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名前は、呼ばなかった。

腕を伸ばして彼の手を取った。腕をこちらへ引き寄せて、自分よりもほんのいくばくか華奢なその背を抱いた。  顎を掬って、唇を重ねる。手のひらで身体を押し戻そうと彼が一瞬身を捩ったが、背に乗せた手のひらの力を緩めないまま唇を食むように口づけて舌を差し入れたところで、彼が肩の力を抜いて、舌先でこちらに応えてくるのを感じた。  それは許可と同義なのだと、都合よく解釈することにした。服を引き剥がし、ベッドに押し付けた。それでも自分は彼の名前は呼ばなかった。彼もこちらの名前を呼ばずに、その代わりかのように腕を首筋に回して、十分に濡れた唇を押し付けてくる。こういったことに慣れていないわけでないのだろうが、恥じらうように躊躇いがちに触れるそれが、どうしようもなく底の欲を掻き立てた。  熱を持って硬く立ち上がる下腹を擦り付けると彼がゆっくり脚を絡ませて来た。汗ばみ始めた彼の肌は水の染み込んだ布のように自分の肌にぴったりと張り付いて、初めて触れる彼のその感触は今まで経験のないものだった。  感情に引きずられているのは分かっていた。こんな風に脇目も振らずに入り込み貪りたいという対象に出会ったのは彼が初めてだった。熱を打ち付けた彼の身体は跳ねて、流れる汗と体液は触れる手を汚した。今まで使ったことのない秘められた場所に、経験のない異物を差し入れられて、重く突き刺さる痛みに彼は泣いて果てた。  浅く繰り返される呼吸音に重なる小さなすすり泣きにも似た声に我に返った頃、自分に残っていたのは手に入れたという後ろ暗い恍惚と、丁寧に心を重ねるより先に行為に及んでしまった後悔だった。

名前を呼ぶことが出来ない。  どんなに愛おしさを含ませてその名を呼んでも、結局は欲に負けたあの夜のことを無かったことに出来ない。  そんな風に快楽だけを求めて彼と繋がっていたいのではない。もっと彼とは、深い場所ですべてを交わして生きていきたい。そう叫ぶように心の中で繰り返すほどに、彼の名を呼ぶ、そのただ一つだけが出来なくなっていった。

書類の決裁を求めて一人の尉官が艦長室を訪れたのは、訓練を終えて帰港する道すがらのことだった。 「これは?」  一度見た書類だと紙の束を手にして、目の前で決裁印を待つ尉官の方へ向き直った。訂正箇所には細い付箋が貼り付けられていたが、どこが違っているのかすぐに見当がつかなかった。  尉官は背を伸ばしたままでいたが、こちらの表情を読み取るとこちらへ数歩歩み寄って書類を覗き込んだ。どこが訂正した分なのかと目だけで伝えると、ある一箇所を指さして来た。 「ここです、艦長」 「……名前か?」 「ええ、ここの髙橋二尉の『高』は梯子高でして」 「そうだったのか」 「お手数ですが、もう一度決裁いただけますか」 「了解した」  そっけない相槌になった自覚はあった。  不服と言うわけではない。けれどこの巨大な空母「いぶき」に乗り組む乗員のすべての名前の綴りにまでは意識が及ばなかった。目の前で話す尉官に他意は無いのだろうが、どことなく気まずい思いがして、声が小さく低くなるのを留められなかった。  誤魔化すように、口元を引き上げて微笑む。 「気が付かなかったな。すまなかった」 「いえ、こちらも点検漏れですので」  申し訳ありません、と小さく頭を下げるその尉官の顔を見つめる。その顔に覚えがあった。記憶を手繰り寄せると、先日、ここで合同防災訓練の概要を説明していた尉官だということに思い当たった。  訂正された書類に印を押す。整えて手渡すと、もう一度軽く会釈をして尉官の彼はその書類を受け取った。 「……しかし、よく見ているな」 「え?」 「名前」  そう言って訂正された「髙」の部分を指先で軽く突くと、彼はああ、というように少しだけ口元を綻ばせた。 「……少しこだわりがあって」 「こだわり?」 「ええ。……名前には少し、思い入れがあるので」 「……」  どういうことかと小首を傾げて彼を見上げると、尉官の彼は少し躊躇うような表情を浮かべた後、額を隠していたわずかに伸びた前髪を自分の指先で掬い上げた。  不意に顕になった額に視線を送った。一本、消え入りそうな筋のような傷がそこにあることに気が付いた。

「――私は、阪神淡路大震災の被災者です」

ごうごうと低く唸るようなタービンの音が岸壁の人の喧騒と混じり合う。  訓練は定刻通りに開始され、滞り無く予定された手順を踏み順調に行われていた。地震が発生したと想定されている0900を過ぎ、小一時間ほどたっている。岸壁に各方面から避難をしてきたとされる「帰宅困難者」と印字された白いゼッケンを提げた地域住民が集まり始めていた。  名簿を確認し、「いぶき」の格納庫へ係に当たった乗員が案内する。順に列を為す人々の顔に混乱は見えなかった。「いぶき」が参加したのは今年が初めてだが、地域住民にとって防災訓練は日常茶飯のことなのだろう。けして気を抜くというのでもないが、訓練であるというやや安堵めいた空気はどうしても拭えるものではなかった。  こんな機会でもなければ「いぶき」に民間人を入れることなどあまりない。どちらかというと艦艇広報に近いものがあるなと、格納庫に入ってくる人の波を遠目に眺めて、ひとり思った。それは参加した住民も同じ思いなのだろう。物珍しげに高い天井を見上げて、感嘆の声をあげているのが分かる。 「艦長」  背から声をかけられて振り返ると、書類の挟まったバインダーを手にした彼が立っていた。  一般見学者を迎え入れる時は大抵制服なのだが、今回は訓練ということもあって彼も自分も通常の作業服にカポックを羽織っていた。認識帽の奥の表情は薄暗い格納庫の灯りだけでははっきりとは分からなかったが、少し硬く、緊張というほどでもない程度に強張っている。乗り組んだ「帰宅困難者」を目的地まで送り届けるのが訓練の最も重要な事項だ。それがきちんと遂行されるまでは、気は抜けない。彼の表情はそれを物語っているようだった。 「そろそろ全ての『帰宅困難者』が乗り込みます。出港の作業を行いますので、艦長も上へ」 「そうか、分かった」  淡々と告げる彼の声に、先日の惑うような響きはけして滲まない。私情を任務の場に入れ込まないのは当然のことで、だから彼の至極冷静で落ち着いた態度に何か違和感を感じるようなことはなかった。それは自分も同じことだ。  強いて違和感と言うなら、と考えた。曖昧で浮遊するようだった彼と自分との間に横たわる線が、先日の一件を経てよりくっきりと浮き上がってしまったことだろうか。  自分とどうありたいのか、それが分からないのだと彼は言った。ぎこちなくでも歩み寄っていこうとしていた心は彼のその言葉ではっきりとした形を取って、眼前に踏み越えられないラインを描いて横たわっていた。そうして手を取りたいと願っているのにどこにも進めないまま留まっている。  それは彼の心なのか、自分の心なのか、両方の話なのだろうか。  同じように隣に立っているのに遠のいたような気もして、薄っすらと心を掠めた寂しさを悟られないようにと喉元だけで転がした。  いずれにしても、ここで答えを出せるものでもない。

ひとつ息を吐いて襟を正した。  彼の言う通り、全ての乗艦予定者が乗りこんだのだろう、格納庫の人口密度はいつもよりも高く、ざわめきもひっきりなしに続いている。促すような彼の視線に小さく頷いて踵を返そうとした時だった。焦った表情のまま、こちらへ一人の乗員が歩み寄ってくるのが分かった。 「――乗艦者の方で、気分が悪いと仰られて」  そう耳打ちするように乗員は言った。どうやら艦内で体調不良を訴える「帰宅困難者」が出たようだった。  より実際の被災状況に沿うつもりで想定していた乗艦者の数はいつもよりも多かった。格納庫にひしめき合う人々の流れに酔ってしまったのかもしれない。格納庫の一角に人だかりができているのが遠目にでも分かる。乗員が一人対応しているのを確認して、彼と言葉無く目を合わせた。  岸壁と「いぶき」を繋ぐ階段は出港を控えて既に外された後だ。少し考えるように一瞬目を閉じた彼は、やがて静かに口を開く。 「医務室へ」 「は」 「――私が行こう」 「……は?」  申し出た自分に、彼が認識帽の奥の目を少し丸く瞠って、そうしてすぐに苦い表情を浮かべたのが分かった。突拍子のない提案をするのは自分の常套だ。  分かってはいるが承服し難いという視線が、こちらを小さく睨みつける。

「何をふざけた、……」 「この様子ではどこも手薄だろう。猫の手も借りたいのではないか」 「ですが」 「出港までまだ時間はある。送り届けたら上に上がるので、問題ない」 「……艦長、」 「副長。いいでしょう」 「……」

低く押し込めるような声に口元だけの笑みで答えた。  強引であることは百も承知で、そして言い出したら聞かない質なのも彼は十分に理解していた。しばらく逡巡するように口元を噛み締めると、彼はやがて諦めたように深いため息を吐く。それは許可であろうと判断して、足先を片隅の人だかりへ向けた。  まだ何かを言いたげにしていた彼の表情にはあえて気が付かない振りをした。  彼の前に引かれたその踏み越えられない線の存在から目を逸して逃げを打った自覚はあって、そんな自分を狡いものだと思った。けれど彼もそうすることで安堵したのかもしれない。何とも形容しがたい空気を逃すことができなかったのは彼も同じはずだ。そう、言い訳のように自分に言い聞かせる。 『分からない』  絞り出すように零れた彼の小さな声が、耳元によみがえった。 『これ以上進んでいいのか』  戸惑いに彩られて歪んだ目元の色が、それに重なる。

「どうぞ」 「すみません」  歩けるとは言ったが、青白く血の気を失った顔色が戻る気配はない。  背を医務官に支えられながらどうにかラッタルに足をかけるその年配の乗艦者に手を差し伸べた。  あの場で休ませていてもいいのだろうが、人の目もあるからと医務室での休息を希望したのは乗艦者本人だった。医務官もそちらの方がもし何かがあった際に対応しやすいだろうと判断した。  慎重に一段一段を踏みしめる。人のざわめきはわずかに遠のいて、艦内放送の雑味を帯びたような音だけが周囲に響いていた。実際の災害ならばこういったことも起こるだろうと、ふとそんなことが頭を過ぎった。  未曾有の災害の前に、歩けるだけの余力を残した被災者がどれだけ乗り組んでくるのか。場合によっては負傷者が運ばれてくる可能性もあるだろう。たとえ同じ規模の地震が起こったのだとしても、その被害は未知数で、こうだと決めつけるものではない。だからこそ綿密に計画し訓練を積んでおかなければ、いざという時に動くことはできない。  阪神淡路大震災から28年、そして東日本大震災から12年。  訓練のための訓練、形骸化したその内容を問題視する声もあると会合で聞いたのを思い出した。時が過ぎれば過ぎるほどに記憶にはバイアスがかかり、それはまた、「あのようなことはもう起こらないだろう」という甘い見通しに繋がる。近い将来起きる大災害のことを確実に予見されていてもだ。  常に国際情勢に神経を尖らせる自分たちでさえ、どこか絵空事のようにこの空母を見つめている時がある。戦争など、起こるのだろうかと。

そして、自分の描いた世界の縮図より目の前の甘く湿った欲と想いに溺れてしまいそうになる一瞬も。  確かにあるのだ。

『――私は、阪神淡路大震災の被災者です』  そう言ったあの尉官の言葉が不意に頭に浮かんだ。  彼と交わした言葉を思い返そうと頭の中に思考を巡らせたその次の瞬間、自分の足元にさっと影が差すのに気づいた。

「――――艦長!!」

黒く覆い被さる影と、のしかかってくる脱力した身体の重みが、最後に残った記憶だった。

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