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『あの日、兄は死にました』  あの尉官の彼はそう口火を切った。

『兄と私は神戸で被災しました。私は小学生で、兄は高校生でした。  兄は野球をずっとやっていて。甲子園に行くような強豪校で寮生活をしてたんですが、あの日はたまたま、帰省していたんです。同じ部屋で寝ていました。  私は兄っ子でね。一人別々に部屋を与えられているにも関わらず私が我儘で、一緒に寝て欲しいって言ったもんだから。母には兄ちゃんは明日からも練習なんだからゆっくり休ませてやれって言われたんですけど、聞けなくて』  一気に記憶を紐解くように、淀みない流れで尉官はそう続けた。彼の視線はもう戻ることのない28年前の景色に思いを馳せるようにどこか遠くを眺めていた。 『私がベッドで、兄はその傍らに布団を敷いて。眠れなかったですね。思えばもう、あの時に何かを、私も兄も覚悟していたのかもしれないな』  それは彼が語り尽くして、そうして気の遠くなるような年数を経てもう、記憶の底に沈めて取り出すことのないもののように思えた。

『1995年1月17日午前5時46分。あの震災は起きました』

運転手が何事かを話しかけるたびに、彼は柔らかな相槌を打ってそれに答えていた。  今日行われた防災訓練の事柄や昨今の社会情勢など、 取るに足らない与太話のひとつひとつを拾い上げるようにして、彼は時おり、うっすらと笑っていた。人の良さを形にしたようなその素振りを隣で見ながら、先日あの尉官と交わした会話のことをつぶさに思い出そうとした。  不意に途切れた会話の隙間に、彼は流れる窓の外の街並みを見遣った。年齢を重ねた頬や顎のラインはそれでもすっきりと整って、星の川のように流れて車内を照らす灯りにぼうと浮き上がる。組み敷いて、粒のような汗が幾筋もそのラインを辿っていたそのさまを思い起こした。薄く開いた目元の筋がきゅ、と締め付けられるように切なげに歪む。そうしてまるで絞り出すかのように、涙が一筋、零れる。  浮かんだ記憶に背筋を撫でられて、ずくりと熱が腹の底に灯ったのが分かった。  自宅までは1メーターを少し超えるほどの距離だった。だから歩いて帰っても問題は無かった。強引にタクシーを呼んだのは彼だ。艦長のあなたに何かあっては困る。繰り返し念を押す彼のその行動に、引かれた線を無理に意識するような色が滲むのを感じて、けれどそれになすすべは無かった。 『竜太』  はっきりとしない意識の中で聞いたその名を呼ぶ声は、やはり幻だったのだろうかと、小さく息を吐く。  確かにあの瞬間、線を超えた気がした。けれどそれもこちらの淡い期待だけのことなのかもしれない。ついでに言うならこの状況も自分がそう望んだだけのことで、彼の中では望むべくもない仕方のないものだったのかもしれなかった。

分からない。それは彼の本音なのだろう。  短くはない時間を重ねて、お互いに抱えている責務や立場もある。あっさりと断ち切るのには勇気がいる。その逆も言えて、それを抱えたままで長く共にあろうとすることも、また勇気のいることだと思った。いらないものをいらないものだと放り投げるには、彼の人柄は冷徹さや残酷さに欠ける。任務ならまた別の判断が働くのだろうが、少なくとも私生活では簡単に何かを手放せるほど器用ではないのだろうと思っていた。  分かった上で手を伸ばしたのは自分だ。そうして、今まさにその自分の狡さに足元を囚われている。 「どうかしましたか、艦長」  訝しげに小さく眉を寄せた彼が、こちらを見つめていた。少し濡れたような整った目元が外からの光を受けていた。 「いいや、何でも」  そう小さく微笑んで返すと、彼はまた、何かを飲み込んだような顔を浮かべてこちらをしばらく見つめ返した。タクシーの小さな振動が、背に伝わってくるような気がした。

『家は全壊でした。私と兄の寝ていた1階は完全に潰れて。  気が付くと私の周りは柱や家具だったものの木材や、泥ばかりで。私は何事が起きたのかも分からずただ、痛いとだけ叫んでいました』  尉官はそう言って、指先で額の薄い傷痕をなぞった。 『頭から血が出ていたのは分かって。余計パニックを起こしてね。けれど身体も動かないし、寒いし、ただ痛い。もう死ぬんだと思いました』  阪神淡路大震災は戦後日本の災害史上初の大規模な都市直下型地震であったと聞いた。  ビルは悉く倒壊し、昭和の神戸空襲を逃れた木造家屋は潰れ、その多くが火災に見舞われたという。彼の話す当日の様子は幾度か聞いた経験者の話とそう変わらず、けれど当事者の口から近い距離で語られることにそれほど慣れてはいなかった。

『この世でこんなに痛い思いをしているのは自分だけだと、独りだと思うとどうしようもなく不安で。

――そんな時でした。兄が私の名前を呼んでいるのに気がついたのは』

「すみませんでした」  わずかに頭上にある街灯の丸い光は、白い月のように足元を柔らかな光で照らしていた。タクシーの走り去るエンジン音が次第に遠のいていくのにしばらく耳を澄ませた。  空から降るような静寂が、辺りを包む。何度目かもう分からなくなったその謝罪の言葉を耳にして、数歩前を歩いていた彼がゆっくりと顔をこちらへ向けたのが分かった。  緑の植え込みで覆われたエントランス前で向き合う。濃茶の瞳とその中心の更に奥の黒目に、街灯の光が映り込んだ。細く長い、けれど柔らかな甘さを纏うその目尻の皺が、少し深くなった。苦々しいというのでもない、小さく呆れたような笑みを、彼は浮かべた。  うっすらとそこに、彼の抱えた葛藤が見え隠れするような気がした。 「……あんたは、」 「?」 「ここのところ、謝ってばかりだな。……俺に」 「……ああ、……」  言われてみればそんな気もした。 「いったい何のことで謝っているのか、俺も見当がつかない」 「……ああ、ええと」  何だったかな。そうごちると、ふ、と肩を小さく揺らして彼は笑った。  今日の失態のことか、それとも、一昨日のやや強引に進展を狙った行為のことか。そのどれもであるのだが、取り立ててこれだと言い切れないのは、心の底にいつも、彼に対する後ろめたさが纏わりついているからなのかもしれないと思った。  それは、こういった関係になったことも含めて、彼の存在そのものに対する後ろめたさでもある気がした。「いぶき」の艦長は彼だった可能性もあったはずで、そうである方が艦の運営は滞りも無く、スムーズに行われていたのかもしれないと今でも思っている。  けして卑屈になっているのではない。空母「いぶき」に期待された任務は滞り無く安全、円滑に運営されるということだけでないことは理解していた。未知の脅威に立ち向かうだけの大胆さと前例に囚われない発想。そして描く世界図と同じだけの折れない信念。それは負けないという自負はある。だからこそ自分が選ばれたのだとも思っている。

ならばなぜ、彼にその心を伝えて触れることをわずかにでも躊躇するのか。なりふり構わず手を取れないのはなぜなのか。  欲を抑えきれずに強引に割り開き入り込むようなことをしても、名前ひとつ呼べないのは、どうしてだろうか。

「あんたらしくもない」 「……」  彼はそう言葉を継いだ。片眉を歪めるように下げて、彼は口の端だけを上げて、消え入りそうな柔さで微笑んでいた。 「不遜で、尊大で。間違ったことを知らない。  ……謝るようなことなどしないと、そういう人間じゃなかったか、あんたは」 「……ひどい言われようだ。それでは私に謙虚さの欠片もないかのようだ」 「違うのか」 「一応、『いぶき』に来てからは、それなりに控えて、殊勝に振る舞っているつもりだが」 「あれでか」 「ええ」 「……まあ、あんたはそういう奴なんだろうな」  彼はそうひとり言い聞かせるように言って、また小さく笑った。 「でなければ、畑違いの海自に転属してまで空母の艦長になろうなどと、思いはしない」 「……」

「そしてあんたはそういう人間だから。選ばれたんだろう。――『いぶき』に」

『兄は私が下敷きになっている部分の、さらに深いところで崩れた家の柱に押し潰されそうになっていました。瓦礫の隙間から顔がようやく分かる程度で。  私は手を伸ばそうとしましたが、上手くいきませんでした。  兄の顔は青くて血の気が無くて。……兄の命はあと少しだと、幼い私でも分かりました』  それでも、と尉官は続けた。 『兄は私の名前を呼んで、大丈夫だ、必ず助けてもらえるから心配するなと。  ちゃんと兄ちゃんがついているから、がんばれと、生きろと兄は私を励まし続けました。何度も、何時間も』  ――――その、名前を呼ぶ声が忘れられないのだと、尉官の彼は付け加えた。  そうして、静かに目を伏せた。 『途中からは、本当にそれが兄の声だったのか。  本当は兄はもうあの時亡くなっていて、私の名前を呼んでいた声は、生きようとする私の空耳だったのではないかと、今でもたまに思います』   『やがて兄の声は細く小さくなって聞こえなくなりました。昼になる頃でしたか。ようやく消防が来て私は救助されて。  兄は、……助かりませんでした』     「……謝罪は、安売りするもんじゃない」  夜の冷えた温度を伝えてくるような外気が二人に纏わりつく。街灯の灯りの届く範囲を超えた先の色は、深い紺色に染まっていた。その心地よい闇に、彼の声がゆるゆると溶けていくようだった。 「……副長」 「あんたは何も悪いことはしていない」 「だが、今日のことは」  言いかけた声を、彼の低く穏やかな声が遮る。続く言葉に耳を澄ませた。 「今日の一件は不幸な事故だ。あんたの奔放さの悪いところが出た側面はあるだろうが、それもこちらが手薄であったことに気づいた故でのことだろう。身勝手に興味本位でやったことじゃない」 「……」 「だから、あんたが俺に頭を下げる必要はない」  淡々と、それがさも当然かのように彼はそう告げた。詫びを受け入れないのはそれも理由だったのだと思い当たって、闇雲に謝ろうとした自分をわずかに恥じた。  事後処理も含めてそれをフォローするのが俺の仕事だと、彼はそうも付け加えてきた。 「謝ってその場を取り成すのは手法のひとつかもしれんが。あんたは艦長だ。つまらんとおもうだろうが言うことひとつとっても、軽いものなどない。時には黒を白と言う気概も必要だ。  だから俺に対しても、無駄に気を遣う必要はない」 「では、――……」  逸るように無理に抱いたあの夜のことは。  みなまで言わずとも彼はそれを予想していたかのように顔を上げて、軟に解けていた口を一瞬引き結ぶ。そうして一瞬惑うように視線を泳がせると、何かを決めたように、言葉を紡いだ。  声がわずかに震えているようにも思えて、許されるなら抱き寄せてしまいたいと思った。けれど自分の腕は、あの夜のことを思い起こして、伸ばしきれずにいた。 「……受け入れたのは俺だ」 「けれど、それは今。あなたを惑わせる結果になっている」 「……」 「『分からない』のだろう」  苦い表情をかすかに浮かべて、そう自分に告げた彼の顔が思い浮かぶ。  これ以上進んでいいのか分からない。彼はそう言った。 「ああ、確かに、そうだな」 「私はあなたを迷わせたかったわけではない。ただ」 「いいんだ、もう。それは」 「……いい?」 「ああ」

「――ひとつ、分かったことがあるから」

『私にとって名前は呪いです。  あの日の兄の、私の名前を呼ぶ声は私の頭から離れません。ずっと。いつまでもたっても。私の心から消えないのです。  あの日を忘れるなと、お前は覚えているんだと、そう兄が言っているような気がして』  かつてはそれに苦しんだ経験もあるのだと、尉官の彼はそう、その記憶を懐かしむかのように目を細めて言った。  その表情は振り切ったとも言い難く、沈んでいるのとも違っていた。ただ、長い時間が歪に尖った部分をいくばくか和らげて、今彼の中にあるのだろうと思わせた。 『阪神淡路大震災の名簿収集活動をご存知ですか、艦長』  彼はそう尋ねて来た。 『阪神淡路大震災の正確な犠牲者の名簿は実は無いのです。  あの震災で各自治体が取りまとめたデータは30年前あの混乱の中で集められたものでした。ですから、人知れず亡くなった方やその後遠い地で亡くなった方のものまで含めているのか、極めてあやふやなのです。  読み方もそうです。綴りも。本当に正しいものなのか、分からないままです。  震災から時がたち、そういった方も含め正確な名簿を作成しようという活動が始まりました。数としての犠牲者は6434人とされていますが、その犠牲者の名前を、きちんとした記録で残しておこうと』  私もそれに協力しているんです。彼はそう言って大きく息を吐いた。そうして言葉を重ねる。

『犠牲者の一人ひとりに迎えるはずだったあの日があり、明日があった。大切にしているものも、愛していたものも。そのことをおざなりにしてはいけないと。  たとえそれが、名前の読み方や綴り方、そんな些細なひとつであっても。  名前を呼ぶ、そのことが。亡くなった方の尊厳を守るだけではなく、亡くなった方を大切に思っている人にとって、かけがえのない記憶で、生きていくための力になるはずだからと』     『――あの日、兄が私の名前を呼ぶ声は、私を過去から解放してはくれません。  まるで呪いです。ですが、私にとってそれは今の私を形作るものです。この仕事を選んだのも。

兄の声は私にとって何よりも強く確かな絆で、つながりで。――……そして、最後の、祈りでもあるのです』

――恐れているのだと。  お互いに踏み込んだ先にある未来に。囚われて溺れて混沌とすることを。  置かれたものも背負ったものも綯い交ぜになって嵐が覆い被さるように自我を浚われてしまうことを。  お互いに、恐れている。  名前を呼んで、愛おしい目の前のその人を自分の中に刻みつける。そうすることで生まれるものはあたたかいものだけではないのだと、そのことを知るのを。手放せなくなって、絡め取られていくことを許せるのかどうかを。確かめられないでいる。 「生きた心地がしなかった」 「……」  彼はそう言って、こちらを揺らぐことなく見つめていた目を、音無く伏せた。  その言葉ひとつをどう扱っていいのか、よく見なければ分からないほどに躊躇うような表情を浮かべて、やがてひとつ、強張った肩の力を抜くようにして、彼はわずかなため息を吐いた。そのリズムに合わせて、伏せられた目を彩る睫毛も、小さく震えているように見えた。 「あの瞬間、あんたが、いなくなったらと考えた」 「……」  す、と息を吸うかすかな音がする。 「そうしたら、生きた心地がしなくなった。  目の前が暗くなって自分そのものが無くなるような、そんな気がした」  小さく寄せるだけだった眉間の皺がわずかに深くなって、降り注ぐ人工的な灯りの光を受けて、その影を濃くしていった。

「あんたがいないくらいなら俺が死んだ方がマシだ。――……、そう、思ってしまうほどに」

「だから、何をこだわっていたんだと思って」 「……」 「あんたを受け入れると決めた時点で分かっていたことを、俺は何をぐずぐずと迷っていたのかと」

「――――……竜太」      凛と鳴って響いたのはその彼の名前を呼ぶ声だけでない。  心の奥の方から湧き立って温度を上げていく感情を、制御することが叶わないのを感じた。  もう幻でないことは分かっていた。残って染み付くように、名前を呼ぶ声は何度も何度も耳の奥で繰り返し巡る。そうして形になっていく心を逃すまいと、指先を伸ばす。  一瞬宙で留まって、それが彼に届かない気がした。自分にはどうすることも出来ないまま静かに遥か彼方へ浚われていく命を目の当たりにしたその心が流れ込んでくるような、胸を突くような痛みが広がる。自分の痛みではないことは分かっていた。目の前の彼のものでもない、それは、過去から続く今の中に、生きる絶望と希望を見出そうとする人の痛みだと思った。  どんなに言葉と記憶でなぞっても人の痛みは自分のものにはならない。けれど想いは確かに、呼ばれる自分の名前を共にして、同じ輪郭を描く。種類は違っても、存在を確かにするように。  そうして喉元までせり上がるものは胸底で漂っていたわずかな自分の望みの欠片に熱を纏って、そうして表出されようとしている。

「俺は名前を、呼びたかった」  腕を取って引き寄せた身体は、夜の冷気にひたされてひんやりと水気を帯びたほのかなぬくもりを胸の中に伝えてきた。

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