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「副長。……――新波、二佐」

一瞬躊躇うような間があったのを、敏い彼は承知しているようだった。  士官公室に残っていた尉官たちと二、三の言葉を交わしていた彼は、さざなみのような物音の中から声を拾い上げるように、分厚い書類の束を手にしたままこちらを見つめた。深く濃いダークブラウンの虹彩を持つ瞳は濁り無く美しい。ほんのわずかに長い睫毛に縁取られた細く長い目が、次の言葉を待っているのを確かめた。  ブリーフィング後の忙しない空気は二人の間をすり抜けるように流れていった。この後すぐに出港を控えていることは分かっていた。副長の他に航海長も任ぜられている彼がそれを知らないわけはない。少しだけ眉と眉の間で潜められた眉間の皺が、隠しきれないわずかな焦りを表しているようにも思えた。 「この後少し、時間はあるだろうか」 「…………用件にもよりますが」  努めてそうしたかのように、彼はそう手短にそっけないとも取れる声音で答えてきた。にべもない口調ではないことが救いであるような気もする。  口にする「用件」の大体は掴んでいるような素振りだ。そもそもこちらが彼にそうやって声を掛ける時は限られている。ブリーフィングの流れから推測するに、取り立てて緊急の用件でないことはもう分かっているのだろう。  それでも声を掛けてしまったのは、この後に及んで公私を分けられずにいる自分の愚かしさだと、そう自覚はあった。収めておけない焦燥を抱いているのは自分も同じだったが、彼のそれとは、種類が違う。

「――一昨日のことで」 「ならば、後にしてください」 「……了解した」

当然か、と食い下がることもなくあっさりと引き下がった自分に、彼は一瞬なんとも言えない複雑で曖昧な表情を浮かべた。  何かを期待するような、物足りないと思っているような、そんな口元で言葉を転がしているような顔だった。好感触とも言えないが全くの空振りというのでもないというのは理解した。  機に乗じて引き込んで話をすることも出来た。けれど目の前の彼のことだから、のらりくらりとかわされてそれでも強引に踏み込めばきっと、ようやくここ最近になって開きかけた心の扉を閉ざしてしまうだろう。それは避けたいと、やんわりと口元を小さく引き上げた。  彼の一挙手一投足に込められた感情の揺れはどことなく分かるようにはなっている。けれどそれは制御できるということと同義ではない。慎重に進まねばならないことは理解しているが、逸る己の感情はもたつく理性の内でのたうち回るようだった。 「足を止めて申し訳ない」  また、後で。そう詫びるとそれ以上こちらから何かを引き出すことは出来ないと分かったのだろう、彼は名残惜しげにも思える表情をまた見逃してしまうほどの時間浮かべてから、静かに目を伏せた。 「そうですか。――……では、艦長。後ほど」 「ええ、副長」  踵を返して足早に去る背を見つめる。通路を曲がりそのすらりと伸びた背と身体が見えなくなるのを確認して、ほうとため息を吐いた。

きっと同じことを考えていた。  けれどそれを、あの場で共有するには躊躇いが残っていた。いや、あの場でなくても、ひょっとするとこれからずっと、共有することは叶わないのかもしれないとも思った。  分かりきったことのはずだというのに、「艦長」「副長」と押し込むように呼び合うのには、公と私を切り分ける意味合いもあった。米研修から数えれば短いとは言い難い時間を彼と共に過ごしている。馴れ合うことは簡単で、けれどそれがけしてこの「いぶき」運営のためにならないことはお互いに理解していた。  けれどそれだけではない。線を引かなければならないと思っているのは、もっと他に理由があるからだ。  超えようと思えば超えられる。そうして一昨日、超えようとした。けれど、叶わなかった。それは自分の恐れがそうしたのかもしれない。そして彼の持つ恐れが、伝わってきたからなのかもしれない。  超えたら最後、戻れなくなる気がしている。名を呼んで心を支配するように。お互いを縛り付けて溺れてしまいそうにも思えるから、だからお互いに、薄っすらと浮かんだその線をただ見つめて、その場から足を動かせないでいる。そうしてそれが正しいのかは、誰も、彼と自分でさえも分からない場所にある答えのような気がしていた。

触れた場所から熱が溢れる。  よみがえるじんと痺れてくるような感覚を手のひらの中で転がして、拳を握りしめた。艦長室へ足を向ける。低く小さな艦の機械音が、いつまでも耳に響いて消えなかった。

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