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誰が飾ったのだろうか。甘く淡い冷えた香りがして、顔を上げた。  海上幕僚監部の会議室の一室の、その素っ気ない空間に一輪飾られたのは蝋梅の花だった。蝋梅は「冬の花」の学名の通り、雪中四友と呼ばれる冬に咲く花だ。雪の中にのぞくような控えめな香りが、鼻腔を微かにくすぐった。  早春の芽吹きへの希望か、終える冬への悔恨か。それは見る人間によって違うのだろうと思う。今それを見つめる自分にも、その答えは出ない。 「異論はないか」 「ええ」  決定した事項に何かを物申すことは無かった。目の前で整えられた書類に書かれた名前を目だけで読み上げる。約半年ほどにわたる公試を終えいよいよ就役を待つ「ほだか」の新艦長の名前の欄には、見慣れた漢字が並んでいた。もう一枚には、先日の事案で新聞の紙面を賑わせた一人の若い佐官の名前が印字されている。 「新波一佐の『ほだか』艦長着任については誰も文句を言う者はいなかったが、……この跳ねっ返りについてはな」 「私ほどでもないでしょう」  冗談めかして口元を上げて微笑むと、目の前の涌井海上幕僚長は小さく肩を竦めた。  空自から転属し、あの尖閣の事案を経て「いぶき」艦長を長く務め上げた自分の奔放ぶりをこの目の前の人物が知らないはずは無い。 「『いぶき』は守りに入る艦では無いのだから。……あれくらいの人物でなければ艦長は務まりません」 「新波一佐は……そんな男ではなかっただろう、堅実で真面目な」 「ああ見えて彼も、大胆なものですよ」  意外とでも言うように、涌井海幕長が目を丸くするのが分かる。 「そうなのか」 「ええ」 「まあ、……あの『しらぬい』と『ディオサ号』の一件で、彼は総理にも名を売ったのだしな」  少し呆れたような表情は、けして彼――蕪木一佐の「いぶき」着任を心から歓迎しているようには見えない。けれど求められているのはおそらく彼なのだと、そう納得する思いはあるようだった。 「初代艦長の君が言うのだから。……まあ間違いはないだろう」 「……」 「この人事案で進めておこう」  そう言って、涌井海上幕僚長は自分の目の前にあるその書類を引き寄せて、クリアファイルに綴じ直した。  広く取られた窓には、冬の昼下がりの淡い水色の空が広がる。一筋刷毛で塗ったような白い筋状の雲は飛行機雲だろうかと思った。 「……寂しくなるんじゃないか」 「?」  質問だと理解するのに数秒の時間を必要としたのは、次の予定に気を取られていたからだろうか。窓際の一輪挿しに2本、寄り添うように生けられた蝋梅の小さな花のつるりとした花弁が、日の光に透けて見える。 「5年は長い」 「……そうですね」 「プライベートでも随分懇意にしていると聞いたが」  涌井海幕長から出た言葉は、探るような口調には思えなかった。事情を知り得ているはずはないだろうと思う。 「ええ。なにせ5年も、『いぶき』を介して繋がっていたので。それなりには」  無難に聞こえるよう返答したが、声にはわずかに潜めている感情が滲むのを止められなかった。 「『ほだか』はあちらの守りを見据えて新造された艦だ。佐世保に配属になることはもう決定している」  自分が知らないはずはないことを重ねて告げるのには、何らかの意味があるのだろうか。 「そうですね」 「新波くんも、寂しくなるな」 「……」 「今度は君のお守りを誰がするのだろうな」 「……もう、お守りは必要ありませんよ、幕僚長」 「そうか?」 「ええ。私も5年過ごせば独り立ち出来ますからね」 「ならいいが」  腕時計で時間を確かめた自分の姿に、これ以上の長話は必要ないと判断したのだろう。涌井海幕長は深く詮索することをせず、椅子を引いて立ち上がった。わずかに冷えたままの室内の陰に沿うように静寂は広がる。鼻先を掠めるように漂った花の香りを纏った空気を小さく吸って、自分も椅子を引いた。

「では書類は以上です」  そう言って目の前で大判の封筒に厚い書類の束を入れて、弁護士の彼女は目の前にそれを差し出して来た。事務所の名前が大きく印字されたその封筒を受け取る。小綺麗で広い面談室を仕切る透明なガラスの向こうでは、彼女と同じ弁護士らしき男性が忙しなくパソコンのキーを叩いていた。 「急ぎの依頼でしたが迅速に処理していただいて。ありがとうございます」 「いいえ、最近は多いんですよ。慣れたものですから」  自分よりも年上なのだろう彼女のスーツの襟の部分には、金色の弁護士バッジが光る。丁寧に整えられた爪の先には、控えめな肌の色に似たネイルが施されていた。けれど顔つきには重ねた時間が見える。目元に小さな皺を寄せて柔らかに、彼女は微笑んだ。 「あなたのように若い方でも。生前整理される方は多いんです」 「そうですか」 「理由は様々ですけれど」 「……」  その「理由」については深く探ろうとしていないのだろう。彼女は特にそれが変わったことでもないように言った。よくあるとは言っても一般化した行為ではないだろう。それなりの手間はかけるのだから思いつきですることではない。  けれど仕事と割り切って、こちらに必要以上踏み込まない態度は好ましいと思った。 「次の予定は2週間後。この公正証書遺言を提出しに公証役場へ行きます。  私と、もう二人。――立会人の方といらっしゃってくださいね」 「はい」 「ちなみに、立会人はどのように?」 「ああ、知人に、依頼しようかと」 「ご友人か何か」 「そのようなものです。……パートナーと、いうのか」 「許可は得てらっしゃるの、その方に」 「……」 「パートナー」という言葉の響きに思うところでもあったのだろうか。そう思うのは、自分の思い込みなのだろうかとも思った。笑みの奥にわずかにぴりとした緊張感を纏わせて、彼女は微笑んだまま尋ねてきた。それに曖昧な笑みを返して、答える。 「いいえ、これからです。今日帰って、話をしようかと」 「そうですか。  ……もし、立会人の許可を得られなくてもこちらで立会人を請け負うことも出来ますから。ご心配なく。追加料金は発生しますけれど」  最後の言葉は場を和ませるためだろう。からりと彼女は笑って言った。 「ありがとうございます」  小さく頭を下げる。これ以上続けることはないという自分の意志を感じ取ったのだろうか。彼女は言葉を重ねることは無かった。

「――ああ、あと、もう一件のことですけれど」  彼女は思い出したようにそう言って、名刺入れをおもむろに取り出す。 「ええ」 「娘の職場には話を通してありますから。この連絡先にご連絡いただいて日程を調整くださいね」 「はい」  手渡されたのは彼女の名刺だった。裏側をめくると手書きでその機関の名称と電話番号が記されていた。UDIと記されたその機関の名前を声に出さず読み上げる。全く聞いたこともない名前だと思った。  お茶のお代わりをお持ちしますねと、事務員らしき女性がそう言って空になったコーヒーカップを持って面談室を出て行く。  別件で席を外すと言って弁護士の彼女は席を立ったままだ。誰もいない面談室を一通り眺めると、窓の脇に飾られた写真で視線が止まった。吸い込まれるようにして、歩を進めた。一枚のその写真を見つめる。  青く透明な海がまっすぐに端から端まで伸びた写真は、不思議と心が静まるような静謐を湛えてそこにあった。この海には覚えがある。

「――ニライカナイ」 「、……ニライカナイ」 「ええ。ニライカナイに繋がる島のこと、ご存知ですか?」  いつの間にか戻ってきた弁護士の彼女が、隣に立ってやんわりと微笑んだ。 「沖縄の久高島です」 「久高島」 「沖縄では神の降り立つ地として、神聖視されている島のことなんですよ」  そう言って彼女は写真を長く細い指先でひと撫でした。  「ニライカナイとは、沖縄では東の海、遠くにある理想郷とされています。沖縄の人々の民間信仰の中で、生命はニライカナイから生まれ、死ぬとニライカナイへ戻っていくと言われていて。そうして死んでニライカナイへ戻ったら、また、生まれ変わると」 「……」 「そのニライカナイへの入り口が、この島にあると言われているんですよ」 「……そうですか」 「娘がね、沖縄に行ったときの写真なんです。……何かご利益あるんじゃないかって、そんなことを言って」

『ニライカナイ』

果てのない水平線を見渡すように、彼が隣で呟いたのを思い出した。  それは戦闘を終えて母港へ戻るその道すがらのことだ。沖縄の洋上を進むその甲板上で、彼は隣でそう呟いた。  傷ついた船体と傷ついたその他の艦の乗員と、その全てを思うような声だった。ニライカナイ。けして無傷ではなかったその戦いの後にその言葉を出してきたことに、おそらく彼は大きな意味を含ませているのだろうと思った。  言葉にはならなかったけれど。少し疲れたような笑みに、彼の感情の全てがこもっているような気がした。

『いつか観に行きませんか。  ――ニライカナイに届く場所を。二人で』

ゆっくりと慎重に熱を引き抜く。  ずるりと抜けたその場所から、飲み込みきれなかった白い濁りが零れ落ちてシーツを濡らした。きつく締め上げられていた彼の中から解放されて、思わず細く長いため息が漏れた。それは彼も同じで、浅い呼吸を繰り返すリズムが徐々に緩やかになり、やがて穏やかなものに変わっていくのを、彼の耳の傍に手をついたまま見つめていた。  しなやかなラインを描いていた背をベッドに預けて、彼はゆるゆると腰元に絡めていた下肢を解く。安堵しきったように脱力した彼の目が、こちらの姿を捉えて揺れた。額は汗ばんで、髪はしっとりと濡れていた。一筋解けたその髪を指で掬って額の上に流してから、頬に触れて、指の腹で湿り気と血の色を帯びたその肌に触れた。  指先が痺れるような感覚がして、それはじわりと奥から胸を温めるぬくもりになる。それはこの5年間幾度身体を重ねても変わらない感覚だと思った。頬から額、そして髪に指を通す、その動きに彼が抵抗を見せる素振りは無い。心地よさげに目を細めて、されるがままになっている。 「……何かあったのか」 「え?」  掠れた低く柔らかな声がそう言って、投げ出されていた腕を持ち上げて、彼が頬に触れてくるのが分かった。 「何かに気を取られている、顔をしていたから」  少しかさついたような感触がして、それは彼の長い指先の手触りだということに気が付いた。珍しいことだと目をわずかに瞠ったのを彼は見落とさなかった。指先が頬を、確かめるように撫でる。まるでそこに自分がいることを確認するような手付きだった。 「今日はずっと上の空だったろう」 「ずっと……そうだったかな」 「ああ」  とぼけたところで彼がそれに誤魔化されるような人間でないことも、5年の付き合いで承知していた。  この人は相手の心の機微に妙なところで敏い、そのことは十分に分かっていたはずだが、時おり忘れてしまうことがある。明け透けにされても問題はないのかもしれないが、心に秘め続けていたことをどう形にするか、まだ決まっていないことならば慎重になっておくべきだと思っていた。 「今日は市ヶ谷に行っていたんだろう」 「そうですね」 「何の話だった」 「分かるだろう、この時期なのだから」 「……」 「そろそろ本決まりになりそうだということを、聞いてきた」  ベッドの上で睦み合った直後にする会話ではないなと思ったが、水を向けてきたのは彼の方だ。手短に終えようとした意志は汲み取ったのかもしれないが、小さく顔を歪めるのは隠しきれていなかった。  その表情は彼のどこから、何から滲み出たものなのか。尋ねたところで答えはしないのだろうと思う。 「そうか」 「ええ」 「いよいよか」 「……」 「長かったからな。……5年は」  同意はしなかった。分かりきったことで、「いぶき」の姉妹艦である「ほだか」の建造が決まった頃からうっすらとお互いに了解していたことのはずだ。今さら降って湧いた出来事ではない。  身体をわずかに起こした彼の背を支える。中に残るものの感触とわずかな鈍痛に、ぴくりと彼の下腹が震えるのが分かった。のろのろとベッドサイドに置いたタオルでそれを拭き取ろうとした手を留める。その布を彼の手から取り上げて、白く汚れた内腿をやんわりと拭った。   「――新波さん」 「?」 「話がある。シャワーを浴びた後でも」 「……奇遇だな、竜太」 「え?」  身体を拭われるその動作を好きにさせたまま、彼は小さく微笑んだ。  どんな荒波も、時化も受け入れて向き合う、その穏やかな色が自分をここまでは迷いなく進ませて来たのだと、そんなことをふと思った。 「俺も、話がある」

――生命はニライカナイから生まれ、死ぬとニライカナイへ戻っていくと。  そんなことを話の端に上らせていた弁護士の彼女の穏やかな笑顔を思い起こした。その笑顔に重なるのはあの面談室の一角に飾られていた海の写真だった。人の踏み入る気配を徹底的に取り除いたような静かな海岸の風景が、瞼に描かれる。  彼女の娘が撮った写真だと言っていた。彼女の娘が勤めるというUDIに連絡を入れたのは弁護士事務所を出てすぐのことだった。対応したのは初老の男性の穏やかな声だったが、自分の依頼の性質からして、若い女性が勤めるにはなかなか胆力と根気のいる職場なのだろうとうっすらと想像はつく。この時代に男性も女性も無いだろうが、数多ある選択肢の中からその仕事をすすんで選んだというなら、それなりの覚悟と意志は持っているのだろうと思えた。  命を扱う者が命についての由来のある場所を訪れる。すぐに物事に意味合いをつけようとするのは、人の心の曖昧さに相変わらず鈍い自分の性質に、自分が自信を持てないからだろうとそう思う。飄々として直感で動いているように思われがちだが、ただそう振る舞っているだけなのだと、理解しているのは目の前の彼以外には、数えるほどしかいない。 「久高島?」 「ああ」  無造作に服を羽織った彼がそう頷いた。首元にかかったバスタオルに、髪から落ちる雫が数滴垂れ落ちて、染みていく。 「今度の休暇にと思って。あんたの都合が合えばだが」  「いぶき」は先日の事案後、点検修理のために一時的にドック入りしている。年末年始彼は総監部に詰めていた。ずいぶんと代休も溜まっているから消化しようと思い立ったのだという。  久高島という名前に記憶を手繰り寄せる。あの弁護士事務所の写真も確か、久高島を撮ったものだと言った。妙な符合に咄嗟に返答が出来ないでいると、わずかに覗き込むような素振りで、彼がこちらを見つめてくるのが分かった。 「聞こえてるか」 「ああ」 「行くなら2泊出来るかも怪しいが。都合は合わないか」 「そんなことはないが」  代休を溜め込んでいるのは自分も同じだ。先日の事案のことが頭を掠めたが取ろうと思えば休みは取れないではない。行く先を久高島ひとつに絞るなら、日帰りでも無理をすれば可能だということは分かっていた。 「でも、なぜ唐突に、久高島など」  尋ねた自分に、ほんの少しの間を彼は考え込むように黙り込んだ。思いつきで指定するにはあまりにも何もないはずの場所だ。それをわざわざ言ってくることに何の心当たりも無いではない。  彼と自分が描いている記憶はおそらく同じもので、けれどそれが彼の口から形になることを待つ。 『いつか観に行きませんか』 「――約束しただろう」  彼は十分な時間、口の中で言葉を転がしてから、そう言った。わずかに口元に浮かんだ笑みには、喜びというよりも縋るような願いが滲んでいるようにも思えた。

「……ニライカナイへ届く場所を。二人で観に行こうと」

「休暇が取れたらでいい。都合がついたら教えてくれ」 「……」  あんたは忙しいだろうから。そう、彼はどこかわざとらしくこちらの返答をかわすようにしてそう呟いた。テーブルの上のグラスに注がれた水を一口飲み下す。二人向き合って座った空間は、更ける夜の色を溶かして穏やかな静寂を漂わせていた。  約束だから。ただそれだけでないのだろうことは想像がついた。彼の中での区切りなのかもしれない。この春に「いぶき」を離れることがもうほぼ決まっていることを知った今だから多少無理なことをしてでもそう言うのだろうと、彼のその心持ちに気が付かないほどではなかった。  あの日、二人で甲板から眺めた海の景色がよみがえって、目の前に広がっていくのが分かった。 「分かった」  そう短く答えると、言いたいことを言い切ったかのように、彼は少し肩の力を抜いて、こちらを見つめて小さく笑った。 「……あんたの話は、何なんだ」 「ああ、」  立ち上がって、チェストの引き出しにしまっておいた例の封筒を両手で慎重に取り出した。テーブルにその封筒を置くと、厚いその中身が覗き見えたのか、彼が眉を小さく寄せてこちらを見上げてくるのが分かった。封筒から厚い書類の束を引き出す。表紙の字が見えるように彼の目の前に押し出して、口を開いた。 「これだ」  表紙に踊る文字を一瞥した彼の顔がみるみるうちに硬く強張っていくのが分かった。想定していたことで動揺はしない。平静でいられる人間がそう多くないことくらいは、分かっている。 「…………」

続く言葉を見つけられずに、彼は戸惑いと憤りが混在したような険しい表情を隠しもせずにこちらに向けてきた。あえてそれには目を合わせずに、淡々とした口調を心持ち大げさにして、続ける。 「公正証書遺言」 「……何を、突然」 「これを2週間後、公証役場に提出しようと思う」 「……」 「ただ、これを提出するには立会人が必要で。……見れば分かってもらえると思うのだが」  そうして指さした場所には彼の名前を入れていた。押印をするだけになったその書類に記載された名前の欄を、彼は歪んだ表情のまま凝視していた。 「立会人には、血縁関係に無く利害関係も発生しない第三者を選ばなければならない。……あなたに、それを頼みたいと思う」 「……何、」 「あなたには何も残せないことになってしまうのだが。他の誰でもないあなたに依頼したいと思って、そうした」 「わけが、わからない。いきなり、そんなことを」  絞り出したように掠れた声は、わずかに震えていた。小さく胸は痛んで、刺すようにじくりと心臓の底を締め付ける。それでも放った言葉を収めておくわけにはいかなかった。決めて、今日はここに来たのだと言い聞かせる。 「あと」  封筒に入れておいた名刺を取り出して、書類の上に連絡先が見えるように置いた。そうしてひと息深呼吸をして、次の言葉を継いだ。

「洋上でもそうでなくても。――私に今後もし何かあった場合には。  私の遺体は献体に出そうと思う」

「UDIは国の認可を受けた機関で不審死に特化した検死を行っているそうだが、各大学の医学部への献体の仲介も請け負っていると聞いて。その公正証書遺言と共に弁護士に手続きを依頼していた」 「……」 「むろん、遺体が五体満足に残っていればの話だが。加えて不審な点があるのなら解剖してもらえるようにもした。  実際に献体あるいは解剖になる場合は、私の血縁者の承諾が必要だ。しかしその結果はあなたにも伝えるように、依頼しようと思う」 「……」 「私の遺体は献体に出す。そのことをあなたには、前もって了承してもらおうと思って。――新波さん」  ようやく呼んだ名前は張り詰めた部屋の空気を、弦を弾くように揺らす。二人を取り巻く空気は温度を下げ続けた。  歪んだまま凍りついたように、彼の表情は微動だにしない。書類に添える手も強張ったままで、指先ひとつ動くことはなかった。 「了承してもらえるだろうか」 「どうして、そんなことを」 「……」 「何の相談もなく、そんな大事なことを」  その言葉を聞くまでは数分ほどなのだろうが、数時間ほどの時間にも思えた。彼は俯いて視線を下に向けたまま、低く唸るようにそう尋ねてくる。予想は出来たことで、答えも用意している。頭の中でそれを組み立てて、口にした。 「……先日の事案を経験して思っただけだ」 「……」 「いつ何時、人に何があるかは分からない。そういう時代だし、私はそういう立場でもあるのだから。心残りはできるだけ無いほうがいいと。それが、周りの人間のためだとも」  最後まで言いかけた言葉を遮るように、尖ったような彼の声が重なる。 「……死ぬつもりでいるということか?」  彼がその言葉に滲ませているのは、先日「いぶき」が見舞われた、北の海で起こった事態のことであることは分かっていた。そうして自分が匂わせているのもそのことであるのは明らかだ。5年前の東の海で起きた戦闘の記憶がよみがえる。あの戦闘で失われた命のことを、お互いに忘れたわけではない。 「……そうではない」  否定はしたが、躊躇いが残る声になったことは否めなかった。 「生きるのではなく。命を投げ出すつもりで海に出るというのか、あんたは」 「万が一の保険であるだけだ。保険をかけるのは、誰もがすることだろう。実際に死ぬつもりだとは言っていない」 「遺言は保険じゃないだろう」 「新波さん。……私の思いをあなたは十分に理解しているだろう。命を簡単に差し出すような志で私はここにはいない。献体のことは」 「それでもだ」

「――それでも。死ぬ時の約束を。俺にさせるというのか」    そう言った彼の声が耳の奥にざくりと刃を立てたように響く。その返答は何度も繰り返し想像していたことだ。それでも深く心に鋭い錐を突き立てるようにその言葉が最奥に刻まれる。 「献体もそうだ、家族に承諾を取らねばならないことをなぜ、わざわざ俺に真っ先に了解を取る。あんたの死体を切り刻んでいいかと、そして何も残らないでいいだろうと。  それを俺にまず承服しろというのか」 「……」 「血縁者でもない、なんの保証もない繋がりしかない俺に」 「……」  返す言葉は無い。彼の感情の昂りはもっともなことだろう。 「俺はあんたの何だと言うんだ」 「……」 「あんたのその自己満足に付き合うために。俺は今ここにいるんじゃない」

「この5年」  彼はそこで一瞬躊躇するように唇を噛んだ。一瞬前まで重ねて、満たされていたはずのその唇が乾いて赤く血の色を滲ませていくのをただ見つめていた。

「――この5年あんたと生きてきたのは、……何の意味も無いことだったのか」

「すぐには了解出来ない」  掻き消えるような低く掠れた声に、こちらに向ける温かな温度は感じられない。自分が招いた結果だという思いはあって、彼の紡ぐその言葉をただ今は飲み込むより他は無いのだろうと思った。 「新波さん」 「2週間後。立会の日は空けておく。だが」 「……」 「結論はそれまで保留してくれ。答えは出す」 「……そうですか」  今日この日にそれ以上に何かが進展することが無いのは、彼の表情と声音で十分過ぎるほどに理解した。一筋縄でいくわけがないことは了解している。弁護士の彼女が立会人を請け負うことも出来ると言っていたのを思い出した。多くの経験で、このような結果になる事例もあるのだろう、そのことを予想していたのだろうと思った。  「パートナー」という言葉から自分と彼の関係にうっすらとでも気付いたのなら、そう言ったことにも納得はいく。  一緒に行こうとそう言った、遠くの海の景色はさらに遠く遥か彼方に遠のいた気がした。彼のその申し出を自分の身勝手で踏みにじった自覚はある。それでも話しておく必要のあったことだと、言い聞かせるけれど胸の痛みが拭われるわけではない。自分の胸を痛めていることすらも、おこがましいと思えた。 「いい機会だ」  最後だとでも言うように、彼はしばらく沈黙を保った後、そう低く呟いた。

「――『ほだか』に行く前に。きちんとけじめをつけようじゃないか」

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