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ぴしゃりぴしゃりと、規則的に水の垂れる音がする。

温く生臭いその雫が、頬に幾度か打ち付けた。それに気がついて、薄く目を開く。  硬く冷たい床に押さえつけられた身体と頭はじくじくと鈍痛を訴える。骨が軋んで、上手く動かすことが出来ない。  口の中で青臭い液体の味と、鉄の味が混じり合って、喉の奥を刺激した。咳き込むと、吐き出された唾液を含んだ生白い液体が床に醜く広がった。

『お前、こういうの好きなんだろ?』

耳には籠もったような水音が広がって、声は聴き取れない。誰もいない孤独な水中でもがくように手を伸ばした。  誰もいないということも分かっているのに、もしかしたらと片隅に残る僅かな希望に縋るように、その指先を広げるのを止められなかった。

ーーーーーーー助けて。誰か。

「あなた、バカなの」

泥でくすんだコンクリートの地面には、夜半にわずかに降った雨の名残の水溜りが広がっていた。足元のその水溜りに靴の爪先が触れる。濡れた革靴には濃茶の染みが出来上がっていて、小さく息を吐いた。  高いビルに挟まれてぽっかりと空いた隙間のようなその空間には、思ったよりも太陽の光は届かない。左手の腕時計で時刻を確かめると、明らかにその時刻のものとは思えないうっすらとした明るい闇を纏っていることが分かった。  温い水の匂いが辺りをぬるりと包んでいる。あまり良い記憶の無いその匂いに、眉を顰めた。 「相手はαよ。何無謀なことしてるの。あなたΩでしょ」  自分の目の前に立つ彼女はそう言って、呆れたように不機嫌そうな顔を浮かべてそう言った。整ったラインの華奢な肩にはガーゼのような薄い透けたブラウスがかかっている。中に着た1枚きりの濃色のキャミソールは胸元が広めに取られて、身体のラインに程よく沿って、薄い光を受けて艶光っている。  無防備過ぎる。あのαの連中は鼻持ちならなかったが、彼女の格好はそう表現されても仕方がない気もした。  きっちりと「チョーカー」を締めている自分とは違って、彼女の首元に巻かれた「チョーカー」は指2本分ほどを差し入れられる程度には緩く巻きつけられていた。鎖骨と鎖骨の間に鍵が揺れて、一見それは、αの噛みつきを防ぐものとは思えなかった。

「・・・・Ωの癖に、他のΩを助けようなんて。」 「・・・・・じゃああのまま、あの連中に輪姦されたかったと?」  口にするのを一瞬躊躇ったけれど、現実、放っておけば十中八九そうなっていただろう。少しだけ彼女を嗜めるつもりでそう呟いた。  彼女は一瞬むうっと唇を尖らせて、そうして憮然とした表情を崩さないまま、答えてくる。 「・・・・、逃げ切れた。この街は私のほうが詳しい。逃げ道は知ってるわ」 「あの連中の手も解けないでいてか?強がらない方がいい」 「あなたこそ。見も知らない日本人のΩの癖に。ずいぶんとお節介ね」 「・・・・」

「いちいち甘いのよ、この国の人間は。  ・・・・感謝は、するけれど」

「あなた、名前は?警察官?」  二人きりの静かな空間には、人の気配一つ無い。早口に彼女はそう言って、肩から落ちたブラウスを引き上げて、こちらに向き直った。  細い肩のラインが白いガーゼ素材の奥に透けるように見える。自分の半分ほどしかないその二の腕は、口調に比べてひどく頼りない。  白い頬は水分を湛えて、触れると指の腹についてきそうだと思った。赤い唇は同系色のボルドーの口紅で彩られて、その白い肌にくっきりと血の色のように映える。  何者かを明かさない相手に自分の身分を晒すのは悪手だと思った。数秒ほど逡巡して、小さく口を開いた。 「新波歳也」 「ふうん」  名前だけを簡潔に告げると、彼女はそれで全てを理解したようだった。特にそれ以上、追及してくる風でも無い。興味が無いだけなのかもしれなかった。  短い時間だが、同じΩということも手伝って少しだけ気を許したのだろうか。彼女が一歩、こちらへ歩を進めて来た。  わずかに近くなった距離から、ほのかに甘い「香り」が漂う。バニラにホワイトムスクを混ぜたような甘く気だるげな香りは、おそらく彼女のフェロモンのさせる香りなのだろうと思えた。  幼さと純潔を形にしたようなその香りは涼しげな大人びた顔つきの彼女には少し甘過ぎる気もする。けれどそれを口にすることは無い。  Ωならば拒むこともないだろうと、距離を詰めて隣に立つのを特に咎め立てることもしなかった。

「あんたは」 「私は姜语汐。ユーシイ。みんな下の名前でそう呼ぶ」 「ユーシイ」 「学生でΩ。住所はこの近く。血の繋がった家族は日本にはいない。兄が一人向こうにいるけど、音信不通」 「そうか」 「ニイナミ?トシヤ?どっちで呼べばいいかしら」 「・・・、どちらでも」

「じゃあトシヤ。・・・・助けてくれて、ありがとう」

「・・・・」 「あなたの言いぶりは気に入らないけど。助けてもらったのは事実だから。」  ぽってりと艶を乗せた赤い唇の端がうっすらと上がって、柔らかに微笑んだのに一瞬戸惑った。懐に入ると、ずいぶんと馴れ馴れしいものだと片隅で思ったが、これくらいの年齢ならば、警戒心を解くのにそれほど抵抗が無いのかも知れないと思い直した。  彼女はまじまじとこちらを、大きなアーモンド型の目で見つめて来る。 「よく見たらトシヤ、いい男ね」 「・・・・からかってるのか?」 「小娘が大人にそんなことしないわ。正直な感想。モテる?トシヤ」 「いいや。・・・Ωに、それを聞くのか」 「それもそうね。Ωは年柄年中、モテ期だった」  悪びれもせずそう言って、勝ち気な目を細める。すん、と通った彼女の鼻筋が一つ空気を吸い込むのが分かった。 「それにトシヤ、あなたとても、安定した良い香りがする」 「え?」 「アンバーと、イランイラン。あと、ジャスミンも少し。・・・何だか大人の香り」 「・・・・」 「近くにいると、つい抱きしめたくなる」  抑制剤で抑えてはいるが、やはり距離が近いと、分かる者には分かるのだと思った。けれど「安定」という言葉には引っかかりを覚えざるを得なかった。  ほんの少し前まで不安定な「発情」を繰り返していたのは、他ならない自分だ。「安定」という言葉で表現されたことに、違和感を覚えた。  そんな事実を出会ったばかりの彼女に言うまでもない。彼女は興味深げにすんすんと香りをかぎ続ける。黙って彼女のしたいようにさせていた。  彼女は鼻先をわずかに近づけたまま、しばらく考えるような仕草を見せたあと、やがて言葉を継いだ。

「トシヤはΩよね」 「・・・、ああ」 「じゃあ『番』がいるの?・・・・答えたくなければいいけれど」 「番、・・・・」 「私、男のΩに会ったことが今まで無いから。・・・だから興味本位に見えて不愉快なら、答えなくていい」

「あなたには『番』がいる?」

『あなたが望まない限りは、私から『番』を結ぶことは無い』  そう言った彼の顔と、先程の医師の顔が交互に浮かんでは消える。うっすらと滲む痛みが、胸元にさがるネックレスの飾りに温度を与えていくような錯覚を覚えた。  彼と「番」になることを、自分は望んでいるのだろうか。不意に浮かんだ自問自答に、答えることは出来ないでいた。  救われるために「番」を選ぶのか、それとも心から彼のことを望んで、「番」になるのか。  どちらが正しいのかも、間違っているのかも今の自分には考えることが出来なかった。  この世界から自由になりたい。自由になって、思うように生きたい。それは唯一の願いで、けれど簡単に叶うことはない。叶う時は始めから、無いものなのかもしれない。  たとえ「番」になって「発情」から解放されることになっても。それは「自由である」と、果たして言うことが出来るのか。  αとΩという性に縛められて過ごす関係が、本当に正しい在り方と言えるのだろうか。彼は、それをどう捉えるのか。

「分からない」 「・・・、分からない?」 「ああ」 「そう」  言ったきり黙り込んだ自分に、彼女、ユーシイは何か言葉を重ねることはなかった。  ぴちゃりと水音がして、古びたビルの窓枠から垂れ落ちた雫が、足元の水溜りに小さな波紋を形作る。丸く広がるその波紋を見つめた。  ささやかに静寂を揺らすその動きに、意識を一瞬、浚われそうになる。それは過去の記憶と混じり合って、不安定な境目に自分が立っていることを感じさせた。

「・・・あんたは。『番』はいるのか」 「私?」 「ああ、」  特に彼女の事情に首を突っ込むつもりは無かった。ただ自分の足を持っていかれそうなその空間の静寂を崩すためにした質問だった。  彼女は少しだけ黒く丁寧にマスカラを塗った睫毛を瞬かせて、目をわずかに見開く。そうしてしばらく答えを口の中で転がすようにしてから、こちらを黒真珠のような濃く深い色の目で見つめてきた。

「『番』なんていないわ」 「・・・・、」 「『番』なんて幻、平和なこの国でしか通用しないお伽話でしょう。甘いのよ。」 「・・・ユーシイ」 「ごめんね、トシヤが悪いわけじゃない。そこは誤解しないで欲しいんだけど」  彼女はそう言って、綺麗な赤い唇の片端だけを上げて、微笑む。

「トシヤは知らないでしょう、向こうの国のΩが、どんな目に遭っているか」 「・・・、」 「知らない方が、きっと幸せね」  彼女はそう、少しだけ尖った声音でそう呟く。そうして遠くの故郷を見つめるように、狭い四角に切り取られたような夕刻前の空を見上げた。  細い顎から伸びる首筋が、紫がかった一日の終わりの色を溶かして滲む。その横顔は彼女が放つ淡く甘いバニラの香りに包まれて、幼くあどけない気配を消して濃い情欲を刺激する表情に変化する。  ただ話しているだけなら、普通に学生生活を楽しむ学生に見えていたはずだ。Ωという性がそれを阻むのを、目の当たりにしている気分になった。

「向こうの国のΩに、まともな人権はない」 「・・・・」 「Ωに生まれたら、どこかの金持ちの人形になるか、不特定多数のαの性欲の捌け口になるしか生きる道は無い。  見目の良いΩは性風俗に沈むか、人身売買の対象になる。Ωの臓器や細胞が精力増強の効果があるなんて、非科学的で馬鹿馬鹿しいことを、本気で信じている人間が山といる。そんな国よ。  もちろん、対外的には国際規約に沿ってΩは保護されていることになっている。けれどそんなのは建前よね。それは、日本も変わらないけれど。 『番』なんて幻想。冗談みたいに項を噛まれて、『番』になったら最後、身体がぼろぼろになるまで抱かれて、最後には捨てられて死ぬ。  誰にも看取られない場所で、たった一人で」  早口で、敢えて淡々とした口調で話す彼女の声音はそれでも震えて、それは怒りからなのか悲しみからなのかは測りかねた。  自国の事情以外は朧気にしか学んだことは無い。けれど彼女の話すそれが、彼女の故郷が抱えた現実なのだろうと思えた。  そうしてそれは、海の向こうで自分たちが、「いぶき」が相見えようとしているその国なのだということも。  それを口にすることは、自分の立場を明かすことにもなる。薄く呼吸した唇を閉じて、彼女の声に耳を傾けた。  彼女が見上げる小さな空に、視線を動かす。少しずつ、青みがかった淡いラベンダーの色に変化し始めた空が、視界をゆっくりと染めていった。

「Ωの兄弟姉妹がいることは家の恥で、金持ちに気に入られなければただの不用品になる。兄弟の出世のためにΩはいないものとして別の場所で一生を過ごす。」 「・・・・」 「だから私の両親は、私を兄から引き離して日本へ連れてきた。  ・・・・まあ、日本に連れてくるだけ愛情はあったのかもしれないね。日本は向こうより、ずっとΩの扱いは優しいから」 「、・・・ユーシイ」 「それだけよ。私が両親に、感謝したいと思うことは」  そこまで話すと、彼女は大きく、深呼吸をした。  濡れたような目元のことは、言う必要は無いのだろうと思った。

「・・・・私の兄は、向こうの国で戦闘機に乗っている」

「、・・・戦闘機?」 「海軍のパイロットなの。たぶんまだ乗ってると思う。」  彼女は続けた。 「『殲』って言うんだって。向こうの軍事に詳しい友達に教えてもらった。  兄は勉強も運動も昔からとても優秀で。・・・そして、優しかった。私がΩだって分かって日本につれて来られるまでは、いつも私のことを気にかけて。そうしていつも一緒だった」 「・・・・、」  彼女は長く黒い髪を、耳元でひと束掻き上げる。彼女の首に巻かれた「チョーカー」の鍵が、小さな音をたてた。 「だから、私は日本に来たの。  ・・・・兄の邪魔は、したくなかった。兄の願いや希望を、私の存在で阻みたくなかった」 「・・・そうか」 「そうでなくても、私がいるというだけで生きることが難しくなる人がいる。悲しいけど。  それは、私の運命で。・・・・だから」

「あの空は、きっと兄が飛んでいる空だから」  彼女の細く長い指が、視界に映る空を左端から右端へ辿る。「いぶき」の甲板から仰ぐ空の色が、一瞬、その四角く狭い空と彼女の指先に重なって見えた。 「・・・・・」 「私はここから、空を見る」

「兄が自由に飛ぶのを、私はこの場所で想像する。  それでいい。ーーーーもう一生、会わなくても、いい」

「兄が『番』なら。きっと私も、幸せとか、奇跡とか。ロマンチックなことを信じてたかも知れないけど。  お伽話の世界に浸るには、もう。  少し遅いかな」  彼女はそう冗談のように呟いて、日没へ向かって時を刻むその空から視線を外した。  そうしてゆるりと、困ったようにわずかに口元だけで笑った。視線は足元の水溜りに移って、薄く泥に汚れたスニーカーの紐を、彼女はくるくると指先で巻いては解くのを繰り返す。  子どものような仕草に纏う空気はΩのそれで、ふわりと土の匂いを孕んだ風に混じる淡く甘い香りは、悲しげにぬかるんだ地面に溶けて消える。  彼女のその、小さな笑顔に重ねる言葉を見つけることが出来ない。

『好きな人と一緒にいられれば、安心する』。 「番」とはそういう穏やかな関わりの中で生まれるものなのかもしれないと、そう言ったあの医師の言葉が、頭の中を巡った。  好きな人と、共にありたい。当たり前のように人はそれを願う。けれどそれは、故郷と家族から離れたΩの彼女にとっては、途方も無く儚く遠い希望だ。  何も願わない。心を通わせてただ共にいたいと願うことさえも、ままならない。それに喉元が締め付けられる思いがした。

『あなたの分も私が背負う。ーーーーーその言葉に嘘は無い』

「トシヤ」 「?」 「あなたを送らなきゃいけない」  少しだけ二人きりの時間を持て余した頃、彼女はそう切り出した。 「ここは治安が悪いから。慣れた人間でなければ近寄っちゃいけない。人通りのあるところまで、私が送るわ」 「ああ、・・・・」 「トシヤ土地勘無いでしょう、ここには」 「・・・・確かに」 「暗くなったら、Ωの匂いに惹かれて悪いαが近寄ってくるから。  男でも女でもΩなら見境ない奴がここにはたくさんいる。やれなければ臓器を抜いて海の向こうに売っぱらうなんて、当たり前だから。  日没までにはここを出た方がいい」  彼と同じことを言うと、彼女の顔を見つめた。  疑っていたわけではないけれど、ここを根城にする彼女がそう言うのだから、彼の忠告はどうやら本当のことだったのだろう。  胸元に揺れるシルバーの細いネックレスの感触を、着ている服越しに確かめた。はっきりと彼はGPSとは言わなかったが、おそらく彼のことだから居場所を特定する何か細工をしているのだろう。思うところはあるが、それが今に限っては、一種の安心材料になっている。 「分かった」 「あとこれ」  彼女がそう言って、ブラウスのポケットから取り出した物を受け取った。手のひらに乗せられたものを確認する。  薄いフィルムに包まれたそれと、白い錠剤の包みを見て、彼女に視線を戻した。

「おい、ユーシイ」 「どうせ要らないと思って、抑制剤以外は用意してないんでしょ。」 「・・・・」 「そこが日本人。トシヤが、『出来の良い、けど世間を知らない間抜けなおじさんΩ』だってことは、よく分かった。」

「・・・・」  言葉を継げられないでいる自分に、赤く艶めいた唇が微笑みかける。 「最悪の可能性はいつも想定しておくべき。ここに迷い込んだら、ゴムとアフターピルは必需品だから。」

ジャンプするように一度跳ねて、そうして両足を揃えて彼女は踵を返す。  羽のように軽く透けるブラウスにのぞく背から腰のラインは白くくびれて、まるで人魚のようにしなやかに、彼女は暮れなずむその空間を泳ぐように軽い足取りで歩き始めた。  その後について、薄く濁った水溜りの中を一歩踏み出す。帰投時刻は刻一刻と近づいていた。

避妊具であるそれを持たないのには理由があった。

男女の性別に関わらず、Ωはαと性交渉を持つことで妊娠することが出来る。そして身体的にも受精しやすい体質を持っている。  それはすなわち、望まぬ妊娠をしてしまう確率が高いということだ。故に、Ωは抑制剤と共に避妊具と緊急避妊薬を常時携帯することを強く勧められる。  当然のことながら、Ωである自分も必ずそれを持っておくように言われてきた。頭ではその必要性について理解している。それでも、常に持ち歩くということが出来なかった。

『お前、Ωだろ』  Ωである自分の身体の扱い方にまだ慣れなかった頃のことだ。  今日のように、繁華街の人気の無い場所に迷い込んだことがあった。運が悪く同じように外出していた同期の学生とはぐれてしまった。  まだ防大に入ったばかりで、Ωであることを知られないために友人とも極力深い関わりを持たないように気を遣って過ごしていた頃だ。途方に暮れていた時、その片隅でたむろしていたαの集団に絡まれた。  抑制剤の服用も上手く調整出来ずに、「発情」期の「香り」を抑えることが出来ていなかったのだろう。気が付いた時には、あっさりと彼らの容赦のない力に、組み敷かれてしまうことになった。 『こういうのが好きなんだろう、お前』  殴られたのかも、蹴られたのかも分からない。  殴られた時に鼓膜が破れたのか、耳に聴こえるのは水の中に潜った時のようなくぐもった音ばかりで、あと記憶に残っているのは断片的な映像と、痛みと、「発情」期に留まることなく溢れ出す、内からの熱の感覚だけだった。  口の中で、唾液と生臭い精液が混じり合う。何度も吐いたが、その気味の悪い感触は拭うことが出来なかった。

『お前はΩだからな』  そう、その行為の正当性を確かめさせるかのように耳元で囁かれる。  溺れる人間のように、縋るように手を伸ばしたけれど、その指先が何かを掴むことは無かった。

泥の付いた制服は自分で出来るところまでは拭って何事も無かったかのように帰投したが、教官は自分の姿を見てすぐに何が起こったのかを理解した。青ざめた顔をした教官に、押し込まれるように、その頃認可されてもいなかった緊急避妊薬を飲まされた。  結果として妊娠は避けられたが、自分の外出はその後しばらく、厳しく制限されることになってしまった。  周囲には外出時の喧嘩沙汰故のペナルティだと誤魔化していたが、誤魔化しきれていたのかそれは定かでない。むろん、警察に届けられることもない。  届けたところで不利益を被るのはΩである自分であることは、周囲も、そして何より自分自身が分かっていた。

避妊具を持たないのは、その時のことを思い出すからだ。  トラウマだと言われればそうなのかもしれない。そんな体質を持つという事実と、それによって簡単に自分は搾取される性であるという事実を、避妊具を持つことで肯定することが出来なかったからだった。  自分のやっていることは現実的ではない。端から見れば自衛も出来ないと謗られても文句は言えない、その自覚はある。けれど見れば嫌でも、自分がΩであることをその身体ごと受け入れて認めなければいけない。いくら人生の年数を重ねても、そのことがどうしても出来ないでいた。

『あなたはどうしても、Ωである自分を、否定したいようだ』  彼の言うことはその通りで、けれどαである彼にそれを指摘されることがあまりにも受け入れ難い。  尖った言葉で反応したことで彼の機嫌を損ねたかもしれないが、その理由を話すことは、彼との関係が変化し進展することはあっても、無いのだろうとは思った。

『ーーー语汐。お前いつから、こんなおっさんに鞍替えした』 『何言ってるのよそんなわけ無いでしょ、奕辰(イーチェン)』

冷たい壁に触れる頬の感触に気が付いたのは、古いビルの窓枠から落ちる雫が幾つか頬を湿らせた後だった。  後ろ手にきつく締め上げられて、後頭部から強く、苔と泥の付いたビルの壁面に自分は押し付けられるような形になっている。状況を理解しようと、視線だけを動かして辺りを見回した。  視界に入ったのは、黒く長い髪を揺らした彼女の細い肩とすらりと伸びた体つきだった。  薄い闇は次第にその色を濃くして、紫色の影を形作っていた。帰投時刻のことが頭を掠めたが、手首の自由は利かず、時刻を確かめることは出来ない。先程よりも暗くなったその空間は、ところどころ濃い色を滲ませて、夜の訪れを告げようとしていた。

『トシヤを離してくれる』  彼女はそう低く唸るように言った。彼女と近い距離で立っているのはしっかりとした身体つきと獣じみた暗い目の色が印象的な一人の男性だった。  彼の指先が、乱暴に彼女の顎先を掴んで持ち上げる。彼女はそれに強く抵抗するでもなく、睨みつけるように彼を見据えていた。 『トシヤは迷い込んだだけの、普通の日本人よ。あんたらに何かするなんてないわよ』 『ずいぶん庇い立てするんだな。同じΩに情でも移ったのか?』 『そんなんじゃない。ただ、やみくもに通りすがりの日本人を襲うなんて非効率的だと言いたいのよ。  ・・・このΩをどうこうしたところで、あんたが得することなんて無い』  高く細い声はどこか震えるようにも聞こえた。言葉は強いが、明らかに萎縮したような姿勢は、彼と彼女の関係を伝えてくるようだ。  身じろぎした背を殴りつけられるように押さえこまれる。ぐ、と喉が鳴る音がして、彼女がこちらを見た。

『トシヤ』 「・・・どういうことだ?」 『ごめんなさい』 「・・・・・」  美しくきらめいていた黒真珠のような目が、一瞬歪む。彼女がもう一度謝罪するような素振りを見せたのを、彼の指先が握りつぶすようにぎり、と顎を掴む手に力を込めて拒むのが見えた。

『痛いじゃない。離して奕辰』 『そういうことじゃないんだよ、语汐』  一瞬、辺りの空気が温度を下げたような気がした。彼はそう低くゆっくりと、彼女に言い聞かせるように言葉を重ねた。 『奕辰』 『俺がαだってこと、お前は分かってるだろう。』 『・・・それが何?』 『・・・・αの特性だって、お前は兄貴で分かってるはずだ』 『・・・・・』 『αは、自分のものにしたΩに対しては、・・・・異常に嫉妬深くなるんだ』

『αは獣だ。  一度『番』を手にしたら、自分の『番』を奪われないために、よりいっそう支配欲と凶暴性が増す。  それは一般人だろうが日本人だろうが、Ωだろうがαだろうが関係ない。

・・・俺は、他の奴がお前に指1本でも触れるのは許せないんだよ』

「・・・見たところ、ずいぶん質の良いΩじゃないか」  彼は日本語でそう言って、こちらを睨めつけるようにじっとりと視線を動かした。舌なめずりをするようなその温い視線に、一瞬、過去の出来事がフラッシュバックする。どくりと身体の底が波打って、そうして背筋を、冷えた感触が伝う。  心臓が鼓動を速めて、息が上手く出来なくなるのが分かった。は、と気づかれないように、呼吸を整えようと息を吸う。  強い力で抑え込まれた背骨は軋んで奥からわずかな痛みを訴えてくる。冷えた壁の感触に、高くなる自分の体温が移るような気がした。  まずいと、頭の中の自分がそう告げるが、どうすることも出来ないでいる。言葉が、紡げないでいた。 「・・・・・・」 『奕辰』 「年齢の割には身体つきもいいし、傷跡も少ない。あまり経験が無いのか?」 「・・・、お前」 「それに・・・フェロモンも、安定している」  視線が腰から下をなぞって、暴くように目を細めてその男は口の端だけで笑う。その気配に戦慄した。 『止めてって、言ってるじゃない』 「こいつのフェロモンはイランイランだな。匂いからして、抱いてくれって誘いかけてるようなもんじゃないか」 『止めて』  彼女の声が、掠れて力なく響く。

「真面目な顔して。  どうせこいつも、どうしようもない淫乱なんだろう。・・・・Ωだからな」

「最近は、女に飽きて敢えて男のΩを欲しがる金持ちも多いからな。  年はいってるが売ればそれなりに高くつくだろう。・・・・あっちの方も、上手そうだ」 「・・・・!」 「どんなものか試してみたっていいんじゃないか。それでこの日本人を解放してやってもいい。・・・どうだ语汐」 『・・・冗談きついわよ、奕辰』 『冗談で済んでれば良かったな。お前が、俺以外の奴に尻尾振るからこんなことになるんだ。语汐』  ぎり、と掴まれた手首に痛みが走る。顔を歪めると、自分を掴む男の空いた手が、撫で付けるようにシャツの中をまさぐろうとする。  身を捩って避けようとしたが、上手くはいかなかった。腹の辺りを粘るような手付きで撫でられて、悪寒が走った。吐く息に混じって声を上げそうになって、ぎりと唇を噛む。 「・・・、やめろ・・・!」  喉を引っ掻くように絞り出した声はわんと濁った空気の漂う空間に響く。  腰の骨の辺りをしつこく撫で付ける手と、擦り付けられる男の腰の感触に肌がぞわりと震えた。布越しに触れる硬く生々しい感触の正体を想像しないようにしようとしたが、過去の記憶と結びついたそれは、否応が無しにそのイメージを脳内に染み付かせていくようだ。  抑え込んだ筈の呼吸が荒くなって、コントロール出来ない熱が下腹の底で波打ち始める。額に汗が浮かんで、一筋流れた。喉が何かで詰まったように、やがて息が出来なくなる。ひゅ、と細い声が、意図せず漏れた。  そんな声でさえもフェロモンのせいか、じわりと欲を刺激する色を滲ませる。強引に首筋を舐めようとする男の息が温度を上げた気がした。 「・・・・やめ、・・・・」  男の手が、胸元を這って、やがて下半身に割り入って、指先でその先にあるものに触れようとする。耳元に、ねっとりと温く息を吹きかけられた。  眼前に、いつも過る幾つかの映像が、広がった。

『こういうのが好きなんだろう、お前』 「・・・・・っ・・・・あ・・・!!」 『お前Ωだからな』

ーーーーーーーー助けてくれ、助けて、助けて。  ・・・・・誰か。

『ーーーーその人、自衛官よ奕辰』

『何?』 『それも、だいぶ上の方の人。・・・・・あんたの父親とタメくらい』 『・・・、何だって。こいつ、軍人なのか?』 『そうよ。・・・・トシヤの名誉のために、言わないでおこうと思ったんだけど。  あんた、ちょっと冗談が過ぎるから』  押し付けられていた腰が離れて、手首を掴んでいたその手が、またたく間に離れる。腫れ物を囲むように自分の周りにいた男は距離を取り始める。不自然な間が空いて、不意に得られた自由に、壁に背をもたせかけた。  膝がわずかに震える。もたれていなければ立てないでいる。顎を伝って落ちた汗が、鎖骨をなぞって、胸元まで滑り落ちた。 「ごめん、トシヤ」 「ユーシイ」 「あなたの身分証、ポケットからはみ出てたから。見てしまった。・・・・言うつもりなかったんだけど」 「・・・・・」  歩み寄ってきた彼女が、締め上げられていた手首にそっと触れる。細い指先の爪が、欠けて割れていた。彼女は一瞬長い睫毛に彩られた目を伏せて、謝罪をするようにひとつ、頭を下げた。

「怖い目に遭わせた。・・・・ごめんなさい」

『奕辰、この人に関わらない方がいい』 『何だって?』 『あんたの父親のこともあるけど。・・・・・この人、『番』がいるわ』 『『番』?』

彼女はそう言って、自分の開いたシャツの襟からのぞく、シルバーのネックレスを一瞥した。  ちゃり、と小さな金属音をさせて、ネックレスが揺れた。わずかな日没前の光を受けて、銀色が灯火のように光る。  彼女は指先だけでそのネックレスに一瞬触れた。そうしてこちらを一瞬見つめてから、「奕辰」と呼ばれた彼の方に向き直った。 『あんたとは比べ物にならないくらい、強力なα。・・・この人の『番』、相当な力がある』 『そんなこと、どうして分かるんだ』 『このネックレス、たぶんΩの護身用のものよね。・・・・・居場所を把握できるようにしてあるのもそうだけど。その人のフェロモンに似せた成分が、全体に染み付いてる。  たぶん、αのあんたなら分かるだろうけど、触れたら駄目なやつ』 『・・・・・』

『警戒心と、強い執着。  支配欲、加虐性、・・・庇護欲。近づく者に対する警告に近い、強い匂いがする。』

「・・・・」 『きっとこの人に何かあったら、あんたはただじゃ済まない』

整いきらない自分の呼吸の音が、泡の音に入り交じるように鼓膜を揺らしていた。彼女の声は切れ切れに、その泡の隙間に響くように、自分の耳に届く。  首から提がったままのそのネックレスのチェーンの感触が、ほんのわずかずつ温度を下げ始めた首筋に伝わった。彼女の言っていることを、冷静さを取り戻し始めた頭の片隅で考えようとした。  凛とした透き通る声がする。 『奕辰、悪いことは言わないから、手を引いた方がいい。  ・・・・変に軍人に手を出して当局まで絡んできたら、あんたの大好きな父親まで巻き込むことになるよ』 『・・・・・』 『奕辰、冷静になって考えて』 『・・・・语汐』

『ーーーーあんたの『番』は私でしょう。この人じゃない』

夕刻を迎える直前の淡い藍色と紫の空に、ぽつりぽつりと街のネオンの灯りが粒のように光り始める。  明るくなるその灯りに合わせるように、次第に耳元に繁華街の喧騒が戻ってきた。ゆるりとした午後の平坦な賑やかさはわずかに拭われて、清濁併せ飲むような黒い闇と眩い光が行き交う、そんな予感を孕んだ空気が漂っている。  細く濡れた路地を抜ける。一気に明るさを増した通りの片隅に、二人向かい合って立った。謝罪を繰り返していた彼女はこれ以上は込めた意味が薄らいでしまうとでも思ったのだろうか。口を噤んで何も言おうとはしなかった。

「ユーシイ」 「・・・・・、」  細く長い指が、シャツからのぞく自分の両の手首を、やんわりと持ち上げる。  硬く閉じたような表情とは裏腹に、青く浮き立つ静脈と、くっきりと横に走った赤い指跡が交差する部分を撫でる手付きは、ひどく穏やかで柔らかだった。  その指先が何を伝えようとしているのか、彼女と出会って半日もない自分には到底理解は出来ないのだろう。 『あんたの『番』は私でしょう』  そう、あの男に言った彼女の声が、まだ耳に残っている。  彼女が積み重ねて来たこれまでの時間と空間も、推し量ることは傲慢で、今それを自分の重ねてきた時間と共有する意味も無いのだろうと思った。  自分と彼女の共通項は、Ωであるということだけだ。  国も違えば立場も違う、その二人が分かち合うことが出来るものは、そう多くはない。

「トシヤ」  彼女が自分の名前を呼んだのに、わずかに視線を上げる。  喧騒の中を通りすがるように吹く潮気混じりの夜風の香りが、彼女のバニラとホワイトムスクの香りを溶かして、鼻先を掠めた。湿った夜の気配に甘怠く滲む彼女のその香りを感じるのは、もうこれで最後のような気がする。  同じようにこちらを見つめた彼女と目が合った。彼女の鎖骨あたりに、緩んで意味をなさないままでいる「チョーカー」が、細いリボンのように巻き付いていた。 「・・・・。」 「気をつけてね。もう、ここに来ちゃだめ、ひとりで」 「・・・・まるで、子どものおつかいのように、言うんだな」 「だって、トシヤ。あなた隙だらけのおじさんだから。」  ふ、と彼女は困ったように整えられた薄い茶色の眉を下げて微笑む。幼い子どもに言い聞かせるような顔に、どう返答すればいいのかと、黙り込んだ。  夕闇に溶けるようなこっくりとしたボルドーの唇は、少し悲しげに歪む。 「それでもあなたが今まで生きてこられたのは、きっと。あなたを心配して守ろうとする人が多かったからよね」 「・・・・」 「羨ましい」

「・・・・そのネックレス」 「・・・・」  彼女はそう言って、上まで留め上げたシャツの中のネックレスを透かして見るように呟いた。 「少し怖い。それをあなたに渡した人は、どんな人?」 「どんな人、・・・・」 「・・・・大丈夫なのかなって、思う」 「大丈夫・・・?どういう意味だ」

「αは獣」  彼女は、あの男が言ったことを、同じように繰り返した。獣という言葉に少し強い語気を込めながら、独り言のように彼女は言う。 「自分の『番』のΩを大事に大事にする人もいる。・・・・でも、そうじゃない人も、いるから。  大事過ぎて、離したくなくて。 『番』も、自分でさえも。壊してしまうαがいる、たまにね」

「あなたのその人は、ーーーーーどっちなの?」

「ねえトシヤ」 「・・・」  彼女は一瞬目を伏せた後、背にせまる空を透過するように、こちらを見つめた。黒く濃い、透明度の高い目は、自分だけではなくて、空の向こう側の、彼女にとっておそらく、最も大事なその人の姿を思い描いているのだろうと思った。  空が暮れなずむにつれて、彼女との距離が、わずかずつ開くのが分かる。生きている世界が違うのだと少しずつ、線を濃くするように。 「自分のことは、大事にしてね」 「・・・」 「あなたに、『番』がいるならなおさら。  自分がΩだってことはちゃんと、自覚して受け入れた方が、きっと自由で、生きやすい。  ・・・・そして、自分の身体は大事にして欲しいの」  彼女に自分の抱えた記憶のことは告げてはいない。けれど彼女は始めから見透かすかのように、そう言葉を重ねた。  答えるつもりも無いが、その答えも、彼女は理解しているのではないかとふと思う。 「・・・・・俺は、『番』がいるとは、言っていないが」

「・・・・それでも、大切だと思う人がいるなら」 「・・・・」 「『番』じゃなくても。そう思う人がいるなら。  ・・・そしてあなたのことを、Ωでも何でも。大切にしてくれる人がいるなら」  彼女はそう言った。彼女の言葉が少し広くなった頭上の空に溶けて消えるような気がした。

「あなたは、ーーーーーーその人のために生きなければいけない」

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