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『――新波くんは知っている?』

誘導灯の光の中を夜の空へ発つために進む機体を視線の先へ捉えて、彼女はそう言った。 『航空運送の世界で、生きている人はPassengerよね』  マドラーで残り少ないグラスの中のアイスティーをかき混ぜるその指は控えめで艶の乗ったベージュ色をしていた。どこというわけでもない先の空を見つめるように、彼女は時折目を伏せながら、ひとりごちた。高い場所でまとめ上げた濃茶の髪の先が揺れて、白い首筋にカフェテラスの灯りが落ちて、その白さを映えさせていた。 『死んだ人は、Human Remains、つまりCargo、貨物扱いなのよ』  彼女の言わんとしていることを考えた。  遺体や遺骨は当然のことだが、規定上動物などと同じく、Cargo、「貨物」として飛行機に載せられることになっている。棺に入れられ、厳封されさらに厚く梱包された上で、他の貨物と同じく空輸されるのだ。  彼女とて今まで遺体を載せて飛んだことが無いわけではないだろう。遺体を空輸することは特に珍しいことでもなく、手続きの煩雑さを除けば、海外で亡くなった邦人の遺体を輸送することも同じであるはずだった。そして自分も、詳しいわけではないがそのことは知っている。 『飛行機は希望を載せて飛ぶ』  彼女は言葉を継いだ。 『でもそうでない人もいる。分かっているけど、…時々、忘れてしまうわね。翼に、悲しみを乗せて飛ぶ人もいること』  遺族にとって、愛する人の遺体はけしてCargoではない。だから尊厳と、悼む心を客室乗務員も持たねばならない。彼女はそう、静かに、こちらへ語りかけるわけでもなく呟いた。

『今日もあの飛行機には、ご遺体が乗っているんだろうなあと』   『でも、悲しみしかない、やるせない憤りを抱えたお客様が乗った飛行機でどんな言葉がけをするのか、私たちはお客様にどんな心がけを出来るのか。  不安というのはそういうことなの。

………それは、パイロットの秋津くんにとっても変わらないと、思っているのよ』

『JAL577.Wind 070 at 3.RWY 34R.Cleared for take off.』 『JAL577.RWY34R.Cleared for take off.』

彼の乗る、ジャパンエアー、ボーイング787の機影が小さな粒になるのを見送る。  その機は翌日、テロで犠牲になった人々の遺体と共に戻って来る。重苦しい事実を載せたその機体は、抜けるように濃く青い空へ向かって高度を上げ、やがて見えなくなった。  余韻に浸る間も、彼のその声の調子を振り返る余裕もない。次の離着陸機を滑走路へ送り込み、そうしてまた迎え入れる。彼の乗る飛行機が、ムバダールで起きた銃乱射テロ事件の遺族を乗せた特別機であることを誰もが知っていたが、それは管制をする側にとって何かが変化するということではなかった。乗せているものは違っても、飛ぶことには変わりがない。安全に離陸させること、そのことに他の航空機との差は無い。  けれど『Good Day.』は言うことが出来なかった。それは、その航空機が持つ目的を知るからというだけではなく、彼にそう言って送り出すことが出来ない自分の心持ちが理由のひとつであることも、分かっていた。     「そろそろ返事をと思ってね」 「……」 「昇任の件だ。今週末には報告をと急かされてな。急がせて申し訳ないが」  涌井次席はそう言ってブリーフィングルームの椅子に背をもたせかけた。紙カップの中の濃茶の液体が小さく揺れて、細い湯気をたてていた。 「……答えは出たかね?」 「…………」  返答を留める自分のことを、涌井次席は予想していたかのように小さなため息を吐いた。けれどそれは、呆れているというのでもない。こちらを見つめて、小さく口の端を上げて、涌井次席は目尻の皺を深くしてこちらに微笑みかけてきた。  脳裏に、昨夜の出来事が思い浮かんだ。夜の冷えた静寂と温度が支配する中で、冷たく無言で自分の隣を擦り抜けていった彼の肩や背を思い起こすと、じくりと胸の片隅が潰されるかのように痛んだ。  あれが答えではないかと一瞬、そんな考えがちらつく。彼がこちらに語ることのなかったあの女性との関わりのことも、それ以外のことでも。結局お互いに何も打ち明けることのないまま、彼は今、アフリカの地に向かって操縦桿を握っている。そうして自分は、そんな彼をタワーから見送った。  本当は、彼は自分のことをそれほどまでに必要だとは思っていなかったのかもしれない。そうして、自分も。彼を必要だとしていなかったのかもしれなかった。求め合って、一緒にいた。それはただそれだけで、心から、願っていたことではないのかもしれない。  いい大人なのだから自分のことの諸々は自分で処理出来る。全てを明け透けにする必要はないとは思っていて、けれどお互いを隔てたその事柄は、きちんと向き合って処理するべきことだったはずだ。けれど、お互いにそれが出来なかった。  あの女性は誰で、彼とどんな関わりを持っていたのか。そうして、昇任するにあたって自分がどうするべきなのか。直前でお互いに問い質すことも向き合うこともしなかった。  そのことこそが、答えではないかと思う。

『あなたにとって、……私は、必要な存在ではなく。  ただ、負担でしかないのか』  彼のその言葉に、違うと言うことが出来なかった。

「……今、やはり答えなければいけませんか」 「…………」  それが分かっているなら答えは明解であるはずで、けれどその最後の一言は出てこなかった。往生際悪くそう食い下がった自分を、涌井次席はけして頭ごなしに咎めたりはしなかった。 「まだ、迷っているのかい」 「……すみません、次席」  頭を下げた自分の頭上に、ふ、と涌井次席の吐く息の音が降りかかった。足元に落としていた視線を上げて、次席の顔にその視線を動かした。何かを懐かしむような、慈しむような表情で、次席はこちらを見つめていた。 「まあ、迷えばいいと言ったのはこちらだからな」 「……」 「そう簡単に、答えの出ることではないということかな」 「……涌井さん」

「君も知っていると思うが」 「え?」 「私の妻のことを覚えているか。……君には、葬儀に参列してもらっただろう」 「……」 「この間、ちょうど七回忌の法要をしてね」      小雨の降る薄灰色の葬儀場の風景を頭に思い描いた。数年前の、花冷えというほどでもないけれど珍しく冷えた春の終わり頃のことだった。  なぜそのことを今、話題に上らせるのかが分からずにいた。それが表情に出ていたのだろう、涌井次席はこちらを見つめたまま、ほんのわずかに何かを思い出したように、寂しげに口元だけを上げて微笑んでいた。悲しみはその口元に滲む。けれどそれは、現在進行型の感情では無い気もして、上手くそれに応えることは出来なかった。  その頃、自分は涌井次席とは離れた地方の空港を転々としていた。訓練生の頃から微に入り細にわたり指導を受けていた涌井次席の細君の逝去に、おこがましいとは思ったが参列するために上京した。その記憶は鮮明に残っている。 「妻は、良い意味でも悪い意味でも、私の仕事に理解のある女性だった」 「……」  一度だけ会った、穏やかな春のような笑みを湛えた初老の女性の顔を思い起こす。次に会ったのは、黒い遺影の枠の中だった。棺の中の遺体は見ることが出来なかった。祭壇の棺を見つめる憔悴した涌井次席の姿だけが、自分の瞼に残っている。 「良い意味というのは、私の仕事に口を出さなかったということだ。興味が無いわけじゃない。転勤も多く、単身赴任もあった。昼夜問わず空港に詰めて働くのが管制官だ。ただ、管制官とはこういうものだと割り切って接してくれていたのは助かった」 「そうですか、……」 「悪い意味というのは、」  次席はそう言ったきり、一瞬言葉を区切った。そうしてしばらく黙って窓の外の空を眺めた。雲ひとつ見えない空がガラス越しに広がっている。

「――何も、私に言うことはなかったということだ」

「妻の体調が思わしくないことも、そして余命が残りわずかだったことも。  私は妻が死んでから知った。もともと口数も少なく自分の思いを荒々しく出すような人間でもなかったから、私もそれに甘えているところはあったんだ。周囲は夫を呼び寄せて最期の時間を過ごすべきだと妻を諭したそうだ。だが妻は、それをしなかった。夫には仕事がある、それは皆のための大事な仕事なのだから、自分のことで煩わせてはいけないと、そう、周囲には話をしていたそうだ。  そのことを聞いて、私は悔いた。そして後悔してももう、妻はいなくなっていた」 「……」 「その時になって初めて、ああ、自分は妻がいなければ生きていけなかったんだと気が付いてな。  仕事に邁進出来ていたのも何もかも。妻がいたからこそだったんだと。  自分がここまでやって来れたのは、一人の力ではなくて、妻の力があってこそだったのだと」 「次席」 「けれどもうそれは、妻には伝わらない」  わずかに掠れたようになった声に肩が小さく強張る。その声はこちらの言葉を待っているというのではなく、ただ自分の来た道を振り返っているように見えた。 「……だから君にも。私のような悔いを残して欲しくはないと思っているんだ、新波くん」  涌井次席はそう言って、窓に向けていた目をこちらへ戻した。  奥に宿っていた過去の悲しい記憶の色はまた底に沈んで、今次席の表情に浮かんでいるのは目の前の後輩の行く末なのだろうと思った。まるで痛みが移っていくように、肌に、その奥に思いは浸潤する。目の前に、昨晩の彼の苦々しい表情が浮かんでは消えた。

「何かを大事にすることは、何かを犠牲にすることではない」 「……」 「人生には、己を捧げる使命よりももっと大事なものが出来る瞬間がある。その時に天秤にかけてどちらを選んでも、それは何も間違いではない。片方を蔑ろにすることと、それは同じではないんだ。  そして自分を形作るのは自分だけじゃない、仕事だけでもない。  愛する人がいるからこそ、己は己たり得る、そう気付く瞬間が必ずある。誇りをかけて行う仕事も、誰かのために、愛する人のためにやってきたことのはずだ」 「……」 「新波くん」

「空は無くならない。どこへ行っても、繋がっている。  ――自分が今、本当に大切にしたいと思うものを、よく考えて答えて欲しい」

上に絞られるのも急かされるのも慣れているから気にしなくていいと、涌井次席は冗談めかした調子でそう言って肩を叩く。上手くそれに返したかどうかは自信が無かった。  彼とのことを涌井次席に話したことは無い。けれど自分が何に迷っているのか、それは次席には伝わっているのだろうと思った。  考えようとしたけれど、断ち切られて続けることが出来なかったやり取りは胸を暗く覆って思考を妨げようとしている。明日、この空港に彼が戻って来るその時に、自分の中で答えは出ているのか。けれどそれが、彼に伝えられるものなのかどうかは分からなかった。

「――すみません!!新波さん」  腰を直角に折って頭を下げてきたのは、蕪木だった。紙カップを傾ける手を止めて、頭を垂れたまま顔を上げようとしない彼のつんと尖った頭の先を見つめた。時刻は次の遅番のチームとの交替が迫っていることを伝えてくる。夕刻のラッシュを迎える前に、引き継ぎまで済ませておかねばならない。 「どうしたんだ、蕪木」 「昇任のことを、話してしまいました」 「……」 「秋津さんに。俺」 「…………、そうだったのか」  なぜ彼が、自分の話していない昇任の件を知っていたのか。  その直前と直後のやり取りのことで頭が埋め尽くされて考えも及ばなかったが、ようやく合点がいった。怒りは湧かない。内々の話を外部に漏らしたことは後で指導を入れるにしても、感情的になるほどでもなかった。  いつもの彼の強気で少々生意気な空気が、全くと言っていいほどに萎れてしまっているのもあった。よほど思うところがあったのだろう。  憤った返答でないことを確かめて、蕪木はそろそろと顔を上げた。そうしてこちらを窺うようにして、言葉を継いだ。 「たまたまあの日、あの、……チャーター便が飛ぶって決まった日です。秋津さんに第1ターミナルで会って。  最近新波さんの様子がおかしいような気がするから何かあったんだろうかって聞かれたので、つい」 「……」 「本当に、すみませんでした」 「……どうして謝る」 「……喧嘩、しましたよね」 「……」 「何か、そんな気がして」  蕪木はそう言って、低く萎れたままの声で呟くように言葉を続けた。  目の前のこの若い管制官は読み筋も良いが、そういった感情の機微にも敏いところがある。彼と自分のその分からないほどにずれた違和感を、蕪木は悟っているようだった。 「新波さん、秋津さんの機に『Good Day.』って言わなかったですよね、今日」 「……あの機に、それは言えないだろう」  言った自分の言葉に被せるように、蕪木の声も重なる。 「それでも、何かは言えたでしょう。気をつけて、でも、安全に、でも。でもそれも、無かったから」 「……」 「俺が口を滑らせたばっかりに、きっと仲違いをしたんだと……本当に、すみません」  彼はそう言って再び、深々と頭を下げた。  蕪木は、訓練生の頃からパイロットの彼とは妙なつながりを持っていた。一度退職まで考えた訓練生だった蕪木をこちらへ戻して来たのは彼だ。蕪木もそのことは理解していて、彼には心を開いてよく話をしているようだった。  口を滑らせたのは確かに蕪木かもしれないが、こちらの様子を尋ねてきたのは彼だ。自分が口に出すことが出来なかったその話と、ぎこちなくなっていた態度のことを、彼なりに察知していたということだろう。  やはり分かっていたのかと胸の底にじわりと小さな痛みが広がる。蕪木からその話を聞いてから、自分と会うまでの時間、彼は何を考えていたのだろうと思った。重なるようにチャーター便への乗務が決まった。ただのチャーター便ではない、大きな責任と重圧を、そして遺族の絶望を抱える外務省のチャーター便だ。自分はもっと、掛ける言葉があったのかもしれなかった。  どうかしたのか、ではなくて、もっと。彼が聴きたいと思っていた言葉があったのではないか。自分に、彼から聴きたかった言葉があったように。けれど時間が戻るわけではない。もう愛しい人に自分の思いは伝わらないのだと呟く涌井次席の柔らかな視線が、不意に思い浮かんだ。

「……まだ、新波さんに残っていて欲しいです」  聞こえるかそうでないかの小さな呟きを、蕪木が漏らしたのが分かった。 「……蕪木?」  それを言うべきか否か、逡巡するように視線を泳がせてから、蕪木は何かを決めたように口を開いた。 「まだあなたから、学びたいことも聞きたいこともあります。だから、本音は、羽田に残ってて欲しいです、俺は」 「……」 「でもそれは、新波さんが決めることで、……新波さんと、秋津さんが話すことなのかなと、思うから」  蕪木はそこまで言って、一瞬だけ目を伏せた。

「新波さんがどんな選択をしても、……俺は、ついていくつもりです」

「……」 「だからっていうか、何ていうか。あの。秋津さんとも、仲直りしてください」  すみません。駄目押しするかのように蕪木は言って、踵を返す。そうしてこちらが返す言葉を考えるまでもなく、またたく間に早足で休憩室を出て行った。  遠のく背を引き止めることも出来ずに、ただ見送る。ひとり残された部屋の白いフロアに、日没前の濃い橙と紫を取り混ぜたような光の色が染み込んでいくのが分かった。  その光が徐々に室内に色を伸ばして足元を照らしていくのを、ただ一人、黙って見つめている自分がいた。喉がひりついたように、ただ痛かった。

テロの犠牲者の遺体確認が終了し遺族を乗せたチャーター便がムバダールを発ったという知らせが届いたのは、その日の夜のことだった。

到着は午前10時頃であるということが朝のブリーフィングで周知される。  チャーター便はスポットに入った後、そのまま献花式がその場で執り行われるということだった。参列するのは外務大臣をはじめとした、多くの要人ということだった。他の航空機の離着陸を阻害しないよう予定されたスポットへ誘導すること、そして警備など、外務省主導で厳戒態勢を敷いているものの、滑走路内へのマスコミやその他の者の侵入があった場合の対応をこちらも頭に入れておくようにとの指示が二、三重ねて涌井次席から告げられた。  通勤途中に立ち寄った第1ターミナルの朝の風景を思い起こす。ターミナル内も滑走路も普段と変わることのない景色が広がっていた。ちらほらとテレビ局のロゴの目立つカメラを抱えた人間は行き過ぎていったが、それも凪に時折立つさざ波のようにささやかな緊張感であるだけで、他の旅客にしてみれば、定刻通りに自分の乗る機が飛ぶことが何より最優先の事項なのだろうと思う。  それに何を思うわけでもない。日常を日常として流していくことの難しさは、日常の中にいては気が付かないことだ。当たり前の尊さは、それを失ってから気付く。  今日羽田へ降り立つ、彼の操縦するその機も。そんな日常をもう二度と取り戻すことが出来ない人々の思いを乗せているのだろうと思った。悲しみの色にはそぐわないのだろう、今日も青い空は澄んで美しく頭上に広がる。その青を数秒ほど仰いで、ヘッドセットを耳にかけた。360°を見渡して、そうしてPTTボタンを押す。 『Good morning.ANA 59.Tokyo TWR.Taxi to C2.Hold short of RWY 34R.…』

「ああ新波、ちょっとこれ見ろよ」  そう言って携帯の画面を差し出してきたのは清家だった。画面を覗き込む。小さく狭いその携帯の画面には、例のテロ事件のニュースが表示されていた。  チャーター便の到着を前にして、犠牲者の詳細な情報がネット上で拡散しているようだった。犠牲者の多くは、日本国内の開発援助団体の職員であったはずだ。実名も報道されてはいるが、正式にどのような職務に就いていたのかも、その人柄も家族構成も発表はされていなかった。 「まあ外野はうるさいことだ」 「そうだな、……」  生返事の自分に、清家は何も言わない。人の口に戸の立てられないことは、自分の経験から十分に分かっている。けれど苦い感情が底に湧くのを止められなかった。その記事に踊るのは犠牲者のプライベートだった。どんな性格で、どんな学校に通い、どんな人間だったか。それが真実だと証明する者は誰もいない。そして、止める者もいない。  清家とて興味が大きいわけでもないのだろう。ただの情報として自分にそれを伝えようとしているのは分かっていたから噛みつくのも大人気ないとひとつ息を吐く。 「何か、元空自のパイロットっていう奴もいたらしいぞ」 「…………え?」 「ほら」  そう言って目の前に突き出された画面を見つめた。  そこには、犠牲者の一人の詳細が表示されていた。元空自のファイターパイロットで、元自衛官としての経験を活かしながら開発援助団体の職員として働いていたという男性の画像が写し込まれている。今回のムバダールの開発事業に関しては、治安維持についてのアドバイザーとして帯同していたのだと、その記事は伝えていた。  元空自のパイロット。それは今までの彼とのやり取りの中で何度も聞いた言葉だった。はっきりと詳しく、彼の空自時代のことを聞いたことはない。ただ、彼はいつも、自分に出会うまでは「雨の中」にいたのだと言う。  退官して民間の航空会社へ再雇用されたという経歴を見ても、その「雨の中」がけして喜ばしいものでないことは、うっすらとだが理解していた。「雨の中」にいたのは、自分も同じことだ。同じ「雨の中」で孤独に濡れていた。そのことが、自分と彼とを結びつけたひとつのきっかけだった。  自分の中の事実の符合に、どくりと心臓の底を拍動が打つのが分かった。 「……」 「けどどうも、つまんねえ推理するやつもいるみたいだな。掲示板も荒れてる」  ため息混じりに、清家が続けた。 「推理?」 「今回のテロは、こいつが裏で手を引いてんじゃないかってよ」 「……ありえないだろ」 「現地の武装組織と繋がって金品の授受もあったんじゃないかって。トラブって、今回のテロにかこつけて殺されたってよ」 「馬鹿なことを」 「暇だからなあ、どいつもこいつも」  下に長く伸びたスレッドには、心無いコメントが踊っていた。自己責任、死んで当然、一見メリットのないように見えるその開発援助を非難、揶揄する言葉も散見する。 「おい、新波」 「え?」 「どうした」 「ああ、いや、…………」  訝しげな視線をこちらに送ってくる清家に、何も懸念することはないと言うように小さく笑んだ。清家は自分のその態度が、過去の出来事と重なっていると思い当たったのか、わずかに気まずい表情を浮かべた。  悪い、と小さくこちらへ告げてくるのに、頷くだけで返答する。けれど自分の心の中に渦巻くのは、自分の過去の出来事ではない。

何かが、繋がる気がした。  あの夜の第3ターミナルの風景を思い起こして胸が痛みをぶり返す。崩折れるように彼の胸元に引き寄せられていた女性の姿と、何かを押し殺すように彼女を抱き込んでいた彼の姿と表情が鮮明に眼前によみがえって、せり上がる感情を抑え込むように、大きく息を吐いた。糸と糸が絡まって結び目を作るように、ひとつひとつの記憶の欠片が次第に一本の線になるような感覚がした。それは、初めて触れる、彼の深淵の部分の話なのではないかと思った。  意識を逸らすつもりで腕時計に視線を送る。盤面の針は、チャーター便の到着まであとわずかの時刻を指していた。       「東京ACCより、メディカルエマージェンシーの報告です」  その報告にターミナルレーダー室が一瞬ざわめく。管制塔にもその動揺は伝わってきた。統括席に就く涌井次席の眉間に、深く皺が寄る。ぴんと張るような緊張感がタワー内に張り詰めた。  メディカルエマージェンシーは多くないが、全く無いわけではない。対応の仕方はタワーにいる誰もが訓練その他で熟知しているもののはずだった。しかし今回勝手が違うのは、その便が例のチャーター便であるということだ。円滑に何事もなく着陸しても注目を浴びるこの状況で、何かしらのトラブルが発生することは、混乱を大きくすることに他ならない。  確認用に流している映像には、着陸後すぐに執り行われる献花式の準備を進める職員の姿や、羽田空港に到着した要人の姿がひっきりなしに映っては消える。喉の奥に唾を飲み込んで推移を見守る。画面の端に映ったのは「エンジェルハース」と印字されたジャケットを羽織る、職員の影だった。 「ジャパンエアー577、ダカールからのチャーター便です。機内で乗客と客室乗務員との間でトラブルが起こったようです」 「トラブル?メディカルエマージェンシーだろ?」  清家が怪訝な顔をする。それはタワーにいる人間皆が同じことを思っているようだった。 「……乗客あるいは客室乗務員が負傷したか」  涌井次席が、険しい表情を崩さないままそう押し込むように低い声で呟いた。 「……」  背に冷たいものが走る。もし何らかの形で重傷を負っているならば、事は一刻を争うだろう。東京ACCからの交信が、その空気に重なる。 「当該機は最優先の着陸をリクエストしています。羽田、問題ないですね」 「はい、問題ありません。そのまま進入を継続してください」  レーダー室に詰めている蕪木が、そう返答した。  チャーター便で民間機とはいえ外務省の委託を受けた機だ、元々最優先の着陸は予定されていたことだった。通常の着陸を想定していたタワー内は、わずかに慌ただしくなった。涌井次席の低い声が響く。 「救急車を手配してくれ。それから外務省へ報告。577便はそのまま予定通りのスポットへ誘導する。負傷者がいれば、献花式が行われる前にただちに搬送だ」  その指示を合図に、留まって凍りついていたような空間が解けるように音声が飛び交った。そうしている間にも、定刻通りに通常の離着陸体制を取ってくる航空機が通信をリクエストしてきている。通常の離着陸を統制しながら緊急事態にも対応する。それは何も今回が初めてではないけれど、ひとつの油断も許されないその事態の深刻さを、誰もが感じて動き始めていた。 「新波くん」 「はい」 「グランドからタワーに切り替わったら、577便との交信は君に頼む」 「……分かりました」 「どういう状況かは分からんが安全が第一だ。外野のことは後でどうにでもなる」  肩に手を乗せて、涌井次席はそう落ち着いた声で言った。  それに目で応えた。ほんの一瞬次席は目を伏せて、そうして再び、触れた肩の指に力を入れてきた。 「乗客と、」 「……」

「――……やっと日本に帰ってきた、犠牲者《彼ら》を。無事に降ろそう」 「……、はい」

『Tokyo approach,Japan Air 577,』  くぐもった無線越しの彼の声は、それでもずいぶんと落ち着いているようだった。 『安全のため、ここからは日本語でお願いします』 『了解しました。ありがとうございます』  程なくして、管制はグランドからタワーへ引き継がれた。耳元で、彼の低く張りのある声が響いたのが分かった。  機械越しの声をお互いに判別出来ることは稀だ。通常ならばどのパイロットが、どの管制官が相手なのかは、よほど回数を重ねなければ把握することは出来ない。けれどそれでも、彼の「声」は聴けば分かる。耳元で名前を呼ぶ、柔らかさは奥に沈んではいるけれど、かすかなその二人きりの気配が、鼓膜を揺さぶった。 『高度1万フィート上空で着陸体制の指示を行いましたが、指示に従わない乗客が一人、客室乗務員ともみ合いになりました』  彼はそう淀みなく状況を伝えてきた。 『機内食のカトラリーを武器に、客室乗務員を脅し無理な着陸を要求してきたので、こちらで今説得を試みています』 『では、今も状況は変わらないと』 『はい、今は、小康状態ですが』 『負傷者は』 『いませんが、その乗客のパニックが激しいようです。間もなく着陸しますが着陸時の対応をお願いします』 『分かりました。準備は整えています』 『roger.』  その乗客の混乱が他の乗客に派生しているということはない、他の乗客は乗務員の指示通りに着陸態勢を取っている、その点に関しては安全に問題ないと彼は付け加えた。  彼の声を聴きながら、空へ視線を向ける。彼の乗る577便の機影が、青い空に白い点のように浮かび、次第にその形を大きくしているのが見えた。

『……新波さん』 「……、」  唐突に呼ばれた名前に、咄嗟に答えることが出来ずに口を一瞬噤んだ。  その「声」はどこか甘さを帯びたようでいて、その甘さはひどく痛みを孕んでいるようにも聞こえた。懇願というのだろうか、こちらへ何か望むことがあるのだろうかと思った。 ほんのわずかな沈黙の後、彼の声はその言葉を紡いだ。 『この乗客がもし最後まで指示に従わなければ、乗客、乗務員共に着陸に危険を伴います。ですから、ゴーアラウンドの可能性もあります』 『……』 『献花式や諸々、大きな影響を及ぼすことは理解していますが、安全のための措置と思ってください』 『……』 『だが粘りたい。できれば定刻通り、問題なくこの機を降ろしたいと思っています』 『竜太』 『生きて帰ることが出来なかったのだから』  その言葉を長く躊躇ったような声音で、彼は形にした。

『もう生きて、日本の空を見ることは叶わないのだから。  せめて、穏やかに降ろしたい。滞り無く、迎え入れられるように。

――あなたに、管制に迷惑をかけるかもしれませんが、ぎりぎりまでは、待っていただけますか』

一瞬、一本の線が、目の前に浮かんだ気がした。  彼のその「声」が、耳の奥に染み込むように響く。目の前で、頬を撫でて柔らかく笑む彼の顔が思い浮かんだ。 『歳也さん』  足の先からじわりと、説明のつかない感情と共に熱く痺れるような何かがゆっくりと駆け上がる。締め付けるような鈍い痛みと、逸るもどかしさを混ぜてしまったような、そんな感覚が自分の全身を覆っていくようにも思えた。  今すぐその顔を見て、手を取りたい。空へ、その手を伸ばして。  今ここで吐き出してしまいそうなその感情を、どうにか体の底へ押し込める。 『分かりました』  そう返答した。短く『Thank you.』と告げる彼の声が耳に届く。

『Japan Air 577,runway 22,cleared to land,wind 070,at 23.』 『Japan Air 577,runway 22,roger.』

きんとした鋭い接地音と共に、白い翼は滑走路を滑る。重い空気を割く音は次第に小さな機械音へ切り替わり、リムジンバスの待つ駐機場へ、緩やかにその機体を横たえさせた。  流したままのどこかのテレビ局の映像が、けたたましい調子で到着を告げる。アップになった577便の映像から、彼の姿はもちろん確認は出来ない。速度を少しずつ落としながら目的の場所へ向かっていたその機体は、やがてエンジンを止め、完全にその動きを止めた。それを合図に、タワーにも安堵の空気が波紋のように広がった。  PTTボタンに添えていた指を離す。ぷつりと音声が途切れる音が耳元で小さく響いた。その代わりに、自分の吐いた大きな息遣いの音が、思ったよりも大きく聞こえたような気がした。肩の力を抜き、彼の機が停まったのだろう辺りを、目を細めて見つめた。

「おかえり」  涌井次席が、そう背後で小さく呟いたのが聞こえた。

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