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『新波さん。  あなたはどうして、こんな国、守ろうとしてるんですか』

空が、落ちる日の光と共に柔らかな紫と紺色を溶かしていくのを眺めながら、携帯でその番号を呼び出した。  住所録からはもう消したような気がしていたが、番号は残っていた。心臓の端が少し硬くなるような緊張を口の中で転がして、通話ボタンを押した。  くぐもった小さな呼び出し音が耳元で響く。出て欲しいような、それともこのまま切れてしまう方がいいような、日の入り直後の空の曖昧な色のような感情が、自分の心を支配する。  何度目かのコール音を聴きながら、甲板の向こう側の黒く青ずんだ海面を見遣った。陸にはぽつりぽつりと、灯りが点り始めている。

『ーーーーーー、はい』 「久しぶりだな」

『新波さん。・・・・ご無沙汰、しています』  穏やかでささやかな陽光のような声に変わりがないことに安堵した。少しだけ戸惑いを滲ませたその声の主は、丁寧な口調でそう返してきた。 「元気にしてるか」 『ええ、おかげさまで、元気です』  最後に言葉を交わしたときよりも、その声は元の明るさを取り戻しているような気がした。心の奥で、安堵する。  ひとつ息を吸って、口を開いた。 「この間、滝一佐と一緒になって。  あんたの様子は彼から聞いたんだが、連絡をしてやって欲しいと言われて」 『聞きました。  私もずっと、連絡しようと思っていたんですが。・・・・バタバタしてしまって』  すみません、と語尾が少し細く頼りなく響くその声は、けれど過度に申し訳無さを滲ませているのでも無かった。  いつも気遣いをし過ぎるくらいにしていた人間だった。そのせいで、背負わなくてもいい責任も背負ってしまっていたことを思い出した。  いいんだ、とそう何でも無いことのように返す。少しずつ時間が巻き戻って、空いていた距離がわずかに縮まるのが分かった。時間を巻き戻して良いことなど相手には無いのかもしれないが、それでも懐かしさは募る。 『新波さんは?お元気ですか』 「ああ、まあ」 『空母『いぶき』の副長を拝命されたと、聞いて。  何かとこういったことは最近話題になりがちですから。無理されているのではないですか』 「・・・、そんなことは無いよ」 『『いぶき』の艦長が、空自から転属した、・・・αだとも聞きました』 「・・・・・そうか」  彼は分からないほどに静かに、声の調子を落とした。  尋ねていいことかどうかを、考えているのか。それとも自分に起こった、過去の出来事を思い出しているのか。それを口にすることは出来なかった。

『あのときの私のように。・・・・なっていないかって、心配で。  つい、滝さんに零してしまって。』 「・・・・・」

『こんな、Ωを人だとも思ってない、こんな国。守る意味が分からない』  鬱血した傷跡がいくつも残った肌を赤い引っ掻き傷が残る手で覆いながら、青ざめた顔でそれでも強く言い放ったその姿を思い出した。  紺色の作業服の隙間から、鍵が壊れて取れかけた濃藍の「チョーカー」が覗く。相当強く引っ張られたのだろう。首に幾筋も、擦れて血の滲んだ痕が残っていた。もう一度巻き直してやろうと指先を伸ばすと、同じΩの自分が相手だというのにがたがたと震えて、全てを拒むように身を硬くして震えた。それが、今まで何を受けて来たかということの表れだと思った。  甘い乳白色の花のような香りが全身に漂う。どの抑制剤も身体に合わず、上手く「発情」を抑えることが出来なかった。その結果、αに口にするのも憚られるような仕打ちを繰り返された。  階級が上であるとか、乗員を管理監督する幹部であるということはΩを前にしたαには意味のない記号でしかない。Ωに対するαの行為は黙認されて、処分されることも無かった。  出来るだけのことはした。それでも、守り切ることは出来なかった。

『新波さん。  あなたはどうして、こんな国、守ろうとしてるんですか』  細く叫ぶようなその引き攣れた声は、今でも何度も繰り返し、頭の中を巡る。

「・・・俺のことはいいんだ」 『新波さん』 「あんたが、今、元気なら。・・・・あの時、何も俺は出来なかったから」 『そんなことはありません』  遮るようにそう声が重なる。 『あの時、もういいって。  耐えろとも、ここまで頑張ったんだからあと少し頑張れでも、何でも無くて。  もう十分だから辞めていいって新波さんが言ってくれなければ。  私は生きていなかった』 「・・・・」

『滝さんとも、『番』になれなかった』  奇跡のような偶然で「番」である滝一佐に出会った。  それがここを辞める決断を後押ししたのも間違いない事実だった。抑制剤の効かなかったその身体は、「番」を得ることで「発情」を止めた。自分がそうしたのではない。良い偶然が、良いタイミングで重なっただけだと思う。  けれどそれは、何よりの救いだった。 『だから本当に、あなたには、感謝しか無くて』 「・・・何も出来ていないのに」 『何も出来ていないなんてことは無いです。新波さん』  あの時濁って底に沈みそうになっていたその声は、今は頬を優しく撫でる小夜風のように澄んで耳に届く。  課業を終えた夕刻の甲板には、人の姿は見当たらない。今ならば大丈夫だろうと、いつも上までぎっちりと固く締めているその作業服の襟を少しだけ緩めた。  指先に触れた固い感触に、わずかに胸が痛んだ。自分の首にも、同じものが巻かれている。

『私を生かしてくれたのは、あなたです』

『新波さん』 「?」 『私は忘れたことはありません』 「何を?」  そう尋ねると、通話の向こう側の声が一瞬何かを言いたげに途切れる。しばらくの沈黙のあと、躊躇うような息の音が聞こえた。 『新波さんが言ったことです。・・・・・この国を、守る理由』 「、・・・・・・」 『何で、酷い目に遭ってまでこんな国を守るのかって、私が聞いたときに』 「ああ、・・・」

遠目に眺めた、星のような灯りの見える陸の影に、声が重なる。 『ずっと、思っているんです』 「・・・・」 『私を救ってくれたのはあなたで。今は滝さんも傍にいてくれる。だけど本当は』

『本当に救われなきゃいけないのは、ーーーーーーあなたじゃないかって』

『あなたを救い出してくれる人がいたらと、思って』 「・・・そんな奴はいないよ」 『新波さん』  この場所を離れてもなお気遣うように名前を呼ぶその声に、自分のことを話す必要は無い。これ以上負担をかけることではないと思った。  小さく、息を吐き出すように笑う。一筋、濃い潮の香りのする柔らかな風が周りを取り巻いた。 「いたとしても。・・・・必要じゃない」

「誰が救おうとしたところで。  誰も代わることは出来ない」

同意して欲しいのでも、拒んで欲しいのでもない。自分にただ言い聞かせるように、そう告げた。  甘く濃い、下から立ち上って絡まるようなあの「香り」が微かに漂う。それはあの一瞬で自分の身体に刻みつけられた記憶のせいだろうかと思った。

鞄の中を探る指先が震える。

かたかたと小刻みに全身が痙攣するのが分かる。内で暴れる熱を収めようと唇を強く噛んだが、焼け石に水だった。冷や汗とも脂汗ともつかないその雫が幾筋か、作業服の下の背に沿って、腰の辺りまで流れ落ちる。 「、くそ・・・・」  中身をひっくり返したところで詮無いことは頭の片隅で理解していた。居室の机の引き出しもくまなく探したが、抑制剤は残っていなかった。予備が何錠かさえ残っていればと思ったが、それは虚しい期待でしか無かった。  俺としたことが。奥歯の奥でそう独り言のように唸るように呟く。そうしている間にも、熱は下半身を這い上がり、肌を灼こうとその温度を上げていく。 「発情」を抑えきれていないと気が付いてから、倍の量を服用していたのが仇になった。処方された量の抑制剤が底を尽きかけていたことに気が付いたのは、遠く陸を離れた洋上でのことだった。  見渡す限り、海しか見えない訓練海域に「いぶき」はいる。ピルケースの中は既に空で、万が一のためにと用意していた予備も使い果たしていた。一度上陸した際に処方して貰っておくべきかと頭の端にちらりと思い浮かんだけれど、上陸後のスケジュールの忙しなさと積み重なった疲労は、いつもなら最優先で考慮するはずのその事項を頭から拭い去っていた。  いつものペースならば、まだ残りはある。次帰港するまでにはぎりぎり保つだろうと、浅はかな見通しを立ててしまっていた自分を呪った。

「・・・・っ」  肺の中をのた打つように、熱い息が暴れ回る。視界は酔いが回ったときのようにぼやけて上下が反転したように見えて、足元もふらふらと覚束ないのが分かった。  壁を這うようにしてどうにか歩を進め、ベッドに横になろうとしたが、間に合わなかった。膝から力が抜けて、ずるずると背を壁にもたせかけて、床に倒れ込むように横になった。  心臓の拍動は徐々に速いリズムを刻み、それに呼応するように、炎に巻かれるように身体が熱くなる。炎が勢いを強めるように、どくりと底で心臓が波打つのに合わせて、肌がびくびくと震える。 「・・・・ぁ、あっ」  床に爪を立てた。痛みでどうにか収めようと爪が剥がれてしまうところまでがりがりと床を引っ掻いたけれど、無駄な足掻きだった。冷たい床の、すえた塗料の匂いも「発情」を誤魔化す助けにはならない。  荒く息を吐きながら、震える左手首の腕時計で時刻を確認した。あと数十分後には士官公室でのブリーフィングが始まる。副長の不在はあり得ない。  しかしその短時間でこの「発情」が落ち着くことが無いことも理解できていた。長年「発情」を無理に抑え込んで来た身体は、知らない内に、一度それを迎えると反作用のように激しい反応を示すようになっていた。 「番」のいない自分はなおのことで、一度「発情」が起きてしまったら、半日ほどベッドの中で転げ回り、悶え苦しむより他は無い。その状態で外に出れば、Ωの特性を自分の意志でコントロールは出来ずにのべつ幕なしにαを誘惑してしまうからだ。一人で耐えることだけが、自分に出来る対処法だった。  だからこそ慎重に、そうしてさらに無理をして抑え込んできたのだ。この艦に乗り続けるためにそうしてきたのに、少しの油断が全てを奪う。  なんと馬鹿なことだろうと自分を殴りつけてしまいたい衝動が襲った。

「・・・・、ぁつ・・・い」  全身が灼けつくように熱く痺れる。床に触れて擦れる皮膚がひりひりと痛む。襟元を緩めて、深呼吸をした。首元の「チョーカー」がちゃり、と鍵の音をさせる。  一つ、二つとボタンを緩めた。は、は、と浅い息と深い呼吸を繰り返す。口の中が唾液で満たされて、ごくりとそれをどうにか飲み込んだ。  熱の集まる場所は分かっている。作業服の上のボタンを全て外して、涼しい空気を入れるようにしてから、ベルトに手をかけた。  下着の上から震える指先で触れると、硬くなったそれの感触に、背筋が凍った。吐き気がするほどおぞましい思いがする。  けれどその、至極人間らしい感情も本能からの熱は浚っていく。やわやわと触れてやがてそっと握り込んだ。自然と手と指は、どうすれば良いのかを分かっているように動く。 「・・・・ふ、うっ。・・・・う」  じゅわりと布に染みるような水分の感覚がして、けれどそれは先端の部分から染み出しているものではないことに気が付いた。奥の部分が徐々に水分で満ちていくのを、遠のいては近づく意識の中で理解した。 「あ、ああ・・・っ」  指で触れると、びくりと入り口がひくつくように震える。とろりと、漏れ出した雫が指先をぬめらせた。Ω特有のその体質に、自分を殺してしまいたいと思うほどの嫌悪が襲う。  頭の隅の、これ以上は留めようとする自分と、このまま溺れてしまいそうになる自分の狭間で逡巡する。自分で慰めれば多少は楽になることは分かっていて、けれど超えてはいけないラインだと警鐘を鳴らす自分もいる。 「、う、ぁあ・・・」  磨り上げた熱がびくりとひとつ大きく震えて、冷静さを保とうとする己の理性を跡形も無く彼方へ消し去る。  指を差し入れた。粘膜がその指に纏わりつくように絡んで、快楽を迎えようとする。根元まで入れて、抜く。そうしてまた入れる。艶めかしい水音が耳元で響く。そうして溢れ出した雫は指先を介して腿を伝う。最奥を探って撫でた。喉の奥から、甘く掠れた自分の声が引き出された。  心地よいと伝える部分に指先が触れるとびくりと背が反って、喉元の「チョーカー」の鍵が、また小さな音をたてる。 「あ、あっ・・・ああ」  一人の居室は温い熱で満たされていた。自分の放つ湿った喘ぎ声だけが響いた。自分の吐いた息で白く濁る視界を薄目で眺めて、その孤独に身体を引き裂かれそうな思いがした。  目尻が切られたように熱く火照る。そうして一筋流れたのは、涙だった。

どうしてこんな目に遭わなきゃいけない。  どうしてただ生きているだけで、こんな痛みを受け入れなければいけない。  Ωであると、ただそれだけで。

『本当に救われなきゃいけないのは、ーーーーーーあなたじゃないかって』  救いなんてあるのか?  あるとしたら、どこに?  そう自問自答した。出ない答えに、どうしようもない、底の無い沼のような虚無が被さって、目を閉じた。

鼻先を掠めたのはあの濡れた花の香りだった。  アンバーとイランイランを混ぜたような、全身を取り巻くその湿り気を帯びた甘く濃い香りに、薄らぐ意識を取り戻した。閉じた目を開く。  居室に入り込む足音が耳元で聞こえた。まずいと頭の端を掠めたが、「発情」で熱に翻弄される身体は、逃げる力さえ残っていなかった。  覚えのあるその「香り」に、心臓が深くひとつ音をたてた。他のαならばここまで濃い「香り」にはならない。この「香り」をさせたのはあの一人しかいない。  そうしてそれは、自分にとっては何よりの絶望だった。  紐靴の爪先が自分の身体の少し先に見えて、顔を上げようとしたが上手くいかなかった。はくはくと、打ち上げられた魚のような呼吸しか出来ないでいた。

「やはりそうだったか。副長」

「・・・・ぁ」  艦長、か、秋津、か。そのどちらで名前を呼ぶべきなのか、判断がつかなかった。  鼻先に膝をついた彼が、その手のひらで頬に触れるのが分かった。指先から濃く香るその匂いに、びくりと肩が震える。触れた部分が電流を帯びたように痺れて、硬直した。  ぎりと奥歯を噛み締めた。肩を起こそうと身を捩る。起き上がろうとする気配を察したのか、両の手のひらを使って、彼がそれを支えようとした。背骨の辺りに手が添えられて、力が込められた。  駄目だと、頭の中で警告が鳴る。「発情」期にαとΩが距離を詰めたらどうなるのか、彼も知っている筈だ。 「あなたがブリーフィングに姿を現さないので。何かあると思ったのだが」 「・・・・、」 「私が出向いて正解だったようだ」  彼はそう言って小さく微笑んだ。

「他のαでは、刺激が強過ぎて。我慢が効かないだろう」

「あなたはΩだったんだな」 「・・・・っだったら、何だ・・・」  あんたはαだろう、それは口先で縺れた。噛みつくように告げた言葉はけれど震えて、掠れた小さな形にしかならない。抱きすくめるように起こされた背からまたじわりと熱が溢れて、立ち上がった熱はまだ硬く激しい血流を保ったままだった。  纏わりついて離れない甘く濃い「香り」はくらくらと辺りを酔わせて、取り戻した意識をまた欲の赴くままに翻弄する。頭の中で激しくせめぎ合うその混濁した意識を悟られてはいけないと腕に爪を立てた。  ずり落ちて腕や足に引っ掛けるだけになった作業服は彼の前では整えようが無い。今更だという思いはまだ理性的だ。それよりも疼くのは、Ωの性の部分で、今にも内を破ろうと、のたうち回る。  爪が剥がれてもいいと、皮膚に食い込ませるその手を、やんわりと取られて動きを留められる。 「血が出ている。副長」 「・・・、ぅる、さい・・・。離れろ、はやく」  赤い皮膚片が爪の間に残った。赤い色を塗ったように血の色に染まった指先はまるで自分の心のようだと思った。 「はなれてくれ・・・・はやく」 「そうはいかないだろう」  わんわんとエコーがかかったように、彼の涼やかでまろやかな声が頭の中を殴りつけるように響く。どくりと神経が昂る。息が荒くなって、口の中で留めていた唾液が、口から溢れて作業服に落ちて染みる。 「αなら・・・・、っわかるだろ・・・・」 「副長、・・・いや、新波さん」  濃い「香り」に意識を攫われそうになる。  ひくひくと喉が痙攣するように鳴って、痒みさえ伴うように肌はそれを求めて激しく疼き始めた。鼻先を満たす香りに、残った理性は掻き消える。 「こんな・・・ちかくにいたら・・・ぁ、あっ」

だいて、いれて、奥まで。  喉元までせり上がりそうになるその言葉を飲み込むように、彼の首筋に腕を回して唇を塞いだ。  上唇と下唇を交互に舐め取り、吸い上げるように食む。舌先を強引に割り入れて、粘膜の感触を味わった。唾液が零れ落ちて、ざらりとした感触がぞわぞわと、また背筋を撫でる。  匂いがまた一段と濃くなった気がした。Ωの誘惑にαは抵抗出来ない、その筈で、彼もこちらが差し出したその唇に応えてくる。後頭部を掴まれて、形の良い唇を押し付けられた。絡め取るような舌の動きに、頭の芯が溶けるような感覚を覚えた。  脳が半分溶けたような意識のままで、彼の作業服のボタンに手をかける。ぷちりと音がして、一つ外れた。二つ目を震える指先で外して、そうしてはだけた鎖骨に、噛みつくように吸い付いた。 「新波さん」  乱れているのでもない声音で、名前を呼ばれる。淡々としたそれに、また奥の欲を刺激される。 「っは、あ。・・・・」  彼の着たインナーシャツを捲りあげて、中の締まった腹部を舐めた。音をさせながら唇を這わせると、ぴくりと彼が肌を震わせるのが分かった。薄暗い意識が、頭の中を駆け巡る。

ーーーーーーそうだろう、お前も。  お前もどうせ、αなんだろう。Ωを虐げるだけの。

「もういいです、新波さん」 「・・・・、っ」 「そんな状態のあなたに触れられるのは、本意でない」  彼の静かな声が耳にりんと響いて、彼は肩を掴んで身体を引き離す。言っていることの意味がすぐには理解出来ずに、彼の目を見つめた。薄い虹彩の濁りの無い目が、自分のはだけた半裸の姿を反転させて映している。  心臓の奥に刃を突き立てられたように、息が詰まるような痛みが自分を襲う。額に滲んだ汗に張り付くように落ちた前髪を、彼の指先がゆっくりと掻き上げた。  遠慮がちに触れられるその指の腹の軟さに、αが滲ませる情欲の気配は感じられなかった。 「あなたも、それを。望んではいないでしょう」  彼はそう呟いて、口元だけで小さく笑う。そうして落ちかけた作業服をむき出しになった肩にかけて来た。  ふわりと羽のようにそれは柔らかだった。けれどΩとしての熱は収まらない。中途半端に放り出された本能が、行き場を求めて身体の内でなおも激しく暴れまわる。  息を吐くのも絶え絶えなのは変わりがない。それでも声を絞り出した。 「、・・・・なにを、いって」

「『発情』に振り回される己を、あなたは許せないのだろう」

「そこまでして。あなたは何故、ここに留まる」 「・・・、っはっ」  溜まった息を吐き出す。そうして込み上げてくる暗い笑い声を抑えることは出来なかった。支えられていた彼の手を強く打ち払った。ずるずると後ろに後ずさって、壁に背をもたせかける。  あられもない姿である自覚はあって、熱も引いていない。けれど襲い来る欲の波の隙間に戻ってくる意識を捕まえるようにして、彼を睨み据えた。  ぐらりと、別の熱が立ち上がる。それは煮え立って、腹の底から湧き出す。 「おめでたいことだ」 「新波さん」 「それでΩの俺に、寄り添ったつもりでいるのか。  高みからそうやって見下して。あんたと競り合って負けたΩの俺に、慈悲でも与えるつもりか」 「・・・・、」 「αというのは、どこまでも理解できん人種だな。  ・・・まああんたらも、Ωのことなど、理解するつもりもないのだろうが」

奥からまた、欲の波が小さな音を立てて寄せようとする。それを残っている理性で収めて、小さく細い息を吐きながら、言葉を紡ぐ。  彼の目線は、こちらを見据える一点から動くことはない。 「俺がこの国を守るこの仕事に執着する理由を知りたいか」 「・・・・・」 「Ωだからだ」

「Ωに人間らしい扱いをしないこの国を。  表面上は法で守るようでいて、実際は差別も迫害も、残っている。そうして何もしないこの国を。俺が守る。  虐げているΩに自分たちのことを守られるなんて、滑稽だ。皮肉なもんだろう」

『だから俺は、ここに残る。  あんたの分も、この国も、αも、βも。絶対に死なせない。最後まで守り抜いてやる』

そう言ったあの時の記憶が眼前によみがえる。それに重なる柔らかで澄んだ声が、耳元を静かに揺らす。 『あなたを救い出してくれる人がいたらと、思って』 「たとえあんたが俺の『番』でも」 「・・・新波さん」 「『番』なんていらないんだ」  切られた場所から血を吹き出すように、頬に幾筋も流れるのは汗だけではなかった。目尻から溢れて止まらないそれを、手の甲で一度拭った。  頬は灼けたように熱い。それは「発情」がもたらしたものだったかも知れないが、ずっと今まで。誰にも告げることの無かった感情が吐き出されたその結果とも言えるのかもしれなかった。

「代われないなら。助けてくれないのなら。ーーーーいらないんだ」

熱を持ち続ける身体に腕が回って、胸元に引き寄せられた。  肌から立ち上る濡れた甘い「香り」が自分を包むのが分かった。咄嗟に身を引いて逃げようとしたが、背後は壁で、退路は塞がれていた。ふらついた身体はもう、逃れる力も残っていなかった。  なけなしの力を振り絞って、触れた胸元を押す。けれど押し返すことは叶わず、程よく締まって固いその皮膚を、押し止めるに過ぎなかった。  頼りない自分の手のひらを千切ってしまいたいとさえ思った。じりじりと首筋を灼くようなその痛みにも似た熱に、歯噛みする。  自分を抱きしめているのは彼の腕だ。そのまま押し倒されて、身体が壊れてしまうまで乱暴に抱き潰されても仕方のない状況と言えた。  αとΩが触れ合えばそうなることは必然だと、それが当たり前だと思ってきた。 「・・・・、やめてくれ。そのうちあんたを誘惑するようになる。俺は、Ωだぞ。」 「大丈夫です、問題ない」 「・・・・だったら好きにすればいい。俺は、抵抗しない」  どうせΩなのだからと言いかけた、その唇を肩口にほんのわずかに強い力で押し付けられた。  後頭部に手が添えられて、頭の先から襟足にかけて指先でゆっくりと髪を梳かれる。耳元が首筋の頸動脈の辺りに触れる。温度の高い脈動が神経の張り詰めた薄い耳の皮膚に、伝わってくる。  乾いた目元は艦内の空調に冷えてちりちりとした痛みを孕む。濡れた瞼を、呼吸に合わせて何度か下ろしては上げた。

「ずっとそうやって一人で。戦ってきたのか。・・・・私の知らない、あなたは」

「でももう、それをする必要はない」  ちゃり、と小さな金属音がする。彼の指先が、鍵に触れているのに気が付いた。  どくりと大きく心臓がひとつ鳴る。恐怖が神経に伝わって、全身を硬く強張らせた。上がらない手で、必死にその彼の手首を掴もうとしたが、指先は「発情」したままの熱を籠もらせたままで、上手く動かない。 「・・・、それは駄目、駄目だ」  強制的に「番」の関係を結んでしまうことを防ぐためのその「鍵」を、開けさせてはいけない。  首を捻って彼の手を離そうとしたけれど、彼の指先は器用にそれを交わして、暗証番号を合わせて鍵を開けてしまった。 「やめろ!」 「チョーカー」が音もなく落ちる。解放されて軽くなった首筋に、彼の手のひらが触れた。襟足を丁寧に掻き上げて、撫でるように愛おしげに触れてくる。ぞくりと、投げ出した足の先が震える。  今から起こることを想像して、頭から水を被ったように戦慄が走った。それだけはさせてはならないと身を捩ったがままならなかった。 「綺麗な項だ」  耳元で響く彼の声は淫靡で、引いては寄せる波のような内の熱を、再び呼び覚まそうとする。 「やめろ、秋津、それだけは」  羞恥も外聞もけし飛ぶように、引き攣れた喉の奥から、小さく叫んだ。ふ、と彼がその項に息を吹きかけて、一瞬冷えたその後ろの部分に、身が震えた。

「私は、あなたを誰かに奪われるわけにはいかない」 「駄目だ、駄目だ!・・・・・駄目、・・・・・っ」

「ーーーーーーーこれを飲んで下さい」  彼はそう言って、ポケットからピルケースを取り出した。蓋を開け、中から何錠かの白い錠剤を手のひらに乗せる。それは見慣れた錠剤で、今最も必要なものだった。 「、・・・・何故、あんたが抑制剤を」 「それは後で説明しましょう。取り敢えずこれを服用したほうが、あなたの身体のためにはいい」  状況を飲み込めないままでいる自分の口に押し込むように、彼はその錠剤を手のひらで口を塞ぐようにして飲ませてくる。そうしてテーブルの上の水の入ったカップを彼は手渡して来た。それに口を付けると、生温くなった液体の感触が喉の上から下へ伝わるのが分かった。こくりと音がして、錠剤が身体の中へ入り込む。  脱力してその場に倒れ込みそうになる身体を、彼の腕が支えた。抵抗することはもう諦めていて、体重を預けたまま、大きく、何度か深呼吸を繰り返した。  礼を述べようとしたが、唇は思ったように動かない。錠剤が内蔵に染み込んでいくに連れ、肌が冷えてあれほどまでにひどく欲を欲した身体は少しずつ、元の状態に戻りつつあった。  そうして抗えない眠気が、瞼を押し下げようとする。目を開いていなければと思うのに、身体はもう意志通りに動くことを拒否していた。 「少し眠くなる筈だ」 「・・・・、」  額から落ちた髪を梳くように撫でると、彼は静かな口調でそう言った。 「休むと良い」

「どうして、秋津、・・・・」 「あなたは疲れているから。諸々のことは、眠った後でもいいだろう」 「・・・・」  どうしてαなのに、Ωのフェロモンにほとんど反応しなかった。  どうして「番」に出来る好機だったというのに、項を噛まなかった。  尋ねようとすることは多くあって、けれどそのどれもが、形になることは無い。

「・・・・休んでください、新波さん」  合図のように耳元で穏やかな子守唄のように囁かれて、拒むことは出来なかった。  言われた通り、ゆっくりと、意識を手放す。彼の唇が触れただけだった項は、ほのかな温度を湛えたままでそこにあった。それを覆うように、彼が、また再び濃藍の「チョーカー」を首に巻き付けて来る。  かちりと再び、「鍵」がはまる音がした。強過ぎず、弱過ぎない。壊れ物を扱うように肌に触れるその動きは、もうずいぶんと前に失ってしまった温もりのようで。  こんな風に眠りに落ちることは果たしてあっただろうかと、そう思いながら全身の力を抜いた。

広げた手のひらのくぼみに、灯りのような熱が点る。

額を撫でるわずかな風とぱりと張った固いシーツの感触を背に感じた。  まだ自分がどこにいるか、はっきりとはしなかった。おそるおそる薄目を開けて、重怠いままの首を動かす。人工的な白い灯りが瞼を照らすような感覚がして、ゆっくりと、瞬きを繰り返した。  頬に吹きかかっているのは効きの悪い艦艇内の空調の風で、それでも汗がわずかに滲む肌には心地よい。目を開けた先には、無機質な居室の天井が映って見えた。

「・・・・、」  全身が上から重しを乗せられたように動かない。この感覚には覚えがあった。  抑制剤を飲み始めた頃の、副作用がきつかった時期の感覚だ。服用を続けている内にその感覚にも慣れて、少々の怠さは気にならなくなった。  特に、急性的な「発情」を起こした後、それを無理に収めるために抑制剤を飲むとこうなりやすい。そのことをふと思い出した。そうして自分がきちんと過去を遡ることが出来るくらいには、理性を取り戻していることを改めて確かめた。  身体は起こすことが出来ないほど疲れている。体液に塗れて汚れていたはずの身体はきちんと清拭されて、ほぼ全裸に近い状態だったというのに、今の自分はきちんと服を着ていた。  気を失った自分が着替えたということは無いのだろうから、誰かが着替えさせたのだろう。  そのために取り替えられたような真新しいシーツがまるで守るように自分を包んでいる。胸元まで薄手の毛布が掛けられていて、ひどく温かい。  少しだけ腕を動かすと、ちり、とした痛みが伝わった。新しい半袖のインナーシャツから伸びる腕には、肘の内側辺りに針が刺さっている。針からは細い管が伸びて、薄い褐色の薬液が規則的なリズムで落ちていた。点滴だということはすぐに分かった。  肩から肘までの感覚も覚束ないが、肘から下は痺れたようで更にままならない。青い筋の立った自分の腕の先に視線を動かすと、ほのかに温度を持つ手のひらで視点が定まった。

「・・・、艦長」

絞り出すような掠れた声でそう呼びかけると、手のひらに乗せられていたもう一つの手のひらがぴくりと動いた。そこから繋がる作業服の腕から先、小綺麗に整った横顔がこちらに視線を向ける。  左の手のひらは自分の手のひらに乗せられているが、もう片方の手には厚いファイルが広げられて乗せられていた。軽く膝を組み、無造作にその紙を繰っていた手が止まる。 「副長」  座っていた簡易の椅子を動かして、彼はこちらに向き直った。一瞬触れ合っていた手が離れて、けれど乗せられていた時の感触は名残のように残る。そうして、作業をしていたのだろうファイルを床に置くと、彼はもう一度、手のひらを乗せてきた。  見つめる目が、安堵を滲ませるようにゆらりと一瞬揺らいだ気がした。  足元を絡め取るように自分を包んでいた筈の彼の甘く濃いαの「香り」は、今は仄かに漂うだけだ。肌と肌と触れ合わせているけれど自分の身体が反応しないのは、抑制剤が効き過ぎるほどに効いているからだろうと思った。 「身体はどうだ」 「ああ、・・・申し訳ありません。もう、何も」 「そうか、薬が効いたようだな」 「はい、・・・・」  尋ねられたことに答えるのがやっとで、それ以上にあまり言葉が思い浮かばない。視界ははっきりとして来たが、まだ意識はどこか遠くの世界にいるようで、今ここに彼がいることも現実のこととして捉えるのに時間がかかった。 「ここは」 「ああ、あなたには申し訳ないと思ったが、私の部屋に運ばせてもらった。」  彼はそう答えた。壁に飾られた幾枚かの「いぶき」就役時の記念写真が、視界に入った。 「あの状態では、医務室に運ぶのも憚られるだろう。こちらの方が、治外法権のようなものだから。人払いもしやすいかと思ってな」 「そうでしたか、・・・」  あの状態、という言葉に、起きたことが現実だったということを知らされる。  朦朧としたあの時間。「発情」を起こして彼にそれを見られた。彼にぶつけても仕方のない感情を醜く吐き出したことに、冷静になった自分が、激しい後悔を頭の中でだけ繰り返す。  その心持ちを知ってか知らずか、彼はその醜態を晒したことを、口の端にも上らせない。淡々と、状況を報告するように続ける。 「悪いが、着替えも勝手にあなたの部屋から持ち出した。私のものでは、合わないかと」 「いいえ、・・・ありがとう、ございました」 「点滴だけは、医療行為なので医務長に頼んだが」 「お手数を・・・」 「他の者には適当に理由をつけて説明はしておいた。だから気にせずゆっくり休むと良い」 「・・・・・」  彼はそこまで言うと、小さく笑う。  触れた手のひらの熱はそのくぼんだ部分に留まって、強張った指先をわずかずつ解していくようだった。

「・・・・あんたは、本当に。  αなのか?」

ちょうど程良く整えられたその寝床は嫌でも眠気を誘う。  気を緩めればとろりとまた眠りの海に潜り込んでしまいそうな意識をどうにか押し留めて、それだけはと、縺れそうになる口を開いて尋ねた。  彼は一瞬、何かを考えるように微笑んでいた口元を引き締めると、またそれが無かったことのように笑った。 「αが、Ωにこんなことはしないと?」 「・・・・少なくとも、俺は。出会ったことは、無い」  どんなに紳士的に振る舞ってきたαでも、「発情」を迎えたΩに対しては手のひらを返したように暴力的になる。そんな光景を今まで嫌というほど見てきた。だから今彼がこうしていることに懐疑的な感情しか湧かない。  αなら、こんなことはしない。抱くだけ抱いてきっと打ち捨てる。それが「番」でも、都合が悪くなれば簡単に切って捨てる。  己の淀んだ感情の濁りは、世間がΩに向ける偏見とそう変わらないことも知っている。けれどそう思うのを止めることは出来ないでいた。  手のひらに直接伝わる温度とは裏腹に、その奥の読めない感情は浮かび上がっては来なかった。彼は少し考えるような仕草を見せて、やがて何かを決めたように口を開く。

「私は、どうも変異性のαらしくてな」 「変異性?」 「何が原因なのかは分からないが。Ωに対する、というより第二性に影響される部分が少ないらしい。  だから、あなたに対しても激しい『発情』を起こすことは無かったようだ」 「・・・そうだったのか」 「だからと言って、αの特性を失っているわけではないし、Ωのフェロモンに反応しないわけでもない。  ・・・・あのままでいたら、あなたに何をしていたかは分からなかった。  だからあなたには申し訳ないが、少し強めの抑制剤に頼ってしまった」 「・・・・ああ、・・・」  少々強引に口に含まされた、あの白い錠剤のことを思い出した。

「副長」 「?」  彼は少し目を伏せる。そうして一つ息を吐いてから、再び言葉を紡いだ。

「・・・・あの抑制剤は、涌井群司令の裁量だ。あなたのためにと」

「群司令は、あなたには言うなと言ったが。あなたは、知っておくべきかと思う」  彼が重ねる言葉に、ぼんやりとする頭をどうにか覚醒させながら耳を傾ける。  彼は続けた。 「あなたがこの『いぶき』に乗り組むことが分かってから。  群司令が、万が一何があっても良いようにと、急性期の『発情』に対応するための抑制剤を準備していたようだ。  ただあまりにも効果が強くて常用するには危険だからと、あなたには言っていなかったらしい。」 「・・・・」

「それがあることを知ったら、あなたは躊躇なくそれを誤用するだろうからと。  ・・・・私が知ったのは偶然だったが、涌井群司令は、あなたの事情をよくご存知だった」

「・・・・・群司令が、」  人の良い、大海のようなおおらかな笑みを浮かべるその群司令の顔を思い起こした。 「あなたが、この仕事に誇りを持っていることを。  そうして、それがΩであるが故に行き過ぎてしまうことも、よく知っておられた」  いつも大局を見据えて、目先の結果に捉われることのない判断を下すその姿が描かれる。 「・・・だからこそ、あなたは艦長ではなく副長に。『いぶき』の片翼として一番相応しい場所に。群司令がそう考えて上申した。そうして上は、あなたを副長に据えた」 「・・・・」 「あなたはどう思っているのかは、定かではないが。けしてあなたが、Ωだから、・・・劣っているからということではない」

「あなたがΩだからということではなく、私がαだからということでもない。その場所が、『いぶき』の持てる能力を最大限に発揮出来る位置だから。  少なくとも私はそう思っている。・・・・新波二佐」 「、秋津」

「私には、・・・『いぶき』には、あなたが必要だ」

乗せられていただけの手のひらが、ゆっくりと指の一本一本を確かめるように隙間に絡められて、握り締められる。手のひらの中に点っていた温度は徐々にほのかで淡い暖かさから、はっきりと心を伝える熱になって、肌に染みていく。  渡されて、伝わった熱は喉元を熱くさせた。一瞬息が詰まって、ひく、と喉が鳴った。  かちゃりと音がして、鍵が鳴った。その「チョーカー」は、息苦しくない強さで、首に巻き付いている。 「項を、噛まなかったのにも理由がある」  彼は静かにそう言った。伏せた目に、ほんのわずかな躊躇いが漂った気がした。握りしめられた方の反対の手には、白い包帯が巻かれていて、その理由は分からない。 「・・・・え?」 「項を噛んで、あなたを『番』にしてしまうことも考えた。  そうすれば、あなたは『発情』から解放されて、もう苦しむことはない。」 「・・・・」 「あなたが『発情』にこれからも苦しむなら。それも方法の一つだと思った。むろん、私との『番』になることを、あなたが納得出来ればの話だが」 「秋津」 「けれどあの状態のあなたに了解を取ることは出来なかった。  それでも強引にでもことを進めれば、あなたの感情は後づけでもいいと、多少はそれも考えた」 「・・・・それは」  心の奥底でゆらりと波立った心が滲み出たのを彼は見逃さなかったのだろう。すまなさそうに眉を下げてこちらを見つめ返した。 「そこに、αの傲慢さが出ていたことは否めない。・・・・あなたが心から嫌悪する、αの」 「・・・・」 「だが」

「あなたを『番』にする以上に、あなたとちゃんと、話をしたいと思った。  新波歳也、あなたと」

「・・・・」 「『番』になることは、話をして、信頼関係を築いてからでも遅くはない。  あなたには負担をかけるかもしれないが、それは、艦長の私が責任を持てばいいことだ」  彼はそう言って、絡めた指先に少し力を入れた。握り返すつもりで、指をわずかに動かす。されるがままだった指先が意志を持って動いたのを確認して、彼はうっすらと微笑んだ。 「秋津、・・・・」 「私があなたの分を背負います。今までのあなたの痛みや傷を、代わることは出来ないかもしれないが。  それでもこれからは。出来るだけのことはしよう」 「・・・・」 「これから、二人で、『いぶき』と。長く共にあるのだから」

「・・・・、」 「新波さん」

『あなたを救い出してくれる人がいたらと』 「だから、私と話をしませんか。・・・・あなたのことを、私に預けてください」

強く絡めあった指先から伝わる彼の熱と、自分の熱が溶け合う。  どちらの熱か、それは分からないほどに。  身体が熱くなった。けれど「発情」が起こったわけではなくて、これは、自分の心が、熱を放っているのだと思った。

長い間感じることの無かった熱が、冷えてかさついていた内を満たして、潤す。 「・・・・・、っ・・・・」  目尻から溢れて、流れ落ちそうになったそれを見られてはならないと、彼のいる反対の方向へ顔を逸した。白いシーツに、水分が染みて、薄いグレーの湖を形作る。  喉元にせり上がる嗚咽を、奥歯で噛みしめるように抑えた。  包帯を巻いた彼の手が、垂れ落ちて染みるその雫を拭った。薬品のつんとした匂いに、甘く柔らかな濡れた花の香りが混じる。

その熱を誰かに預けることなど、もう無いと思っていたのに。

言葉は形にならない。  返事をすることが出来ずに、顔を逸したまま目を閉じた。  おやすみなさい、と彼がそう低く穏やかな声で囁く。絡めたままの指先をもう一度、握り直した。  声なき呼びかけに呼応するように、彼が熱い手のひらに、力を込めるのを感じていた。そうして眠りが訪れるまで、ただずっと。

その手を、離さないでいた。

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