←前  目次  次→

名前を呼ぶことは肌を重ねるよりもずっと簡単なことのように思っていた。

けれど存外それが出来ないことであるのを、一昨日自分は経験した。まだ、同じ種類の心を交わして間がないということもあるのかもしれないが、それでも、彼の名を口にすることには大きな躊躇いがあった。  馴れ馴れしさを助長するからだろうか。それともこの歳で、お互いに想いを同じくしたというだけで気安く下の名前で呼ぶことは子どもじみているとでも思ったのだろうか。そのどれもが、当てはまらない気がする。  遠慮というのが一番近いような気もするが、それは正解ではないだろうとも思う。  強いていうなら、やはり恐れなのだと、ブリーフィングで配られた書類を再度繰りながら頭の片隅で思った。名前を呼ぶことで形になる何かに、まだ躊躇なく手を伸ばせないでいる。それが何かは、自分の中でもはっきりとしない。

『あ、あッ……ぁあ……!』  熱を突き立て最奥を抉る。  固く閉じていた蕾を無理やり割り開くような自分の熱の放埒に彼は従うままだった。甘く掠れた声が響いて、しなやかな筋肉に彩られた背が何度もしなる。  開いて力なく崩折れる脚と腰を掴み上げて、半分引き抜いたその熱をもう一度奥へと差し込む。律動を早めると、彼の嬌声もリズムを上げて、ひくつく喉から零れ落ちる吐息混じりの喘ぎ声が切なく悶えるように室内を濡らしていく。細い腰が揺らめき、初めて咥えるその硬い感触を、どうにか受け入れようとする。  ――それでも、名前は呼ばれなかった。正常な意識を保つことさえも放棄したその睦み合う時間でさえも。彼は、そのことに対して頑なに、口を閉ざしていた。

「なお、備蓄用毛布の数ですが――……、艦長、お聞きでしょうか」 「、あ、ああ」  怪訝そうに眉を寄せる尉官に誤魔化すような相槌を打った後、わずかに後悔した。  意識を完全に奪われていたわけではないが、考え事をしていたのは事実で、けれどそれを悟られるわけにはいかない。聞いていなかっただろうというような顔でこちらを小さく睨みつけるように見つめる尉官に、やんわりと口元だけの笑みで答える。 「訓練の実施時刻は」 「明朝0900を予定しております」  マニュアルに印字されてはいたが、再度確認するように尋ねると、目の前の尉官はそう答えた。  東京23区地下十数キロを震源とした、震度7、マグニチュード7.3の首都直下型地震の発生を想定した、関東一円の市町村合同の防災訓練を数週間後に控えていた。むろん防衛省もそこへ参加する。「いぶき」は帰宅困難者の水上代替輸送および避難者への備蓄用品の提供のための訓練を行うことになっていた。  警察・消防・その他の自治体が一堂に会する機会だ。ずいぶんと前から計画されていて、微調整が繰り返し行われていた。会合にも幾度か参加していた。  聞けば震度7、マグニチュード7.3というのは1995年に発生した阪神淡路大震災を元にした数値であるという。自衛隊という組織を成り立たせる中心的な柱でもある災害派遣任務にとって、大きな節目となった地震だ。あいにく自分の経験は無いが、派遣の経験を持つ隊員も、少なくはない。思うところのある乗員もいないではないだろう。 「準備は問題なく?」 「はい」  尉官はそう言って、また書類を読み上げ始める。耳を傾けながら指先で厚いマニュアルに視線を送った。帰宅困難者の水上代替輸送については、これが初めての経験ではない。「いぶき」型の大きな艦艇が参加するのは初めてであるが、やることにそれほど差があるわけではない。  ひと通りの説明を聞いた後、尉官を下がらせる。靴音が遠のいてしんとした艦長室に残ったのは椅子に背をもたせかけた自分と、その背後で少しだけ緊張を緩めたように小さく息を吐いた、彼だけだった。  出港してしばらくの時間がたっていた。速度は安定し、一路訓練海域に向かって「いぶき」は航行を続けていた。

「――あなたは、経験は」 「……」

訝しげな顔を浮かべた彼は、答えることをわずかに躊躇うようなしぐさを見せる。言葉が足らなかったかと付け加えた。 「「いぶき」ほどの規模と装備の艦艇が、このような防災訓練に参加することはあるのだろうかと」 「……輸送艦でない艦艇が参加するというのは、あまり聞いたことはありませんが」  少し考え込むような素振りを見せた後、彼はそう呟いた。 「非常時、緊急時を想定すれば、無いことでもないでしょう」  いざとなれば、動ける者が対応せねばならないのですからと、彼は言った。  それは間違いない。戦闘機を積むための十分な広さのある艦だ。収容量だけで言うなら輸送艦としての機能も十分に期待できると、そう考慮された上でのこの度の訓練参加なのかもしれないとも思った。 「そうだな」 「私は幾度か。……経験はあります」  聞いたことは無いが、彼はいくつかの艦艇の艦長を務めた経験がある。その中で、このような防災訓練に参加したこともあるとそう言った。 「そうか。ならば話は早い」 「どういうことでしょうか」 「あなたに任せておけば、問題ないだろう」 「……」 「勉強させてください、副長」  わずかに冗談めかしたのを、彼は素直に受け取ったようだった。 「……そうやって、殊勝なことを言って。甘えんでください」  呆れたような色も滲ませる静かな口調に、本気の憤りは感じなかった。  どうしようもない子どもを前にしたような小さなため息を吐いて、彼はこちらを見つめて、呟いた。

「――……あなたは、艦長なのだから」

黙って向き合い見つめると、彼の濃い色の瞳が戸惑ったように小さく揺れたのが分かった。  わずかな動揺をこちらに悟られまいと表情は微動だにしないが、一歩後ずさるように踵に力を入れて床を踏みしめているのに気が付かない自分ではなかった。  怯えさせるつもりはなかったが、一昨日の一件は彼を警戒させるのには十分だったのだろうという自覚はある。悔いはあって、だからこそその話を彼としたいと思っていた。言い訳に終始するのは自明のことで、それでもそうなるに至った自分の感情は説明しておきたい。惑いながらもこちらを受け入れた彼の心を尊重したいと思っていることをきちんと伝えなければいけない。そう思った。  指先をそっと伸ばして頬に触れると彼が小さくびくりと肩を震わせた。眉を小さく寄せて、いつ逃れるか、その算段をしているようにも思える。ちくりと刺して、鈍く広がる痛みが胸の底に揺蕩った。手負いの獣に手を差し伸べるような錯覚さえ抱く。 「、……艦長」  ここは公の場だと言い聞かせるように、彼はその響きをひとつひとつ確かめるように声に出した。逃げる素振りをあからさまに見せはしないが、触れることを完全に許したのではないぴりと張った緊張感が伝わってきた。  手のひらで包んで、出来るだけ慎重にその頬を撫でた。自分の身体の下で涙を染み込ませた皮膚の湿り気は失われてはいるが、ざらついた髭の奥の肌や、目元の薄い皮膚の部分の水分はそのままのような気がした。指の腹に吸い付いて、離れない。わずかに険しくなる表情とは裏腹に、血の色を集めていくその頬に、唇を寄せてしまいたいと思った。

「……すみませんでした」 「……」 「性急過ぎたのかもしれない」  頬に触れていた手を耳朶に移動させた。耳の裏を撫でて、耳の柔らかな皮膚を摘んでから、首筋を指先でなぞる。駆け上がるような心地よさを喉の奥に落とし込むように、彼はわずかに温い息を吐いた。目を伏せて、ぎゅうと眉根を寄せる。  やめてくれ、と力ない呟きが耳に届いた気がした。構わず指先を作業服の襟と首筋の間に滑り込ませて、上まで留めあげていたボタンを外す。そうして鎖骨を辿るようにして触れると、くぐもった消え入りそうな声を、彼が耐えきれずに絞り出すのが分かった。  身体の中に熱が籠もって、下腹の疼くその気配がする。この場で箍を外さない自信と自負はあるが、熱を持て余すのを留めることはかなわない。作業服で覆われた彼の腰に手をあてがって、わずかに引き寄せた。内を巡る感情をそのまま映し出すかのように、彼と距離を詰めて、低く囁いた。 「けれど我慢ができなかった」 「……」 「副長」

「――あなたを抱きたいという欲に、勝てなくなってしまった」

新波さん。歳也さん。  心の中では形になっているけれど、それが彼へ届く声になることはなかった。線の前で踏み留まろうとする自分をぼんやりと俯瞰して見つめているようなそんな気になる。  名前を呼ぶのは今ではない。呼べるのかも分からないでいた。彼を支配したいわけでも、自分の物だと声高に叫びたいわけでもない。たかが名前だと思う一方で、それは何よりも自分たちにとって大きな壁のようでもある。名前を呼んで所有しようとする意志を欠片でも見せれば、近くなったはずの彼の存在が瞬く間に遠のくような気がした。  けれどこのまま、線を挟んで向き合っているだけが自分と彼にとって正しいあり方だとも思えないでいる。惑っているのは自分も同じで、詫びる言葉に心からの謝意があるのかどうかも、自分でよく分からなくなってきていた。 「――分からない」  抱き寄せられたのを拒む素振りは見せずに、濡れたままの視線を彷徨わせながら、彼は気の遠くなるほどの時間黙り込んでから、ようやくその言葉を絞り出してきた。 「副長」 「まだ、分からない。俺は、あんたとどうなりたいのか」 「……」  彼はそう言って、項垂れるように視線を足元に落とした。睫毛が震えて伏せた目が苦しげに小さく歪む。拒むことは簡単で、けれどそうしないのは彼の誠実さだ。跳ね除けたい相手でも、傷つけるのには躊躇いが残るのだろう。  人によっては残酷だとも思う。けれどその柔でいて稀有なその優しさに、自分はどうしようもなく惹かれるのだと思った。  はあ、と彼は小さく重い息を吐く。 「向き合うと決めたし、受け入れた。でも。……あんたと、これからどうありたいのかは、答えが出ない」 「……私のことを、どう思っている?」 「…………好きだ」 「そうですか」 「でも、分からない」 「何が?」  追及しようとは思わなかった。苦し紛れに得た答えが二人の指針になるとは思えない。彼を苦しめたいとも思わなかった。だから返答が無くても構わないと、そう言外に伝えるように、彼を見つめる。  顔を少し上げた彼が、こちらを見つめ返してきた。水の膜の張ったような緩やかな湖面を思わせる瞳が、自分を映していた。

「好きだ、あんたが。

でもこれ以上進んでいいのか。――――俺には、分からない」

←前  目次  次→