収まらないケースがあるのだというのは、前にも聞いていた。自分がそのケースに当てはまるとは思ってもみなかったが、どうやらその状態に近いと医師の彼は言葉を重ねた。 『Ω本人の元々の健康状態やメンタル、環境にも左右はされますが。』  強いストレスを感じる環境に身を置くこともそれを助長したのかもしれないと付け加える。彼とのことが起きたあと、そのまま雪崩こむように尖閣での事案が発生したことも、要因の一つかもしれなかった。

緊張を強いられる状態に常に晒されていたのは間違いない。けれどそれだけが原因でないことも、自分には分かっている。  自分の項を噛んだ彼、秋津竜太がαの中でも珍しいとされる「変異性α」であることを医師に告げようとしたが、口の中でそれを留めた。  個体数の少なさと、突出した能力と相反した激しく暴力的な特性から、「変異性α」は厳重に個体数を管理されていると聞いた。一部の研究者だけが詳細を知るその「変異性α」の彼のことを軽々しく言ってしまうのに躊躇があった。  底の無い暗い一色の闇のような色を宿した、彼の瞳を思い出して、ふるりと首筋が泡立つ。  指先で項の傷痕に触れる。強く、出血するほどに食いつかれ噛みつかれたその痕は、未だ消えることは無かった。

『あなたを、食い殺してしまう』  あの時、心から命を奪われるかもしれないという恐怖に晒された。 「番」になることへの淡い望みも期待も霧散したあの瞬間のことを思い出す。 「番」になることは安定した精神状態を作ることで、穏やかな心の結びつきがフェロモンの表出のリズムを整えるのだとこの医師の彼は言った。 「発情」が収まるメカニズムが本当にそうなのだとしたら、自分が遭遇したその事態は、それとはかけ離れているのは間違いないのだろうと思った。

『ーーーーしかし、あなたの場合は『番』になった状態のバイオリズムも示す日もある』 『え?』 『『巣作り(ネスティング)』。『番』の匂いのする物を身に着けたり集めたりしていませんか』 『いや、そんなことは、・・・・・』  そこまで言って、自分の首筋にかかるそのネックレスのことに思い当たる。  指先だけで服の奥、胸元にかかるそのシルバーのネックレスに触れた。冷えた感触は馴染むようにそこにあって、最初あれほど抵抗があったそれを身に着けることに対して、今全く疑問を抱かないのは事実だった。  答えあぐねて曖昧な表情を浮かべた自分に、医師の彼は深くそのことを追及しようとはしなかった。 『・・・・』 『『発情』は収まらないが、『番』は受け入れようとしている。けして『番』であることを身体が拒んでいるわけでもないのでしょう。  だが、あなた自身の心が納得していない。今、あなたはとてもちぐはぐな状態ではありませんか。心と身体が合致しないような。  その不安定さが今のあなたの身体の状態を乱しているのだと思います』 『・・・・そうですか』 『元の安定した状態に戻すには、『番』を解除するか、その『番』ともう一度、きちんと納得出来る形で『番』を結び直すことですが。  一度結んだ『番』を解除することは、解決法として現実的ではない。命の危険を伴うからです。』 『ええ』 『・・・・あなた自身が望んだ形での繋がりではないのかもしれないが、今あなたの『番』をどうすることも出来ないのなら。投薬で『発情』をコントロールする。現状維持が最善かもしれませんね』 『・・・・はい』

投薬量の調整と、可能な限りの休息と体調管理を念押ししてきた医師の彼の言葉を、自分に言い聞かせるように口の中で転がす。  まだ半分以上が残っているペットボトルの水を、こくりともう一口飲み下した。  いつもよりも暖かい今日は、黒く厚い制服を着ていると汗ばむほどだ。ネクタイごと緩めた襟元に、もう一度自分の手をあてがう。  鎖骨から項へ。指先で肌を撫でるようにして、その傷痕に丁寧に触れた。  歪な膨らみを残したようなその傷痕が、指の腹を刺激する。噛みつかれたあの時の熱と痛みがよみがえって、確かに恐怖は残っているというのに、じわりと甘く痺れた感覚が伝わってくるのが分かった。  奥で熱を持ち始める自分の身体の内部の変化に、歯噛みする。否応なしに湧き上がる情欲が溶けて染み入るようなその感覚に、頭を振って冷静さを取り戻そうとする。  吐いた息は知らぬ間に熱くなっていた。

『拒んでください。新波さん』

声音は低く落ち着いて、けれど皮膚を切り裂いて叫ぶような声だった。  あれは、彼の救いを求める声ではなかったか。それを拾うことも出来ず手をこまねいているのは自分だ。 「番」になれば、ほんのわずかでも自由になれると思っていた。救われるのだと思っていた。  けれど残ったのは後悔と落胆ばかりで、思い描いていた場所とは違う所で、今の自分はただ立ち尽くしているだけだ。

『大切な人がいるのなら。あなたはその人のために生きなければいけない』  彼のために生きようと、迷いながらも一度は決めた。  けれど、彼のために生きると決めて選んだ道は先の見えない闇の中に沈み込んで、何も救われることは無く、何を救うことも出来なかった。

『私は、『変異性α』だ』

『『変異性α』であることは、防衛省でも上の一部の人間しか知り得ない機密だ。・・・涌井群司令も、このことはご存知ではない』  艦長室で二人向き合う。静かで低い、静寂に纏わりつくような機械音だけがその部屋を支配していた。項の痛みは熱を持ったままで、出血は治まったが赤黒い痣になりかかっているその場所を覆いながら、彼の声に耳を傾けた。  伏せていた目を彼はこちらへ向ける。傷痕を気遣うかのように首筋に視線を動かすと、彼は小さく顔を歪めた。返す言葉もなく見つめ合う時間が数秒ほど続いた。そうしておもむろに、彼は手の甲を自分の目の前に差し出して来た。  右の手の甲の中心部に、火傷の痕のような小さな赤い痣があった。その右手の甲には覚えがある。視線を彼の顔に戻した。 『『変異性α』は、他のΩやαとは違って、指定された研究機関でその個体数を独自に管理されている。  遺伝子解析で『変異性α』であることが判明したら、管理用のマイクロチップを埋め込まれて、その後の行動は全て、研究のために把握されることになる』 『・・・・・』  彼はそう言って、右手の甲のその傷を指先で撫でた。 『私はこれを、両親とドイツにいる時に埋められた』  彼は何かを思い出すかのように目を一瞬細めた。

『日本と違って、ドイツでは『第二性』についての調査は比較的早いうちに行われる。  純粋なドイツ国民ではない、駐在員とその家族である私にその権利はなかったが。『第二性』に興味を持った両親が自費で遺伝子解析を依頼したのがきっかけだった。』 『・・・・』 『・・・よもや、自分の息子がΩよりも希少性の高い『変異性α』であるとは思っていなかったようだが』 彼はそう言うと、痕の残る右手を膝の上に置いた。そうして口を開く。 『『変異性α』は世界でもごく少数の種だ。  故に『変異性α』の情報は統一された規格でまとめられ、全世界で共有されている。漏れなく、全て。』  あの時、彼の前で「発情」した姿を見せてしまった時のことを思い出す。濡れた頬を柔らかに撫でた包帯に包まれた右手の温度がよみがえった。  その手の奥には、自分も想像出来ないような事実が隠されていた。そのことに、次の言葉を継ぐ事ができないでいた。  彼は言葉を重ねた。 『それは、『変異性α』の高い能力を管理し、有効かつ効率的に活用するためだ』

『・・・・そうしていざという時には。  世界の秩序を脅かすかもしれないその特性を、封じ込めるためでもある。』

『一生を通して、『変異性α』は監視され生きる運命にある』 『・・・・、』 『新波二佐』  膝の上で右手を握り締める。引き攣れたようなその紅い痕を空いた手で覆って、彼は目を伏せた。  そうしてしばらく逡巡するように黙り込んだ後、ゆっくりと彼は顔を上げた。  こちらを見つめる視線に、あの日の、引きずり込まれてしまいそうになる闇は翳りも無い。ただ水分を多く含んだような膜に覆われた錆色の瞳が、自分の姿をゆらりと頼りなげに映している。 『このことはここだけでの話にしておいて欲しい。・・・私が、『変異性α』であることは』 『・・・・なぜ』  理由など意味の無い問いである気がした。Ωに、なぜΩなのかと問う位には。それでも尋ねることを止めることが出来なかった。  彼は少しだけ息を吸うような仕草を見せて、答えてくる。 『『変異性α』は、突出した能力の代わりに、強い衝動性と暴力性を持ち合わせた種だ。  その性が判明したときから、抑制剤を飲んで、その衝動性を可能な限り抑えて過ごしている。』 『・・・・』 『個体数がごく少数であるせいで、研究もろくに進んではいない。特性が発露するタイミングも、その結果どうなるのかも、その個体ごとに差があり過ぎて、規則性を導き出すことは未だ出来ていない。  いつ爆発するか分からない、そうして解除装置があるかどうかも分からない爆弾を、体内に常に抱えているようなものだ。  ・・・・そんな人間が、武器を装備として持つ艦艇に乗り組み続けることは、この国の防衛にとって大きなリスクになるだろう』  彼の抑揚の無い調子の言葉は、静寂に染み入るように艦長室の壁に反響する。彼は続けた。 『常に監視されていること、強く抑制されていることを担保にして、私は今、この『いぶき』に乗り組むことを許されている。  しかし、『変異性α』であることが広く知られることになれば、『いぶき』に乗り続けることはおそらく困難になる。  ・・・私にはまだ、この場所でやるべきことがある。それを放って、道半ばで去ることは出来ない』 『・・・、』 『・・・・新波二佐、あなたとも。』 『、?』

『あの極限の状態を乗り越え、過ごしたあなたとも。  ーーーー『いぶき』艦長として。まだもうしばらく、共に歩みたいと思っている』

彼はそう言ってひとつ息を長く吐くと、やがてこちらに向かって控えめな笑みを向けて来た。  口元をわずかに上げるだけの微笑みには、あの闇は見えなくとも、光が見えるわけでもない。ただ平坦な色だけが、そこから滲み出ていた。 『艦長として、ですか』 『・・・・』 『『艦長として』。私と共に歩みたいと』  自分の意思に反して零れた言葉に、彼がぴくりと、眉だけを動かしたのが分かった。  足元に落としていた視線を上げた。自分がどんな表情を浮かべていたのかは分からないが、じくりと底で痛んで、ひびが小さく入ったような自分のその感情は、顔にしっかりと出ているのだろう。  無表情を貫いていたはずの彼の顔に、苦いものが浮かぶのが分かる。 『・・・・あなたに、言えた義理でないのは、百も承知だ』 『・・・・』 『あなたに、苦痛を与えることになってしまった』

『私は、自分の衝動を抑えられなかった。  ・・・あなたの了解も取らず、あなたを『番』にしてしまった』  彼はそう絞り出すように言うと、真正面を見据えていたその視線を一瞬だけ逸した。 『あなたの希望を聞くこともなく、自分の欲を貫いてしまった。  あなたが望まない限りは、『番』を結ぶことはないと、約束をしたのに』 『・・・・』 『己の熱と狂気に負けたのは、私だ』

『あなたの分も、あなたの痛みを背負うと言ったのに、  ・・・・・逆に、背負わせてしまうことになった』

『秋津』 『申し訳ありません、新波さん』  彼はそう言って、頭を下げた。揺らいだ空気に、微かに花の香が漂う。  その空気は首筋を辿って、まだ小さく鈍い痛みを訴える項の傷を柔らかに撫でた。それよりも痛むのは項の傷ではなくて、自分の中で点り始めて抑えられなくなっているひとつの感情だった。  喉元が何かで引っかかったように、息が詰まる。温度を上げた、中の熱がせり上がって外へ出ようとする。  その温度は肌を透過して、胸元で小さく揺れるネックレスに少しずつ移っていくような気がした。彼に気づかれないように布ごと、そのネックレスを握り込んだ。  自分の周りで密やかに空気に混じる甘い香りが、濃くなったような気がした。そして、花の香に絡み付くように、ひときわ甘く濃いイランイランの香りが漂い始める。それは瞬く間に自分を中心にして、艦長室の空気を熱を帯びた湿ったものに変えていった。  身体の奥で、中心を締め付けるような切なげな感覚が小さく疼いて湧き立つ。それをやり過ごして、小さく息を吐いた。こくりと唾を飲んで、彼を見据えた。 『どうして謝るんだ』 『・・・・・。それは、あなたに。望まない『番』を強引に結ばせたからだ。  『番』は簡単には解除出来ない。あなたの生き方を私が狭める結果になった。  それは、あなたの望むことではないだろう』 『望まない?』 『ええ』 『それは、俺のことか?』 『・・・・』

『『望まない』のは、誰だ。俺なのか、それとも。・・・・・あんたなのか』 『・・・・新波さん』

『・・・・俺がそれを、望んでいると、したら』

椅子から立ち上がった彼が歩を進める、靴と床が擦れる音が、わずかに響く。  近くなった距離で、彼が、その右手の指先を頬に近づけるのが分かった。一瞬、びくりと肩を震わせたのを見逃さなかったのだろう。座ったままで見上げた彼の表情が、苦々しげに小さく歪んで、そうして唇にわずかな自嘲の笑みを引くのが分かった。  柔らかな指の腹が、頬骨の辺りから、唇に向かって肌をなぞる。指先からも、身体を酔わせるような甘い香りが滲み出ている。それは触れた肌を通して、中で波立ち始める熱を刺激する。自分も同じことなのだろうと思った。 『身体は『番』を受け入れようとしている』  医師の彼がそう言った、その言葉を口の中でだけ繰り返した。  彼の指は順繰りに、その肌の温度を確かめるように頬を撫で続ける。蠢く欲と、それを自制しようとする痛みを同時に溶かしたような目の色が自分を捉えて離さない。  吐いた息が熱を帯びて、彼の呼吸の音と混じり合うような気がした。  彼の指はゆっくりと顎先を辿り、やがて首筋から伸びる鎖骨を撫でる。細い銀色の鎖を指に絡めて遊ぶようにしばらく触れてから、その指は項に触れた。 『・・・・・、』  出来たばかりの傷に薬を無理やり塗り込むような、ぴりとした痛みが首筋に広がった。その痛みに、顔がわずかに歪むのを隠すことが出来ずにいた。  触れた首筋を支えるようにして、彼が肩口から唇を寄せる。 『・・・・、ん・・・・』  漏れ出る声は、自分のものでないように、遠くの鳥の声のように聴こえる。  傷口を癒やそうとするかのように、柔らかに彼は、その項の傷に口づけた。何度か触れて離してを繰り返すと、彼は再び頬に、ゆるやかに指先を添えた。  甘やかな花の香りが充満したその場所からは、通奏低音のように響いていた機械の音も拭われていた。

『・・・・『変異性α』は、生涯限られた人数としか、『番』を結ばない』 『・・・・秋津』 『『番』にすると決めた者にしか『発情』しないと言われています』 『・・・・』 『けれど、『番』にした者には、異常に執着して依存する』

『自分の内に半永久的に取り込んでおくために、  ・・・・・・最終的には、その『番』の命さえも奪う』

お互いの香りが溶けて一つになるように、温度の境目が失われていく。  重なった唇の感触は、身体全体に広がる。満たされていくような、それでいて何かを徐々に奪われていくようなそんな感覚だった。  鼻先が触れて、彼のさせる香りが、頭の芯を揺らした。手も足も、細胞全てが、自分では制御出来ない場所へ向かおうとする。指先を伸ばして、彼の首筋に巻き付けた。骨と筋肉の感覚が、伝わってくる。  頬に添えられていた指先が、耳朶を撫でる。その心地よさに背が震える。  あの日重ねた身体の熱さや、濡れた中の感覚がよみがえって、縮こまっていた中心の部分が、じわりと緩み始めるのが分かった。水分を湛え始めた奥の感触に身震いをする。  あれほどまでに嫌悪して憎んでいたはずの自分の身体の変化を、許すことさえも厭わない自分の感情の変化に、背筋が冷えた。  それが、『番』になるということなのか。自分がこれを、望んでいたということなのか。  ーーーーーーそうしてそれが、己の性を、受け入れることだというのだろうか。

求めていたのか、本当は。  彼のことを。その熱を、・・・・始めから。

薄く開いた隙間から舌を差し入れようとしたところで、彼の指先が、胸元を軽く押すのが分かった。ゆっくりと、一瞬一瞬がスローモーションになるように、彼の唇が離れる。  濡れた自分の目元の湿り気は自分でも分かる。足りないと貪るような欲に支配されかけていた頭が、ひんやりと温度を下げていく。

『新波さん』  彼の声は低く穏やかで、けれどそれはどこかひどく傷ついているようにも思えた。 『・・・・・構わない』 『・・・・』 『俺は、・・・・・奪われても』  濃く部屋を染めていた花の香りが、少しずつ波が引くように、彼方へ遠のいていくのが分かる。

『奪われても、構わない。 ・・・・・それが、あんたを救うことなら』

『・・・・・あなたならば、そう言うのだろうな』 『秋津』 『私のことを知ればそう言うだろうと。・・・それは、分かっていた』  彼は小さく呟いた。その声の響きに、胸を掴むような熱はもう感じられなかった。  頬に触れていた指先が、最後の愛おしさを刻みつけるように、分からないほどにその力を強めた。心臓を押し潰すような痛みは、誰のものかを考えることが出来なかった。 花の香りは、もうしない。溶け合うことも無い。 『けれど私はあなたを、奪いたくはない。』

『・・・・・それは、私の望みではないから』

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