『現地時刻○月▲日午後7時頃、セネガル共和国、ムバダールで発生した銃乱射事件の続報です。 事件で死亡した邦人は、現地で活動を行っていた開発援助団体職員10名の内、6名であることが判明しました。 現地では未だ混乱が続いており、政府は明朝――…………』
「ひでえなこれは」 本当に無差別かよ。携帯を手に、清家が苦々しい表情を浮かべながら隣で呟く。 速報を伝えるその画面には、邦人含めた32名の死亡を伝える文字が踊っていた。ホテルでの晩餐会の最中に乱入した武装組織の攻撃により、犠牲になったのだという。 「ムバダール、聞いたこともない地名ですね。直行便とかあるんですか」 そう言って清家の手元を覗き込んだのは蕪木だった。それに清家が答える。 「無いな。成田にダカール行きの直行便はあるが、それだけだ。そこから陸路かチャーターだろ」 「アフリカ行きのツアーは基本、ヨーロッパ経由ですからねえ」 のんびりとした口調で、栗田が続けた。 「どうやら数年前に、外国資本のエアラインは就航したようですが」 「そんな辺鄙なところで開発援助かよ。人様の役に立つために行ったのに、こんなことになって……」 「……」 頭の中に世界地図を思い浮かべても、セネガル、そしてムバダールの位置はすぐには出てこなかった。 世界の国の人々を受け入れる玄関口になっている羽田でも、未だ直行便1本就航させることのない地は多くあり、セネガルもそのひとつだった。 日本に住んでいると理解し難いことかもしれないが、安全な国というものが存在すること自体、実は稀有なことだ。世界には内戦やその他の紛争で政情の不安定な地域が少なからず存在し、外務省が渡航を固く禁じている国は思ったよりも多くある。セネガルはその限りではなかったが、けして治安が整っているとも言い難かった。 アフリカは様々な理由で民主化の進まない国も多く、現地でゲリラ活動を行う武装集団によって外国人を排斥するテロが発生している場所も少なくはない。その経緯までは分からないが、今回の銃乱射事件もその流れで起きたものなのだろう。 犠牲者の詳細が明かされていないのは遺族に配慮したか、それとも混乱が大きく情報が錯綜しているのか。それは分からなかったが、この後この羽田で何が行われるか、そうして自分たちにどう関わってくるのか、それはどことなく理解できていた。数年前に同じようにアジアの小国で起きた邦人を狙ったテロ事件の詳細を思い起こす。 「……政府専用機は、今総理の外遊でヨーロッパを飛んでいるところでしょう」 モニターを眺めながら栗田がぽつりと呟く。それに清家が言葉を重ねた。 「6人死んでるんだぞ。流石に戻ってくるだろ」 「しかし間に合いますかね」 「うーん……だとしたら……」 難しい顔つきでモニターを睨む清家の背を見つめて、日が落ち始めた外の景色を見遣った。 濃いオレンジ色の光が、ブラインドカーテンの隙間から床に射し込む。一日の終わりを告げようとするその光が、足元でわずかな夜の色を滲ませてぼうと影を作っていた。 それは昨日と変わりのない風景だった。この場所の裏側で凄惨で残酷な事件が起きたとは思えない、春の到来を祝福するような甘く穏やかな光が視界を染めていた。 わずかに神経がざわつくのは、唐突に日常に放り込まれた実感の無い非日常を飲み込み切れていないからかもしれない。それと、自分の心を掠める小さな予感を、無視出来ないのもあった。こくりと、唾を飲む。
「さて始めるか。……退勤前にすまんが、皆席についてくれ」 厚いファイルを小脇に抱えた涌井次席がそう言って椅子に座った。それを合図に雑談のざわめきは止み、みなそれぞれの席へ腰を下ろした。
◆
『お客様のおかけになった電話番号は、電源が入っていないところにあるか、――……』
何度目かの単調な音声を最後まで聞くことは無かった。 ひとつため息を吐いて通話を切る。日没を迎えて羽田の滑走路には星の光を散りばめたような誘導灯が点っていた。その光の粒を遠くに見遣りながら、その奥の第3ターミナルの建物の影を視界に収めた。 北ウイング駐機場でつかの間の休息にゆったりと身体を横たえる白い機体が並んでいる。誘導灯に照らされるその機体が、暗くなりつつある空と周りの景色に、青白い輪郭を滲ませていた。スタンバイならば帰宅してもいい頃合いだ。いつも何かと雑務で遅くはなりがちだが、スタンバイの日のこの時間には彼からのメッセージが入ってくるはずだった。 『一緒に帰りませんか』 『夕食は空港内で済ませませんか』 単純なメッセージひとつでも、それがあるということの意味は大きい。けれどそのことを実感するのは、それが無くなった時だと思った。 そのあるはずだった日常を遠い地で突然奪われた人がいるのだと、そうして今この空港で、家族か恋人か、あるいは友人か、日常を奪われたその人を待つ人がいるのだと、胸が小さく痛んだ。表向き羽田空港は穏やかな夜のラッシュ前のゆるりとした時間を迎えていた。けれどそれは、国内線ターミナルだけの話なのかもしれない。 『外務省のチャーターした便が発つのは明日の13時だ。戻りは現地での遺体確認の進行具合にもよるだろうが、……おそらく明後日、午前10時頃になるだろう。その後献花式が駐機場で行われる。 外務大臣や駐日大使などの参列が予定されている。外遊中の首相も間に合えば急遽参列もあるとのことだった』 特別機の離着陸が差し挟まれることで滑走路の運用が変わるといった内容の通達が、涌井次席から読み上げられたのを思い出した。やはり政府専用機は出発に間に合わないようだ。代わりにチャーター機として選ばれたのは彼の勤める航空会社の機だった。 便名とルートなどの詳細を確認しブリーフィングは終了した。喉の奥にどこか引っかかるような思いがして勤務中かもしれないという懸念はあったが彼に電話をかけた。返答のない何度目かのコールに、頭の隅を掠めるだけだった予感が次第に確信に変わるような思いがしていた。 ムバダールという地名を改めて検索する。セネガルの首都ダカールから奥まった場所にある、小さな地方の街だった。主要な空港はダカールに2つ。けれど普段、羽田からの直行便は無い。 「新波くん」 背後から声をかけられて振り向いた。長い髪を高い場所でまとめ上げた、すらりと長い手足が印象的な女性が、こちらを見て小さく微笑んでいた。 「お待たせしました」 「いや」 淡い色のワンピースに少し厚めのロングカーディガンを羽織った彼女が隣に立った。次の便を告げる音声にわずかに耳を済ませるような仕草を見せてから、バッグを肩にかけ直す。薄い桜色の唇は丁寧に塗り上げられて、ロビーの灯りを反射させるように小さく艶めいた。 「悪い、突然」 「いいえ、新波くんから誘われるなんてめったにないから。ちょっとびっくりしたけど」 「……」 「今日は飲めないの、ごめんね。……明日急遽、フライトが入っちゃったから」 「そうか」 「そのことを、心配してたんでしょ?」 「……」 返す言葉をすぐに見つけられず逡巡した自分に、海老名というチーフパーサーの彼女は少しだけ眉を下げて、小さく微笑んだ。 いつもの少女のようないたずらめいた笑みはそこには無い。疲れからかとも思ったが、それは彼女が明日飛ぶ便に思うところがあるからなのだろう、そのことはすぐに理解した。 それは彼女も同じだった。彼と自分との関係を唯一知っている彼女だからこそ、今ここで自分がわざわざ呼び出して話をしていることの意味を、彼女もまた理解していた。 暗い紺色の空からナビゲーションライトに照らされた大きな機体が降りてくる。ライトは明滅し、やがてその形が近く大きくなった。重い金属の機体が滑走路を削る、その鋭い金属音が遠くに聴こえる。そうしてゆるゆると速度は落ち、機体は駐機場へと向かう。 二人黙って、しばらくその景色を見つめる。時間にして数秒ほどなのだろうが、沈黙は体感時間を嫌でも長くさせるものだと思った。そうしてようやく口を開いたのは彼女の方だった。 「あなたの想像通りよ、新波くん」 「……」
「――明日13時に発つ、外務省のチャーター便。秋津くんが副操縦士として乗務することになった」
「『エンジェルハース』……」 「そう」 聞き覚えのあるその名前を告げた彼女の目の前で、グラスに入ったアイスティーの氷が溶けて崩れた。溶け切らなかったシロップがゆらりと薄茶色の液体の中で滞留している。カフェのほのかに淡いベージュ色の明かりを丸く映すその表面を、彼女はマドラーで小さくかき混ぜた。そうしてふ、と気づかれないほどに小さく、ため息を吐いた。 滑走路には夜の色が染み込んで、誘導灯の青い光の線がいっそう明るく浮き上がって見えていた。 エンジェルハース。その社名と共に思い浮かんだのはあの黒いリクルートスーツの若い女性だ。飛び立つ機影を仰いでいた、わずかに不安げな瞳を思い起こした。 「ご遺族のケアはその『エンジェルハース』社の人たちが引き受けてくれることになっているのよ。私たちがすることは、機内で行える最低限のサービスだけ」 彼女はそう言った。 聞けば「エンジェルハース」社とは、今回の場合のように海外で何らかの理由で亡くなった邦人の遺体搬送及びその他の葬儀に関する手続きを代行する会社であるということだった。 海外で亡くなった日本人は簡単にこちらへ帰って来れないという。当事国での司法解剖や死亡診断、諸々の手続きを遺族が全て行うことは言語の壁や法の壁に阻まれて、難しい側面もある。その難しい部分を代行し、海外の故人を遺族の元へ返すのが、その「エンジェルハース」社の業務であるらしい。 国際霊柩送還。非公式ではあるが、彼らは自分たちの職務をそう名付けているのだと、グラスに口を付けながらチーフパーサーの彼女はそう告げた。 だからか、とあの小さく華奢な体つきの彼女の黒尽くめの姿を再び呼び起こした。喪に関わる作業を行う仕事をしているならば、あの格好であったのも納得がいく。慌ただしく空港を駆け抜けていったのは、おそらく今回のテロで遺体搬送の業務を請け負ったからだろう。 「お客様もご遺族の方だけだし、『エンジェルハース』もいる。だから結局パイロットと客室乗務員数名、最少催行人数で行くことになった」 「……そうなのか」 「あまり治安の良い国というわけでもなさそうだしね。……よもや、ハイジャックなんてことはないでしょうけれど」 「……」 「ごめんね物騒なこと言って」 「いや、……」 人気の少なくなったカフェは空調のせいか、寒の戻りの気配を拾っているのか、足先がわずかに肌寒い。通常通りの運航ならばついぞ聞くことはないその言葉が当然のように溢れるその状況にまだ頭がついていかない自分がいた。 それは間違いなく、彼が関わっているからだ。どこかの絵空事のように思えていたその出来事が急に自分に近しいものとして形を取り始めるのに、心が追いつかない。 「私たちが行けるのはダカールまで。現場のムバダールに行くわけじゃないからそこまで、心配しなくてもいいと思うわ。 ……外務省の渡航情報なら、新波くんの方が詳しいでしょう」 「……」 知識としてのそれと、今関係者から聞くそれに温度差があるのは当然だった。 セネガルは確かに渡航禁止ではない。けれどテロは起きた。テロが起きた直後に重なるようにテロは起きないだろうという楽観的な思いは自分の思考にバイアスがかかっているだけだ。そして、おそらくムバダールに家族や恋人を送り出した遺族でさえも。きっと送り出す時には同じことを考えていたのだろうと思う。 ――まさか、テロなど起きないだろうと。 誰もがそう思って、犠牲になった者たちを見送ったに違いない。 ひょっとすると、この羽田で。また会えることが当たり前だと思って別れたのかもしれない。
「――そんな顔、しないでよ」 「え、……」 「秋津くんが不安になるでしょう。明日、秋津くんの機を飛ばすのはあなたなんだから。しっかりしてね」 「……」
「……なんて。秋津くんは地球の果てでも極地でも、きっと通常運転だろうけど」 あなたが羽田にいる限りは。彼女はそう言って、薄い桜色の唇を上げて微笑んだ。 大きく広く取られた窓に映る自分の顔と向かい合う。外の誘導灯の青と機体の白に、自分の面影が重なった。小さく眉根を寄せて、物言いたげに薄く唇を開いた自分の姿はまるで頼りなく外の紺色の闇に揺れる。 ――離れたくない、今は。 けれど明日には彼の乗る特別機を自分は空へ送り出す。拒む選択肢は自分の中には無い。そしてそんな我儘を彼に伝えたところで、彼が自分のその願いを聞き届けるはずがないのも分かっている。 そんな風に不安を埋めて寄りかかるために、彼の隣にいることを決めたのではない。彼の背を押して空へ引き上げる。そうして彼の手を取って、空へ飛ぶ。彼は「一緒に空を飛ぶ」相手だ。それが自分のいる意味で、理由だろうと思う。 彼と「声」を交わしたその時から、それは何も変わらないはずだった。 「……何かあった?」 「え?」 意識を戻して隣の彼女に視線を送ると、彼女はグラスを片手にこちらを見つめていた。氷もすっかり溶けて半分ほどになったそのアイスティーの色に映えるように、ミントの葉のグリーンがゆらゆらと頼りなく浮かんでいた。 「私を呼び出したのは、明日のことだけが理由じゃないんでしょう」 「……」 「相談事があるんじゃないの。秋津くんのことで」 「……それどころじゃないだろう」 呼び出しておいて勝手なことだと思ったが、遠慮する言葉を口にした自分に彼女は仕方ないといった顔を浮かべる。そうして白く細い手首を上げて、腕時計で時刻を確認するような素振りを見せた。
「あまり時間は取れないけど。……聞くくらいは出来るわよ」 「……」 「秋津くんのことが気になるんでしょう。話してすっきりしてから、会った方がいいんじゃない?」 彼女はそう言って、グラスの中身を飲み干した。 温くなった自分の手元のカップに目を落とす。さざ波のように流れていた店内のBGMが、ようやくくっきりと自分の耳に届いてくるような気がした。
◆
夜の出国ラッシュの終わりを迎えた第3ターミナルはそれでも、人々の喧騒で賑わっている。大きな荷物を抱えた人々が行き交う出国ロビーを抜けて、ラウンジのある階上へ向かうエスカレーターから、その大きな白い吹き抜けの天井を見上げた。 管制塔を間近に見通すことが出来る国内線ターミナルに比べ、この国際線第3ターミナルはタワーからも遠く、所用が無い限りはふだんすすんで足を運ぶ場所ではない。雑談を交わす笑顔の乗客とすれ違う。これから目的地へ向かうのか、それとも帰宅の途につくのか、それは分からなかったが、その表情は明るかった。何事も起こっていないかのような日常の風景に潜むエアポケットに、自分だけがすっぽりとはまり込んだような妙な気持ちになった。 結局あの後、彼と連絡がついたのは、チーフパーサーの彼女と別れてずいぶんと経った頃だ。はっきりと、明日ムバダールに発つということを彼は言わなかった。けれど急に長距離のフライトが入ったから、今日は自分の部屋で夜を過ごすということを告げてきた。管制官の自分が特別機の件を知らないはずはない。それでも敢えてその事実を告げて来なかったことに、彼のひとつの意志をみる思いがした。 明日同じようにムバダールへ向かう迫水機長との打ち合わせがあって遅いからと、彼はこちらに帰宅を促してくる。それでも少し話をしたいと食い下がった自分を、彼が拒むことは無かった。彼もまた、いつもならお互いにあっさりと引き下がって終わるはずのそのやり取りがいつもと違うことに気が付いているのかもしれなかった。 会って話をしたところで、何かが覆るわけではない。かえって彼の中の不安を煽る結果になるのかもしれなかった。けれどそれでも、会えば自分の足元に纏わりつく暗い何かを振り切ることが出来るのではないかと、うっすらとそう感じていた。 その暗い何かは、自分の心ひとつでどうにでもなることだったのかもしれない。多くの犠牲を出した危険な目的地へ向かう彼にかける建設的な言葉など持ち合わせてはいなかった。ただ離れる前に顔を見たい。会いたいと言ったのはその原始的で稚拙な欲求を満たすためだけの言い訳のような気もして、ターミナル内の灯りを受けてぼんやりとガラス窓に浮き上がる自分の姿をじくりと痛む胸と共に見つめた。
待ち合わせ場所に指定した、階下を見渡せるエリアで携帯の画面を開く。 新しいメッセージは入っていなかった。ひとつため息を吐いて、メッセージアプリを立ち上げる。特に時刻は指定していなかったから、到着したら連絡を入れるつもりでいた。頭の中で文面を組み立ててから、心の中だけでそれを呟く。 ベンチで同じように携帯を見つめる人々に一瞥をくれた。手早い動きで画面を開き、そうして耳元に当てる。ふわりと口元が解けて、何事かを話し始めるのが視界に入った。 画面に視線を落として指先でメッセージ作成のボタンをタップしたところで、わんと声のよく通るその場所で、低く張った聞き覚えのある声が響いた。その声を自分が聴き間違えることは無い。画面から目を上げて、声のした方へ、顔を向けた。
「――――侑里」
そう呼ばれて顔を上げたのは、細い肩に、全体的に華奢な体つきが印象的な女性だった。 濃茶の細い髪が揺れて、視線が目の前のその姿を捉える。薄赤い唇が震えるように動いて、その動きは確かに、彼の下の名前を形作っていた。 「竜太」 一日を終える安堵とわずかな疲労と、そして明日への期待に満ちた表情が溢れるその中で、彼女のその表情は絶望に囚われたように、触れると崩れてしまいそうな頼りなさでそこにあった。もともとが薄いのだろう肌の色は、その表情も相まってか青白く生気のないようにも見える。彼女は一瞬俯いて、唇を噛むような仕草を見せた。伏せた目がやりきれない感情を滲み出させて、形の良い薄い色の眉が、中心で深く、皺を刻む。 泣いているようにも見えた。下ろして無造作に流したその肩の少し下まである髪が、小刻みに震える小さな肩の上で、揺れていた。そうして、その姿を目の前で捉えているのはパイロットの制服に身を包んだ、彼だった。
『歳也さん』
二人で眠るベッドの上で、肌を触れ合わせる場所とその瞬間に。耳元で囁かれるその名前が、耳の奥で不快で重い音をさせて響く。目を逸してその場を立ち去るのが賢明であることは分かっていて、それでも足元は地面に張り付いたように身動きひとつせず、その光景から目を離さないでいる自分がいた。 制服の袖口からのぞく、自分の肌の上を滑るように這っていたはずの長い指先と腕が、小さく丸くなった折れそうなその身体を支えようと伸ばされるのが見える。倒れ込むように彼の胸元に身体を寄せる彼女を、彼のその手が引き寄せた。そうして両の腕で守るように彼女の身体を、慎重にゆっくりとした動作で抱き締める。 俯いた彼の横顔の、形の良い唇がもう一度彼女の名前を呼んだような気がした。どこか苦悩に満ちた、小さく眉を寄せて何かに耐えているような表情は、つい数日前に飽くこと無く抱き合った時の、満たされたような穏やかな笑みとは似ても似つかなかった。
「侑里」。確かにそう呼んだ。 けれど彼女のことを、彼女の存在さえも彼が口にしたことはなかった。ただの一度も。
春先の夜風は夜を迎えて北寄りに風向を変えようとしていた。 頬に撫でつける海へ向かう風は、昼間の温かさを拭ったように冷たい。展望デッキは人もまばらで、ぼんやりと足元に灯る明かりを頼りに踏みしめるウッドデッキに、自分の靴音が響いた。 柵の向こう側に誘導灯の青い光が並ぶ。光の線に沿って、青黒い闇を切り裂くように機体が離陸する。腹の底に響くような空気の重い音ときんとした鋭い音が響いて、夜空に溶けていくその影を目だけで追った。 自然と零れていた「Good Day.」は、今は喉の奥に引っかかったように形にならないでいた。けれど他の言葉が、思い浮かぶわけでもなかった。 「寒くないですか、歳也さん」 そう言って、彼が距離を詰めてくるのが分かった。わずかに触れて、当たり前のようにその指先を絡めて繋いだ。繋いだというよりは、彼が触れてきたというのが正しいだろう。拒むことも出来ずに彼にその手を預けて、近くなったその顔を見つめる。 「ずいぶんと薄着だ」 空いたもう片方の手で、彼はこちらの背から肩にかけて、さするように触れた。そうして小さく口元を上げて微笑む。日中のままだった自分の服は、冷える羽田の夜には些か心許ない。それも分かっていたけれど、厚着をする心の余裕は無かったことに思い至る。 生身の肌に触れた瞬間のように、じわりと触れた場所は熱くなって、熱が滲む。 「……あんたもだろう」 「私は、これで慣れているので」 「……」 そう言って握る手に力を込めた彼の笑顔は、どこか何かを拒否するようにも見えた。彼は言葉を継いだ。 「話なら、帰ってきてからでもいいのに」 「……」 「あなたから、そんな風に言って来るなんて」 彼はそう独り言のように呟く。その方が良かったのだとでも言いたげに、含んだ視線でこちらを見て、そうして彼は空を見上げた。何機目かの離陸の音が、鼓膜を揺らす。一瞬巻き起こった強い風が、足元から吹き上がる。 「どうかしたんですか。歳也さん」 「……」 行き先を濁した理由を尋ねるつもりだった。 返ってくる言葉の大体は想像出来る。それでも、彼からその返答を聞きたいと思った。それが安心材料になるわけではない。ただ隠しているのにはきちんとした理由があるのだと、身勝手に解釈したいだけなのだろうと思う。
「……あんたこそ」 「?」 「どうかしたんじゃないのか。……顔色が、悪い」
肩をさすっていた彼の手を取る。そうして繋いでいた片手の指を解いて、両手で彼のその手を包んで握り込んだ。ぴくりと彼の肩が小さく揺れるのが暗がりでも分かる。苦いものを滲ませたように、一瞬目尻が歪むのを見逃さなかった。 「歳也さん」 「どうして言わないんだ」 「……何をですか」 「ムバダールに行くんだろう。あのテロの遺族を乗せて飛ぶことは知ってる」 「……」 「戻りは遺体も一緒だ。テロの起きた直後の国で、終始安全に戻ってこれるか誰も確証しない。今回は普通のフライトじゃない。それくらいは承知している」 努めて頭を冷静にして、そう淡々と告げているつもりだった。 憤っているのではないと指先に込める力で伝えようと、ほんのわずかにその縛めから逃れようと蠢く彼のその手を捕まえるようにさらに握り込んだ。手元に落としていた視線を上げて彼の顔を捉える。変化をあからさまに見せはしないが、わずかに動揺しているのは理解できた。目の奥の色が震えて濁るのが分かって、じくりと胸が痛んだ。 「いくらあんたでも。思うところはあるんだろう」 「……そんなことは」 「どうして、俺には何も言わない」 「歳也さん」
「俺が管制官で、あんたがそこへ飛ぶことが分かっているのを、明日あんたを飛ばすことを知っていて。 どうして何も、言おうとしない」 ぎりぎりと締め付けるように痛みを伝えてくる心がそのまま指先に表れるかのように、彼の手を握る力が次第に強くきつくなる。その指を解こうという明確な意志が彼の表情に滲む。それがざくりと、自分の神経に大きな裂け目を引くのが分かる。 「……、歳也さん」 「竜太」 「……」 「俺では、あんたの抱えた心をどうにかすることは出来ないということか?」 「そういうことでは」 「それとも、俺には関わりのないことだと、言いたいのか?」 「……」 「管制官とパイロットでは。――見えている空が、違うのか」 『侑里』。不意に彼がそう彼女を呼ぶ声が耳元で響いた気がした。項垂れて、それは彼の奥に潜めた心を零すようにも見えて、彼女の身体を抱き寄せたその姿が、目の前で戸惑った視線をこちらへ送ってくる彼の姿に、覆い被さる。 「……、本当に、……」 「え、……?」 喉元で湧き上がったひどく熱いものを腹の底へ押し込めるように無理に飲み込んだ。ぎりぎりとした痛みが全身に広がる。言葉は頭の中に溢れて、けれどそのどれもが、二人の頭上の黒く濃い夜空に押し潰されて、溶けて消えていくような思いがした。
「本当に俺は、…………、あんたに、必要な存在なのか」 「それはあなたもでしょう」 「……、」 低く、絞り出すような声が耳元で押し込まれるように響く。解けないように握りしめていた指先を、半ば強引に緩められて、そうして放り投げられたように解かれた指先に残る温度が、痺れるようにその指先の動きを留めた。 乱暴とも取れる手付きでこちらの手を引き剥がすと、彼は一歩距離を離して、はあ、と大きくため息を吐いた。苛立ちを隠そうともしないその息遣いに、ふたつに裂けかかっていた自分の心が、またひとつ軋むような音をたてて、その隅から崩れていくようなそんな気がした。 憤りを中に収めようと彼が黒のネクタイをぐいと緩めるように引く。眉間に深く溝を刻んで、何度か大きく深呼吸を繰り返すと、一瞬目を逸して、足元へ視線を落とした。そうしてしばらくの沈黙の後、彼はひどく掠れた低い声で呟いた。 「あなたの方こそ」 「竜太」 「あなたの方こそ、……私を、必要としているんですか」 「……」 「何も言わないのは、あなたも同じでしょう」
彼はそう言った。ひりついた気配を漂わせたその声が、裂けていく部分に痛みを擦り込んでいこうとしていた。こちらを睨みつける瞳は深く傷ついたような色をしていて、けれどその奥に、彼の持つ真摯さをまだわずかに残していた。 「……昇任のことを、黙っていたのはあなたでしょう」 「……、それをどこで」 「聞きました。昇任すれば羽田を離れることになることも」 「……」 「なぜそのことを、私に話してくれなかったんですか」 「竜太、それは」 言葉を継いで言い繕おうとしている自分に彼は気がついているのだろう。聞く耳を持たないとでも言うように、声を被せてくる。
「私がいるから、迷っているんですか」 「……」 「だから、私に言えないんですか」 「……竜太、」
「私は、――あなたにとって、必要な存在ではなく。 ……ただ、負担でしかないのか」
掴んでいたはずのその翼が、暗く深い海の底のような空の彼方へ、まるで光が吸い込まれてしまうように消えて小さな粒になっていく。 もう一度掴もうと指先を伸ばそうとしたけれど、握りしめられて点っていたその熱と温度は奪われて、凍りついたその指はその場から動くことが出来ない。遠のく光をただ目で追う。 傍にいるのは今だろうという思いが消えることはない。それができるのは自分しかいない。けれど足は動かない。 何度も呼んだ名前を、もう一度紡ごうとした。 喉元まで出かかったその声は彼に届くことは無かった。彼は小さく目尻を歪めて物言いたげにこちらを見つめると、口の端をわずかに引き結んで、その目を伏せた。 隣をすり抜ける瞬間に、海へ吹き抜ける風に混じって、彼のさせる制服の布の香りが鼻先を掠めた。その身体の感触と温度さえも拭って、風は頬を掠めて、掴めない速さで吹き去っていく。
足早にその場を去る足音だけが耳に残った。色を濃くした羽田の夜の空にもう一機、機影が溶け込んでいくのが見えた。
行き先は、分からないままだ。