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※R18性描写があります。 ※ドラマ「エンジェルフライト」2話とうっすらクロスオーバーしています。観ていなくても読めます。 ※生死に関わる話も出てきますのでご注意ください。

空は希望だ。

翼が空を切り開く。  機首を上げ雲を割る、そうして青一色の空の彼方へ白い翼は溶ける、その瞬間が好きだった。  飛び立つ地への期待と、降り立つ地への希望に満ちる。むろんそれだけでないことも知っている。その翼に、負いきれないほどの絶望と悲しみを託す人々もいる。その空へ、もう会えないいなくなってしまった愛しい存在を重ねて、消えてしまいたいと願う人がいることも、知っている。  それでもと、祈るのだ。  濁り無い青い空がいつか、その人の傷を包み、癒やす空になるようにと。  愛おしいあの人がいる空だと、思えるようにと。

そうして、翼を送り出す自分の両手と、スラストレバーを持つ彼の両手がひとつになって。

痛みに暮れる人を、希望の空へ引き上げる。  ――今日の日が、その日になるようにと。

「……『エンジェルハース』……?」

おそらく社員証なのだろうそのIDカードに印字された社名を小さく独り言のように呟いた。  自分の目の前の彼女に聞こえるように言ったつもりだったが、彼女は空を見上げたまま、こちらの気配にさえ気が付かない様子だった。  見上げる先の空へ、銀色の機体が鋭く空気を裂く音を響かせながら飛び立っていく。朝のラッシュをちょうど迎えたばかりの羽田、東京国際空港第3ターミナルバス停前はスーツケースを抱えた人々や、空港内職員らしき人々で数珠つなぎになって混雑していた。手元の携帯の画面に視線を落としている人間ばかりの中で、その青い空を一心不乱と例えてもいいほどに長い時間、ただ見つめている彼女の姿はどこか異質なもののように思えた。  大きな黄色いリュックを抱えて、上下はリクルートスーツに身を包んでいる。時期が時期だからどこかの会社の新入社員なのかもしれない。カリカリとした華奢な体つきに、化粧っ気のない顔と丸いショートの髪はまるで少年のいでたちのようにも思える。伸びた前髪の隙間からのぞく睫毛の長い瞳は上向いて、そうしてまた、数分もせずに離陸する機体の腹を空の彼方へ消えるまで見送っていた。 「……これ、落とされましたよ」 「……あ、えっ?」  考えあぐねてようやく声をかけた自分の顔と手元を交互に見比べて、彼女ははっとしたように頬を少し赤くした。社員証を落としていたことに、ようやく気が付いたらしい。愛想笑いはそこまで得意でないが警戒させるつもりはないから、小さく口元だけで微笑んで彼女の目の前にそのIDカードホルダーを差し出した。 「あ、ありがとうございます」  彼女はそう面映そうに、そうしてこちらを窺うように上目遣いで見つめながら、自分の社員証を受け取った。そうして、慌ててスーツのポケットにそれを突っ込む。  ごう、と機体が空を切る音が大きく聴こえる。  横切った機体はジャパンエアーのナナハチだった。そう言えば早朝からのフライトがあるのだと、夜も明けきらない時刻に部屋を出ていった彼の姿を思い起こした。  こちらを起こさないようにと気を遣っているつもりなのだろうが、どうしても隣でさわさわと動く空気に目は覚めてしまう。寝ぼけた意識の中で感じた名残惜しげに自分の髪を梳く指の感触と、唇を掠めた短かなキスの余韻は、まだほんのわずかに残っていた。今回のフライトも遠方で、現地でステイだと聞いていた。その後も国際線への乗務が続き、次会うのはおそらく10日ほど後のことだと思っていた。 「……飛行機が、好きですか」 「……え?」  彼女は自分が羽田空港の管制塔に勤める管制官だとは知る由もない。だからその問いはどこぞの壮年男性からの妙な質問にしか思えないだろう。彼女は訝しげにこちらを窺い見た後、小さくため息を吐いて、言葉を口元で濁すように小さな声で答えてきた。

「……好きというか」 「?」

「……今日もあの飛行機には、ご遺体が乗っているんだろうなあと、思っていただけです」

「ご、遺体……」 「……あ、ああ!すみません変なこと言って!!」  頬を真っ赤にして言い繕うようにばたばたと忙しなく両の手のひらを胸の前で動かしている彼女にどう言葉をかけようかと逡巡している内に、ごう、とエンジン音が聴こえた。停車したのは羽田国内線第1ターミナルへの連絡バスだ。 「あ、ありがとうございました」 「ええ、……」  この場を離れたいという空気をありありと漂わせて、彼女は軽く会釈をこちらへ返した後バスに乗り込む。そうして同じように乗り込んだ人々の波にわざとらしく紛れて隠れてしまった。乗客をすし詰めにしたターミナルへの連絡バスは、重そうな空気音をさせて扉を閉じて、発車する。  詮索するつもりもないけれど何か彼女にとって気まずい質問をしてしまったのかもしれなかった。後悔してももう遅い。小さな背に不釣り合いな大きな黄色いリュックと、鎧のようにきっちりと着込んだ黒い上下のスーツは、彼女が周囲に張り巡らせた厚いバリアのようなものなのだろうか。  喪服のようだなと一瞬思ったのは、「ご遺体」という彼女の放った一言と、その黒の持つイメージが重なったのもあるだろう。  エンジェルハース、おそらく降りる頃には膨大な管制業務を整理する脳内の片隅にその社名は追いやられてしまうのだろうと、流れ出した外の景色に視線を送った。      迷いなく高度を上げ、その機影はどこかへの空へ向けてみるみる内に小さくなっていく。 『Good day.』  声にならない呟きを舌の上で転がしながら、窓に背を預けて少しだけ目を閉じた。東からの朝の光が、まるで天の恵みかのように、車内に眩しく射し込んで来る。それは予兆だったのかもしれない。

「昇任ですか」 「まあ、無理にとは言わんがね」

ざわめきが去った会議室の一角で、椅子の背もたれにゆったりと背を預けた涌井次席がこちらを見て微笑んだ。手には先程のブリーフィングで出されたコーヒーの紙カップがある。  先発チームとの交替まであとわずかだった。清家や蕪木は既にタワーへ上がっている。 「君も主幹になって長いだろう。そろそろステップアップも考えてみていいんじゃないかと思ってな」  ブラインドカーテンの隙間から、光と影がボーダーのように陰影を床に形作っていた。思ってもみなかったその話に、咄嗟に返す言葉はなかった。  羽田に来て1年と半年ほどが経とうとしていた。主幹管制官としての経験は長いが、羽田に戻ってきてからの期間は短い。まだ勝手が分からずにいる部分も無いとは言えなかった。けれど2分に1機が離着陸を繰り返すこの巨大空港の管制を統括する立場になることがどういうことなのかはけして分からないではない。 「なぜ私が」 「そりゃ君、優秀だからだよ」  涌井次席はそう前のめりになるように身体を起こす。そうして今度は、にやりと笑った。 「ここ最近は優秀な者ほど出世欲が無いというか、管理職なんて貧乏くじを引きたくないって奴ばかりだからな。まあ確かに、激務の割には天下りもさせてもらえんし、公務員の薄給じゃ割に合わない側面もあるだろう。  だから辞めちまうか外部に流れてしまう前に優秀な人材は積極的に囲い込んじまおうっていう、上の思惑だよ」 「……そんなことを言われて、あえて上級職になろうという人間はいないのでは……」 「はは、そりゃそうだなあ」  がはは、と豪胆に笑う涌井次席の目尻に深い皺が寄る。彼ももう次席になって長いことを思い出した。  涌井次席との付き合いは長い。勤務地が何度か重なったこともあるが、自分が訓練生だった頃からの理解ある上司だった。宮崎でパイロットとの一件があった時にも、いの一番に羽田で新波を引き受けると申し出てくれたのも彼だった。管制の技術もさることながら、その温かい人柄に自分は救われてきた。自分がもし管制官を束ねる立場になるなら、彼のようになりたいと思う人物の一人ではある。 「まあ、それは冗談だとしてもだ。私もそろそろ引退だしな。安心して後を任せられる人間がいてくれればとは思うんだ」  涌井次席はそう言って、少しだけ視線を遠くに流してからこちらに向き直った。 「私にとってそれは君だよ、新波くん」 「……」 「それとも何か、躊躇うような理由でも?」 「……いえ」  言い淀んでしまった自分の秘めた感情の詳細は彼には伝わらないだろう。けれどすぐに乗り気になれないでいることに涌井次席は気が付いているようだった。申し訳無いとは思う。本来なら、光栄過ぎるほどの期待を受けて、即答してもいい事柄なのだろう。けれどそれが出来ないでいる。  上級管理職になるならば、面談などの審査を受けなければならない。その後しばらく宮城での研修を受け、羽田ではない勤務地で経験を積む必要もある。  羽田に一生戻れないわけではない。けれどいったんこの地を離れなければならないのは間違いなかった。  言葉を継げないでいる自分の姿を、涌井次席は不可解な面持ちで見つめていた。けれどその目に、暴いたり晒してやろうという空気は滲まなかった。

『――歳也さん』  耳元で愛おしげに自分の名前を呼ぶ彼の低く甘い声がよみがえる。  何百人もの命を負って飛び立つ、しっかりとしたその操縦桿を握る指が自分の肌を柔く撫でて、腕が背に回る。離さないとばかりに抱きしめて、頬を擦り寄せてくる。 『好きです、歳也さん』  恥じらいも無く心を刺してくるその言葉に抗うことが出来ない。凛とした硬質なパイロットとしての「声」と、二人だけ触れ合う場所で聴くその甘怠い「声」が、自分の心の中で交差して、どうしようもなくそれはまるで乱気流《ウインドシア》のように感情を揺さぶって来る。  好きだ、と呟いてしまう。竜太、俺も好きだと。  痛みとも熱ともつかない感覚がせり上がって、胸が痛んだ。足元に視線を落として、少しだけ息を吐いた。

「……急がないから、考えておいてくれないか」  これ以上話をしても、すぐに色よい回答は得られないと判断したのだろう、けれど答えを得られないことに不満な様子を見せるわけでもなく、涌井次席はこちらを見てやんわりと笑んだ。 「はい」 「まあ、色々あるだろうしな。君が一番、今の自分にとって最善だと思う道を選べばいい」 「次席」 「迷うのは自由だ。君を上に、というのはあくまで私の希望で、君の都合は私がどうこう言うことではないからな」  涌井次席は何かを思い出すように懐かしげに、そうして少しだけ寂しげに目を細める。  一瞬、ゆっくりと時が止まるような感覚がしたのは、春の近い気候のせいもあるのかもしれない。燦々と光の射す窓へゆるりと視線を送って、そうして肩の力をわずかに抜いて、次席は背もたれに体重を深く預ける素振りを見せた。きし、とオフィスチェアの金具が軋む音が春先の澄んだ色をはらむ空気を揺らす。何かを飲み込むかのように涌井次席は一瞬目を伏せてから、こちらへ視線を戻して、柔らかに笑んだ。

「――何を選んでも。君の選ぶ道が、君の歩む道だ」

『ANA375 Tokyo tower.Good morning.RWY34R at C5 Line up and wait.』 『RWY34R at C5 Line up and wait.ANA375.』 『ANA693K contact departure.』

『Have a nice flight.Good day.』

「――まあ、大事なモンは、大事に出来るときに大事にしとけってことだよ、新波」 「……何だ藪から棒に。清家」 「いつ失っても、おかしくないんだからな」 「……」 「お前は特に。離着陸が得意でも、高度を維持するのが下手だから」  そう言って含んだ視線を隣から送ってくるのは、航空保安大学校からの腐れ縁の同期、清家だった。  きっちりと整えられた主張するような口髭と、長年スポーツで鍛えたというしっかりとした肩口の筋肉が印象的なその同期は、湯気の立つコーヒーが入ったカップに口を付けて一口飲み下すと、ふ、と息を吐いた。燻した香ばしい香りが休憩室に漂う。テーブルに添えられた一輪挿しに飾られた水仙が、ほのかな香りを放っていた。  羽田は午後の比較的ゆったりとした時間を迎えていた。今タワーには蕪木と栗田が詰めている。ひと息入れた後に、清家と共にターミナルレーダー室へ入ることになっていた。怪訝な表情を崩さない自分に、清家は言葉を継ぐ。 「昇任するんだろ」 「……もう、そんな話が回ってるのか?」 「この時期に涌井さんとお前が話すことなんて大体決まってんだろうが。他の奴の人事か自分の進退どっちかだろ」 「……」 「涌井さんも今年で引退だろ?昔から可愛がってるお前に後を託そうとしてんじゃねえのかと思ってさ」 「……そうだな」 「で、どうしてお前はそんな、浮かない顔をしてるんだろうな?」  自分のプライベートのことを、この同期にことさらに語ってきたことはない。副操縦士の彼のことも一切話したことは無かった。けれど長く積み重ねた時間と、同期のこの優秀な管制官の勘が、全てを知っていると物語っているような気もしていた。  自分が何に迷っているのか、どことなく感じ取ってはいるのだろう。こちらを少し呆れたように見つめる目は、けして馬鹿にしたようなものではない。

「羽田に心残りでもあるか?」 「、……」 「仕事じゃない、何かで」

「清家」 「……昇任するとなったらいったん異動は避けられない道だからな」  図星かという笑みを、清家は口の端に浮かべた。 「まず昇任が決まったら宮城で研修だ。そのあとの配属先だって、離島ってことは無いだろうが、こればっかりは人事パズルのどこにはまるかで決まるからな。羽田に戻って来られる時期も不確定なら、相手に約束もしにくいよな。だからすぐに決めきれないんだろ」  懸念をそのまま口にされては、返す言葉も無い。答えることはせずに視線を下に落とした自分を、清家は無理に口を割らせようとはしなかった。こくりと喉の上下する音がして、それはコーヒーをまた一口飲んだ清家がさせたものなのか、それとも自分が言葉を飲み込んだ音なのかは判断がつかなかった。カップのコーヒーの湯気はしばらくするうち、うっすらと消えて無くなった。カップの温もりも次第に冷えていく。  清家は小さな微笑みを浮かべたまま、言葉を続ける。

「……迷うのは悪いことじゃないんだぞ、新波」 「……」 「それだけ、お前には大事なもの、捨てたくないものが増えたってことなんだから。迷えばいいと思うよ」

「……そうか」 「仕事に人生を捧げるのを否定はしないが、それが全てじゃないってのはお前だってもう分かるだろ。  大事なものはひとつじゃなくていい。人生の節目節目で大事なものが変わるなんてのはよくあることだ。そうやって迷って選んで、人は生きていく。帳尻が合うのは、人生の最期だよ」 「……」

「――――だから、離すなよ。新波」

「空はひとつだ。離れても、いつかは繋がる。しがみつかなくても、そこにある」 「……」 「でもお前が今掴んでるものは、お前にしかないものだろ?」 「清家」 「お前が出世するのが憎いんじゃないぞ。お前は簡単に空のために自分含めた色んなモンを捨てちまうから。心配してるってことだよ」 「……」 「だからちゃんと、考えて答え出せ」  そこまで言って清家はカップのコーヒーを飲み干した。そうして先に上ると肩を叩く。節ばった厚い手のひらの感触がシャツとカーディガンの布越しに伝わった。そこに込められた腐れ縁の愛しい同期の思いに気が付かない自分ではない。  どんな選択をしても、この同期ならば何も言わないのだろう。それは自己責任だとこちらに押し付けるというのではない。出した答えを最大限に尊重しようとする、誠実な姿勢なのだということは分かる。 「清家」 「……何だよ」 「すまないな」 「そこはありがとうだろ。……ほんとに、お前は」  呆れたように肩をわざとらしく竦めて、同期の彼は軽く片手を上げて踵を返した。大きな背が遠のくのを見送って、自分も、カップの中身を空にする。冷めたほのかな苦味が喉を湿らせた。  レーダー室へ足を向けたところでポケットの中の携帯が震えた。どことなく予感めいたものを感じて、頭の中で彼のフライトに関わるカレンダーを巡らせる。そうして画面を開いた。  送信元は予想した通りの相手で、文字からでも、彼の姿はうっすらと想像出来た。その文面を声に出さずに読み上げる。とくりと胸の片隅が波打って、じわりと染みるように肌が熱を孕むのが分かった。

『今羽田に着きました。今日は部屋に帰っておいていいですか』

この部屋に越して来たそもそもの目的は、都内に住む自分の部屋に通っていた彼の負担を減らすことだった。  彼は空港に程近い独身者用の借り上げマンションの一室を住まいにしていた。今も長距離フライトのある前日はそちらの方が近いからと帰ることはある。けれどそれ以外のほとんどの日をこちらの自分の部屋で過ごしていた。  もともと運び込んだ荷物のうち3分の1ほどは彼の物だった。彼の物が増えていくことに疑問は抱かなかった。そのつもりで借りたのだから当然だ。  けれど一緒に住もうとお互いに言ったことはなかった。住所を同じくすることによるデメリットはお互いに理解していた。職場への説明もややこしくなるだろうし、何より、自分たちのような人間が一緒に住むにあたっては、契約上色々と制限が多いのだということも聞いた。  引っ越すのはこちらの一方的な意志だという思いがあったし、彼の負担を減らすつもりで決めたことでかえって負担を増やすようなことがあってはいけないと思っていた。同じ部屋で時間を過ごしている、その事実に変わりがなければ必ずしも形にこだわることはないと、言葉にはしないがお互いに自分を納得させているところはあった。  お互いの鍵の置き場所になっている、チェストに置いたシンプルなジュエリートレイを横目で見遣る。海の守り神とされる「ホヌ」と、彼の操縦するボーイング787、通称「ナナハチ」のキーリングが頭を寄せ合うように置かれていた。リビングのハンガーには明日のフライト用に整えられた彼の副操縦士の制服がかけられている。薄く開けた窓から春先の温く湿った夜風が入り込んだ。わずかに揺らいだ室内の空気に、そこかしこの彼の気配が混じって、漂う。

「……竜太」  返答が無いことを確かめて、ソファに身体を預けた彼の前に回り込んだ。彼は少し俯き加減になって、目を閉じていた。膝の上の厚いテキストが落ちかけているのに気付いてそれを手に取る。開いていたページにカバーの端を挟み込み、ローテーブルに置いた。  顔を近づけるとすうという寝息が聞こえて、ふるりと長い睫毛が小さく震えたのが分かった。肩に手を乗せると、スウェット越しでも高くなって湿った肌の温度が伝わってきた。フライト明けで疲れているだろうからと先に風呂に入らせたが、どうやら自分が交替で入っているうちに、彼は眠ってしまったようだった。  湿り気を帯びたままの短く切り揃えた髪に触れた。自分よりもいくばくか薄い色をしたその髪が、ルームランプの灯りに照らされて、艶を増す。指をそっと通して耳元まで撫でるように梳いた。目覚める気配は無く、ん、と小さく彼は声を上げて身動ぎをするだけだった。  隣に腰掛けると、ソファがきしりと音をさせる。飽きずに髪を梳いて、滑らかな頬を指の腹で撫でた。まだ瑞々しさを失わない弾力のある肌は触れるだけで吸い付いてくるようだった。  国内線のラインOJTを行っていた頃は日帰りで帰ってくることが多かった。だからこちらの勤務が不規則でも時間が重なることは多く一緒に過ごす時間も長かったように思う。今彼はそのフライトのほとんどが国際線で、長距離便への搭乗も増えてきていた。休日が重なることは稀で、こうやって夜を過ごす時間はあっても、ゆっくりと話すこともなかなか出来ないでいる。  彼と関わりを結ぶ時にある程度は心づもりしていたが、現実としてすれ違う生活が続くそのリズムに、あまり自分も慣れきっていないと感じていた。  無線越しの彼の「声」ならば毎日のようにタワーで聴くことが出来る。どんなに音が濁っても、彼の「声」は聴き分けられる気がしていた。けれど少しだけ柔らかに自分の名前を呼ぶ「声」は、二人でいる時にしか聴くことが出来ない。  彼の寝顔を覗き込む。唇が触れそうな距離になっても彼は目を覚まさなかった。安堵したような表情をうっすらと浮かべて微睡む彼の姿に、じわりと底から温かい感情が湧き上がるのが分かった。  幸福だと思う。管制という仕事を最優先して色々なものを後回しにしてきた自分が、誰か一人を想って大事にする、そういったことを既に諦めていた自分が、心を許して預けられる存在に出会って共にいることが出来ている。1年以上たった今でも、そのことがにわかに信じ難い。 『離すなよ。新波』  涌井次席や清家に言われたことを思い起こした。昇任の件を、というより羽田を離れる可能性があるということを話せば彼はどんな顔をするのだろうかと、頭の片隅でその想像を巡らせた。

――――離れたくない、なんて。  そう引き留められるほどに彼に必要とされているのか、ずっと確信を持つことは出来なかった。彼に言ったことは無い、けれど今も、表面をなぞるようなその思いを、口に出来ないでいる。

今夜はこのまま熟睡かもな。  一瞬心を掠めた物寂しさには蓋をした。そうして一人ごちて、ブランケットを寝室へ取りに行くつもりで触れていた髪から指先を解く。何の気もなく腰を上げたところで手首を強く引き掴まれて、戻された。ソファに全身が深く沈むのが分かった。 「――――歳也さん」  彼の肌の匂いが濃くなった。背を抱き寄せられる。唐突に起きた予想だにしなかった出来事に、面食らったまま彼の肩口に顔を埋める形で倒れ込んだ。ソファの座面についた片手の力で、きしりとソファが音をたてる。 「りょう、……竜太」 「どこに行くんですか」  耳元で聴こえた「声」に首筋を撫でられているような思いがした。ぞわりと背に熱いものが駆け上がる。 「、……起きてたのか?」 「ええ、少し前からですが」  だったらどうして言わない、そう紡ごうとした言葉は背をひときわ強く抱きしめられて、形にならなかった。  髪に鼻先を埋めて香りを嗅ぐように彼は呼吸を繰り返した。力任せというのではなくきちんと考えてそうしているのだろうが、抱きすくめられた身体は、彼の腕の中で身動きが取れない。  じわじわと奥から熱がせり上がるのが分かる。冬の冷たい夜温かい湯に浸かった時のように、足先が痺れるように温もって、やがて全身にその熱が巡り始める、そんな感覚を覚えた。  顔を合わせるのも久しぶりなら、こうやってスキンシップを取るのも久しぶりのことだと思った。自分が今何を求めているのか、それは自問自答するまでもない。けれど明け透けに出来るほど箍が緩んでいる自覚も無かった。  生存するための本能に簡単に負ける性であるのは自分も同じだ。少し前に、「我慢比べはどちらが強いのか」などと冗談めかして尋ねられたことがあった。あの時は真面目に取り合わなかったが、我慢比べを重ねることが多くなった今、どちらが先に音を上げるのかは判断がつかない。  丹念にその感触を確かめるかのように、彼は髪から耳元へ唇を寄せた。少しかさついた彼の唇はゆっくりと耳朶のラインをなぞって、柔らかな部分を挟み込んだ。吸い上げるようなキスを落とされて、首筋がひとつ大きく震えた。 「……、ん、……ッ」  こらえようとしたけれど、明らかに欲を滲ませただらしない声を漏らしてしまう。それを分かっていたのか、くく、と彼は小さく笑った。 「歳也さん、弱いですねここ。変わらないな」 「、冗談……、っん」  身体を離そうと手で胸元を押したけれど、それは詮無いことだった。彼の腕の力は柔なようで鎖のように強い。ふうっ、と耳の奥に温い息を吐きかけられて、ぶるりと背が震えるのを止められなかった。  熱を集めて疼き始める身体の奥の存在には気が付いている。  背を撫でていた手のひらが徐々に欲を帯びて、明確な意志を持って腰骨から腿、脇から胸元の辺りをさすってくるのが分かる。緩やかで強くも弱くもないその手つきに、かえって潜めて燻らせていた情欲を刺激された。胸元を押し戻そうとしていた手のひらの力を抜く。逃げる意志のないことが伝わったのか、彼も腕の力を緩めて、やんわりと頬を撫でてきた。  弓なりに細められた目の奥には、今にも襲いかからんばかりの獣の色が見え隠れする。けれどそれよりも愛おしさの限りを込めたような穏やかな笑みに胸が痛んだ。欲への焦燥はお互いの身体に点って、けれどそれだけが自分たちの間にあるものでないのだと、言葉無く確かめ合う。 「やっと会えた。『声』じゃなくて。本物の、歳也さんに」 「……」  機械を通した音声ではない、彼の「声」がそこにあった。息遣いと共に耳元をくすぐるその温度のこもった「声」をもう一度、許される限りは聴きたいと、そろそろと腕を背に回して、スウェットの布を握りしめる。     「……竜太」 『Nice controll.Thank you.』 「会いたかった、……歳也さん」

「……ッん、ゃ、あ、もう……」  ぼんやりとする意識で胸元の辺りをまさぐる彼の後頭部に手を添えた。髪を少し掴むと、舌と唇で淫猥な水音をたてて硬くなったその部分を舐っていた顔を、彼はわずかにこちらへ向けた。  赤く腫れぼったくなったその場所の様子ははっきりと視界には捉えられないけれど、どうなっているかは分かる。先ほどからしつこいほどに責め立てられて、指の腹一つ、柔らかに撫でられるだけで足先から頭の先が痺れるような感覚がはしるようになっていた。 「止めて欲しい?」 「……んぁあっ……!」  きゅ、と爪を立てるように引っかかれて、びくりと背を震わせて仰け反らせた。掠れた悲鳴のような自分の喘ぎ声が嫌でも耳に届く。それも自分の中の理性を掻きむしって、引き裂いていくような気がした。 「歳也さん、好きでしょう、ここを触られるの」 「……ぁ、あっ……」 「舐められて、弄られるのが」 「!……ぃ、やっ……だ……っぁ」  かりと歯を立てられて、ぎゅうと抓られると喉の奥がひきつるような声が抑えられずに漏れ出る。触れられていることは辛うじて分かるけれど、どの刺激がどの場所にあるのかはもう考えることも出来なくなっている。もう止めてくれという思いと、いつまでも続けていて欲しいという懇願が入り乱れて、目を閉じて身を捩った。  自分の身体の中心に集まった熱の在処は分かっていて、胸元を蹂躙されるだけでその熱はますます温度を上げて硬くひとつの形になっていくのが分かる。一度許して、緩めてしまった欲望は留めることは叶わない。彼はほんのわずかに物足りなさそうな表情を浮かべたが、赤い舌で唇を湿らせるような仕草を見せると、覆いかぶさっていた身体の位置を動かして、ベッドの上でだらしなく広げた脚に手を添えた。  しゅる、と布の擦れる音は柔らかで優しい。照度を落として灯したナイトランプの光が、汗の滲み始めた自分の肌と、彼の肌を静かに照らす。けれどその上で睦み合う自分と彼の身体は艶めかしく生々しい姿を晒すだけだった。  胸元から脇のラインを指先で撫でながら、腹回りから腰元にかけて彼の唇が丁寧にキスを落とす。触れるだけの口づけの後に、噛みつくような皮膚を強く吸い上げる感覚がして、そのたびにびくびくと背はのたうつ。奥の神経をびりびりと震わされた。爪先にわずかに込めて、気を緩めるだけで弾けてしまいそうな意識を保とうと歯を食いしばる。弱く薄い柔らかな部分に彼の唇が触れると、それも簡単に崩れて、濡れた声を上げるだけになってしまう。 「ぁ、あ……っ……りょう、た……」  肌を撫でていた彼の指先が、硬くなったその中心の部分に触れた。手のひらの中に収めるように握り込まれて、ゆっくりと擦り上げられる。裏の筋を指でなぞって、先の、雫が滲み出た部分をやんわりと押しつぶすように触れてきた。 「っぁ……ッ!」  じわりと熱を押し上げられて、ずしりと腰の辺りが重くなったような気がした。中でそれを吐き出そうと先端に向かってぞわぞわと何かがせり上がる感覚がして、思わず息を詰めた。 「ん、……ッうぅ」  すんでのところで、留められる。快楽を先延ばしにされた焦れる思いを持て余して、ぼやける視界の中で捉えられた彼を小さく睨みつけた。彼はその熱を握り込んだまま唇を重ねてきた。握り込んで動きを封じ込めるような強さとは裏腹に、そのキスは羽根のように、ささやかで、まるで宥めるようだとも思った。 「慌てなくていいでしょう」 「……ぁ」 「歳也さんの『声』を、もっと聴きたい」  またしばらく会えなくなるから。そう耳元で吐息混じりに囁かれて、背が震えるのと同時にぎゅ、と胸が締め付けられる気がした。そう呟く彼の表情は特に悲しむというのでもなく、むしろ言い聞かせるように悟ったようなものにも見えた。  答えようとしたけれど、荒くなるばかりの呼吸に、言葉は掻き消される。行き場を求めてのたうち回るような熱が神経を侵していくようで、制御も満足に出来ない自分の浅ましさにどうしようもない思いがした。 「もっと聴かせてください。……歳也さん」 「……りょう、た、っぁ……」  顎を軽く掬われて、ベールで包むようだったやんわりとしたキスが深くなった。舌先を絡めて、お互いの唾液を交わす。飲み込みきれなかった唾液は口元から溢れて、それを彼は丁寧に、自分の唇で拭った。  ふ、と彼が息を吐いてこちらを見下ろす。染み出すような獣の表情に、踏みしだかれる恍惚を一瞬感じたのは、自分のおぞましい性の部分だと思った。

「あ、はッ……ァあっ……ああっ」  その嬌声が反り立つ熱へ加えられる彼の唇と舌の愛撫から来るのか、それとも奥へ出し入れされる指の刺激から来るのか、それはもう分からなかった。ただ、乱れた気流が頭の中を巡って、心地よさだけが全身を支配していくのは理解出来た。 「っんああっ……ぁ、や、あっ」  ぐち、と生々しい水音が耳元で広がって、それと同時に奥の部分を押し広げられる感覚がした。指先が蠢く感触が熱く、わずかに痛みを伴った異物感は少しずつ受け入れる快楽に変化しつつある。不意に抜かれて、ふっ、と息が漏れた。潤滑剤を足して、もう一度、ぐ、と差し込まれる。 「んぁっ……」 「歳也さん」  口内で弄んでいた熱から唇を離して、彼が耳元でそう囁いてくるのが分かった。わずかにすえた体液の匂いが鼻先を掠めて、それは自分のものであるという恥ずかしさで全身が火照るような思いがした。けれど奥を刺激する指の動きは変わらない。入り込んだその指がやわやわと内壁をさすって時に押し潰すようにするその刺激の緩急に、浅い呼吸で応えるしか出来ない。 「……自分で、準備してくれていましたか」 「……っぇ」 「柔らかくなるのがすぐだった。自分で、触りました?」 「…………」 「もう、溶けている」 「、ひぁ……ッ」  最奥を抉るように指を中で折られて、喉が仰け反ってひときわ高く、まるで自分のものに思えない声が上がった。質問の答えを必要としていたのかどうかは分からない。彼は再び下半身に顔を埋めて、だらしなく雫を垂らし続けるその熱を咥えてきた。舌で先端を割り、吸い上げる。その刺激に、身体が大きく跳ねる。  血が留まりそうな力でシーツを握りしめた。中に入ったままの彼の指を締め付けているのは分かったけれど、自分でそれをどうにかすることはもう出来ないでいた。 「あ、や、やだ、ッ……むり、も、むりだ……いや、やっぁあ」  自分の脚の付け根あたりにある、彼の肩に爪を立てた。 「歳也さん」 「い、いく……っ……や、あ、ああッ……あ!!」  視界が眩しく白く濁って、一瞬時が止まるような感覚がした。  全てを吐き出したかのように脱力して、シーツに背をぐったりと預ける。彼が口元を拭うような仕草を見せたのは分かって、彼の口内に吐き出してしまったことを心の片隅で後悔したけれど、謝罪は上手く形にならなかった。  ずるりと入り込んだままだあった指が抜ける。脚の付け根から腿にかけて、彼の舌がやんわりと残滓を拭って往復するように口づけを落としていくのが分かった。どくりどくりと大きく波打っていた心臓はしばらくしてリズムを整えて、穏やかな速度を保ち始める。すっかり汗と体液で濡れ落ちた髪を、彼が撫でてくるのが分かった。抵抗するべくもなく、ただその柔らかな動きに身を委ねる。  サイドボードに置いていた小箱から、薄いフィルムに包まれたそれを彼は取り出した。手早く淀みない動きでそれを硬くなった彼の熱を包み込むように着ける。潤滑剤で湿らせて、そうしてわずかに痙攣を続ける、その場所に押し当ててくる。  周囲の皮膚を慣らすようにもう一度潤滑剤を塗りつけた指で撫でた。その動きに、精を吐き出したはずの自分の熱が再び立ち上がるのが分かった。少しずつ硬度を増して体積を膨張させていくのが彼に見えているのかは、酔わされた身体と意識では正常に判断出来なくなっている。  いいだろうかと許可を得るように目だけで確かめてくる彼に、腕を首筋に回して応えた。なけなしの力で引き寄せて、耳元に撫でるように口づける。余裕な素振りを見せていた彼の肩口がぴくりと震えた気がした。それが何かを考える術もなく、自分の脚を掴まれて、高々と抱え上げられた。そうして彼はずぷりと、その場所へ自分の熱を差し入れてきた。 「……!ッぁあっ……あ」  十分に解れていても、硬くはち切れんばかりに膨れ上がった彼の熱が秘めた場所をこじ開けるように分け入る感覚は如何ともし難かった。裂かれるような熱と痛みが一瞬全身を襲って、ぐ、と歯を食いしばって耐える。余分な力を抜くように心がけて、奥へと割いる彼のその熱を腰を動かして受け入れようとした。内蔵を押し出してくるかのような圧迫感の波をやり過ごす頃、収まる場所にようやく収まったそれは内壁の粘膜と心地よい温度で溶け合ってくる。  ふう、と彼がこちらを見下ろして息を吐くのが分かった。小さく眉を寄せて動くタイミングを図っているようなその表情に、ぞわりと底の神経を揺さぶられる思いがした。 「あ、はぁ、ぁあ……ッ」 「歳也さん、……」 「竜太」  よすがを探るように手を伸ばすと、彼がその手を取って、指先を絡めて来る。しっかりと握り込んで、頬に擦り寄せるように彼は自分の手を引き寄せた。快楽とは違った場所で胸が締め付けられて、それはどうしようもない幸福感を自分にもたらしてくる。抱いたことはあっても、抱かれるのは彼が初めてだ。組み敷く快楽を知らないわけではなくて、それはそれで満たされた時期もあった。  それでもこんな感情にはならなかった。――離したくない、離れたくない。どうしても、この手を。何が、あっても。  しばらくの間こちらを見下ろした後、何かを決めたように、彼は包まれた中の感触を味わうように律動を始める。突き上げられる度に声は抑えられるわけもなく、ただ名前を呼んで、握りしめられた指に力を込めた。半分ほどを抜かれて、また奥を抉るように突き立てられる。ぎしぎしと骨が軋んで、全身がバラバラになるような振動が自分を襲う。けれどそれは恐怖に塗り替わることはなく、ただただ彼の激しい欲求を受け止めて、そうして分かち合おうとする願いが募る。 「あ、ああッあ、あ…………!!りょう、た……竜太……ッ」  絡めた指先を彼もけして離さない。繋がった部分からぐちゅぐちゅと淫猥な水音が繰り返し聴こえる。潤滑剤と粘液が擦れ合うその音は嫌でも神経を昂らせた。奥へ奥へと深く熱を穿ちながら、彼は空いた手で、再び硬く反り立った熱を握り込んで来る。 「あ、やッ」  強く擦り立てられて、それと同時に、一番深い場所へ彼の熱の先端が到達するような感覚が伝わってきた。足先が硬直した。激しい気流が残っていた微かな理性を薙ぎ払って、ただ空の高みに向かって飛び立つかのように、背を快感が一気に駆け上る。 「あ、歳也さん……ッ」 「りょうた、…………っああ」  彼がそう名前を呼んで、そうしてひときわ、腰を深く推し進めるのが分かった。身体を引き寄せて、強く抱き締める。繋がった自分の中に熱いものが溢れるのが分かって、そうして同時に、自分の腹回りに生温い液体が零れ落ちて腿を濡らしていくのを、どうすることも出来ずにただ、大きく深呼吸を繰り返して、受け入れた。

「――好きです」  掠れて、荒い呼吸の隙間を縫うように零れた「声」が耳元をくすぐる。果ててしなだれかかった自分の身体を支えるように、彼はその両腕できつく、抱き締めてきた。 「歳也さん、あなたが」 「りょう、た」 「私はあなたが、好きです。どうしようもなく」 「……」

「あなたが、好きだ」

自分もそうだと答えたいけれど、強い快楽の名残を孕んだままの身体を持て余して、感情は言葉にならずにいた。彼の腕の中で呼吸を整えながら、小さく頷くだけが精一杯で、それが彼にきちんと伝わっているのか自信が持てなかった。まだ小刻みに震える指先で、彼の頬にようやく触れる。瞼にキスを落として、それを何度か繰り返した。 「竜太……」  彼の唇が、自分の唇にそっと重なる。  激しく貪るようなキスはもうしない。お互いの温度を交わすように、小さな音をさせて啄む程度の軽いキスをする。上唇を突いて、下唇を撫でる。永遠に続けていられるような気がして、永遠というような曖昧な概念を願ってしまう自分がいることに、何とも言えない感情が湧き上がった。泣きたいとも言えない、喜ばしいとも言い難い。その、ただ心の奥を締め付けていくような想いを、彼に今は上手く伝えられない気がしていた。

迷っていても、いずれいつかは答えを出さなければいけない。

先延ばしにすることが解決にならないことも分かっていた。期限を明確に提示されたわけではなかったが、それでも永遠に迷っていられるわけではない。  昇任の件を話すか否か、逡巡している内に朝は来て、そうして彼は今日空港内でスタンバイなのだと言って早々と部屋を後にしていった。話す間も無く彼の背は眩しい朝日に消えて行った。  スタンバイならどの道どこかで会うかもしれない。もし時間が許せばそのときに話をすればいいことだ。今日でなくても、いつかはいずれ話さなければいけないだろう。それまでは少し、猶予期間があってもいい。  何より自分の中で、答えが出ていないのだから。  いつもなら慎重に慎重を期す自分にしては楽観的だとは思ったが、それは虫の知らせというものだったのかもしれなかった。

「おい凛子!急げ!」 「は、はいッ…………」  すれ違ったその女性の一人に覚えがあった。足早に駆けていくその背は小さく、隣の背の高いすらりとした女性に比べると、その華奢さと小ささが際立つような気がした。  黒い上下のリクルートスーツ。黄色いリュックは今日は背負っていないようだ。代わりに黒いパンツスーツに羽織っていたのはナイロンの黒いブルゾンだった。 「『エンジェルハース』……」  おそらく社名のロゴだろう。ほぼ黒一色で統一された彼女のその格好は、喪に服すその出で立ちといっても遜色なかった。  彼女が向かう先には、彼の勤める航空会社のVIPラウンジがあるはずだ。けれど彼女も、その隣にいた些か口調が荒い女性も、そのラウンジを利用する客のようには見えなかった。  慌ただしく、小走りに駆けていくその姿に、旅立つ前の高揚感や希望はあまり見えない。むしろ緊迫感とでも言うのだろうか。何かあったかと、彼女の背が遠くなるまで、その姿を見送った。

『――今日もあの飛行機には、ご遺体が乗っているんだろうなあと』

アフリカ、セネガル共和国ムバダール。  その小さな地方都市で、日本人を巻き込む大規模な銃乱射テロ事件が起きたのはその数刻前のことだった。そうしてその事件が、彼と自分をひとつの岐路に立たせることを、その時の自分は知る由も無かった。

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