←前  目次  次→

高くなった春の日の光が駐機場に注ぎ込む。

風は南寄りに、海から強く吹き込んでいる。  白いカサブランカとデンファレの花弁が、布をかけられた棺の上で頼りなく揺れていた。  牽引車の上に等間隔で置かれたその6つの「Cargo」に、黒い喪服を身に着けたかしこまった男性が礼をする。ひとつひとつに花束が添えられた。画面に流れるアナウンサーの声は、どんなに抑えたのだとしても悼む静寂にはそぐわないと思った。  喪服の黒と棺の白が目に灼き付いた。その痛みを拭うように、あるいは包むように。空は抜けるように澄んで、ようやく故郷の地を踏むことの叶った彼らの上に広がる。  主翼の白がその透明な青に映えていた。まるで彼らを迎える天使の羽根が彼らの体を守っているようにも思えた。

彼はまだ、コックピットの中だろうか。

そう例えることはけして正解ではないのだろうが、ひとつの祭りが終わったような、舞台を次の場所へ移す前の密やかな興奮にも似た妙な静けさだった。  物理的に静かなのではない。変わることなく動き始めている空港のロビーには、人々の喧騒がひっきりなしに響いている。涼やかな呼び出し音の後、次の便を告げる声。聞き慣れているそれは、何年も耳にしている緩やかで心地よい日常の音だ。ここ数日、その穏やかさに被さっていたわずかに暗い異変は緩やかに、興味の対象を外へ移して空港から離れようとしていた。  すれ違うカメラやマイクの波をやり過ごして、彼らが進む方向とは逆へ歩を進める。吹き抜けのロビーの、高い位置にある大きな窓から日が射し込んでいた。献花式からずいぶんと時間がたっている。遺族やその他通常の旅客に配慮し、離れたスポットに駐機した577便からここへは、ずいぶんと歩かねばならないだろう。  会える確証があるわけでないのは分かっていたけれど、足を運ばずにはいられなかった。自分のさせる足音が、つるりとしてよく磨かれたターミナルの床を叩いては留まる。会う約束をいつもしているわけではない。何となくこの辺りにいるのではないかという予測で、今まででも可能な限りで彼を出迎えていたことを思い出した。  そうしてその予測を読んだかのように、彼はいつも目の前に現れる。少しだけ疲れて、けれどその何倍も充足したような小さな微笑みを浮かべて、自分に向き合う。その姿が瞼に浮かんで、胸が痛んだ。 「竜太」  零れた名前は口元を震わせるように、ただ静かに響く。返事が返って来ることは、期待していなかった。

『ただいま。歳也さん』

「――歳也さん」

『――優先順位は、変わってもいいと思うわよ』  夜の静寂に溶けるように、ひとつの光点を煌めかせながら飛び立つ航空機を仰ぎながら、彼女はそう言った。桜の色に塗られた唇の端がほんのわずかにうっすらと上がって、彼女は眉を下げて微笑んでいた。けれどそれはからかうというのでもなく、呆れているというのでもない表情だった。 『優先順位』 『ええ、そう』  彼女は小さく頷く。 『人生は長いんだから。その時大事にしたいと思うものを優先すればいいんじゃないのっていう話』  かたん、とグラスの底とカウンターのぶつかる音が小さく、二人の間に響いた。 『……そんな、簡単に』 『そう言って欲しかったんじゃないの?』 『え、……?』 『秋津くんを選んであげなさいって。あなた、そう言って欲しいんでしょう』 『……』 『それは、間違いじゃないのよって』  違うの?彼女は小さく首を傾げて言った。 『そ、……ういうことじゃない』  喉の奥に何かがつっかえたような声しか出ない。言ったきり続く言葉を見つけられない自分に、彼女は重ねた。 『、じゃあ、昇任を選んだらいいんじゃない』 『そんなことを、言われても』 『じゃあ何?新波くんは、どうしろって言われたいの?自分で決められなくなったから私に話をしているのかと思ったんだけど』 『…………』   『まだ、不安なの?』 『…………』 『秋津くんの心が離れてしまうって』    否定はできなかった。  どんなに言い繕ってもっともらしい理屈を並べたところで、自分が心の奥で抱いているその思いを誤魔化すことなど出来ないのだろうと思った。幼くて拙いその思いを持て余したように、言葉は上手く形になって出て来ない。苦い表情のまま黙り込んだ自分を、彼女は嗤うわけでもなく、弓なりに細めた目のまま見つめてきた。 『秋津くんはあの調子だから、少し離れたくらいであなたへの想いが冷めたりしないとは思うけど』 『それは、……』 『いい加減、自分がちゃんと必要とされているんだって自信持ったら?そんなところだけ怖がりよねあなた。いい歳しておいて、思春期の女子高生でもあるまいし』 『……』 『まあ、相手が秋津くんだから。なんでしょうけど』  そう彼女は言って、ふ、と小さく笑い声をあげた。  目尻が熱を持って、頬の温度が上がっている自覚はある。彼女には、彼とのやり取りは始めから全て筒抜けているのだ。今さら恥ずべきことでもないのかもしれないが、年甲斐もない気恥ずかしさを拭うことは出来ないでいる。  俯いてグラスに視線を落として息を吐いた自分を、それ以上彼女がからかうことは無かった。しばらく無言で、窓の外の景色を眺める。そうして彼女は口を開いた。 『あなたが感じているのは、きっとあなた自身の心のことでしょう』 『…………』 『あなたが、どちらかを選んで後悔することを、恐れているんじゃないの』 『…………』

『秋津くんを優先出来なかった自分を、管制官という仕事を優先出来なかった自分を。  ……そして壊れてしまったときに後悔するだろう自分を、迷ってしまった自分を、受け入れられないと思っているんでしょう』

『物事はそんな単純なことじゃないわよ、新波くん』  そう告げた彼女の微笑みは、駄々をこねる子どもをあやすような、仕方ないといった種類のそれだった。  子どもじみている自覚はあって、人生も半ばを過ぎた自分が、とうの昔にもう割り切ってもいいようなその事柄で悩んでいることは愚かしいという思いはあった。実際、今までは割り切ってきたはずだった。何をおいても優先する事柄はひとつで、そのことに迷いはなかったはずだ。  自分の中の芯の部分を揺らがせるのはただ、彼ひとりで、そのことを飲み込みきれないままであるのも分かっていた。  ――離れたくない。離したくない。底から湧き上がるその自分の本音を、理性で抑えられないでいる。 『どんな物事にも相関関係はある。ゼロか100じゃないし、白黒つけられないことだって山とあるじゃない』  空も365日、同じわけじゃないでしょう。彼女は言った。 『だからどちらを選んだからいいとか、駄目だってことじゃないと思う』 『……』 『何を選んでも、後悔はする』 『……』 『でも、何を選んでもきっと。あなたと秋津くんなら、得られるものがあると思うわよ』

彼女の重ねる言葉が、清涼な流水のように心に染み落ちる。 『秋津くんは変わったわよ。――あなたが、傍にいるようになって』 『……竜太が?』 『ええ。仕事への向き合い方っていうのかな、『飛ぶ』ということに対する姿勢が、明らかに変わった』  あなたも十分、分かっていると思うけど。彼女はそう付け加える。 『それは間違いなく、あなたがいたから』 『……』 『それにあなたも、変わったわ。秋津くんと出会ったことで』 『……俺が?』 『ええ。……だから、どちらを選ぶということじゃないのよ、きっと』

『――――この空があるから、あなたと秋津くんは、共にいられる』

「――おつかれさまでした」  何をまず話すべきなのか分からなかった。労いも喉元まで出かかっていたけれど、それを言うことで何かがうやむやになってしまうような気もして、言葉にならなかった。沈黙の間を流れていた喧騒の流れを切るように口を開いたのは彼の方だった。  小さく低い声は、冷たくはなかったがわずかな甘さを取り払ったように平坦で、それに彼の秘めた感情がかえって滲むような気がして、胸がじくりと痛む。少し手を伸ばせば彼の手を取れる場所で、彼は目を伏せて頭を小さく下げてきた。 「ありがとうございました。歳也さん」 「……竜太」 「あなたが冷静に誘導してくれたおかげで、無事に定刻通り、『彼ら』を降ろすことが出来た」 「……」 「「彼ら」に、空を見せることが出来ました」  彼はそう言って、吹き抜けの天井を仰いだ。  一部がガラス張りになったその天井の窓に青い空が映し出されていた。射し込む光が、彼のわずかに疲れを見せた頬を照らす。画面の向こう側で揺れる、白い大きな花束を思い起こした。6つの棺を出迎えるようにその青さを増した空が脳裏によみがえる。そして、その棺を乗せて降り立った翼の白が、今立つ場所の視界を柔らかに染めていく気がした。  せめて穏やかに、滞り無く彼らを迎えたい。二度と青い空を臨むことの叶わない「彼ら」に、空を見せたい。本当なら帰って見上げるはずだった空を。  それは彼が、望んだことだった。 「……、あんたが判断したことだろう」  わずかなよそよそしさを漂わせる彼の態度に意図めいたものを感じて、胸の痛みはじわりと少しずつ広がっていく。  型通りにも思えるその会話は、自分との距離を詰めることを拒んでいるようにも思えた。伏せていた顔を上げてこちらを見つめる瞳の色が陽の光を受けて薄い茶色に染まるのを見つめた。  彼がその内に秘めた心は、今の自分には考えても分からない。糸口になる欠片は心の中にいくつもあって、けれど確証も持てないその欠片のひとつひとつを彼の目の前に突きつける気にはならなかった。 「俺はあんたの言うことから機内の状況を推測して、降ろすと決めて指示しただけだ」 「……」 「ぎりぎりまで粘る。あんたがそう言うのなら可能だと判断した。……後押ししたわけでも、助けたわけでもない」  突き放すような言い方になったことを悔いたけれど、零れた言葉を元の場所に戻すことは出来ない。 「それでも、あなたのおかげです」 「……」 「あなたがいなければ、そうしようとは思わなかった」  直接自分に語りかけてくる彼の声はロビー内の様々な音の波をくぐり抜けて、この耳に、何よりもクリアに聴こえてくる。 「あなたがいると思ったから、あなたが支えてくれるだろうという確信があったから。私は、自分の信念に基づいて決断することが出来た」

「――――何が起こっても。  あなたが、地上で。タワーで私を待っていてくれるのだと、思ったから」

「竜太」 「……ヒアリングがあるので。また、後で」  ジャケットの袖口からのぞく彼のしっかりとした指先が、傍らのスーツケースの持ち手を握り締める。少し前に、自分の背を抱いていたその手に、何かを押し留めるかのように彼が力を込めるのをただ見つめるだけだった。  こちらの姿を映していたのだろう目が再び床面に落ちて、彼がゆっくりと背をこちらに向ける。踵を返すその姿と動きが、ゆるりとスローモーションをかけたように速度を落として見えるのが分かった。宙に浮いて掴む先を失った自分の指先が、彼の気配を辿ろうとする。躊躇いの残る自分のその指先が、わずかに温度を下げていった。  ――このまま、別れてしまっていいのか。何も言わないまま。  自分の中で湧き上がったその問いに、すぐに答えられない自分がいた。このまま彼を黙って見送ってしまえば、次に会うのはまたしばらく先になるだろう。その時にはもう尋ねられなくなっていることがあるのを、頭の奥で理解はしていた。  そしてそれは、おそらく続くのだとしても、断ち切るのだとしても。二人の間で二度と埋められない距離になって、これからも横たわることになる。  そんな風にお互い内に留めてしまった言葉を、抱えたまま。再び心を深く交わして、その手を取ることが出来るのだろうか。 「、竜太……」  名前を呼んで、手を伸ばした。

「――――秋津さん!」  彼を呼ぶ声が、背後から聴こえた。

「良かった!まだいた」  早足で駆け寄ってきたその女性からは、甘い香水の香りの他に、どこか血生臭い、泥のような匂いが奥から漂ってくる気がした。それは黒いジャケットから直接匂うというわけではなかったが、どことなく、死の様相を連想させた。  彼女の服装のせいもあるのかもしれなかった。黒いナイロンジャケットに印字されたロゴを一瞥したところで、記憶が1本の糸になって繋がる。数日ほど前、ちょうどこの辺りですれ違ったことを思い出した。「エンジェルハース」。チーフパーサーの彼女から聞いた社名と、慌ただしく走り去っていく小さな背が重なって脳裏によみがえった。 「……あなたは」  同じ機に搭乗していたとはいえ、パイロットの彼が搭乗する者全てに面識があるというわけではない。わずかに面食らったような表情を浮かべた彼に、その女性は歩み寄って、向かい合った。  すらりと長い手足に、潔く切られたベリーショートの金髪がひどく印象的だった。上背があり、自分たちと並んでも、見上げるというよりは見据える高さにその視線はある。きっちりと整えられて華やかな顔立ちに映える強く意志のある目つきは、喪を扱う業者というには些か派手な印象を抱かせていた。 「ああ、自己紹介が出来ていませんでしたね」  彼女はそう言って、ジャケットのポケットから名刺入れを取り出す。そうして小さな名刺を彼の前に差し出した。 「『エンジェルハース』の伊沢です。……この度は、お世話になりました」 「伊沢さん」 「ムバダールのテロ事件で、ご遺体の搬送を承った者です。秋津さん、あなたがあの特別機を操縦してくださっていたと聞いて。ぜひ話をしておきたいと思って」 「……」 「本当に、お世話になりました。……あなたの機転が無ければ、無事に、献花式を終えてご遺体を降ろすことが出来なかった」  彼女はそう言って、彼の前で深々と頭を下げた。 「ありがとうございます」

「あなたのおかげで。  故人様を全員、滞り無く。送ることが出来ます」

「……侑里さんは、事情聴取のために警察の方へ行かれました」  伊沢といったその女性は、言葉を続けた。 「、……そうですか」 「ご主人様のご遺体は、侑里さんの代わりにお父様とお母様が引取りに来られることになりました。大学での司法解剖を済ませてからになりますが。ご葬儀も、ご実家が手配した葬儀場で行うとのことで」 「…………」 「故人様の身支度は弊社が行う予定です。その後ご実家へお連れすることになると思います。……侑里さんが葬儀に間に合うように。ご主人様にお会い出来るようにと思っていますが」  濁した先のことは想像がつくのだろう。彼の表情が小さく歪むのが分かった。その理由が「侑里」と呼ばれた女性にあることは明白だった。  底に押し込めていた感情が緩んだ鍵の隙間から漏れ出すように痛みと共に広がっていくのが分かる。自分の心臓の拍動が強くなった気がした。先日のやり取りが頭を掠めて、喉元が締め付けられるように痛む。 『侑里』。そう苦しげに呼んで、細く折れそうな体を抱きしめていた彼の姿がよみがえった。そして、自分が尋ねたいと思っていることも、彼の心を今占めているのも、彼女のことだということは分かっていた。 「侑里さんと、あなたは。……お知り合いだったんですね」  少しだけそれを告げることを躊躇うような表情を浮かべたが、伊沢といったその女性は、視線を俯けて黙っていた彼にそう尋ねた。  彼の顔がわずかに上がって、口元が震えるように一瞬動く。その目が、こちらを見た気がした。そうして数分にも思えるほどの時間彼は黙り込むと、ようやく頷くように、彼は静かに目を閉じた。  肯定の意を含んだしぐさが、自分の目に灼き付いた。眉を寄せて、ようやく答えたようなそのさまは、「侑里」と呼ばれたあの彼女が、彼にとってどんな存在だったのかを告げてくるようだった。

「……心苦しかったでしょう」 「……いえ」 「けれどあなたがああ言ってくれなければ、彼女は落ち着くことは無かった」 「……」 「あのままでは、彼女は誰かを傷つけて、自分のことさえも傷つけたでしょう。そうなれば、他のご遺族や故人様を無事に降ろすことは出来ませんでした。  ……あなたのあの言葉があったから、彼女は思い留まってくれたのだと思います」  その場面を思い出すように、ベリーショートの髪の下の、長い睫毛に彩られたわずかに青みがかった目が細められる。悲しみとも安堵ともつかないその表情が白い天井からの光を受けてくっきりと浮き上がっていった。彼女が語るのは、タワーにいた自分には知り得ない、そして彼が口にしていない、彼の見た景色なのだろうと思えた。

「――――――『一緒に帰ろう』と」 「……」 「あなたが、そう、侑里さんに言ってくれたから」

「ありがとう、ございます」  彼女はそう、もう一度深く、彼の目の前で頭を下げた。  言葉は無い。黙ったままその伊沢という女性の姿を見守る彼の横顔を窺い見た。一見彼の表情に動きは無いように見えた。けれど自分には分かるような気がした。  彼が、今どんな思いで彼女を見ているのか、何を思い起こしているのか。引き結んで少し噛むように閉じられた唇と、わずかに眉間に寄った小さな皺が、その心持ちを物語っているように思えた。 「これを、言付かっているんです」 「……?」  白く長い指先をジャケットのポケットに差し入れて、彼女が取り出して来たのは小さく折り畳まれた白い紙だった。折り目を丁寧に伸ばすような仕草でその紙片を撫でると、何かを決めたかのように、彼女は彼の目の前にそれを差し出してきた。  彼の指はそれを受け取ろうとわずかに動いて、けれどそれをせずに宙で留まる。迷っているのが、その手付きに表れているそんな気がした。 「……侑里さんが、ご主人様のムバダールでの住まいで見つけたものです」 「……」 「あなたに、……『竜太』に、渡して欲しいと言われて」 「、侑里が……?」 「ええ」

「――故人様が、あなたへ宛てた手紙だからと」

「……もし、都合が許すなら。故人様にも直接お会いになってください」  差し出がましいことですが、と彼女はそう言って、小さく微笑んだ。 「……」 「その様子ですと、長くお会いになっていないのでしょう。心の整理をつけるためにも。最後に顔を見ておかれてはと思って」 「私は、……」  言いかけた彼の言葉は続かなかった。それに被さるように、彼女は言葉を継いだ。 「テロや災害で身近な方を亡くされた方は、やり場のない思いを抱えたまま死を受け入れられず、立ち直ることが難しいと言います。時間もかかりますし、時には良い記憶だけを抱えて、生きていく人もいる。  もちろんそれを否定はしません。それが、生きるために必要なことなのならば、誰もそれを断罪することは出来ない。ですが」 「……」 「『さよなら』を言えないまま生きることは、とても苦しい。長く、途方の無い道のりです」  彼女はその言葉を噛みしめるように、自分に言い聞かせるかのように呟いた。 「何か、故人様に言えなかったことが、あなたにあるのなら。最後に伝えて、区切りをつけて生きて欲しいと、私はそう思います」  彼女はそう言って、彼の手のひらを握り締めた。彼の手のひらには、その、小さく白い紙片が乗せられていた。 「あなたが、共に帰ろうと、降ろしてくれたのだから」 「……」 「故人様もきっと。あなたに伝えたいことが、あるはず」  丁寧に塗り込まれた爪の先に、日の光が落ちて丸い粒を形作る。ゆっくりと、その指先が離れるのを、ただ彼の隣で、見つめていた。

「――それを、受け取って。前に進んで欲しくて」

「……読まないのか」  その紙片を握りしめたままぼんやりとどこともつかずに視線を泳がせていた彼が、こちらを向いた。戻って最初に見た顔よりもその顔はまたわずかに色を失って、射し込む白い光にその輪郭がぼやけていくようにも思えた。 「……私に、読む資格はないので」  その答えが紡がれるのに、また一日が過ぎてしまいそうなほどの時間があった。黙り込んだままだった彼はようやく口を開いて、そうして両手でその紙片を握り込むようにして、目を伏せた。 「なぜ?」 「……もう、ずいぶん前のことで。絶縁していたんです。お互いに罵り合って別れた、そんな関係の相手で」 「……」 「けして良いことなど書いていないだろうから。それに」 「それに……?」 「私はあなたを、傷つけたくはない」 「……」

彼はそう静かに呟いて、顔を上げた。  いつもの自信に満ちた色を削ぎ落としたようなわずかに不安げな瞳が、自分を映していた。 「私がこの手紙を読むことは、侑里や、あいつの思いを知ることになる。  私は侑里を一度、過去に一方的に傷つけた。そんな私がこの手紙を読むことはできない。何より、」 「……」

「それであなたを傷つけるくらいなら。――――この手紙を、私は持っていてはいけない」     「……この手紙は、侑里に返します」  そう言って彼は折り畳まれたその紙片をさらに半分に折り、ポケットに押し込もうとした。片手を伸ばして、それを留める。かさりと、紙に皺の寄る、渇いた音がした。薄く黄ばんだようなその紙を握りしめた手に、自分の指を静かに絡めた。  少し汗ばんで湿った感触が、肌に伝わって来る。彼の指先がわずかに強張るのが分かった。 「……歳也さん、」 「…………傷つかない、から」 「……え?」 「いや、そうじゃない。……傷ついても、大丈夫だ」 「……」 「……何も伝えないよりも、伝えられないよりも。俺は、伝えて、傷つく方がいい」 「……」 「それで、……あんたと、分かち合えるなら。それでいい」

――未来を見て、広がる空から目を逸らさずに、向き合えるなら。

「聞かせてくれ」  そう言って、絡めた指に力を込める。ぐずぐずと底で燻り続けていた心の雲間に、うっすらと微かな光が灯る気がした。悪天候の空に射し込む、それはわずかな希望を抱く光の筋のようだった。 「話して欲しい。……竜太」  迷う心が晴れたわけではない。答えが見えたわけでもない。それでも、どんな答えを出すことになっても、ひとつだけ、確かなことがある。  彼のもう片方の手が、繋いだ手に重なった。形にならない感情が触れた部分から滲んで零れ落ちて、自分の指先を温める。手元に落としていた視線を動かして、彼の眼差しを受け止める。彼の目から戸惑いは消えない。それでも、指先を握りしめる力が緩むことは無かった。  ――――この手を、離したくない。やっと掴んだ、この手を。

それだけは確かで。 「――……歳也さん」

「少し、考えても、――いいですか」

『侑里へ

今年も、結婚記念日をその日に祝えなかった。ごめん。  いつもふらふらして、旦那らしいことを何ひとつ出来ないな。もう5年目にもなったら呆れる気も失せているだろうけど、一応、これでも祝う気はあるんだ。それは信じて欲しい。』

光の海が、遠い先の視界に揺らいで見えた。  まだ肌寒さを残して、北よりに海へ吹き込む風は、頬にぶつかり耳元でわずかな音をさせて背後へ流れていく。それに重なるように、重い空気を切る音が響いた。目の前で、ナビゲーションライトを灯して機体が高度を上げていく。  薄い紫色に染まった管制塔を仰いだ。彼の視線もそこへ向かっている。二人で空へ伸びるその直線をしばらく眺めているうち、彼がようやく覚悟を決めたかのように口を開いた。 「彼とは防大の同期でした。そのまま二人同じ部隊に所属になって。ファイターパイロットを目指して、切磋琢磨する仲でした」 「そうか」 「そして同時期に念願叶ってファイターパイロットになった。誰よりも練度の高い、強いパイロットになろうとお互いに誓って。青臭いですが、日本の空を守るのは俺たちしかいないなんて、そんなことを言い合っていた」 「……」 「もう、ずいぶんと昔のことですが」  それでも彼の中では今でも、鮮やかに記憶に残っているのだろう。小さなその白い紙片を手にして過去の自分を語る彼の目は、いつも見るよりも少し幼く見えた。 「侑里と出会ったのはその頃です。きっかけは何だったのか、もう思い出せないけれど」  彼は言葉を継いだ。 「彼女から告白されて、付き合い始めました。  パイロットは、……特に戦闘機のパイロットは花形です。付き合う相手には事欠かなかった。だから侑里のことも、私にとっては数多付き合ってきた恋人のうちの一人でしかなかった」 「……」 「彼が、同じように侑里を好きだったということに、気付くまでは」

『結婚記念日が近づく度に思い出すことがある。  竜太のことだ。  侑里は、俺と侑里が出会った日に入籍しようと言ったけれど。俺は本当は知ってたよ。  その日は、竜太と侑里が出会った日でもあること。  侑里が、結婚記念日の度に俺だけじゃなくて、竜太のことを思い出していることも、俺は何となく気が付いていた。ずっと、言えなかったけど。』

「身を引こうと思いました」 「……竜太」 「元々、それほどまでに侑里のことを愛していたわけじゃなかった。それよりも、私にとっては彼との友情の方が大事だった。彼が侑里を好きだというなら、それは自分が身を引いて彼に譲ろうと思いました」 「……」 「ずいぶんとおこがましいと思うでしょう。侑里の感情をその時の私は考えることもなかった。侑里は時折不満を漏らしていました。でも私は、聞く耳さえ持たなかった」  彼はそこまで言って、細く長い息を吐いた。紙片を握る手に、わずかに力がこもるのが分かる。筋張った手の甲が淡い展望デッキのライトに照らされてぼうと浮き上がって見えるのを、黙って見つめていた。

「竜太は誰のことも好きじゃない。  誰も必要としていない。――いつも一人で、一人ぼっちで空を飛んでいると」

『きっとあのことがなかったら、侑里はずっと竜太のことを好きだったんだろうと、今でも思うんだ。  責めているわけじゃない。竜太がいなくなって侑里が傷ついていた、その隙間に入り込んだのは俺だ。  一番卑怯なのが俺なのは知ってる。……だから、なかなか俺は、結婚記念日を祝えないのかもしれない。情けないけれど。

侑里。侑里の心の中には、まだ、竜太がいるだろう?』

「……『不適』とされて空自を辞めたときも、私は誰にも相談しなかった。  侑里のことも。一方的に関係を絶ったことに、彼は当然のことながら憤って私を責めてきました。けれどその時の私にその言葉は届かなかった。パイロットでなくなる自分に侑里はきっと愛想を尽かす、だから後はお前が付き合ってやればいい、そう言った私を彼は許さなかった。  ……そのまま、別れました。もう二度と、会うことはないだろうと思いました」 「……そうだったのか」  相槌を打った自分に、少しだけ苦い表情を溶かして、彼は小さくこちらへ微笑みかけてきた。痛みを孕んだ声と目が、自分を捉える。  彼の語るその過去の姿は、何故か眼前にリアルな感触を持ってよみがえった。それは、かつての自分の過去とも重なる部分があるからかもしれないと思った。  思えば、自分の「雨の中」のことは彼に知られてはいたが、彼の「雨の中」のことは今日彼の口から語られるのが初めてだったかもしれない。  彼はいつも言っていた、自分も、「雨の中」にいたのだと。けれどその詳細を知ることを、自分はしてこなかった。「雨の中」にいた自分を空へ引き上げて来たのは彼だ。けれど彼は、「雨の中」にいたのを救ったのは管制の自分の「声」だったと言う。  つまびらかになる彼の「雨の中」の話を、自分はどう受け止めるべきなのだろうかと考えた。そして受け止めた先に、自分が何をしていけるのかも、今はまだはっきりとはしなかった。

『ムバダールに発つ前、偶然竜太を羽田で見た。  パイロットになっていたよ。民間機の副操縦士になっていた。充実した、いい顔をしていた。  嬉しかったよ。あいつは飛ぶことを止めていなかったんだと分かったから。  飛ぶことを、諦めていなかったんだと。  でも声はかけられなかった。  侑里にも、話は出来ないと思った。

侑里が竜太に心を残していることを分かって、結婚したのに。俺は、竜太と侑里が再び会うことを恐れていたんだ。  俺は辞める竜太を罵った。あの時、もっと他に言うべき言葉はあっただろうに。俺はそれを出来なかった。後ろめたくて、竜太に合わせる顔がなかった。

――こんな俺を知れば侑里は俺を軽蔑するだろうとそう思うと、竜太に何も言えなかった』

「テロが起きて、チャーター便に乗務することが決まったとき、偶然にも、侑里に再会して。  侑里は彼と結婚していて、彼はムバダールでテロの犠牲になったと知った。  侑里は混乱していました。遺族として遺体の確認を行うためにムバダールに向かうのだと」 「……」  あの夜の風景が目の前に描かれる。刺すような痛みが自分を襲ったけれど、それは絶望とは違った種類の痛みであることはもう分かっていた。彼は続ける。 「私は私で、あなたの昇任の話を聞いて、頭の中が整理出来ていなかった」 「竜太」 「あなたに、ひどい態度を取ったと思っています」  すみません。彼は小さくそう呟くように言った。ごう、と機体が飛び立つ音に、その声は掻き消えてしまうかのように重なって溶けた。

『侑里、俺は狡くて、卑怯な人間だ。  ずっと、侑里の優しさに俺は甘えて、何も言って来なかった。  侑里が本当は誰のことを愛しているのかも知っているって。そのことを、俺は自分を守るために言えなかった。  でもいつまでも、そのままじゃいけないんだろうな。竜太は新しい道を選んで、前に進んでいる。俺も、いつまでも同じ場所に留まってはいられないんだろう。

侑里、もし今の仕事が無事終わって、ムバダールから帰ったらちゃんと話そう。  今までのこと、これからのこと。竜太のことも含めて、はっきりさせようと思う』

「――――飛行機を、落として欲しい」 「……」 「あの日、機内で。侑里はそう言いました。客室乗務員、……海老名さんを人質に取って」 「……、そんなことが……」  絶句した自分を、彼はわずかに傷ついたような表情を浮かべて見つめた。それは彼が経験した、あの日の出来事だった。 「彼がいなければ生きる意味などない。だから飛行機ごと落ちて死にたい。彼女はそう言って聞かなかった」 「……」 「そのままでいれば、海老名さんが負傷する恐れもあった。けれど、むろんその要求を聞き入れることなど出来るわけもない。  高度は1万フィートを切って、着陸態勢を取らなければ彼女自身が危険だった。  1万フィートを下ってから機長の指示に従わない場合は威力業務妨害として法に触れることになります。  ……メディカルエマージェンシーを宣言したのは、迫水機長の許可を取ったとはいえ、私の身勝手な判断だ」 「……」 「侑里は、……彼女は遺族だ。これ以上、痛めつけることは出来ないと」 「竜太」 「その判断が彼女にとって正しいものだったのか。……もう彼女に聞くことは、出来ない」

『――――――帰ろう、侑里』 「そして、それはパイロットとしての私の判断だったのかどうかも、それが正しかったのかどうかも」 『一緒に、帰ろう』

「……私は、自信がない」     『侑里、一緒に過ごせて良かった。  例え侑里が、竜太のことをずっと想っていたんだとしても。そしてもし、もう一緒にいられなくなったのだとしても。  俺は、幸せだった。それは本当だ。  心残りがあるとすれば、竜太のことだ。もしまた、どこかで竜太に会うことが出来るなら、今度こそ俺はちゃんと謝ろうと思う。

そして、ちゃんと言おうと思う。侑里にも』

「……やはり、この手紙を読むのは、止めておきます」  デッキの柵に体をもたせかけて俯いた彼は、そう絞り出すように言った。その手には、小さく折り畳まれて渡された時のままの手紙が、握られている。彼が指先に力を込めたのが分かった。掴んだ部分が皺になって、それは何度もそうしたのだろう、折り目の端から破れてしまいそうな頼りなさで、デッキに吹き付ける海への風に吹かれていた。 「竜太」 「この手紙を読むことで侑里のことを放っておけなくなるくらいなら、それであなたを傷つけるくらいなら。……もう、読まない方がいい」 「……」 「今の私は、揺らがない自信がない」  声音は落ち着いているようにも聴こえる。けれどその響きは痛みを伴って、それは彼の心の叫びにも思えた。  顕になった彼の深淵を抱きしめたいと願った。そうすることで何が解決するのかは分からない。彼が何からも解放されないだろう可能性もあって、それでも。底で震えるように痛みにむせぶ彼の心を、どうにかできればと祈るような思いがした。  今まで、彼に救われてきた。彼の濁りのない想いに、高い空のように青く伸びる心に、自分は引き上げられてきた。今自分がするべきことは分かっている。  ――今、引き上げるのは、自分だ。 「……歳也さん」  静かに彼の手に握られたその紙を手に取った。指の1本1本を丁寧に解くようにしてその紙を摘んだ自分を、彼は足元に落としていた視線を上げて見つめてきた。 「言っただろ」 「……」 「俺は、傷つかない」 「……」 「傷ついてもいい。……それが、あんたに出来ることなら」  糊で張り付いたかのようにぴったりと折り畳まれたその紙を、破れないように広げる。まるで白い羽根のようにその薄く、細かく皺の寄った紙は風に揺れた。  書かれた文字に目を通す。ひとつひとつを取り零さないように。

『侑里、愛しているよ。竜太と、幸せになれ』

『――――竜太、幸せになれ』

「と」の部分が黒いインクで塗り潰されていた。深く強く、思いをこめるように、その場所だけが黒く、紙に凹凸を作るように黒く塗られていた。乾いて、わずかに掠れたその黒い染みは、後から付け加えたようには思えなかった。ムバダールの土の匂いが羽田の夜の風の香りに混じっていくような気がした。 『故人様が、あなたへ宛てた手紙だからと』  そう言った、伊沢といった、あの女性の顔が思い浮かぶ。何かを悟っていたようなその小さな笑みを思い起こした。その笑みに、一瞬見かけた「侑里」の姿が重なっては消えた。 「歳也さん」  黙って、その紙を彼の前に差し出した。  彼は一瞬躊躇するような表情を浮かべたけれど、手のひらに押し込むようにその紙を手渡した自分に観念するように、両手で包むようにして、その手紙を手に取った。  深くなった夜の色に、誘導灯の青い光が星のように浮かぶ。直線に等間隔に並んだその光は、丸い輪郭をじわりとその紺色にぼやかせていた。

「――――……、」  崩折れる彼の背に手を添えて支える。  首筋に彼の湿った息が吹きかかった。耳元で響く、こらえきれずに漏れたような、小さく低い嗚咽を受け止めて、彼のしっかりとした背を抱く手のひらに、力を込めた。  目を閉じて、過ぎていく時をただ思う。ひとつひとつの傷を癒やし覆うように、夜の静寂は濃く、二人の間に染み込んでいった。

←前  目次  次→