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――傷ついていた。

自分の描く世界を実現するためならば多少の犠牲は厭わない。彼はそういった種類の人間ではなかった。  むしろあの場にいた誰よりも、彼は一人たりとも犠牲を出さないことを最優先にしていた。飄々とした態度、自由奔放な振る舞いや言動はどこか物事を軽んじていると誤解を招くことも多かった。けれど隣にいてその心持ちや行動を具に観察していれば分かる。彼は何よりも日本という国とその秩序を慮り、そうしてそこに住む人々へ深く心を傾けていた。  誰よりも情が深く、人間らしい。  だからこそ、彼は理想と現実の狭間で孤独に戦って、苦しんでいたのだと思う。力量差、物量差のある侵略者を退けた、そのことを誰もが称賛していたはずで、けれど彼はどんなに手を尽くしても避けられなかった犠牲に静かに心を痛めていた。  戦うことは綺麗事ではなくて無傷でいられることなど無い。けれど彼は綺麗事ではないと投げやりに片付けることもなく、ただ純粋に持てる力を尽くしてその限界を越えようとしたのだ。  事実、犠牲は最小限で済んだが、限界を越えきれなかった彼は、誰にも知られない場所でひっそりと、傷ついていたのだろうと思う。

『いつか、観に行きませんか。――ニライカナイへ届く場所へ。二人で』

あの時そう、心から思ったのだ。  あなたの払った犠牲はけして無駄ではなかったのだと。指と指の間からやむなく零れてしまった命はニライカナイへ戻り、またいつか時間を経て生まれてくるのだからと。それは明確な根拠があるわけではない、数多ある信仰のうちのひとつだ。彼にとってはその場しのぎの慰めだったかもしれないが、それでも必ずいつかはと、母港へ戻る甲板上で祈るように彼に誓った。  空の青と海の青が同化して溶け合う。生と死は相反する2つの要素なのではなくて繋がって巡り続ける。そのことを証明するかのようにどこまでも、果てなく続くあの静謐な海岸の風景を思い出す。

――あの場所へ、いつかは。必ず彼を連れて行くのだとそう、ずっと思っていた。

小夜時雨に濡れた蝋梅のつるりと滑らかな花弁が、午後の光を受けて艶めいて光る。  晩冬の冷えた温度のせいか乾ききらなかった地面は湿り気を帯びて、微かな水と土の匂いを辺りに漂わせていた。  僅かな溜まりの残ったアスファルトに視線を落としてから、顔を上げて眼前の四角い建物を見遣った。近代的な造りのその建物に、白衣や作業着を着た人間が、幾人も出入りしている。  すっきりと明るい色で統一されたその建物は、一見すると死者の遺体を取り扱う施設には見えなかった。周囲の豊かな自然も瑞々しい生の気配を漂わせている。ここで本当に解剖が行われているのだろうかと思う。  明らかな部外者の空気を纏わせた自分に、通りすがる職員の訝しげな視線がぶつかった。気にせず歩を進めて、約束の場所へ向かう。指定された時間よりもわずかに早く到着したことをメッセージで知らせると、そう間を置かずにすぐに行くという返信があった。携帯をポケットに収め直して、葉の落ちた細い枝の隙間からのぞく明度の高い空を仰ぐと、ほのかな冷たい風に乗って、鼻先を淡い花の香りが掠めるのが分かった。  洋上で眺める空はここの空よりもずっと広く色も濃い。それは窮屈なのではなくて同じもののはずなのに全く別のもののように見える。「いぶき」の上はここよりもずっと狭いはずだが、ここよりは開放感があるなと比べることでもないのにそう思った。見慣れない場所であるということと、ここに来た自分の目的にわずかな後ろめたさがあるからだろうか。 「お待たせしました」  約束の場所に指定された中庭のベンチに腰掛けるのも気が引けて立っていると、りんと鈴を揺らすような高い声が響いた。まだわずかに露の残る芝生を踏みしめて、彼女はこちらへ小走りに駆けてきた。  華奢な身体に羽織った白衣は糊できちんと皺なく整えられてはいるが、少しくたびれて彼女の動きによく馴染む。それは彼女がここでこなしている業務の気配を匂わせていた。けれど艶のある白い頬やぱっちりとした目は、彼女が多くの死を見つめる法医学者であるという印象をまるで抱かせない。 「――新波さんですね」 「はい」  小さく頭を下げると、彼女は同じように頭を下げて、やがて微笑んでこちらを見上げてきた。  今ここで響くその声が、受話器越しの声と同じものであることを、心の中でだけ確かめる。奥まで透けるような落ち着いた濃茶の瞳が、何事かを見透かすようにこちらを見つめてくるのが分かった。 「UDIラボの三澄と申します」

これは私の独断で行うことですからと、UDIの面談室ではない場所を指定してきたのは彼女の方だった。  手渡された名刺には、あの日彼に見せられたものと同じ連絡先が印字されていた。UDIという、国の認可を受けた検死の機関で、各大学へ献体の仲介も行っているという。  公正証書遺言、そして献体登録。自分の職務に関わるものでなければ法にめっぽう詳しいわけではないが、極めて個人的なその決断について簡単に情報が開示されることは可能だと思っていなかった。  彼との個人的な繋がりは吹聴するものでもなく、証明されるものも何も無い。職場の同僚という以上に周囲へその関係性を説明するものを持たない自分がその件について問い合わせたところで色良い返答はもらえないだろうと覚悟して連絡したが、目の前のこの彼女は、非公式な場所での話であるということを条件に、こちらの問い合わせに答えることを快く了承してきた。 『私も、あなたにお話をしたいと思っていたので。良かったです』  渡りに船だと言わんばかりの口調に、問い合わせたのは自分だというのに戸惑ったことを覚えている。  出来るだけ他の人間に聞かれない場所を指定してきたところから考えても、自分が求めていることはけして彼女の立場にとっても良いことではないのだろう。けれどそれを含めた上でこちらと話をしようということは、今回の彼の一件に関して、彼女も思うところがあるからなのではないかと思っていた。 「……何ていうか」  細い枝の間から溢れる光を受ける芝生が粒のようにちかちかと光る。口火を切ったのは彼女だった。 「?」 「印象、変わりました。新波さんも、秋津さんも」 「印象?」  二人間をとって腰掛けたベンチで、彼女は自分の渡した名刺を少し俯いて見つめながら、そう言った。 「ええ。自衛官ってもっと、こう。筋肉ムキムキ……あ、すみません」 「……」 「……がっしりとした印象が強かったもので。新波さんも秋津さんもそんな風に見えなくて。意外で」 「そうですか」 「……ええと、失礼でした?」 「いいえ。よく言われますから」 「そうなんですね」  尖った反応に見えないようやんわりと口元だけを上げてそう答えると、彼女はほんの少し安堵して、肩の力を抜いたように小さく微笑んだ。  わずかにくだけたやり取りは、中の面談室で向き合って話をしていないからだろうかと思う。そして彼女の纏う、わずかにあどけない少女のような柔らかな空気もそれを手伝っているのではないかと思った。 「……来ていただいて、ありがとうございます」 「こちらこそ。無理を言いまして」 「いいえ」  彼女はそう答えて、しばらく考えるように薄い桃色の唇を引き結んで黙った。けれど言葉を選ぶような慎重な面持ちを崩さず、こちらに向き直った。 「どうしても、あなたとお話がしたくて。けれど依頼の性質上、あなたと連絡を取る手段がなくて困っていたんです」 「……そうだったのですか」 「母に直接聞くわけにもいきませんし、秋津さんには尋ねそびれてしまって。……秋津さんはあまり、あなたのことを大っぴらに言いたくなさそうな雰囲気だったので」 「……」 「あと私も彼に喧嘩を売ってしまったので」 「喧嘩?」 「……ええ、ちょっと、噛みついちゃったというか」 「……」  彼女は一瞬だけ眉を寄せて苦い表情を浮かべた。けれど次の瞬間にはその表情を奥に潜めて、言葉を継いだ。 「ですので、あなたから連絡を取ってきていただいて助かりました」

『私の遺体は、献体に出す』 「――献体のことですよね、もちろん。新波さんが私に問い合わせたいことは」 「……」 「秋津さんの献体登録の件」 「……ええ」 「私も、そのことでお話したかったんです。あなたと」

いつから、そのことを考えていたのだろう。  彼にその話を聞いた時からある限りの記憶を呼び起こして心当たりを探っているが、このことだという明確な出来事は無いような気がしていた。  彼自身は先日の「しらぬい」の一件がきっかけなのだともっともらしく話してきたが、そうではないのだろうということくらいしか、尋ねられても答えることは出来ない。  もっと前から。それは東の隣国との紛争が起きたあの頃から彼は自分の行く先のことを頭の片隅に浮かべていたのではないだろうかと、その頃の彼の振る舞いを何度も思い起こした。軽やかに羽ばたくような素振りで、誰もが想像しえないタイミングで大胆な行動に出る。けれどその裏で緻密で繊細な一面も持ち合わせる。彼はそんな人間だった。  巨額の国税を投じて建造された艦を玩具と例えて、惜しみなくその力を出し尽くそうとする。目指す世界はどこか突拍子もなく、行きたい場所へ自由に赴き、帰ってきたいと思った時に帰ってくる。その奔放さをある種の軽率さと取る向きもあって、それは自分も当初感じていたことだった。あの事案を経て任務以外の深い繋がりを得た今は、彼のその振る舞いが見えているもの全てでないことはもう分かる。そうして込められた意図や意志を多少なりとも受け入れて、理解しているつもりだった。  けれどひょっとすると、この5年間自分の前で見せていた彼のその言動は全て、奥に秘めた本当の願いを押し隠すためのものだったのではないか。あの夜から、その思いは拭えない。  ――いつ何時、人に何があるかは分からない。  確かにここ数年日本の置かれた国際関係の現状を思うと、命のやり取りをより現実的に感じるのは無理もないことかもしれないと思った。彼は5年前の事案をこちら側の有利に収めた立役者として表舞台に立つことも増えた。再び同じような事態に日本が見舞われたとき、必ず呼ばれるのが彼だろうことは明らかで、実際に今回の北の国との一件でもそうだった。  だからと言って、前例と同じように事を有利に運べるかと言えばむろんそうではない。一歩間違えば護衛艦隊ごと海の底に沈む。その可能性が絶対的に無いという保証は誰にもないのだ。

不安定な薄い氷の上を独りで歩く。  彼の進む先には誰もおらず、後に続く者もごくわずかだ。彼はそれを自分が選んだ道なのだからと周囲には何事でも無いように言うだろう。けれど本当に、心からそう思っているのか。隠された場所にいる本来の彼は、もっと別のことをずっと、考えていたのではないのか。  そうしてそのことを欠片さえも疑わなかった自分は、一体彼の何を見て生きてきたのか。  あの日、洋上で彼に告げた言葉を思い出す。目を逸らすことの出来ない喪失に人知れず沈む彼の、痛みを沿わせたようなわずかな微笑みが瞼に描かれた。  ――ニライカナイに届く場所へ。二人で。

『あんたと生きてきた5年間は。何の意味もないものだったのか』  それは彼に向けた言葉ではない。  自分が、自分自身に投げかけた問いだ。そうして一人でいくら考えても、答えは出ないままだった。

「――不躾な質問なのですが」  現実に思考を引き戻したのは、隣で遠慮がちに腰掛ける彼女のちょうど良い高さのさえずりのような声だった。  どこともつかない場所へ向けていた視線を彼女に戻す。肩までの細く薄い色の髪が小さな風に揺れた。澄んで、けれど奥底に何かを秘めた瞳の色は、彼に少し似ているとふと思った。 「秋津さんとあなたは、その。――知人、というのでなくて。それ以上の関係ということで、いいんですか」 「……」 「すみません、答えにくければ答えなくても」 「……いいえ」  法医学者は警察や弁護士ではないのだから、こういった相手の懐深くに入り込むような質問を躊躇うのは無理もないことだ。それでも真摯に言葉を選んで来る、そのことに不快な感情は湧かない。余計なことだろうと撥ねつけるためにここへ来たのではないのだから、彼女のその問いにも、きちんと答えるべきなのだろうと思った。 「……有り体に形容するなら、そういう関わりを、彼とは持っています」 「そう、ですか」 「はい」  心持ち丁寧に、少し微笑んで返答すると、やっぱりというような、予想を外さなかった安堵のような表情を彼女は浮かべた。 「……『パートナー』と秋津さんはおっしゃっていたので」 「……」 「一応、確認だけはと思ったんです。ごめんなさい、初対面で私みたいな人間が。このような込み入ったことをお尋ねしてしまって」  小さく頭を下げた彼女に、大したことではないと頭を下げて返した。 「……秋津さんが献体をお考えになっていたことを、新波さんはご存知だったのでしょうか」 「いいえ、私も寝耳に水でした。彼が、そんなことを考えていたとは、思いもよらないことで」 「そうなんですね」 「了承して欲しいと唐突に言われて。その場で返答することは出来ないと、彼には言いました」 「そうですか」 「私に決定権が無いことは知っています。私は血縁者でも、特に彼と法的な何かを結んでいるわけでもないので。ただ、だからと言って、簡単に頷くのにはどうにも」 「ええ、そうだと思います」  彼女はそう言って、小さく頷く。促すようなその柔らかな声音に重ねるように、言葉を続けた。 「……ですからあなたに。  UDIで手続きを行うとは聞いていたので、一度話を聞けるなら聞いて。それから、私の答えを出せたらと思ったのです」

「……確かに」  しばらくの沈黙の後、彼女はするりと耳に溶けるような静かな声で言葉を紡いだ。 「新波さんが秋津さんの献体に同意したところで、それは法的に何の効力もありません」 「……」 「逆のことも言えます。  もし新波さんが秋津さんの献体を拒否したのだとしても。彼のご血縁者の同意が取れさえすれば、献体は行われることになります」 「……そうですね」 「法的には。新波さんが秋津さんの決断を、留めることは出来ません」 「……」  言葉は強い。それは事実で、突きつけられたことを否定するつもりもなかった。けれど一瞬怯んだ。  今まで過ごして来た中で、彼の決断を後押しした実感も、留めた実感も驚くほど無いことに気が付く。いつでも彼は既に決めてきたことをこちらに提示してくるだけだった。それに意見することはあっても、拒んだり、揺さぶったりすることは無かったと思った。  それに彼の意図があったのかどうかは、考えてもみなかったことだ。なぜだろうか。  彼女は続ける。 「でも、だからこそ。新波さんには、秋津さんの思いを伝えなければと思ったんです。……そして、新波さんの思いも、秋津さんはきちんと知るべきだと、思って」

「一方的に、こうするからと決めてはならないことだと思うんです。  ――命のことは。そんな、おざなりにすることじゃないと思うから」

落ちかけた弱い光の日に、彼の背が照らされていた。  薄紅色に紺を溶かしたような晩冬の夕日が、窓から射し込んでいた。その光は彼の肩と背のラインをくっきりとその空間に浮き上がらせる。  この位置からは彼の表情は見えない。床に染み込んで映る影に視線を落としてから、彼の姿を黙って見つめた。多くのものを背負って、けれどその気配をわずかにも滲ませないその背に、嫉妬も、憧憬も、愛慕も、おおよそ全ての感情を抱いてきたことを不意に思い起こした。  一歩、冷えた床に足を踏みしめる。 「――ああ、なんだ。新波さんか」  ソファにもたせかけていた身体を少し起こして、彼はローテーブルに一枚の紙を置いてこちらを向いた。精悍で、けれど経た年数をじわりと溶かし込むその顔つきは、出会った頃のどこか少年のようだった面立ちを、失ってはいないのだろうけれど奥に沈み込ませていた。 「おかえりなさい」 「……」  ローテーブルに広げられていたのは、先日見せられた例の書類だ。幾枚かの用紙には、彼のサインと押印があった。自分の名前が印字された横にはぽっかりと空白が空いて、薄く赤みがかった日の色がそこに落とし込まれる。小さく刺すように胸は痛んだ。数刻前に会話を交わした彼女の微笑みが、その痛みに重なるような気がした。 「久高島か?」 「ああ、……そうだな」  こちらの視線の行く先を確かめるようにして、彼はテーブルに散らばっていた書類を整えて封筒に戻した。残った写真を手に取り、わずかに口元を上げて、そう呟くように言った。 「弁護士事務所に飾られていたものだ」 「そうなのか」 「目を離せないでいたら持たされた。娘がデータを持っているから、これは差し上げましょうと」 「……」 「物欲しそうに見えたのかな」  ふ、と彼が自嘲気味に小さな吐息混じりの笑い声を漏らすのを、ただ聞いていた。  指先がその写真の表面をなぞる。透明な海岸線を辿るように、筋張った長い指先が何度も往復するのを見つめる。

「――覚えている」 「竜太」 「あなたと交わした約束を。……私は忘れたりはしない」 彼はそう、一瞬目を伏せて何かを思い出すように小さな息を吐いた。そうして、顔を上げる。

「久高島に行こうと。――ニライカナイの入り口を、二人で観ようと」

『――遺されて生きることは、死ぬよりも苦しいことだと、思っています』  彼女はそう言って、芽吹きを待つ小さな蕾を内包した枝の先の、青く濃い空を仰いだ。 『それが例え、自然死なのだとしても。原因のはっきりしない死ならばなおさら。人はどうしても無力を感じるものです。  もう何も答えてくれない愛する人の思いを考えて、自分にはもっと何かが出来たんじゃないか、自分だけ今生きていることはいいことなのか、許されることなのか。  これからも生きていっていいのかと問いながら生きていくことは、とても苦しいことです』  彼女の目に今何が映るのかを考えた。  多くの遺体と向き合ってきた彼女に、死はどのように見えているのか。それは自分には想像し得ない世界なのだろうとも思った。自分とて死と向き合わなかったわけではない。けれどあの海に散った命はどこか遠くの映像のようで、彼女ほどにその気配を濃く感じていたわけではない。 『秋津さんは、あなたに『何も遺さない』と仰いました』  彼女はそう言って、こちらを見つめる。 『遺体も、財産も、……愛した記憶も、全て、残したくないと。全て無かったことに。ゼロにしたいと、言っていました』  ゼロに。その言葉に心臓を強く深く押し込まれるような痛みを感じた。

『生き続けることは、死ぬことよりも苦しい。  永遠に問いを繰り返す人生は、終わりが見えない。  だから、秋津さんは。あなたに、そんな思いをさせたくないのだと思います』  彼女はもう一度、その言葉を重ねるように呟いた。 『あなたが悲しみ続けないように。……あなたのそれからの人生を、邪魔しないように。それは、秋津さんなりの、あなたへの愛情と信頼の示し方なのだと思います』

「新波さん」  低く穏やかで、けれどどこか頼りなさも沿わせた声が、自分の名前を呼ぶ。隣に立つ彼の顔に視線を送ると、彼はあの時の、母港へ戻る洋上で浮かべた時と同じ笑みを浮かべて、こちらを見つめていた。 「……」 「立会人と献体の件は、忘れてくれていい」 「……?」  彼はそう言って、封筒を手に取りそうしてチェストの引き出しに押し込んだ。彼の手には写真一枚きりが残る。それをもう一度一瞥して、彼はローテーブルにそっとそれを置いた。  弱まっていく光に上塗りするように、夜の色は部屋に徐々に広がっていく。その中で彼の表情は少しずつ消えて、見えなくなっていくような気がした。 「……何故だ、竜太」  理由を尋ねることが正しいとも思えなかった。何かを決めたような彼の表情は、大きく動くことは無い。小さな笑みを浮かべたまま、彼はこちらを見つめる。時間は進むことを止めて、滞留するようにその場で留まっていくような気がした。静寂が床から立ち上り、二人の間を満たしていくのが分かった。 「唐突過ぎた」 「……」 「あなたへの配慮が私には足りなかったようだ。  ……それもそうだな。急に人の人生の最後のことを振られたところで、そう簡単に答えることは出来ないだろう」 「……」 「いつも、あなたに決定権を委ねてしまうのが、私の悪いところだ」  彼はそう言って、笑みを浮かべた唇はそのままで、小さく瞳を歪めた。 「竜太」 「立会人は他の人に依頼することにします。献体の件も、もう、忘れてください」

『――けれど秋津さんの言葉には、あなたが。新波さんの思いが欠けている』  彼女はそう続けた。 『わざと、そうしているのかもしれないけれど。大切なあなたの心を確かめることが、怖いから』  彼はきっと臆病なんでしょう。彼女はそう言った。  いつも彼の中で決まったことだけを投げかけられる。そうしてお前はどうするのだと問われる。そのことを思い出した。  彼は分かっている。自分が、もう決めたことだと言われたら無理に留める人間でないことを。お前の好きに生きたらいいと、あんたが決めたことだから仕方がないと、受け入れる素振りをすぐに見せてしまうことを。だから彼はいつも、それに甘えるように決めたことだけを告げてくる。  それは、拒まれることを恐れているからだ。お前の言うことは受け入れられないと、お前の手を取り続けることは出来ないとそう。告げられることに怯えているからだ。

『遺されて生きるのは、新波さんです』  彼女は言葉を継ぐ。 『思い続けて生きるのも、ゼロにして、生きるのも。遺されてどう生きるかはあなたが決めることで、秋津さんが決めることじゃない。  ――だからそれを、きちんと。秋津さんに伝えて欲しいんです』

「――忘れた方が、いいのか」  ようやく形になった声は、思ったよりも感情の色を滲ませて、掠れて低く、影を落とした床に零れ落ちた。  わずかに俯いて下に視線を落とした彼が、ゆっくりとこちらに向かって顔を上げる。 「新波さん」 「もし、あんたがもういなくなるのだとして。俺があんたを忘れて生きたほうが、あんたは幸せにいられるのか」 「……」  彼からの返答が無いことを確かめて、言葉を重ねる。 「……忘れるとそう、約束した方が。あんたがこれから生きやすくなると言うなら。だったらそうしよう」 「……」 「あんたが、それでいいと言うなら。それが、――竜太の、願いなら」  自分に、叶えられることなら。

「――あんたが、もしいなくなったら。きちんと、忘れて生きよう」

『……でも、何もかもを無くすなんて、私は出来ないと思っています』  終わる冬の降り注ぐ光の色を染み込ませるように、高く柔らかな彼女の声は耳に響いた。 『死んだら、死んだという事実しか、見えるところには残りません。  私たち法医学者の仕事は、ご遺体を検査し、解剖し、死因を究明すること。そして鑑定書に書くこと。その人がどう生きて、何を思っていたか。それを書くことは出来ないんです。  けれど、どんな死にも意味と価値がある。ご遺体に意味と価値をもたらすのは、その人の生きた道のりです。私たちはその生きた道のりの欠片を探して、ご遺体を解剖する』  一気に逸るような調子で彼女は言った。それは、彼女自身の通ってきた道を知らせて来るようでもあった。 『その人の生きた道のりは、遺された人にとっての『希望』になる。  その人が何を思って生きてきたのか。知ることが出来るのは、生前深く関わってきた人にしか出来ないことなんです。  共に過ごした時間、経験は、消えることは無い。どんなに、その人のことを忘れて生きるのだとしても。  新波さん、あなたが秋津さんと生きた時間は、あなたの一部になって生き続ける』

『――ゼロになんて出来ない。あなたの中から秋津さんを無くすことなんて、出来ないんです』

「――……そうだな」  薄紅色だった弱々しい光は最後のきらめきを放つように窓の外を微かな色で染める。少しずつ、温度を下げていく部屋の片隅で、彼はそう、長かった静寂をわずかに打ち破るように口を開いた。  その瞳の色は訪れようとする夜の闇の色を溶かして、黒い宝石のような深い色を宿す。ほんのわずかに上がって微笑んでいた口元が引き結ばれて、そうして、細く小さな囁きが冷たく足元を浸すように、耳の奥に響く。 「忘れて欲しい、あなたに」 「ああ」 「何もかも、今まで過ごしたことも、今まであなたと分かち合ってきたことも、全部」 「分かった」 「そうして何も残さないで、何もなかったことにして。ゼロにして」 「……竜太」 「そうして、忘れて、あなたは生きる」

「私を。忘れて、――………………」

「忘れても、消えたりしない」  きしりと、張った弦を弾くように自分のさせる足音が部屋に小さく響いた。向き合う自分の姿を透過した先の景色を眺めていた彼が、意識を戻すようにぴくりと肩を震わせた。  そのまま歩を進め、距離を縮める。腕を伸ばして背に回せるほどの場所に立って、ゆるりと、その手で彼の頬に触れた。長い時間この部屋で何を考えていたのだろう、彼の頬の表面は乾いて、削れて落ちてしまうかのようにぱりぱりとした感触がした。指先で辿り、手のひら全体で、包む。ぴたりと離れないように張り付いた皮膚から、秘めた奥の彼の温度が、じわりと温かい水のように、滲み出した。 「新波さん」 「あんたを忘れても。あんたと生きた時間は、消えない」 「……」 「消えないんだ」  撫でるように、その指先で目元と耳元のラインを丁寧に辿った。震えたような手つきで、彼がその自分の手に被せるように、指先を絡ませて来るのが分かった。 「だから、竜太」

『――献体の手続きは、私の独断で保留しています』  ひとしきり、溜まっていたものを吐き出すように彼女は話し終えると、白衣の襟を正した。肩までのゆるやかに伸びる髪を少し掻き上げて、ひとつ大きなため息を吐いてから、こちらに向き直った。  彼女のその決意を合図にするかのように、一筋の風が空から降るように吹いた。 『お二人が答えを出されるまで、この書類は私が預かっておきます』  何かから解放されたかのように彼女は軽やかな翼がはためくような笑顔で、そう告げる。 『――所長には、怒られますけど』  冗談めかしたその言葉は、けしてこのことを軽んじているものではない。彼女が、彼女の進んできた道を経た上で出した、ひとつの答えなのだろう。 『新波さん』

『どうか、生きることを大事にしてください。  生きている内に、……生きているのだから。言いたいことも、伝えたいことも、余すところなく。ちゃんと分かち合って欲しい。相手の思いを知って、自分の思いを伝えて。そうしていつか来るその時を、迎えて欲しいと思うんです。  ――それさえも出来ずに、愛する人と離れて、長く苦しんできた人を知っているから』  彼女はそう言って、何かを懐かしむように目を細めた。彼女の目に映るのが誰なのかは、自分には分からなかった。      『死ぬ時の約束よりも先に、共に生きるための約束を、私はして欲しい。  ――どうか、生きている内に。幸せに、なってください』     「例え忘れるときが来ても、大丈夫なように」 「…………」 「いつか来るその日に。あんたの人生にも、俺の人生にも、きちんと意味が出来るように」  絡んだ指と指に力がこもる。彼はけして離そうとはしなかった。黒く濃く夜の色を溶かす瞳が揺らぐことはなく、こちらをただ見つめている。表情が大きく変わることは無い。けれど指先から伝わる温度で、彼の思うことは、どこか理解出来るような気がした。

「俺は、あんたと。――生きていく、約束がしたい」

離れないように繋いでいた指が、一瞬解ける。そうして伸ばされた彼の腕が背に回されて、しっかりとした彼の固い胸元に引き寄せられた。  熱く掠れたような息が、首元にかかる。薄く開いた彼の唇から、聴こうと思わなければ届かないほどの小さな嗚咽が漏れたのが分かった。しなやかで弾力のあるその広い背に、自分の腕を回した。目を閉じて、抱き締める。  名前を呼ばれた気がしたが、それは朧げで曖昧な、春先の細い月のように霞んでいた。触れた肌と肌の熱の隙間に、彼の鳴らす拍動が規則的に響く。その感触を取り零さないようにと、回した腕に力を込めた。  ローテーブルの上の一枚の写真に、夜の帳が落ちる。紺色の暗闇は周りを染めて緩やかに、辺りを眠りに誘い始める。  けれどはっきりと、瞼には描かれる。海の色と空の色を果てなく一面に溶かした、あの静かな海岸の風景が。生まれる命と終わる命のどちらをも分け隔てなく迎え入れる、その海が。 「観に行こう、ニライカナイの島を」 「…………」 「二人で」

「――……約束だろう」

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