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空は希望だ。

飛び立つ人々の全てが、広がる眼前の空に希望を見いだせるわけではない。閉ざされた未来を悲観して、奪われた絶望や憤りに己を浚われそうになりながら、あてもなくその空に飛ぶより他無い人々もいる。  時が留まることはない。悲しみや絶望も、希望さえも飲み込むかのように、ただ流れ続ける。空の景色も同じで、刻一刻と変化するその色が人の都合を考えることもない。  それでも、愛おしい人の欠片を空に探して、人はその青を見上げる。  触れ合った幸福な記憶と、過ごした日々の尊さをどうにか自分の心に収めて、区切りを付けて前に進むために。いなくなったかけがえのない存在を心に刻んで、再び歩み始められるように。

悲しみに暮れる人々の絶望を拭うような何かを、自分は持ち合わせていない。  痛みを癒やすことも、絶望から救うことも、それは出来ないことで、すべきことではない。  それでも出来ることがあるとするなら。  それは、己の心に決着をつけたその人の見上げた空が、わずかでも希望に満ちた、安らかなものであるように。

――祈って、送り出すことだけだ。

澄み渡る湖面のように透明度の高い空が広がっている。

高度を上げ小さな点になっていく機影を見送る。  ひとつ息を吐く間もなく、矢継ぎ早に着陸をリクエストする機の音声が耳に飛び込んできた。プッシュバックから滑走路への移動を待つ機と、滑走路内で待機する機に視線を送り、そうして離着陸の順を頭の中で組み上げていく。  PTTボタンを親指で押して、スイッチを入れる。ぷつりと、無線の入る小さな音が鼓膜を徐々に目覚めさせる。 『Good morning.AFR 279,Tokyo TWR.Taxi to C-1. Hold short of RWY 34R.』  変わりない日常の音が戻ってきたその感覚を実感しながら、意識を耳元に再び集中させた。 『JAL514,Contact GND.121.7Mhz.』 『GND 121.7Mhz.JAL514.』  無線越しのわずかに濁ったその声でも、聞き慣れていればすぐに分かる。それは彼も同じことだろう。手短な交信ひとつでもコックピットで操縦桿を持つ彼の姿は目の前に鮮やかに描かれる。  緩やかな速度で滑走路を進むその白い機体を見下ろした。目に映るのはいつもどおりの風景で、ただ見つめるだけなら何の変化もあるようには見えない。昨日までのやりきれなさやどこか心許ない不安定な揺らぎはそこに表れていないように思える。  彼の機械の向こうの「声」は、心地よい張りと高さを取り戻したように、ずっとクリアに自分の耳元に響いた。姿が見えない分だけ、「声」の存在感はより自分の中で大きくなる。彼との始まりは「声」だった。直接聴きたい、そして触れたい。それが、今に繋がる全てのきっかけだった。  心の底に残る、揺蕩う水草が流れに乗り切れず引っ掛かったままのようなその思いはおそらく機械を通して伝わることはないだろう。けれど交わすその言葉のひとつひとつに、わずかな変化を感じているのは、自分だけではない気がした。 『竜太、幸せになれ』  指先に、小さく嗚咽をこらえて震えていた彼の背の温度がよみがえる。  じわりとその温度が全身に巡るような思いがして、口元に軽く力を入れて、一瞬目を閉じた。ひとつの点に細い神経を集中させるように、イメージする。脳内は次第にクリアになって、リクエストの音声が再び、耳元で心地よく響いた。

『Good Day.』

「――決めたのか?新波」  傍らで清家が口にするコーヒーの香ばしい香りが鼻先を掠めた。同じようにカップに口をつけて一口飲み下す。ほろ苦く温かい液体が喉の奥に落ちていくのを確かめて、清家に視線を向けた。外の光が窓から射し込んで、床に白い溜まりを作る。  どこか納得のいかないような顔だった。納得がいかないというより、案ずるという方が正しいのかもしれない。  お互いにいい歳で、相手の人生に口出しすることが野暮の極みであることは十分に承知している。それでもお前は放っておけないからと言う彼のその負担にならない具合の気遣いにはいつも心が休まるのだと思った。口の端をわずかに上げて、小さく笑んで返す。 「ああ」 「いいのか?」 「ああ」 「ちゃんと、相手には相談したんだろうな?」 「…………」 「また、お前ひとりで結論出して、暴走してんじゃないのか」  図星だろうと、その表情が物語っている。 「……大丈夫だ」 「何の大丈夫だよ」  決めるとき、最後結局一人で決めてしまう。  そのことをわずかに批難するような口ぶりだった。けれど自分の行く先を決断するのは人の言葉ではなく、自らの心のすることだと、清家が十分に理解していることも知っている。  今朝方、ブリーフィングの後涌井次席に話をしたことを思い起こした。清家が立ち会っていたわけではないが、どことなく、空気で察するところはあったのだろう。  その言葉を口にするのを少し躊躇うような顔を浮かべて、そうしてやがて、清家は口を開いた。

「離す気か?また」 「…………」 「せっかく、お前を離さない奴が現れたのに。また離すのか?」 「……」 「お前は結局、そうやって一生、一人で飛ぶつもりなのか」 「……そうじゃない」  切るように言った自分の顔を清家は何かを言いたげに見つめてくる。それを見据えた。

「お前が決めることだ、迷えって言ったのは俺だし、別にいいんだけどな。  ――離したら、後悔するんじゃないか」 「……」 「人生何が起こるか分からないんだ。無くなってから後悔しても、もう戻って来ないんだぞ」 「そうだな」 「涌井さんだってお前には上に上がって欲しいんだろうが。お前がそれでお前自身の人生を犠牲にするのを望んでいるわけじゃないだろう」 「分かってる」 「なら」

「……、離すわけじゃないんだ」  たっぷりの時間をかけて口にした言葉は、静かな休憩室に波紋を広げるように響く。まだ何かを重ねようとしていた清家は、一瞬口をつぐんだ。 「……だったら」 「必要だと思うからだ」

「二人で一緒に飛ぶために。  これからも一緒にいるために、必要なことだと思うからだ」

「……新波」 「心が離れるわけじゃないだろう」 「…………」 「ちゃんと離さずに繋いでいける。少なくともその自信はついた。大丈夫だ」  ……竜太となら。その名前は零れそうになったけれど、口先で留める。手元のカップの中で揺れる表面に視線を落とした。濃茶の液体が部屋の光を受けるそれに重なるように、彼の顔が浮かんだ。最後の夜に会った表情のまま、その顔は小さく切なげに歪む。 「自信ね、……」 『何を選んでも、君を選んだ道が、君の歩む道だ』  涌井次席の、空の彼方へ旅立った愛しい人を思いながら浮かべる笑みが思い出された。愛する存在に想いを伝えきれなかった悔いをわずかに滲ませて、けれど沈むのではなく区切りをつけて前を向いて進むよりない。  彼に直接伝えられることの無かった、あの手紙に込められた思いも。 「……何を選んでも、後悔はする」 「新波」 「離す気はない。でももしもいつか、失う時が来るとしたら。  あの時こうしていれば良かったと、選んでおけば良かったと、思うかもしれない」 「……」 「でも」

「それでも。  俺は両方大事で。――――両方、離したくないと思うんだ」

「……」 「だから今、俺が選べる最善を尽くして。進むしかないと思っている。……、後悔しても」 「そうか」  食い下がるつもりは無かったのだろう。全面的に肯定することは無かったけれど、清家は小さく頷くような仕草を見せて、そうして残ったカップのコーヒーを飲み干した。 「……まあ確かに、離れたから終わりっていうわけじゃないからな」 「ああ」 「お前のその結論を聞いて、少し安心したよ」  清家はそう言って、その無骨な手のひらで背を叩いて来た。 「?何が」 「今までみたいに、管制以外のモンをぶった切るような結論をお前が出さなくて。良かったよ」 「……」  清家はほんのわずかに眉を下げて、小さく笑った。そうして、言葉を継ぐ。

「仕事への情熱だけで生きていくっていうのは、けっこう難しいだろう。  管制官ていう仕事は、何か形あるものが出来上がるわけでも、新しい価値観が生まれるわけでもない。安全に航空機を運航する。その当たり前を当たり前のものとして維持することが俺たちの使命だ。だがそれに心血を注いでも、俺達の存在はそう大きいものとは捉えられない」 「……そうだな」 「モチベーションというのかな。俺はいつかお前が燃え尽きちまうんじゃないかってヒヤヒヤしてたんだ、これでも」 「清家」  そう言って、ひとつため息を吐く清家を見遣った。 「管制に全て捧げて来たお前がもし管制を失ったら、その時お前に何も無かったら。  お前はどうなっちまうんだろうとな」

「……良かった。お前が。

――――離したくないと。  流されるんじゃなくて、自分で選んで、そう思える存在に出会えて」

「まあ、幸せになれよ」  ほんのわずかに何かを懐かしむように目を弓なりに細めて、清家は背に乗せたままだった手を肩に乗せてくる。そうして含んだ笑いを浮かべたまま二、三度その肩を叩くと、にこりともにやりともつかない笑みを顔に浮かべた。 「涌井さんも、俺も、蕪木も。他の奴らも。お前が思ってるよりも、遥かにお前のこと心配してるからな」 「……そうか」 「特に蕪木とか。あいつはお前を人生の師と思ってる」 「……」  お前にどこまでもついていくらしいよ。  そう言って、清家はがははと口を大きく開けて笑う。わずかに張り詰めていた空気は緩く解けて、それにつられて、口元がふと緩むのが分かった。  射し込む光が眩しく、部屋全体を照らし出そうとしている。それが明日の向こうのずっと先の未来も、手繰り寄せて来るような気がした。

抹香の香りのする黒い喪服のジャケットから、彼が腕を抜くのが見えた。

「彼の顔を、見ることが出来て良かった」  薄い青と、淡い桃色の溶け合う日暮れの空が窓に映る。迎える夜の紺色を奥に滲ませた空に、また一機飛び立っていく姿が遠目に見えた。地上に向かって濃くなる夕刻の空の薄紫色に、タワーの細長いシルエットがぼんやりと浮き上がる。黒い喪服のネクタイを緩めて、彼がそうぽつりと呟くのを聞いていた。  ずいぶんと長い間式場にいたのだろうか、喪服のスーツに染み込んだその独特の香りは部屋の中に漂う。告別式は午後の日の高い時刻に執り行われていた。ニュースでその様子が中継されていたのを管制塔の休憩室で観たことを思い出した。  彼のかつての友人の葬儀は、6名の犠牲者の中で最後に行われた。一番最初の犠牲者の葬儀こそ大きく報道に取り上げられたが、6人目の葬儀は小さく新聞記事に掲載され、昼のニュース番組の数分伝えられるに留まっていた。瞬く間に流れ去っていく日常の様々な出来事の中で、ムバダールで散った6名の命の話は、すでに過去のものになりつつある。  葬儀場で目立ったのは、喪服ではない制服を身に纏った幾人かの参列者の姿だ。  ものものしい肩章が目立つその参列者は、間違いなく、かつての彼の職場の人間だろうことは想像がついた。それに報道機関も食いついたのだろう、不躾なインタビューを数秒ほど聞いて、そのニュースを観るのを止めた。  数日前、清家とともに観たインターネットの記事を思い起こす。遺族に無駄で、けれど深い傷を増やすだけのその文言など無かったかのように、世の中は何かを忘れたように進んでいくのだと思った。  旧知の仲間に声を掛けられて積もる話を重ねているうち、帰りが遅くなったのだと彼はそう、言い訳がましいわけでもなく言ってきた。 「――まるで、息をして眠っているようだった」 「そうか」 「彼の遺体はずいぶんと損傷が激しかったと聞きましたが。……とても綺麗でした」 「……」 「会えて良かった」  彼はそう、また繰り返した。  その表情に痛みは残る。けれど何かにけじめをつけたように、肩に重くのしかかっていた陰鬱な空気はそこから拭われていた。

『――何か、故人様に言えなかったことがあるのなら。  最後に伝えて、区切りをつけて生きてほしいと』

伊沢といった。  まるで自分自身にそう言い聞かせるように彼に語りかけた彼女のその真摯な瞳がよみがえる。  数多の遺体と遺族に寄り添ってきたからこその言葉だろうと思った。数え切れないほどの「伝えられなかったこと」を、彼女はきっと見てきたのだろう。  たとえ返ってこなくても。抱え続けたその一言を差し出すことで、人は過去の痛みから解き放たれる。そうしてどうにか、その別れに終止符を打って、また歩みだす。  タワーで見上げた空は、吸い込まれるような高さで青く広く伸びていた。彼の幸福を誰より願ったその友人への言葉もまた、今日の日の青い空に飛び立って、溶けていったのかもしれない。

「そうか、良かった」 「……歳也さん」 「あんたがそれで、救われたなら。……それが何よりだ」

何かを言いたげにこちらを見つめる彼に、小さく微笑んだ。  旅立つ友人に何を彼が伝えたのかも、そうして彼が何に決着をつけたのかも、聞こうとは思わなかった。  知ることで得られるものはあるのかもしれない。知りたくないわけでもない。  あの日彼の深淵に触れた。もっと手を伸ばせば、今ここで彼が長い間沈み込ませていた痛みを全て掴んで、掬い上げることが出来るのかもしれないと、そう思う気持ちもある。  深淵を曝け出させることが彼のためになるのか、それは彼しか知り得ないことだ。けれどそうやって躊躇うことにもっともな根拠を与えて、本当はその深淵の先にあるものへ触れることを、ただ、自分がまだ恐れているだけだということも理解していた。  だから、敢えて尋ねることは出来なかった。  彼の中には、秘めた本当の思いがあるのではないのか。それを、自分が知る権利があるのか。それを知ることで、失われてしまう何かがあるのではないか。  恐れているのは自分の身勝手な防御本能がそうさせているのだろうと思った。離したくない、そう決めたはずで。けれどその感情がかえって、向き合うことに対して一歩踏み込むことを留めさせているのは分かっていた。

「……疲れただろ」 「歳也さん」 「色々あったから休む間も無かったろう。明日も朝早い。今日はもう寝て、……」  窓の外は次第に青の面積を濃くしていた。なんでも無い素振りで手元の雑事を片付けようと背を向けた自分の背後に、彼の気配を感じたのはすぐのことだった。脇の下辺りに、彼の腕の確かな温度を感じる。するりと軽い布の擦れる音がして、そうして彼の腕が腰に回されて、そのしっかりとした胸元に抱き竦められるのを感じた。 「……竜太」  名前を間近で呼ぶのは、あの夜以来のことだと思った。  過去断絶して、ずっと会うことの叶わなかった友人の思いのしたためられた手紙を読んだあの夜だ。伝えられなかった思いを知って、そうしてもう伝えることが出来ない思いを抱えて、縋るように崩折れた彼の背を支えた。冷えた夜に灯って震える、彼の身体の温度を思い起こした。  回されて、腰の辺りでわずかに力が込められた。シャツの布を隔てても、その締まった筋肉の感触が伝わってくる。首筋に彼の短い髪の先と、わずかに湿った唇が触れた。抹香の香りが、強くなった気がした。身体の奥に、染み出るように熱が灯るのが分かる。  ぴたりと触れて距離を無くしていくようなその身体を感じながら、自分の手を彼の手に重ねる。手の甲を遠慮がちに撫でて、被せるように指を添えた。自然とお互いの指先が絡まって、離れないように、お互いにわずかに力を込めて、その手を握りしめる。 「すみませんでした」  絞り出すような少し掠れた声が、吐息と共に耳元を揺らがせた。 「竜太」 「あなたに、何も伝えなかった」 「……」 「あいつのことも、……侑里のことも。始めから言っていれば、あなたを不安にさせなかった」  その名前に心の端がじくりと痛んだ。何度も自分の中で振り切ろうとしても振り切りきれない夜の映像が、ぼんやりと目の前によみがえるのが分かった。自分の心に引っかかり続けるのはそのことで、けれどそれを、はっきりと口にすることは出来ないままでいる。そして、心にそれを残し続けているのは、彼も同じことなのだろう。  耳元で響く彼の声は、タワーと空で距離を隔てた中で聴くのとは違った響きで自分の身体の中へ染みて落ちていく。確かな目標と行く先を見据えた自信に満ちたその「声」と、今聴こえる「声」は、同じものには聴こえなかった。 「……」

「侑里に再会して、あいつの死を知った。  あなたの昇任のことも、聞いていた。一度に起きたいくつものことを処理出来なくなっている自分を、私はあなたに知られたくなかった」 「…………」 「……弱い自分を。  過去を引きずって『雨の中』を未だ抜け出せていなかった自分を、思わぬところで突きつけられて。私は、あなたにそれを知られることが怖くて、何も伝えようとしなかった」

「――私は、あなたに。嫌われたくなかった」

「本当に、すみませんでした。歳也さん」 「……」  絡めた指先に力が籠る。お互いの温度が行き交って、しっとりと湿り始めたその指先の感覚を確かめてこくりとひとつ唾を飲む。  今、謝罪を受け入れて流してしまうことも出来るだろう。隙間ほどの二人きりの時間を甘く穏やかにしたい思いはあって、けれどそれでは、再び同じことをまた繰り返すのだろうことも分かっていた。  何も伝えなければお互いにすれ違うのは当然で、そのことを敢えて見過ごしながら蓋をして、幸福に見える表面だけをなぞって生きる方法があることも知っている。けれど彼と自分がそうありたいわけではない。心の内を誤魔化して生き続けられる狡猾さを、彼も自分も、お互いを前にして持ち合わせてはいない。  選んだ答えは、伝えなければならないのだということも分かっていた。この程度のことならばと飲み込み続ければいつか、本当に伝えるべきことさえも、分からなくなる。今痛むことがあるのだとしても、抱えて向き合う先に見えるものはある。それを、分かち合いたいと願っている。彼となら。 「……竜太」  繋いでいた指を離した。ゆっくりと交差するように自分の身体を抱き締めるその腕を解く。  彼の腕の中で身体を反転させた。少し先へ進めば唇と唇が重なってしまいそうなその距離で、彼を見つめる。彼の頬に指先を沿わせて、静かに撫でた。ぴくりと、分からないほどにその頬の皮膚が震えたのが分かった。次の言葉を待つ彼の表情は、奥の方で小さな恐れを抱いているように思えた。 「……?」 「、……侑里さんが、気がかりか?」 「……、」  彼の表情に一瞬影が差すのを見逃したりはしなかった。刺すように痛んだ心は押し込めて、言葉を重ねる。 「支えたいと思うなら、そうしたらいい」 「歳也さん」 「彼女も頼る誰かが必要だろう。……それが、あんたがしたいと思うことなら、俺は止めたりしない」 「……」 「それを望むんだったら、俺は何も言わない」  じくじくと、癒えない傷が付けられたかのように底で痛む自分の心はあって、それでも伝えると決めたのだと自分に言い聞かせる。  口元はわずかに強張って、それを悟られないようにと、わずかに視線を落として、逸した。見開かれた彼の瞳が端の方で歪むのが分かった。無言の間が、部屋の床にじわりと広がるような感覚がして、頬に触れていた指先が小さくひとつ震えるのに気づかれてはいけないとその指先を静かに離す。せり上がって零れそうになる感情を飲み込んで、彼を再び見つめた。 「竜太」

「――私が支えたいのは、あなたです。歳也さん」

背を引き寄せられたのは一瞬で、彼の首筋にちょうど自分の顔が埋まるように、後頭部に手を添えられて抱きしめられたのが分かった。残る葬送の気配に入り混じって彼のうっすらとした肌の匂いを感じて、緩んでいた神経が冴えて、甘く痺れる。ゆるやかな息遣いが肌をくすぐる。耳元に唇を寄せられて注がれる声音に、ぞわりと背の震えるのが分かった。  ほんのわずかに口を噤んで逡巡するように、彼は軽くため息を吐く。その音が間近に耳に響く。 「侑里には拒まれました」 「……え?」  彼は続けた。 「過去、一方的に別れを切り出されてしばらく引きずっていたが、今回の件で私に頼ろうとは、もう思っていないと」 「……」 「あなたもそうだろうと、言われました」  背を抱く手が強く胸元へ自分の身を抱き込もうとする。それを留めることは出来ずに、ただ受け入れた。心地よい、柔過ぎず硬過ぎないその力に身を委ねる。 「お互いにもう、向き合うべきものが目の前の相手でないことは、分かっているはずだと」

『帰ろう、侑里』 「あなたには、待っている人がいる」 『一緒に降りよう。――――俺にも、帰る場所があるから』 「誰のことも好きじゃなかったあなたが、一人で飛んでいたあなたが。……やっと。選んだ場所があるんだろうと」

『待っている人がいるから。――――――、俺と一緒に、帰ろう』

「歳也さん」  抱きしめる力はそのまま、彼が耳元で名前を囁く。自分の名前を形作ったその唇が静かに額に寄せられたのを感じた。かすかな水音をたてて、額から頬、頬から耳へ口づけを落としてくる。 「私の心は離れたりしない」 「……」 「待っていてくれたあなたがいたから、私は飛べたし、戻って来れた。ずっと、あなたの『声』に出会ったときから、そうだった」 「竜太」 「だから、私が飛んで行きます。あなたのところへ」 「…………」 「いつでも。――……空を、飛んでいく」

「あなたを支えるのは、私だ」

だから。  消えた言葉の代わりに唇に重なる柔い感触が、締め付けるような痛みと甘さを滲ませて、触れた場所を震わせる。  離していた指先が再び絡んで、強く結び付けられていくのを感じた。繋いだ唇は離れる間を惜しむように何度も触れて、お互いの温度を溶け合わせるように深く、長く繋ぎ、留めようとする。閉じていた目を薄く開いて、唇をわずかに離すと、濡れた色を纏った彼の目が自分を捉えていた。濃いアンバーブラウンの虹彩は澄んで、広がる青空のように吸い込まれそうな深さでそこにある。

「竜太、……」  胸が絞られるように痛んだ。けれどその痛みは、けして己を傷つけるものではない。  どうしようもなく愛おしく、離すことなど出来ない。指を解いて、腕を背に回す。再び重ねた唇に彼が応えて、そうして自分を抱き締める腕に一層力が籠るのを背に感じながら、深まる夜の色を瞼に滲ませて、目を閉じた。

『――昇任の話を、受けます』

『いいのか?昇任すれば、いったんは研修で宮城に行くことになる』 『ええ、承知しています』 『羽田を離れることになるが、構わないのかね』 『……ええ、ですから。涌井次席に相談があるのですが』 『相談?』 『はい』

『――昇任の話を、受諾する条件です』

受け入れるのには、まだ多少の躊躇いと、心の準備がいる。  抵抗があるというのでもない。恥じらいというのも今更であるとは思っていた。もう両の指では足りないほどの回数、彼とは身体を重ねて来た。彼もこちらの負担はよくよく承知している。お互いに己のコンディションがパフォーマンスを左右する仕事だ。翌日、翌々日のことまで考えて、彼が無茶な抱き方をしてくることはほとんど無い。  それでも制御が利かなくなる夜はある。こちらのシフトとフライトスケジュールが上手く重ならずに長く会うことが叶わなかった夜は、抱き締める手付きや前戯の細やかさにぶれがあるのを、感じていた。それは彼だけではない。自分も、負担の大きさやそれに対して構える心を飛び越えて、ただ無心に、彼の身体を味わいたいと思う瞬間がある。ただ感情のままに翻弄されたい。溢れる心をぶつけて、快楽に浸ってしまいたいと思う一瞬を誤魔化したりは出来ない。  シャワーの水音に、身体がぶつかり合う音が響く。反響する艶めかしい物音に神経を揺さぶられる。 「……ッぁ、あ、んッ」  腰を軽く持ち上げられて、顕になった秘部に熱を押し当てられる。ぬるりとした蠢く熱の感触と、熱いシャワーの温度が入り混じって、先に指で十分に解されて敏感になったその場所を刺激してきた。  硬くなって痺れるようにそそり立つ自分の熱に、流水は容赦なく打ち付ける。浴室の壁はつるつると濡れて、よすがにするには頼りないけれど、それでも縋るものを探してその壁に手を突いた。  彼が両手で腰骨を掴んで、双丘の隙間で熱を待つその場所へ、ぐぷりと硬いそれを差し込んだ。大きな異物を押し込まれる一瞬の不快感を逃すように奥歯を噛みしめる。力を入れれば苦痛は長引く。半ば押し込みながら、力を抜くようにと柔らかに腰の辺りをさする彼の指先の感触が伝わって、息を深く吐いて一気に飲み込むように、ゆらりと腰を蠢かせた。 「は、ァあ……っ、入……」  奥にまで熱いものが入って動くのが分かった。内壁を割開き、深い場所に彼のその熱の先端の到達するその感覚がして、次第に自分の中と彼のその熱が馴染んでいくのを感じた。気を緩めれば力が抜けて、頼りなく崩折れてしまいそうなその脚を、彼の大きな手のひらが支える。壁に触れた手に、彼が空いた手を重ねてくるのが分かった。指を絡めて、強く握りしめる。  背に、彼の胸板がぴたりと張り付いてくる。脚を支えていた手が腰のあたりに移動して、更に深く熱の先端が入り込むのに、声を上げるのを止められなかった。  最奥へ向かって、彼が律動を始める。シャワーの水と肌がぶつかる音と、繋がった粘膜のさせる音が、わんわんと倍ほどの音量で耳元に響く。下腹がじんじんと痺れて、まるで感覚を失ってしまいそうだ。けれど彼の熱の大きさと硬さだけはくっきりと、肌に刻まれていくようだった。 「歳也さん、……中、柔らかい」 「ッぁあ、あっあっ……」 「すみません、ベッドまで、間に合わなくて」  彼がそう耳元で囁いた。  その声に合わせるように、ぐ、と彼が腰を押し付けて来る。熱の体積が大きくなった気がした。強引に、さらに粘膜を押し広げられて、引き攣るような小さな痛みとともに、押し上げられるような心地よさの波が、全身を襲う。足先から頭の先に向かって、駆け上がるような痺れが広がる。 「りょう、た……ッ、ァあっ、お、く……」 「あなたの身体が久しぶりで。……早く、触れたかった」  ぐちゅぐちゅと淫猥な音を響かせて、中を掻き回された。わずかに抜いてさらに押し込む。快楽を引き上げるその場所を探るように、体積を増した彼の熱は容赦なく自分の下腹を蹂躙した。突き上げられる度に中が震えて、もっと欲しいとせがむように本能で彼の熱を咥えて離そうとしない。だらしなく開いたままになった口元から、掠れるような喘ぎが水音に混じり合って零れて水浸しの床に落ちる。湯気が肌をなぞって、肌の熱なのか湯の熱なのか、意識がぼんやりとして分からなくなってくる。  解けないようにと繋いでいた彼の指先が壁から離れる。壊れ物にふれるように、その指は腰骨から脇、腹筋の中心線を辿るように触れた。そうして胸元を押すように指の腹が触れて、刺激を求めて疼くその尖りを、その指先が摘み上げる。 「……ッあ……!」  びくりと肩が震えた。親指と人差し指で捏ねるように摘まれて刺激されると、びりと背が何かに打たれたように痙攣した。弱いところはもう隠すまでもない。硬くなるその場所を何度も繰り返して摘んでは撚られて、上げる声がさらにあられもないものに変化していくのが分かった。羞恥に頬が熱く火照る感触がした。  加えて、奥に入り込んだ彼の熱も律動を再び始める。抜き差しされるリズムに、そうしろと言われたわけでもないのに、腰は自然と揺らめいた。胸元から手を離して、その手はまた腰の辺りを支える。最奥まで貫くように突き上げられて、情けない掠れ声が上がる。 「アッ……ああ、あっやだ、や、だ……ッ」  意識を浚われそうな快感が走って、がくがくと脚が震えた。今にも濡れた床に倒れ込みそうだ。けれどそれは、彼のしっかりとした手に阻まれて、許されない。壁に触れた手に力を入れた。浅い息を繰り返す。 「歳也さん、……」  奥を突きながら、彼の手が前の、硬直して天を向いたままの熱に触れた。  律動を続けながら、そのリズムの隙間に差し挟むように、その前の熱もゆるゆると擦り上げられた。根本から握り込むように、そうして指先で繊細にそのラインを辿るように、包み込んだ手が熱の解放を煽ろうとする。  後蕾は穿たれたまま、ひくついて物足りなさを表現するように熱を咥えて収縮を繰り返す。扱き上げられた自分の雄の部分は先走りでぬらりと滑った雫を垂らした。雨のように身体を濡らすシャワーの音が、耳の奥で響き続ける。  背からの刺激と、前を弄られる快楽で、頭の中が乱気流の中のように乱れて、正常な思考をすることをよしとしない。ただ心地よさだけを貪るような、そんな動物的な欲求だけが、自分の中を支配していく。  彼の指が、熱の筋を辿る。その動きを追いかけるように、中で迸るのを待つ欲望が、せり上がる。 「あ、あっ……い、いく、いく…………ッ、りょうた……」 「歳也さん、私もです」 「あ、ゃ、やあ……ッ……」  熱に触れる指先の動きが速くなった。冷静さを保つように穏やかだった彼の呼吸もそれに合わせて、わずかに荒くなった気がした。ひときわ強く腰を押し付けられて、後ろから抱きしめられた。所在なく壁に触れていた指先が震えて、彼が項に口づけてくる。肩口に、彼の濡れて湿った髪の感触を直に感じた。 「あっ……ああッ……!!」 「……ぁ、歳也、さん…………!」  握り込まれて先端の割れた部分を指先で突かれて、すんでのところでこらえていた欲が、一気に先まで駆け上がるのが分かる。足先から全身が大きく震えた。ぎゅうと、彼の熱も締め付ける。薄い膜越しの、生温い感触が中に広がっていった。  受け止めきれなかった白濁が、腿を伝う。触れた彼の腰がびくりと大きくひとつ揺らぐのが、奥の骨まで伝わるような気がした。

「あ、……竜、太……」  ずるりと、彼が熱を引き抜いた。小さな圧迫感は拭われて、脱力して倒れそうになる身体を、彼が支えてくるのが分かった。  水音がざあざあと、二人の間に響いていた。身体を反転させて、彼と向き合う。手を伸ばして、濡れそぼった彼の髪を梳いた。その指先を彼が捉えて、頬に擦り寄せる。満たされて幸福そうに何度も自分の指先と手のひらにキスを落とす彼の笑みに、ひどく安堵した。  背を抱き寄せられて、素直に胸元に顔を埋めた。濡れた肩口に、額を擦り付けて目を閉じる。整う呼吸と共に、心臓の底から、どうしようもない愛おしさがこみ上げる。 「ッん……ふ……」  重なってくる唇に応える。湿り気に満ちた温い皮膚の感触が背筋を心地よく撫でた。濡れた水の味が口内に広がる。彼の舌がやんわりと絡んでくるのに、自分の舌を差し出した。

「歳也さん、好きだ」 「…………」 「離さない」  引き上げるのもやっとな腕を、ゆっくりと慎重に首筋に回した。きゅ、と抱きしめて小さく顎を上下させると、背を抱く彼の腕の力が強くなったようにも思えた。

『条件?』  涌井次席の声がふと頭の片隅に響く。 『はい。……研修後の配属先ですが』

『――――……羽田一択で。お願いします』

「あ」 「あ」

空を見上げる彼女に思わず声が漏れる。けして大き過ぎるというのでも無かったが、十分彼女の耳には届く声だったのだろう。空から視線を外した彼女は、こちらの顔をどうやら覚えていたらしい。おそらく前のやり取りを思い出したのだろう、ほんの少し頬が紅潮するのを、どうすることも出来ずに見つめていた。  黒いリクルートスーツは相変わらずで、大きなリュックの黄色が青空に照らされた沿道の緑に映える気がした。白く小さな顔は丸いショートカットのおかげでやはり、女性というよりは少年に近いなと思う。言えば失礼にあたることは分かっていたから、ただ微笑むだけで返した。 「この間は、どうも」 「あ、……はい、ありがとうございました」  小さくぺこりと彼女は頭を下げてくる。共通の話題もあるわけではない。いや、あると言えばあるけれど、彼のことを交えて話をしたとしても、彼女は困惑するだけだろうと思った。  バスを待つ列に、二人並んだ。彼女は戸惑ったような表情を崩さないままだ。声をかけなくても良かったのだろうが、そうしてしまったのは、よく晴れた今日の青空のせいかもしれない。  横風5ノットか。運用する滑走路の様子を頭の中で思い浮かべながら空を見上げるうち、彼女も同じようにその空を見上げていることに気が付いた。横目でその横顔を一瞥する。視線に気が付いたのか、彼女もこちらを見つめてきて、ふ、と二人、どことなくおかしくなって、笑いあった。

「綺麗ですね、空」 「――……ええ」

何か憑物が落ちたようなすっきりとした、清々しい笑顔だと思った。初めて出会った頃の、わずかに陰鬱な空気を孕ませた彼女の表情を思い出した。今目の前にいる彼女の顔にその薄暗い空気は見て取れない。  自分の及び知らぬところで、彼女もきっと、何かを乗り越えたのかもしれないと思った。「エンジェルハース」のジャケットを羽織り、空港を駆けていったその姿が今の彼女に重なる。  尊い命は戻って来ない。遺族の悲しみも慟哭もすぐに拭われることはないだろう。それでも空は変わらずそこにある。憂いも喜びも飲み込んで、ただ青く、澄み渡って眼前に広がる。 「…………あの」  高く小さな声が呼び止めるのに、視線を動かした。少しだけ窺うように、彼女が上目遣いでこちらを見つめてくる。 「?」 「空、……少し、好きになりました」 「……、そう、ですか」 「ええ」  彼女はそう頷いて、はにかむように、口元を上げた。

「空って、いつでも見上げるじゃないですか」  彼女はそう、青く濃い涼やかなグラデーションを描くその空に、また視線を向けた。どこか遠くから、滑走路を発つ航空機の金属音が響いて、聴こえてくる。 「、ああ、そうですね、大体は、……」 「どんなに下を向いていても、空を見るときだけは、顔を上げる。  どんなに絶望がその人を苦しめていても、悲しくて、悲しくてやりきれないときも」 「……」 「空を見上げるときだけは、上を、……前を向いて。それって」

「――希望だなって」

「だから、私も。自分の心に折り合いをつけて、前を向いて進みたいなと」 「……そうですか」 「ありがとうございました」 「……」  その謝意が何に向いているのかは尋ねることは出来なかった。  彼女はそう言って空を仰ぐと、こちらにまた小さく頭を下げた。  何かを返そうと思ったが、それは彼女の携帯の通知音に遮られる。「もう、社長、なんですか」そう通話の相手に少しうんざりしたように応える彼女の横顔を一瞥して、そうして自分も空を見上げた。  頬に影が差して、翼が空を横切る。白く大きなその主翼はまるで天使の羽根のようだと思った。  高度を上げ、彼が翼を翻して青の中へ溶けていく姿を見送る。躊躇う心は、もうそこにはない。

「Good Day.Nice flight.――……竜太」  呼んだ名前は、離陸音に紛れて空気に柔らかく消えた。  頭上の空に、手を広げる。そうして祈る。

希望が、この空から誰にでも降り注ぐようにと。共に取ったその手で、引き上げられるようにと。

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